釈徹宗さんインタビュー/死では終わらない物語を生きること(5/5)

釈徹宗さんインタビュー/死では終わらない物語を生きること(5/5)




釈徹宗さんへの「さとり」インタビュー、全5回中の5回目、ついに最終回です!

 

 

 

【前回までの記事はこちらです】

釈徹宗さんインタビュー/死では終わらない物語を生きること(1/5)

釈徹宗さんインタビュー/死では終わらない物語を生きること(2/5)

釈徹宗さんインタビュー/死では終わらない物語を生きること(3/5)

釈徹宗さんインタビュー/死では終わらない物語を生きること(4/5)

 

 

 

◆日本人は場の宗教性に心と身体をシンクロさせていくのが得意

 

:日本列島で暮らしてきた人々の宗教性について話が出たので、もう少し進めますと。東のどん詰まりの列島で暮らしてきた人たちは、その場その場の宗教性に自分の心と身体をチューニングしていくのが得意であり、そこを成熟させてきたのだと思います。

 

小出:チューニングですか。

 

:その場その場の「語り」にうまくシンクロしていく特性については、あらためて考えてみたいテーマです。シンクロした心身は、人間にとって根源的な喜びですからね。

また、先ほど「情報」と区別した「物語」のお話をしましたけれど、「物語」は「語り」の中でこそ機能するものなんですよね。

 

小出:「語り」の場をもひっくるめて「物語」だということですね。

 

:その通りです。それで、その場にシンクロしていく宗教性は、現代人の抱えやすい苦悩について考察する手がかりとなるはずです。

とにかく現代人はパーソナルなスペースを確立することに汲々としていますからね。「自分というもの」のバリアを張って暮らしている。また、そうしなければやっていけないような社会になってきました。

さっきお話したように、子どもの頃から「自己表現しろ」とか「自己主張しろ」とか「自己決定せよ」っていうメッセージを受け続けている一方で、仏教が説くように「自分というもの」を強くすればするほど苦しまなきゃいけなくなるわけです。まあ、現代人はかなり過酷な状況に置かれているんですよね。まったく正反対な方向へと同時に引っ張られているようなもので。心が分裂しやすくなるのも無理はない気がします。

 

小出:ほんとうにそうですよね......。

 

 

 

◆語られている内容は実はそこまで重要ではない

 

:そんな社会だからこそ、無条件に心と身体をチューニングできるような場へと足を運ぶことはとても大切でしょう。こんなにつらいけど、明日もまた生きていこうっていう気になれるような。そういう場にお寺がなってくれれば、大変ありがたいとは思っているんですけれどね。

 

小出:実は、私もいま、お寺で、Templehttps://www.facebook.com/temple00001)という対話のイベントを定期的に開催していて。それは、まあ、簡単に言ってしまえば「なにものでもない自分として対話をしてみよう」という趣旨のものなんですね。お寺の本堂で、初対面同士、少人数のグループになって、縁に従ってその場その場で起きてくる対話を楽しむっていう、ただそれだけなんですけれど、やっぱりね、みなさん、なにかすっきりしたお顔で帰っていかれるんですよね。

お寺の本堂って、いわば「仏さまの家」ですよね。そういう場所だと、みな一様に「なにものでもないもの」になれるみたいで。娑婆でまとっている役割とか立場とかを一時的に脱ぎ捨てて、その場その場の「語り」に自らを添わせていく。それこそチューニングですよね。

そこでなにが語られているのかっていうのは、実はあんまり重要じゃなくて、ただただそこで起きてくる「語り」に心と身体をゆだねていくだけで、人間って、生きていく力をもらえたりするのかな、って。参加者の方々の様子を見ていて、そんな風に思いますね。

 

:「語りの内容」よりも、「語りにチューニングしていく」ことの方が大事だったりしますからね。

 

小出:ほんとうに、そういうことだと思うんです。

 

 

 

◆「大阪のおばちゃんペルソナ」のすすめ

 

:大阪のおばちゃんって、そういうのうまいんですよね。私、わりといろんなところで「つらいときには大阪のおばちゃんを演じよう」って言っていまして。「大阪のおばちゃんペルソナをつけよう」などとお話するときがあります。

 

小出:大阪のおばちゃんペルソナ! なんだか迫力のある言葉の組み合わせですけれど(笑)。

 

:大阪のおばちゃんっていうのは、内容よりも話の流れ重視なんですよ。とにかく話に乗るのがうまい。私もそういう人たちに囲まれて育ちました。田舎のお寺なんで、毎日、誰か檀家さんが来ているんですよね。それで、愚痴を言ったり、悩みを相談しながら、泣いたり、怒ったりしている。でも、それを横で聞いていると、どんどん話が横滑りしていっているのがわかる(笑)。最後は「あはは」と笑って帰るとか。とりあえずすっきりするとか。もともとの問題は何にも解決していない。なんなんだ、あれは、などと子ども心によく思っていました。いまなら、これって人生の達人的スキルだなとわかります。

生きるということは、思い通りにならないということです。思い通りにならないから、我々は苦悩します。でも、そもそも人生を思い通りデザインすることなどできません。だからこそ、解決しない問題を煮詰めていくんじゃなくて、横滑りさせていく。話している内容よりも、「語り」に自分の心と身体を沿わせていく。そちちの方が、実は生きる力に直結していくんだなっていうことを学びました。

 

小出:なるほど......。

 

:我々は日々、いろんなペルソナつけて暮らしているでしょう。私の場合なら、僧侶のペルソナとか、教員のペルソナとか、父親のペルソナとか、息子のペルソナとか、いろいろなペルソナを使い分けて生きているわけです。

精神分析では、ペルソナが分厚くなりすぎると、本来の自分が抑圧されて具合が悪いみたいなことを言うんですけれども、でも仏教は「本来の自分などない」と説くんですよね。ぜんぶペルソナじゃないかって。これは大変な知見だと思います。

 

小出:本来の自分なんてそもそもどこにもいないから、大阪のおばちゃんペルソナをつけたところでなにが損なわれることもないんだし、むしろ楽になれるかもしれないから積極的につけようよ、って(笑)。軽やかですよね。

 

 

 

◆「いまここ」を生き抜いていくために仏法を聞く

 

:それに、本来の自分がどこかにあるという立場は、いまの自分の否定とセットになっていますよね。いまの自分は本来の自分じゃないっていうようなことになっちゃうわけですから。それの具合の悪さもありますよね。

だから、「本来の自分はない」っていう立場に立つっていうのは、やっぱり人類の大きな知恵だと思いますよ。そこに立つことによって、苦難の人生を生き抜くことができる。あるいは見事に死にきっていく。あるいは他者への慈悲を実践する。「縁起」の教えのカナメはそこですよね。

 

小出:あくまで、いまここを生き抜くために。

 

:いまここを生きていくための教えであって、世界の法則を説いているわけじゃないでしょう。それが事実であってもなくてもどちらでもいい。でもそこに立つんだ、そこに立つことによって生き抜いていくんだ、そういう姿勢です。

だから仏教はとても実践的な思想ですね。どこまでいっても日常から足を外さない。だけど、世間の外へと続く回路は開いているっていう。そこに仏教の救いがあるんですね。

 

 

 

◆「自分」がほどかれるからこそ救われる

 

小出:しかし、なんと言うか、仏教の救いというのは、一筋縄じゃいかないものですね。自分という物語に揺さぶりをかけ続けて、理解を外し続けて、その先に開けてくるものを救いと呼ぶというのは......。やっぱり、一般的にはなかなか理解が難しいでしょうし、まあ、そこまで行けた場合はいいんですけれど、その手前で脱落してしまうことだってものすごく多そうな......。

 

:そうですよね。「どうも仏教あたりに、この苦しみと向き合うための手がかりがありそうだな」っていうのは、現代人の勘のいい人なら薄々気づいていると思うんです。でも、「ちょっと聞いてみたら、ますますわからなくなってしまった」みたいなことになりがちかもしれません。

仏教体系はでかいですからね。しかもその中に、まったく異なる話が混在しているんですから。

これもやはり仏教の性格に起因していますよね。着地しそうになると、また釣り上げられるみたいなやつ。「理解」をどんどん外していっちゃう。だからよくわからないってことになるんですけれど。でも、その外してくれることによって救われるっていう事態が、やがて起こるわけですよ。

 

小出:外されることによる救い......。そうですよね。でも、やっぱり、人間、この「自分」を温存したままに救われたいっていうのがあるから、「自分」が理解できないことは救いにはならない、と思ってしまうところはあるんじゃないでしょうか。「自分」という物語すらほどかれるのは、やっぱり抵抗がある人は多いと思いますよ。

 

:そうですね。仏教は、いままで必死で編み上げてきた「自分」っていうものすらほどいていきますからね。「自分」がほどかれるからこそ救われるんですけれども。これもやはり道を歩かないと実感できません。情報をかき集めてもダメなんですよね。

だから、仏教には「行為によって導かれる」的な方策がたくさんあります。まず念仏を称えるところから、まず坐るところから、そんな具合で組み立てられる部分は大きい。

 

小出:理解できてもできなくても、まずはやってみよう、ということですね。

 

 

 

◆消費者体質のままでは、救いの「物語」とは出会えない

 

:その手がかりのところをなんとかうまく提示できないかと、いまのお坊さんたちはあれこれ模索しているんだと思います。現代のお坊さんの悩みですね。

ひと昔前のお説教の音源を聞くと、よくこんな難しい話を一般の人にしていたなあ、と思うんですよ。今日一回でわからせて帰そうっていう気がない(笑)。生涯通じて聞いてもらうことが前提となっているんですね。昔はお寺とのおつきあいは一生続くものでしたから。一生どころじゃないな、何世代にもわたって続いていました。だから、ずっと聞いていればいつかはわかるみたいな感じでしゃべっている。でも今は、それだとちょっと厳しいでしょう。檀家制度も崩れてきているし、ずっとお寺に通い続けるのは一般的なことではなくなっています。

たとえばカルチャーセンターとかだと、ひとつのコンテンツのパッケージがよくできあがっていますよね。そのパッケージを受講者に購入してもらうかたちになっています。そういう形態が普通になっちゃっているので、うまくサービスを提供しないと来てもらえないということ、あるでしょ。

 

小出:あるかもしれません。

 

:そのニーズに応えようと、懸命に取り組んでいる僧侶は増えました。それは必要な取り組みです。でも、お寺はニーズとかサービスとかいった枠組みをはずす場でもあり、仏道を歩むための場ですから、そのあたりはしっかりおさえないといけないでしょうね。

また、現代人にありがちなサービスを受ける体質、消費者体質そのものについても見なおしていかねば。そうでなければ仏教的情報を活用するだけになってしまい、物語には出会えないことになってしまいます。

 

小出:ほんとうに気の長いお話なんですね......。一生をかけて取り組むつもりでやっていかないと、仏教の真髄を見ることはできないと思った方がいいかもしれない。でも、誠心誠意道を歩んで行ったら、そこには、あの遺書を残されたおばあさんが見たような光景が広がっている。それはやっぱり大きな救いだと思いますね。

私も、大いに揺れながらも、道を進んでいきたいと思います。釈さん、今日はほんとうに貴重なお話をありがとうございました。

 

 

 

2016627日 築地本願寺にて

 

聞き手:小出遥子 撮影:佐藤圭祐

 

 

 

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釈徹宗(しゃく・てっしゅう)

 

1961年大阪府生まれ。

龍谷大学大学院博士課程、大阪府立大学大学院博士課程修了。

学術博士。専門は宗教思想。

浄土真宗本願寺派如来寺住職。

相愛大学人文学部教授。

NPO法人リライフ代表、認知症高齢者のためのグループホーム「むつみ庵」を運営。

著書多数。近著に『死では終わらない物語について書こうと思う』(文藝春秋)、『現代人の祈り: 呪いと祝い』(内田樹との共著、サンガ新書)、『70! 人と社会の老いの作法』(五木寛之との共著、文春新書)など。

 

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小出遥子 (こいで ようこ)
>>プロフィールを読む 1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。 いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。http://temple-web.net/