「自力」と「他力」はどう違うの?

「自力」と「他力」はどう違うの?

先日、臨済宗の禅を学ばれている方より、浄土真宗において「自力」と「他力」の違い、あるいはその本質はどのように考えられるのか、ということをご質問いただきました。このご質問は浄土真宗の教義に大いに関わることであるので、久しぶりに「そもさん、せっぱ」を限定的に復活させてお答えしてみたいと思います。専門的な内容になるかもしれませんが、私の聞いているところをできるだけわかりやすくお話できればと思いますので、よろしくお願いいたします。

さてまずこの「自力」「他力」なる言葉ですが、この言葉を用いる前提がとても重要になります。例えば「自力優勝消滅」とか、「他力をあてにするようじゃダメだ」などと、私たちの日常生活でも用いられるケースもありますが、この言葉を正しく理解するためには私たちの日常生活でのことを表す言葉ではなく、成仏道(私が仏と成るための道)において用いられるということがまず大前提になります。それを踏まえた上で、お読みいただければ幸いです。

◯仏道は基本的に自力
まず仏道を歩む、ということは基本的には「自力」の道であると考えられます。仏教のベースはこの「自力」にあるので、浄土真宗や浄土宗以外でわざわざ「自力」という言葉を使うことや、「自力」ということが特別に意識されることもありません。もともとは「他力」という概念に対して、対になるものを「自力」という言葉であえて表現したと考えると良いかもしれません。しかしここではわかりやすくするために、仏教は基本的に「自力」という立場で進めてまいります。

さて、「自力」というのは、自らの力によって仏に成ることを目指す道です。まずは苦にあえぐ衆生を救くうべく仏と成りたいという菩提心(ぼだいしん)を起こし、どのような仏と成ることを目指すのかという「願(がん)」をたて、その「願」の通りに成ることを誓います。そして「行(ぎょう)」を重ねることでその願いを完成・成就させることによって、仏と成るに至るのです。「行」というのは、八正道や六波羅蜜を基本に様々なものがありますが、心を正し、行いを正していくことと言えば良いでしょうか。日本で「行」と言いますと禅がイメージされやすいですが、例えば布施という行為も一つの「行」です。そのような「行」を重ねることによって、自らの苦悩の根源である煩悩を離れ、そして衆生を苦しみから救う「仏」と成ることができるとされるのです。

「仏教」と言えば、やはりこの「行」を修めていくということが一般的にイメージされていることであると思います。しかしこの「自力」と呼ばれる道は、大変に厳しいものです。なぜならば、「行」は100%完成させなければならないものだからです。どんな「行」を修めるにせよ、自らがすべての煩悩から離れたさとりの境地に到るまで、途中で終わってしまっては、目的達成にはなりません。いつ終わるともしれないこの人生で、それを成し遂げられる保証はどこにもないのです。もちろん、「行」を積む中で、より良く人生を送るということはできるかもしれません。しかしそれは「行」の本来の目的ではなく、副産物に過ぎません。ですから、誰にでも歩み切ることのできる道ではなく、勝れた人だけしか「仏と成る」というゴールに辿り着くことができない道と考えられます。これが「自力」という考え方の一つです。

◯浄土教の登場
「自力」の道というのは、誰にでも開かれたものではありますが、実はそのゴールに辿り着くことが出来る人というのはごくごく限られてしまうものです。しかしそれでは、勝れた人だけしか苦しみから離れられないということです。しかし仏に成るということもまた、実はゴールではないのです。今度はそこから「仏」としての活動が始まります。それはお釈迦さまがそうであったように、苦悩の中にある人を救うという活動です。つまり仏教が目指すのは、苦悩の中にある生命を救うことこそが、一番の目的となります。でも勝れた人しか悟りという境地に辿りつけないのでは、それはいつまでたっても達成されません。そこから開かれてくるのが、大乗仏教と呼ばれる仏教です。大乗とは大きな乗り物のこと。多くの人が苦悩から離れていくことができるための仏教が、大乗仏教なのです。その中でも代表的なものの一つが「浄土教」と呼ばれます。「浄土」というのは仏さまの世界、仏国土を表す言葉です。この娑婆と呼ばれる世界では、誘惑も多く「行」を完成させることがとても難しいものです。ならば、娑婆で「行」を修めきることができなかった人も、まずは一旦、「行」を修めるのに適した仏の世界に生まれさせ、そこで誰もが心ゆくまで「行」を積み、それを完成させようではないか。このような教えが生まれてきます。

しかし、これもまた「自力」の延長にある考え方です。浄土において、自らの力によって成仏を目指すわけですから、浄土というワンクッションがあるにせよ、基本的には「自力」ということから変わっていません。また浄土に生まれる(=往生)ためにも、やはり善い行いを積むことが必要になり、大乗仏教、浄土教もまた「自力」の仏教であることには変わりないのです。

◯「他力」の教え
ところが、その浄土教の中から大逆転の思想が起こってきます。それが浄土宗や浄土真宗に見られる念仏の教えです。浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、比叡山で20年の修行に励まれます。しかしそこで見えたのは、「行」を修め切ることのできない自分の姿でした。それは教えが悪いのではありません。どうやら自分という存在が、教えに見合わない、不釣り合いな存在、凡夫であったということに気付かされたのです。そこで出会われたのが浄土宗の開祖である法然聖人です。法然聖人は、「南無阿弥陀仏」という念仏一つで救われるという道を、親鸞聖人に伝えられました。

ではなぜそんなことが可能となるのでしょう。仏と成るためには、先程も書きましたように仏になって苦にあえぐ人を救いたいという菩提心と「願」、そしてその願を成就させるために「行」を修めることが不可欠です。しかしごく一般の人たちが、菩提心を起こし、「願」をたて、「行」を修めるということは、そもそもでき得ることではありません。しかし実はそのことを見通していた「阿弥陀仏」という仏さまがおられるということが、経典に書かれてありました。その経典は、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』という3つのお経です。そこで説かれる阿弥陀仏という仏さまは、自分の力で「願」を起こすことも、「行」を修めることもできない人こそを救わずにおれないと願い、行を修め、仏と成ることを誓われた仏さまです。どのような方法によってそれを実現させるかといえば、阿弥陀仏が私に変わって「願」と「行」を完成させ、それを「南無阿弥陀仏」という言葉に込めて私に届けるという方法です。ですから、私はただその「南無阿弥陀仏」という言葉をいただく、つまり念仏していくことによって、このいのち尽きた後には阿弥陀仏の浄土に往生し、仏と成ることが約束されるのです。

この阿弥陀仏の力による成仏道には、私の力は一切介在しません。全て阿弥陀仏の側で、私が仏になるために必要な要素を全て備えてくれています。私はそれをただ受け取るだけなのです。これが「他力」の教えです。

◯「他力」の「他」って誰のこと?
「他力」という言葉は、一般的には「他人の力を当てにする」というようなネガティブな意味に使われます。しかしこの成仏道を前提とした「他力」という言葉の「他」というのは、私以外の人という意味とは全く異なります。

では「他」とは、誰を指す言葉なのでしょうか。親鸞聖人は、「他力といふは如来の本願力なり」とおっしゃっておられます。如来とは阿弥陀仏のことです。ですからこの言葉は、他力というのは阿弥陀仏の本願(あらゆる命を必ず救うという願い)のはたらきのことであるというように理解できます。そしてこの「他力」という言葉を理解するのに、実は二つの立場があります。一つは主語を私にした理解、もう一つは主語を阿弥陀仏にした理解です。私を主語にすると、私に対しての「他」、つまりここでは阿弥陀仏が「他」ということになり、そのはたらきが本願力=「他力」であると受け取れます。しかし阿弥陀仏を主語にすると、今度は「他」というのは私になります。ですから、私を目当てとしたはたらきこそが、阿弥陀仏の本願のはたらき=「他力」であると受け取れます。

私を主語とした時には、私の依り所とすべきところが明らかにされます。私が依り所とすべきは、阿弥陀仏という仏さまの願いのはたらきであったと受け取ることができます。逆に阿弥陀仏を主語にしますと、はたらきの主体は完全に阿弥陀仏であるということがより明確にされます。はたらきの主体はあくまで阿弥陀仏であり、私はその阿弥陀仏に願いとはたらきの対象であるという構図が見えてくることでしょう。そうとらえますと、「他力」というのは他(私)を救うはたらきのことであると理解ができます。

◯「自力」と「他力」は両立できるのか?
次に「自力」の道と「他力」の道は両立できるのか、という疑問があります。阿弥陀仏の四十八願と呼ばれる願いを見てみますと、「自力」の人も救うと誓われています。しかし、阿弥陀仏の成仏道においては、やはり自力は意味を成さないものなのです。「他力」の教えはよく客船に乗ることに例えられます。客船に乗れば、目的地へは自ずから到着することができます。阿弥陀仏の教えも受けながら、それでも「自力」も併用しようというのは、その客船の上で走るようなものです。つまり全くの無意味なのです。そればかりか、阿弥陀仏の間違いなく私を仏と仕上げるという願いを聞きながら、「自力」も併用しようというのは、それは阿弥陀仏のはたらきを疑うことに他なりません。それは正しく教えを受け取れていないということでもあります。「他力」の教えというのは、私という人間は「自力」による仏道の及ばない、自力無効の身であるということを知らされることであり、そうだからこそ阿弥陀仏のはたらきによって私もまた仏に成らせていただけるということが、重大な意味を持ち得てくるものなのです。

◯「他力」もまた難しい
ここまで「自力」と「他力」ということをベースにして見てまいりましたが、いかがでしたでしょうか。「他力」の教えって素晴らしい!そんな風に思える方がいてくださると嬉しいのですが、なかなかそのような方は少ないことでしょう。まあ、私の説明下手なこともあるわけですが、理由はそれだけではありません。実は「他力」の教えを受け取ること自体が、とても難しいことでもあるからです。なぜかといえばそれは、私の心に「はからう」心があるからです。「はからう」というのは、自分の経験や知識をさしはさむことをいいます。例えば、仏教とは自らが「行」を修めることによって初めて意味を成すと思っておられる方には、念仏一つでその道が約束される、ということはどう考えても論理的ではなく、理解できないと感じるかもしれません。しかしそれは、単に自分にとって理解できないだけのこと。自分の知識や体験を物差しにして、その枠で物を考え、それを超えるものは理解できないもの、あり得ないものと拒絶してしまっているのです。あるいは阿弥陀仏という仏さまの存在や、浄土という世界観、仏と成るということなどなど、私たち人間の常識では雲をつかむような、どこかフィクションのような、そんなもののように感じる方もおられるかもしれません。それもまた自分の「はからい」がさしはさまっているのです。そして実はその「はからう」心もまた、「自力」の心であるのです。そう考えていきますと、「他力」というのは、「自力」ということから完全に離れることであると言えるのではないでしょうか。

◯まとめ
以上、「自力」「他力」ということの浄土真宗の理解というものをお答えさせていただきました。仏教という教えはそもそも「私」ということから離れるための教えでありました。それを自分の力で成し遂げようとしたのが「自力」の仏道です。しかしながら「他力」の仏道というのも、阿弥陀仏のはたらき、南無阿弥陀仏という念仏に出会うことによって、自らの自分の力ではどうすることもできないという姿に出会い、最終的には自らの「はからい」から離れるということが実現されていく教えであると言えるのかもしれません。仏道とは自らの足で歩くものというのは決して間違ったイメージではありませんが、「他力」という教えもまた、やはり仏道であることに間違いないのだと、改めて感じることが私自身もできたように思います。

大変な長い文章でありながら、言葉足らずな部分もあるなど、わかりにくく感じられたかもしれませんが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

日下賢裕 (くさか けんゆう)
>>プロフィールを読む 1979年、石川県生まれ。浄土真宗本願寺派の僧侶、布教使。 広島大学人文学部東洋史学科卒業後、本願寺派の教育機関である中央仏教学院、伝道院にて仏教を学ぶ。 現在は故郷の山中温泉にて、本願寺派の若手僧侶が作るサイト「メリシャカ」や「彼岸寺」との関わりを通して、仏教を外に発信するとともに、地元の人たちに愛されるお寺作りに挑戦中。