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2007年8月 アーカイブ

2007年8月30日

A.神社は神様の宗教、お寺は仏様の宗教です。

神社とお寺の違い、ということですが、神社は、日本の様々な神様をお祀りし、神様に対しての儀礼を行なう場であります。対してお寺は、仏様をご安置し、儀礼を行ない、自らのさとりを目指していく為の場であります。
これだけだと、なんだ、違うのは信仰の対象だけか、と思われるかもしれませんが、それが大きな違いなんです。

まず仏教は、インドでお釈迦様(ブッダ)が興された宗教であり、世の真理を明らかに見つめる中に、自らの抱える根本的苦悩を解決=「解脱」を目指す事を基本とする教えです。そして、神と人との関係を基軸として成り立つ一神教や多神教とは異なり、神に祈念するのではなく、どこまでもブッダの説かれた真理=「法(ダルマ)」を依り所とし、自己を見つめていく、という特徴があります。

対して神道は、古代国家の成立の過程で、国生みの神話や、原始的な民俗信仰・自然信仰とが結びついて自然発生的に生まれた宗教で、祖霊信仰や、アニミズム的な要素も強く、日本の農耕文化と深い関係を持つ宗教で、開祖となる人物がいないこと、多神教である事、神と人との関係を中心とし、教えよりも祭祀・儀礼を重視する、などの特徴があります。

と、仏教と神道はこのような違いがあるのですが、「神」と「仏」も全く違う存在です。神道における「神」は、自然や祖霊などの、人智を超えた力を神格化したものでありますが、「仏」と言うのは、真理を悟り、人の持つ根源的な苦を解決した者の事を指します。ですから、「神」に対する儀礼は、豊作などの利益を得、天災や病などの不利益を回避する為の意味合いが強いですが、「仏」を信仰するというのは、私自身が真実に目覚め、あらゆる苦悩を超越した「仏」の状態を目指す、という意味のあるものと言えます。
ですから、お寺と神社では、単に信仰の対象が違うだけでなく、宗教としての目的や意味も、全く違うものなんですね。

2007年8月30日

A.感動します。

私はイタリアへはまだ行った事がないのですが、他宗教の建築を見て、感動することはもちろんあります。
去年イギリスへ行った時にも、教会やカテドラルを見たのですが、その荘厳さ、歴史ある風格、細部の装飾の美しさなど、驚き、感動することはいくつもありました。
もちろん、キリスト教の建築だけでなく、イスラム教のモスクや、日本の神社にも、建築物として素晴らしいものはたくさんありますし、人が素晴らしい、と感じられるものには、言葉に表せないかもしれないけれども、そう感じる理由や、背景があるもの。そう言うものを見た時に、自分は仏教徒だから、と言う理由で、他宗教の持つものに無関心であったり、感動しない、なんてことは無いと思います。

そう言えば、ある先生が、「宗教には感動の心が大事である。感動は慶びに繋がるものであるから」と言うような事を言っておられたのを思い出しました。一つの宗教を大事にしていたとしても、それ以外のいろんなことにも、素直に感動できる心を大切にしたいものですね。

2007年8月23日

A. 諸説あります。

日本における年忌法要が、亡くなってから「3」「7」のつく年忌の年に行なわれる理由には諸説ありますが、この風習は日本で始まったもので、仏教もともとの風習ではないようです。

では、なぜ日本では「3」「7」のつく年なのかということですが、一つには十三仏信仰というのが関係しているようです。ただこれに関しては、私はあまりピンときていませんので、もう一つ私が受け取っている説を紹介させていただきます。

年忌法要というのは、その名の通り、毎年の故人のご命日にその方を偲び、仏法に触れる機会とする行事であります。ですから本来は、毎年行なうべきことであるはずです。
しかし、なかなか毎年毎年、お坊さんや親戚一同を集めて法要を行なうというのは大変ですから、法事を行なう年を決めていったのだと思います。

その年の決め方も、ただ適当にではなく仏教で大切にする数字になぞらえたと考えられます。その仏教で大切にする数字が、「3」と「7」だそうです。

「7」は、お釈迦様がお生まれになったとき七歩歩いたという伝説も有名ですが、これは、私たちの迷いの姿である「六道」の世界を超えて悟りに至る、ということを暗示しており、そこから「6」を超える=「7」という数字が、迷いを超えるという意味で大切にされると言われます。

「3」も同じく、「2」を超えるという意味だそうです。「2」を超えるといいますのは、「有・無」「勝・負」「損・得」というような両極端に偏った考え方を離れ、中道の生き方をするということを意味します。中道と言うのは、仏教でさとりを目指す上で大切な考え方であり、お釈迦様も息子のラゴラ尊者に、「二を超える生き方をせよ」とおっしゃっておられます。そういう意味で「3」という数字も大切にされるそうです。

そこから、毎年は法要を勤められなくても、せめて仏教で大切にする数字のついた年忌だけはお勤めしようということが習慣化し、「3」と「7」のつく年忌が行なわれるようになった、ということです。

年忌法要で大切なのは、「3」や「7」と言った数字にこだわることではなく、その数字に込められた「迷いを離れる道を歩む」ということです。亡き方のことを大切に偲ばせていただきつつ、私たちもそれを機縁として、普段なかなか触れられない仏法に触れ、自らの命や生き方について、深く見つめていくことが大事だと思いますので、私にはこの考えがしっくりと来ます。

2007年8月23日

A.あります。 が・・・

お坊さんとお付き合いされているんですね。では、土日にデートというのはなかなか難しいかもしれませんね。お坊さんは、平日さほど忙しくなくても、ご法事などはどうしても土日に多く入りますので・・・

で、お休みですが、多くのお坊さんにとって、基本的に決まった休日というのは少ないと思います。地域によっては、「友引」の日に火葬場がお休みのため、お寺もお休みというところもあるようですけれど、そうでないところでは、お坊さんには普段オンとオフの切り替えがはっきりとはないかもしれません。

ではお坊さんはいつお休みするのか。それは、予定をやりくりして、お休みを作ることができれば、休めます。ですから、まとまった夏休みなども取れないことはありません。ただ、もし一人で法務を行なっているお寺のような場合、お休みが取れても、長期間出かけるのは難しいかもしれません。旅行に出かけても、目的地に着いたと思ったらお葬式が急に入ってお寺に呼び戻された、というのはとてもよく聞く話です。

それでも、平日や夜に時間が空くことは多いでしょうし、土日に時間が取れることもあるでしょう。ですから、2人で上手く時間を合わせていけば、楽しくお付き合いできるかと思いますよ。

2007年8月16日

A.山だけとは限りません。

仏教の修行、と言うと、山寺に篭って、というイメージがあるかと思います。まあ実際、お寺自体が山にあることが多いですので、そう言う印象が強いのかな、と思います。
しかし、修行は別に山でなくてはならない、というわけではありません。仏教が興ったインドは、日本ほど山が多い国ではありませんから、お釈迦様も人里から少し離れた森の中などで修行されたようですし、お釈迦様のお弟子が修行され、お寺の始まりとされる竹林精舎や祇園精舎も、山の上にあるわけではありません。つまり大切なのは、人里=誘惑の多い俗世間から離れ、静かに修行に専念できる、ということになるのだと思います。
それが、中国や日本に伝わる中で、人里から離れた静かな場所=山、ということになり、特に日本では山が多いですから、山で修行する事が増えたのだと推測できます。

また、仏道修行は、山に篭らずとも、本来どこでもできるものであります。基本的には、自らを見つめ、物事のあり方の真理を見つめる、というのが仏教の教えでありますから、その実践を、人々の中で、人々と共にしていくことも、不可能ではありませんから、ね。

2007年8月16日

A.おります。

お坊さんから見て、すばらしいと思うお坊さん、ということですが、もちろんおりますよ。お坊さんの中には、大変ありがたい先生方が、たくさんおられますから。
とは言え、私はそんなにたくさんのお坊さんの事を知っているわけでもありませんし、どちらかというと、同世代のお坊さんの知り合いが多いのですが、皆さんそれぞれに個性的で、まだ若いのにありがたいお話をしてくれる方、大学院でしっかりと勉強されている方、お寺でいろんな新しい試みをされている方、厳しい修行を経験された方、などなど、皆さん、僧侶としての私に足りないものを持っていたり、新たな気づきや刺激を与えてくれたりしますので、それぞれにすばらしいな、と感じます。
後は、少し気恥ずかしいですが、私にとっては、ウチの父も、そう言う存在かもしれません。お寺を住職として護持する中で、様々な問題や葛藤を抱え、それを乗り越えてきた経験や、現場の僧侶としてのあるべき姿勢や心構えをしっかり持っているという点で、私にとっては、見習うべき存在であると思います。

まあこれは、私の個人的な思いであって、僧侶目線での話、ですから、私がすばらしいと思うお坊さんが、皆さんが求める素晴らしいお坊さんとは、ちょっと違うのかも、しれませんが。

2007年8月 9日

A.ご本尊をちゃんとご安置している人もいます。

私も、大学時代は一人暮らしをしていたのですが、一人暮らしをする際に、両親から「これ持って行きなさい」と、小さな仏壇の形をしたケースに入ったご本尊を渡されて、それを部屋の棚の上にご安置しておりました。同じように、お寺から離れて住んでいる方でも、小さな仏様を部屋にご安置してる方や、僧侶として、きちんと毎日手を合わせている方もおられます。

ただ、一人暮らしのお寺の方みんながみんなしている、というわけでもないかな、と思います。お寺の人でも、お坊さんではなく、普通の仕事をされている方もおられますし、お寺生まれでも、お寺や仏教と少し距離を置いている方は、ご本尊を家にご安置してないこともあるでしょう。
私も、仏様を部屋にご安置していたとは言え、その頃はまだ仏教にさほど興味があったわけでも、お坊さんともなっていない身でしたので、毎日手を合わせたり、お花や蝋燭、お線香などをお供えしていたわけでもありませんでした。ですから、厳密に言えば、お祀りしていた、というほどでは無かった、ということになりますし、ね。

2007年8月 9日

A.私はそれほど気になりません。

私は、街で坊主頭の人を見ても、さほど気になりません。なぜなら、私も髪の毛がありますし、坊主頭では無いお坊さんもたくさんおられます。そして、坊主頭だからといって、お坊さんとは、限りませんからね。

ただ、街で衣を着ているお坊さんを見ると、気になることはあります。あ、仲間だ、というような、妙な親近感を持ったり、どこのお寺のお坊さんだろう?どこの宗派のお坊さんだろう?あの衣の形、あのお袈裟の形は、ウチの宗派ではないかな、とか、考えたりします。
まあ気になると言ってもその程度で、その後特に調べたり、後をつけてみたり、なんてことをするわけではありませんけどね。

2007年8月 2日

A.いる、と聞きます。

面白い質問ですねー。お坊さんフェチの女の子、ですが、いる、と聞いた事はあります。が、私はまだ、「私、実はお坊さんフェチです!」って女の子に出遇ったことが無いので、もし、これを読んでいるお坊さんフェチの女性がおられましたら、ご一報くださると、大変嬉しいです。
しかし、お坊さんフェチの女の子は、お坊さんのどこに魅力を感じるのでしょうか。坊主頭?袈裟姿?それとも、心穏やかそう、などの内面的な部分でしょうか。或いは、心の安らぎを与えてくれそうだから、とかなのでしょうか?お坊さんの側の一人として、非常に気になるところであります(笑)

2007年8月 2日

A.私はまだ聞いた事はありません。

遺体が怖くてお葬式ができないお坊さん、ですか。私は今まで聞いたことが無いし、あんまりいないんじゃないかな、と思います。
そもそも、なぜ、遺体が怖いと思うのでしょうか?まさかゾンビ映画のように起き上がることもないでしょうし、遺体は幽霊のようなものでもありません。

しかしまあ確かに、お坊さんは、亡くなれらた方のお顔を見たり、亡くなった方は仏弟子ですよ、という儀式をするのに、お体に触れることはありますので、その時は、少しは緊張はします。しかし、お体はキチンと整えられていますから、怖いという気持ちとは、ちょっと違うと私は思います。
ただ、遺体によっては損傷が激しい場合もあって、そう言う時は、お顔を見るのが辛い事もある、ということは聞いたことがあります。

それでも、仏教の教えに照らして物事を正しく見つめる時、遺体は、恐怖の対象などではなく、残された人たちにとって大切な方のお体であります。ですから、もし多少怖い、という気持ちがあったとしても、しっかりと最後の別れの儀式を勤めるのが、僧侶ではないかなと思います。

アニメ一休さんで、お坊さん同士が「そもさん、せっぱ!」と問答を掛け合うシーンがありますね。この連載では、ふだん聞きたくてもなかなか聞けないお寺や仏教への素朴な疑問に、お坊さんがわかりやすく答えます。読者のみなさんからの質問も、お待ちしています!
(なおご質問は、メールでinfo@higan.netにお送りください。みなさまからいただいたご質問の中からいくつかを取り上げさせていただきます。)
ケンユウ
石川県のとある温泉街に住む僧侶。みなさんからの質問に、わかりやすく答えます。
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