そもさん:極楽に往生した後って、そこでなにするの?

そもさん:極楽に往生した後って、そこでなにするの?

ご無沙汰しておりましたが、久しぶりのそもさんコラムです。今回は以前にtwitter上で為されたやりとりの中からピックアップしてみました。「極楽に往生した後って、そこでなにするの?」というご質問に、私なりに答えてみたいと思います。


まず「極楽」という言葉ですが、「極楽浄土」というのが正式な名称です。「浄土」というのは、「仏国土」とも呼ばれ、文字通り「仏」の世界を表します。「仏」あるいは「如来」と呼ばれる方々は、それぞれ自分の「仏国土」を建立し、そこで説法を行っていると考えられております。その中で最も有名なのが「極楽浄土」という世界です。この「極楽浄土」は、阿弥陀仏という仏さまが建立した世界で、『仏説阿弥陀経』という経典の中には、「もろもろの苦あることなく、ただもろもろの楽を受く。ゆゑに極楽と名づく」とあります。つまり、「極楽浄土」という世界は、私たちの苦の原因となるものがなく、心を満たす真の楽しみである「法楽」に満ちた、安心の世界である、ということです。そのため、別名「安楽国」とも言われます。


そして私たちの命の終わりを迎えた時、その「浄土」という仏の世界へと往き生まれることを「往生」というのですが、ではその「浄土」という世界に「往生」を果たした後は、どうなるのでしょうか?


一般には「浄土」とは仏さまの世界でありますから、そこは〈求道の場〉であると考えられています。というのも、「浄土」という世界そのものが、人間として生きている間に、苦しみから離れた「解脱」という状態に達することの出来ない人たちのために設けられた世界という性質があるからです。


もともと、この人間として生きている間に、自らの心を正して「解脱」というさとりの状態を目指すのが仏教の教えですが、この娑婆という世界は誘惑も多く、なかなか日々の生活から離れて仏道修行の道を歩みきることはできません。けれど、「解脱」できないまま命を終えてしまえば、また苦しみの世界へと輪廻を繰り返し、悟りの状態には近づけません。そこで、「浄土」という世界が登場します。人としての命、娑婆というこの苦界から離れ、仏さまのお膝元である「浄土」にてその指導を受ける。それによって、人間としての命の間に「解脱」を達成できなかった人も、そこで「解脱」に至ることができるのです。ですから「浄土」という世界は、私が「解脱」し仏になることを目指して修行をする、「成仏」のための世界なのです。


そして、今この人間としての命の間では、「解脱」し仏と成ることができなさそうだから、まずは「浄土」を目指しましょう、というのが浄土教と呼ばれる仏教一派です。そして「浄土」への「往生」の後、そこで「成仏」を目指す。「往生」というのはその一つの通過点であって、目的ではないということですね。


ただ、「極楽」という世界は少し異なる性質を持っています。これは浄土真宗的な解釈となるかもしれませんが、「極楽」への往生はそれがそのまま「成仏」であると言われます。阿弥陀仏は、衆生を必ず仏に仕上げるという誓いを完成させた仏さまであり、その力によって極楽に往生することができたならば、それは仏と成ることとイコールである、という理解でしょう。


そしてもう一つ、「還相回向」という考え方もあります。「極楽」に「往生」し、さとりの智慧を獲得し仏と成りますと、仏としての慈悲を発揮し、今度は衆生救済へとはたらく存在となるという考え方です。つまり「極楽」という世界で自分だけが法楽を楽しむだけではなく、さまざまな姿形となって人びとを仏道へと導く、そんなはたらきとなる、ということです。


「極楽」という名前からは、さぞ楽しくてハッピーな世界と想像してしまいますが、おそらく私たちが思い描く楽しみや喜びをはるかに超えた、真の喜びである法楽を味わうことができる世界であるのでしょう。そこで仏と成らせていただいて、仏としての活動をさせていただけるようになるのだと、私は受け取らせていただいております。


やりとりのまとめはこちらからどうぞ。

http://togetter.com/li/159214



日下賢裕 (くさか けんゆう)
>>プロフィールを読む 1979年、石川県生まれ。浄土真宗本願寺派の僧侶、布教使。 広島大学人文学部東洋史学科卒業後、本願寺派の教育機関である中央仏教学院、伝道院にて仏教を学ぶ。 現在は故郷の山中温泉にて、本願寺派の若手僧侶が作るサイト「メリシャカ」や「彼岸寺」との関わりを通して、仏教を外に発信するとともに、地元の人たちに愛されるお寺作りに挑戦中。