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2007年12月 アーカイブ

2007年12月27日

A. ある、ようですが・・・

尼さんになりたく、女性だけの修業道場はあるか、というご質問ですが、私はそう言うお寺のことを知りませんでしたので、いろいろ調べてみました。すると、尼寺を起源とするお寺は京都などにもいろいろとあるのですが、女性のみの修行を受け入れているというお寺はあまりないようです。

ただ、一つ見つかりましたのが、岐阜県岐阜市に天衣寺(てんねじ)というお寺がありまして、ここには臨済宗と黄檗宗の、臨済宗黄檗宗女性禅学林という施設がありまして、ここは女性のみを対象とした、禅体験や修業ができるようです。

ただ、僧侶になりたい、と思われるのでしたら、どの宗派でも女性の受け入れをしております。かつては、女性がおりますと、男性の僧侶の意識がそっちにいってしまって、修行の妨げになるという理由で、女性の受け入れをしないお寺もあり、女性の為のだけ尼寺があったようですが、今ではそんなことはありません。

元々仏教は、老若男女や貴賎を問わず、誰にでも開かれた宗教でしたし、お釈迦様の頃から女性僧侶もおりました。

ただ、やはり修行の面において、男女の性差がありますので、男女別々に修行は行なわれたようなのですが、現在では男女共同参画も叫ばれる時代ですし、男性女性を差別することなく、共に仏教を学ぶ事が出来ます。ですから、僧侶になる為に修行したい、というのであれば、宗派を選んで、それぞれの本山に問い合わせて見られるのが良いかと思います。

もしどうしても女性だけの修行の場が良い、というのであれば、上記の臨済宗黄檗宗女性禅学林の方に問い合わせてみられるとよいかもしれませんね。

2007年12月27日

A. 「無い」と言ったら、嘘になるかもしれません(笑)

他のお寺が羨ましいと思った事、ということですが、そうですねぇ、私に限って言えば、全く無い、ということはありません。やっぱり、他のお寺さんを見て羨ましいなあ、と思うことはあります。

どういうところで羨ましいな、と感じるかと言うと、やはりそのお寺を取り巻く環境と言うか、土地、地域性、などでしょうか。例えば、私が今おりますお寺は、石川県の田舎の方にあるのですが、日々田舎暮らしをしておりますと、都会に近いところのお寺が、やっぱり羨ましいな、と感じたりもします。

また、お寺によっては、たくさん檀家さんがおられるお寺もあれば、檀家さんが少なく、兼業をしているお寺さんもおられる事と思います。檀家さんがたくさんおられるお寺さんは、お参りが毎日忙しくて、なかなか自由な時間が取れなかったりするでしょうし、兼業しておりますと、お坊さんとしての活動が疎かになってしまいます。ですから、檀家さんの多いお寺さんは、もう少し時間が取れる環境を望んだりするかもしれませんし、兼業しておられるお寺さんは、兼業の必要の無い環境を、羨ましいと思うかもしれません。

しかし、これらは言ってみれば無い物ねだりのようなものだったり、隣の花は赤く見えるようなもの。どんなお寺でも、やはり大変な事や悩みはあると思いますから、他のお寺を羨ましいと思うよりも、どのような形であれ、自分のところで自分が一生懸命頑張ることが、大切なんでしょうね。

2007年12月20日

A. 本来的には仏教には占いはありません。

新聞、テレビ、雑誌、インターネット、どんなメディアを見ても、占いの無い物はないんじゃないかと思うくらい、世間には多種多様な占いが氾濫していますよね。これだけ科学が発達し、物事の考え方の基礎となっている時代に、科学的とは言い難い占いが、これほど人気なのは不思議な気がいたします。

で、仏教に占いはあるのか?と言うご質問ですが、本来的に仏教には占いはありません。なぜかと申しますと、仏教は、物事の因果関係を正しく見つめる教えだからです。

因果関係を正しく見る、というのは、結果が起こるのには必ず原因と、様々な間接的な要因(=縁)によって起こる、ということを、正しく捉えると言う事です。

例えば、花が咲くという結果には、種と言う因があります。しかし、いくら種があっても花は咲きません。花が咲く為には、土の養分や水、太陽の光や温度など、様々な条件=縁が必要となり、それらが全部揃って花が咲くのです。そして、結果と言うのは、何も花が咲く事だけではなく、花が咲かないと言うのもまた一つの結果であり、そこにも様々な縁が見え隠れしています。

逆に言えば、物事の結果と言うのは、実に様々な事柄に影響されて起こってくるもの、ということです。縁は縁を生み、果はまた何かの因となり縁となり、影響される事柄によって物事の起こりも結果もいくらでも変化します。ですから将来
起こる事柄を予測するのは、非常に難しい事なのです。

しかし占いというものの性質は、手相や姓名、星座などのいくつかの要素、しかも物事の結果とは関係性の弱いものを根拠にして、結果を予測しようとする物です。果たしてそれによって正しく結果を予測できるのかと考えてみますと、やはり疑問が残りますし、仏教の教えからは、依るべき正しいものであるとは言えないのです。

そればかりか、占いに頼りすぎると、例えば悪い事が起こった時、霊や祖先、土地の良し悪しなど、全く関係の無い事柄のせいにしてしまい、物事の正しい道理を見つめられずに現実から逃げ、妙なものに騙されたりするなどの弊害もありますので、迷信、迷いや苦しみを深める物とみなされるわけです。

しかしまあ、私は占いを全否定することもないのかな、と思います。占いも、生き方に注意を喚起するもの、或いは娯楽の一貫として捉えれば、悪い面ばかりでもないでしょうからね。それでも、あまりに占いをあて頼りすぎるのも問題かな
と思います。なんと言っても占いは「当たるも八卦、当たらぬも八卦」ですから。

2007年12月20日

A. あります。

お坊さんの集まり、と言えば、去る15日、築地本願寺にて、いろんな宗派のお坊さんが集まって「東京ボーズコレクション」なるイベントが行なわれました。私は遠方にいるもので、残念ながら参加できなかったのですが、いろんな宗派のお坊さんが集まってイベントをするという機会はそんなに多くないものですから、どんな様子だったのか、気になるところです。

さて、世界のお坊さんが集まることがあるのか、というご質問ですが、あります。その代表的なものが、「世界仏教徒会議」という会議かなと思います。これは、世界仏教徒連盟と言うタイに本部を置く組織がありまして、その連盟の世界大会として、世界各国から仏教者が参加されます。

そしてこの「世界仏教徒会議」は2年おきに行なわれており、さらに今年はビルマの軍事政権による支配の問題を中心とし、平和構築のための国際フォーラムが行なわれ、来年は第24回目の世界大会が東京・浅草で行なわれるとのこと。どのような会議になるのか、これまた興味津々ですね。

ちなみに、他にも日・中・韓の仏教友好交流会議と言うものや、国内では全日本仏教徒会議と言うものがあったり、またいろんな宗教指導者が集う世界宗教者平和会議にも、各国・各宗派の仏教指導者が参加されておられます。

2007年12月13日

A. 合掌は「帰依」を形に示した姿だからです。

仏さまにお参りする時、必ずと言っていいほど、手を合わせて合掌をしますね。
これは一般に仏教の儀礼的な作法、という風に見られますが、元は、インドの習慣から来ているものです。

そのインドで合掌が用いられるのは、右手が清浄な手、左手が不浄な手と考えられていて、清浄な手は「仏」を、そして不浄な手は「私の姿」を表し、それを合わせることで、私と仏との合一を表し、それが仏教の理想の形であるとして、仏への尊敬と帰依を示す姿や、尊敬する相手に対する挨拶の姿勢として習慣となったようです。

そして「ナマステ」というインドの挨拶の言葉も、合掌の意味に大きく関わるかと思います。「ナマステ」という言葉の本来の意味は「あなたに帰依します」というものであり、日本の仏教にもこの「ナマステ」が見られます。

例えば、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華教」という言葉が使われますが、この「南無」という言葉が、実は「ナマス」あるいは「ナモー」というインドの言葉で、「帰依」を意味する言葉なのです。ですから、「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏に帰依します」と言うような意味になり、「南無妙法蓮華経」と言えば、「『妙法蓮華経(法華経)』と言うお経を信じます」と言うような意味になるわけです。

そして合掌は、この「ナマステ」や「南無」という言葉とセットで用いられるものですから、お参りする際に仏さまに向かい手を合わすのは、仏さまへの「帰依」を表す意味を持つものとして、行なわれるのでしょうね。

2007年12月13日

A. 今ではあまり無いようですが・・・

私がこの質問を聞いてパッと思いついたのは、「じゅげむ」と言う落語です。この落語の中では、お坊さんに名前をつけてもらおう、というところから始まるのですが、そんな落語があるくらいですから、かつては子どもの名前をお坊さんにつけてもらうと言う事はよくあったことだろうと想像できます。

これは、おそらく江戸時代くらいまでは、一般の人の識字率が低く、お坊さんや庄屋さんなどの、ある程度の知識人に名付けてもらうことが多かったからだと思います。

しかし現代では、ほとんどの人が読み書きできますから、他の人に、我が子の名前をつけてもらうよりも、自分たちで名前を付けてあげたい、というのが親の気持ちとしてあると思います。ですから、お坊さんが法名や戒名を付けることはあっても、子どもの名前を付けてとお願いされることは、稀なようです。

一応私も、祖父と父にそのような経験があるか確認してみましたところ、祖父は二人ほど名付けたことがあり、父は経験無いとのこと。やはり、稀な事のようですね。

それでも、お坊さんは法名や戒名付けるときに、しっかり漢字の意味を調べたり、考えていますから、名前をつけるのに迷ったら、字画などを気にするよりも、お坊さんに相談してみるのもアリかもしれませんね。

2007年12月 6日

A. 果物やお菓子がポピュラーかと思います。

仏様へのお供え物について、ですが、いろんな種類があるとは思いますが、お菓子や果物が最も多いかと思います。それは、仏様にお供えするものには、宗派によって違いはあるかと思うのですが、一応決まりごとがありまして、「灯明」・「お香」・「お花」・「香水(こうずい)」そして「仏飯(ぶっぱん)」と呼ばれるご飯が、まずは基本となります。そしてその他のお供え物として、「餅」・「菓子」・「果物」がお供え物として適当とされます。

で、お寺でご法事などの仏事がある場合は、「灯明」から「仏飯」まではお寺の側で用意させていただきますので、お参りにこられる方は、お菓子や果物、或いはお花を持ってきていただくことになり、必然的にお供え物にはお饅頭や最中などのお菓子や果物が多くなります。

他に、仏事のお供えとは違いますが、檀家さんがお寺にいろんなものを持ってきてくださることもあります。それは、地域や地方によって違いがあって、海の近くなら海産物、農業が盛んなところでは、地の野菜など、様々です。
ウチのお寺でもいろいろ野菜をいただいたり、珍しいところでは、今年は柚子をたくさんいただきました。海のほうのお寺ではこの時期、蟹をいただく、と言う事も聞いたこともあります。

これらは、仏事のお供え物の基本にはないものかもしれませんが、大切なのは持ってきていただいたそのお気持ちですから、まずはきちんと仏様にお供えさせていただいて、それからお寺の者が、ありがたくいただいております。

2007年12月 6日

A. 私は、今のところあまりありませんが・・・

新興宗教の方とお話をする機会、ということですが、私は今のところあまり経験ありません。まあそれは私がまだ僧侶になってそれほど時間が経っていない、というのもあるかもしれません。或いは、僧侶としての私のあり方が、あまり外向きではなくて、内向きの活動ばかりになってしまいがち、というのもあるかもしれません。

しかし、こちらから対話を拒否してる、というわけではなくて、いろんな価値観や信仰を持っておられる方と、お話しできる機会もあるといいな、と思います。

ただ、もしそういう機会があった場合、自分の信仰を絶対的に正しいと思うあまりに、お互いの信仰を否定的に見たり批判するだけになってしまいますと、せっかく対話する機会があっても、ただの口論のようになってしまいますので、気をつけなければならないかな、と思います。

信仰は、優劣を競ったり、相手を言い負かすための武器ではないですし、対話も、互いの違いを認め合ったり、信じるものは違えども、それぞれの信仰を喜べる、そう言う機会に出来てこそ、意味深いものとなるでしょうからね。

アニメ一休さんで、お坊さん同士が「そもさん、せっぱ!」と問答を掛け合うシーンがありますね。この連載では、ふだん聞きたくてもなかなか聞けないお寺や仏教への素朴な疑問に、お坊さんがわかりやすく答えます。読者のみなさんからの質問も、お待ちしています!
(なおご質問は、メールでinfo@higan.netにお送りください。みなさまからいただいたご質問の中からいくつかを取り上げさせていただきます。)
ケンユウ
石川県のとある温泉街に住む僧侶。みなさんからの質問に、わかりやすく答えます。
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