ピクニックとSNS

ピクニックとSNS
【ベルリン生活は現代都市生活のあり方を考え直す大きなきっかけを与えてくれる。ヒビコレでも少し触れたピクニックとSNSについて、再度詳しく考えてみる】

日本の現状に大きな不安を抱きながら帰国した週末、ピクニックに出かけた。

「ピクニック」

言葉こそ誰でもしっているが日本でほんとうにピクニックにでかけたことがあるだろうか?
僕はあまり記憶にない。それではピクニックとは何をすることなのだろうか?

何ということはない、親しい人間と一緒に自然の中を歩いて心地のいい場所に敷物を敷いて会話を楽しむ。お弁当や飲み物が登場したらばもう立派なピクニック、ただそれだけのことだ。本当にそれだけしかない。日本の感覚では「何か他にイベントがあるのだろうか」などと期待してしまう。しかししつこいようだが本当に何もしないのだ。タダ、そこにいることを楽しむ。そしてベルリンの人々は驚く程ピクニッックにでかける。

週末の公園や湖畔には何もしないで座っていたり寝転がっていたりする人がたくさんいる。
これができるということは、実はとてもすごいことなのだ。ドイツ(ベルリン)にはパチンコやゲームセンターのような資源を大量に消費するいわゆる「大規模な娯楽施設」がほとんどない。そのかわりにお金持ちもそうでない人にもピクニックやアートが好まれるのはなぜだろうか。
東京にすんでいた頃のことを考えると「娯楽」といえば必ず「何かをしなければならない」という脅迫観念があったように思う。そしてそこには必ず「つくられたサービスとお金と消費」が発生しなければいけなかった。何もしない、目的もない、お金も消費しない、ただ誰かとそこにいることは不安でさえあった。
ところがピクニック精神においては「生きることそのものが娯楽」なのだ。

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このピクニック精神は心の病が蔓延する近代都市生活を変えるきっかけになるのではないか。道元禅師は「回光返照の退歩を学ぶべし」といったが、この「何もしない」という行動は消極的なようで実は全く違う。やろうと思えばできることを「敢えてやらない」という極めて自律的で積極的な行為だ。

ベルリンの人々は経済的にも物質的にもより多く、より便利に進歩のみを求めることもできたはずだ。しかしその生活は僕がポーランドに住んでいた15年前の東欧とほとんど変わっていないように見える。それは彼らが「オクレテル」からだろうか、それとも深い思慮の結果あえてそれを選択したのだろうか。
僕はここに住む人の「当たり前の価値観」による日常的な行動がそのような生活をつくっているように見える。その価値観とはなんだろうか。

【SNS】

最近SNS(ソーシャルネットワークシステム)、つまりインターネットによって相互にコミュニケーションをとることが世界の大きな流れになっている。代表的なものとしてFacebook、Mixi、Twitterや最近始まったGoogle+などのサービスがある。これらのサービスは上手く活用すればテレビや新聞では行き届かない具体的な情報を多くの人に届けることができるので、非常に便利だ。
実際僕も毎日インターネットやSNSの恩恵に預かっていて、もはや海外生活になくてはならないツールだ。これらSNSを利用することは間違いなく世界的な流れである。しかしそれ故にSNSが人々の価値観に与える影響も大きく、それは必ずしもよい影響ばかりではない。禅僧として、インターネットおよびSNSとの付き合い方には人一倍注意を払い「脱SNS」の可能性も同時に考えておきたい。

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まずはSNSそのものの機能に関する疑問だ。

例えば現実の禅寺という限られた空間での生活を考えてみる。長い期間多くの人と生活を共にしていると当然気の合わない人間が出て来る。しかしお互いが深くつながっている禅寺のコミュニティでは気が合わないからといって「delete」することはできない。嫌いなりにうまく相手を「たてて」共存していかなくてはいけない。そうするうちに実はその嫌悪感は自分自身の欠点の投影だったり、それが相手の長所であったりという発見をすることになる。嫌いだけれどもよい部分を見つけて共存する努力をする。こういった社会生活に必要な能力の向上の機会がSNSでは極端に少ない。

人間は過密状態になると互いに深く干渉したがらなくなる性質があるという。満員電車で隣の人に興味が湧くということはめったにないが、広い草原で二人の人間が出会えばお互いを深く知ろうとするであろうことは容易に想像できる。想像してみるとSNSが使用されているのは地球上でも人口が過密した都市部に集中している(サバンナの集落でSNSをするだろうか?)。人口過密地域では身体に他人を排除しようとする本能的な感覚が働く。しかし同時に心は動物としての根源的な孤独も感じている(「身心」は一つだから差異が広がるととても苦しくなる)。過度に深い関係も、過度に疎遠な関係もよくない。このバランスをとるのがコミュニケーションの力で、それはご存知のようになかなか難しい。だからこそあれこれ工夫して経験を積みながらこの力を身につけていく。

しかしSNSでこの苦労があるだろうか。さびしさを満たす程度の人間関係はお互い比較的楽に保つことができる。気に入らなければ無視すればその相手は存在しないも同然だ(本当は地球のどこかに同じ瞬間を共有して生きている)。時間が無限にあれば問題ないが、人生という非常に限られた時間の中でSNSに多くの時間を費やせば、それより遥かに強い「縁」のつながりを見極める力と、それを深める機会を失ってしまわないかと危惧している(少なくとも僕には無理だ)。

そしてさらに悪いことにSNSは激しく重力に逆らっている。

「重力に逆らっている」というのは、五感を通ってくるものに強く反映される感覚的な色彩で、とても表現しづらいけれども、自然の中からいきなり都心に入ったりすると感じることができる。

例えばこんなことがあった。都内のヤマダデンキパソコンコーナーに並ぶキラビやかな新製品と宣伝文句の群れを見て僕はしばし立ち止まってしまった。なぜだかわからないが絶望的に悲しい感覚を覚え「五観の偈」を思い返さずにはいられなかった。

 「ひとつには功の多少を計り、彼の来処を量る」(「五観の偈」第一句より)

世界中がインターネットでつながり、いつでもどこでも「ほとんどコストをかけずに」映像つきで連絡がとれる時代だ。だが考えてみてほしい。

・ほんとうにそれは「コストがかかっていない」のか?
・シーズンごとに次々と登場する新製品を生産する為にどれだけの資源を使っているのだろうか?
・誰がいつどこでそれを組み立て、どうやって運んでいるのだろうか?
・新製品を買った後に捨てられる旧型の製品はどこへいくのだろうか?
・それはいつまで続くのだろうか? 
・ただでネットに常時接続するために何かを犠牲にしていないのだろうか?
・そのシステムを維持する電力は誰がどのように供給しているのだろうか?
・そしてそれは人間に本当に必要なのだろうか? 

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こういった問いを放棄してきた結果がどうなるかは、今日本に起こっていることをみれば見えて来る。ネイティブアメリカンは七代先まで考えて生活をするという。永平寺ではたった一本の杉を切るのに、全山の雲水が集まってお経を挙げて供養してから切り倒す。何も動物のように完全に自然の中で生きるべしと言うわけではない。だが分をわきまえて自然の摂理を知れば、よりダイナミックな活動が継続してできる。インターネットやSNSの魅力は十分知りながら「アエテ、やらない」という選択をとることは今後科学技術を滅亡への加速器とさせない為の大きな鍵だ。
そして多くの科学者が原発の暴走を停められなかったことを後から悔いている姿を見て、僕達は学ばないといけない。考えるだけでなく行動にうつさなければ。便利だ、絶対あった方がイイ、なくてはならない、誰もがそう信じてしまうものから一歩一歩遠ざかる工夫をしていかなければいけない。

しかしそれは全く悲観的な道ではない。むしろとても楽しく幸せなことだ。進歩を続ける科学が相対性理論を導きだしたように僕たちは近い将来「わざわざインターネットなんてものを利用していたんだね」と笑っていえるようになるのではないか。いつでもどこでも響きあうものがある。それこそ歴代の祖師たちが長い時間をかけて伝えたかったことなのではないだろうか。今、僕達ならできる気がする。

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星覚 (せいがく)
>>プロフィールを読む 雲水。1981年生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒業後、大本山永平寺にて修行を積む。シンガポールに生まれ、イギリス、ポーランド、鳥取県で少年時代を過ごす。ウェブカフェ、雲水喫茶のマスター。