【善いことは悪いこと?】まだ出遇っていない「ありのままの私」(最終回)

【善いことは悪いこと?】まだ出遇っていない「ありのままの私」(最終回)


『あなたがあなたのままで輝くための ほんの少しの心がけ』の出版を記念して始まった特別連載も今回が最終回。今までお付き合いくださいまして、ありがとうございます!


本ができるまでのメイキングとして、出版のお声掛けをいただきながらも信じることができなかった私(第1回「信じられない私」)から始まった、この連載。メイキングというよりも、一部友人の間では「ぶっちゃけすぎ!」と笑われる内容となっていますが、当の本人は至って真面目、大真面目。1冊の本ができるまでの過程を振り返る贅沢な時間を過ごすと共に、その内容をみなさんとシェア(共有)できることは、とっても嬉しいことです。


と、「1冊の本ができるまで」なんて言いましたが、今回お伝えしたいのは「1冊の本ができてから」のこと。実は、できてからも大変だったんです! 何が大変だったのか?と言うと、私が、なんですが...。


本が書店に並び始めた頃。私は、ある行動に出ました。

自分の本とギフト用に包装した大行寺煎餅を持って、書店回りを始めたのです。ちなみに大行寺煎餅とは、一部に熱狂的なファンを持つ大行寺オリジナルのお煎餅ですが、当然のことながら、煎餅の営業を始めたワケではありません。一言お礼を言いたくて、書店さんを訪ねることにしたんです。


全くと言っていいほど無名の私が本を出すことができたのは、多くの方たちのおかげだなぁ、ってしみじみと嬉しくて。できることなら日本中の書店さんに「本を置いてくれて、ありがとう!」ってご挨拶にお伺いしたかったけど、旅費がエライことになるな、と我に返り、京都を中心にすることに。


正直なところ、お礼の気持ちは書店さんだけでなく、「本を出しませんか?」と声を掛けてくださった編集者さん、実際に本を出してくださった出版社さん、そして、本を手に取ってくださった方々に対してもあったと同時に、この本に出遇えて「よかった」と感じて欲しい、という私の思いもありました。


京都のお隣、滋賀県は近江商人の言葉として有名な「三方よし」。「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」ではないですが、「編集者よし」「出版社よし」「書店よし」「買い手よし」「世間よし」、そして「私よし」とするために、私は何ができるのか?


知名度があるのであれば、色々なイベントを開催するということでお手伝いもできるのでしょうが、いかんせん知名度がない。では、どうしたらいいのか?と、考え尽くした結果。一言、お礼だけでもお伝えしよう!と至ってシンプルな答えに落ち着きました。実は、それがあっての、書店回りだったのです。


実際にお店に伺い、本が置いてあればお礼の気持ちを伝え、担当者の方に「お時間のあるときに読んでください」と、本を大行寺煎餅と一緒にお渡ししました。本が書店さんになければ「読んで気に入ったら、置いていただけると嬉しいです」と、同じく本と大行寺煎餅をお渡ししました。「三方よし」ならぬ「六方よし」くらいの気持ちで、せっせと書店さんにご挨拶に伺っていたとき、ふと本で書いた情景が重なったんです。


それは「報化二土」(ほうけにど)という言葉をキーワードにした項目です。本文から抜粋してみますね。



私は、受けた恩をなんとか返そうとしました。世間一般には善いこととされる、恩を返すということに自分でも知らないうちに縛られていたんです。けれども本当は、恩は返すのではなく、報いていくものなんです。(中略)そもそも恩は返せるようなものではありません。私のように返せると思うこと自体、傲慢です。なぜならそこには返せるという思い込みと、自分がしていることは善いことだという思い上がった気持ちがあるからです。



まさにコレ!だったんですね。それに気付いたとき、滑稽さに似た悲しさをひしひしと感じました。私の根性ともいうべき根っこの部分は、変わらないんだなぁって。


もちろん、書店さんにご挨拶に伺うことは、決して悪ではありません。反対に言えば、悪であれば「悪いこと」との自覚があります。けれども、悪ではないからこそ、余計やっかいなんです。


何か善いこと、例えば、毎日ご近所の玄関先を掃除したとします。これは「善いこと」で、感謝されることです。最初は好意で始めたことであっても、1年経ち5年経ち10年経ったら、どうでしょうか? 素晴らしい行為だと表彰でもされたら、どうでしょうか? 知らず知らずの内に鼻が高くなっていくかも知れません。それだけでなく、好意で始めたことに執着し始め、いつしか自分の存在価値の拠り所になってしまうかも知れません。「私は掃除によって地域に認められた善い人だ」と。


だから「善いこと」は「悪いこと」よりも、ちょっぴりやっかいなんです。なぜなら「善いこと」をしていることによって、自分でも知らず知らずの内に思い上がり、傲慢になり、結果、本当の自分自身と向き合えなくなるからです。


親鸞聖人から私たちへのギフトである『正信偈』をお伝えした本。その本を書き、書店さんにご挨拶に伺い、それを縁として出遇った自分。それは、「善いこと」をしていると思い上がった気持ちが根底にある「悪い」私でした。
 
ここで言う「悪い」に、違和感を覚える方もおられるかも知れません。世間一般的には刑罰にもあたらない、「悪い」ことではないからです。けれども、いただいた自分のいのちに向き合うとき、それは罪には問われなくとも、罪より深い悪かも知れません。なぜなら、自分のいのちを、傲慢さで汚してしまっているからです。



そのような私たちをダメだと否定するのではなく、悲しい存在だとして寄り添ってくれる。それが阿弥陀さまの光の慈悲のはたらきです。阿弥陀さまの光は智慧の光でもあります。その光に照らされて初めて、自分の悪に気付くことができるのです。智慧の光が照らし出すのは、真実だからです。



本文は上のように続きます。「善」かれと思ってしたことによって、知らず知らずのうちに「悪」を重ねている悲しい自分。けれども実は、その事実に気付けることが幸せなんですね。


分かっているようで、分かっていない。知っているようで、知っていない。出遇っているようで、出遇っていない。そんな、自分。『正信偈』を通して出遇うのは、実は、そんな自分自身なのかも知れません。自分自身と出遇い、いただいたいのちと出遇う。


それによって始まるのは、私が私として、いただいたいのちを生きていく。私が、私のままで輝く。そう、あなたが、あなたのままで輝くのです。


『あなたがあなたのままで輝くための ほんの少しの心がけ』が、そのひとつの手掛かりとなれば、嬉しいです。

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英月 (えいげつ)
>>プロフィールを読む 真宗佛光寺派 大行寺 副住職 教師 布教使 僧侶と見合いすること、35回。ストレスで、一時的に聴力を失う。このままではいけないと、家出をするようにして渡米。ラジオパーソナリティーを勤める他、テレビCM等に出演。また、「写経の会」を主催。アメリカで活躍するも、実家の寺の跡継ぎとなるべく、2010年夏、9年半ぶりに帰国。