釈徹宗さんインタビュー/死では終わらない物語を生きること(2/5)

釈徹宗さんインタビュー/死では終わらない物語を生きること(2/5)



釈徹宗さんへの「さとり」インタビュー、全5回中の2回目です!

 

 

 

【前回の記事はこちらです】

釈徹宗さんインタビュー/死では終わらない物語を生きること(1/5)

 

 

 

◆「すっきりさせてくれない」のが仏教の特徴

 

小出:いまの「そちらに行かない」っていう話にも関連してくると思うんですけれど、日本の仏教、とくに浄土仏教、もっと言えば浄土真宗で説かれる阿弥陀如来とか浄土の「物語」って、私もいろいろ本を読んだり、話を聞いたりしているんですけれど、やっぱり、どうにもよくわからないというか、「知った」ところで簡単に納得し切れないところがあるなあって思うんですよね。

まあ、簡単に言ってしまえば、お話として完結していないというか。閉じそうで閉じていないというか。もう少しでわかりそうになるんだけれど、あと一歩のところでどうしても逃げられてしまうというか......。

 

:閉じていないということは、物語が生きている証左でしょう。宗教の物語の中でも、すでに寿命が尽きているものもあります。

それとやはり、物語に身をゆだね、その道筋を歩まなければ見えない光景がありますからね。生きた物語は、「ここまで歩けばこういう光景が見える」といったスタティック(静的)なものではなく、もっとダイナミック(動的)なものです。

 

小出:そう、「動いている」んですよね。動いているからこそ、絶対にうまく着地できない。釈さんもいろんなところでおっしゃっていますけれど、それこそ「宙吊り」にされたような感覚が続く感じがあって。

 

:浄土仏教に限らず、仏教全体がそんな風な仕組みになっています。

 

小出:仏教全体が。

 

:仏教は、繰り返し脱構築(その内部から揺さぶりをかけて、構造の解体・再構築を起こす)を行ってきました。たとえば、出家仏教が確立してくると、大乗仏教が起こる。「空」の理念が発達すると、実践的な唯識が出てくる。あるいは密教が出てくる。常にひっくり返され続けるみたいなところがあるんですよね。

だから仏教って、なかなかすっきりさせてくれません。他の宗教だと、もうちょっと「わかった!」っていうようなカタルシスがあるんですけれども、仏教は、着地しそうになると、逆方向へと引っ張られる。「わかった」の瞬間に、耳もとで仏教体系が「違う」って言ってくるようなところがあります。だから私は仏教のことを、脱構築装置内蔵宗教などと表現したりするんですよ(笑)。その装置を内蔵させたのは釈尊ですね。

 

 

 

◆縁起論が事実かどうかはどちらでもいい!?

 

小出:どうしてそんな風な仕組みになっているんでしょう?

 

:とらわれや偏りが苦悩を生み出すからでしょう。なにものにもとらわれないことで、

苦難の人生を見事生き抜いて、そして死に切っていく、そういう道筋を仏教は提示しました。

 

小出:ああ、なるほど......。確かに、下手に宗教の「物語」に着地して、そこに閉じこもってしまったら、いまここを生き抜いていく力にはなりませんものね。

 

:仏教が「縁起」の立場に立つのも、同様の理由だと思います。我々の心と身体を含め、すべての存在や現象はあくまで一時的な集合体であって、刻々と変化していく実体のないものだと説くでしょう。これは執着から離れるための道筋ですよね。執着に苦悩の根源がある、だからそこから離れる。

だから、極端な話、縁起の理論が客観的科学的な事実なのかどうかは、まあ、どちらでもいいんですよね。

 

小出:ええ!?

 

:というのも、ほら、よく「仏教の教えは、最新の物理学と同じ」とか、言うじゃないですか。でも、そんなこと言われても、「はあ、そうなんですか」としか思わなくて(笑)。なにも仏教は科学的解明を目指しているわけじゃないですからね。科学の立場と合致していてもしていなくても、どっちでもいいんですよ。

なぜ縁起の立場に立つのか。それは執着から離れて、まずはこの苦難の人生を生き抜くためでしょう。

 

小出:ちょっとびっくりしてしまいましたけれど......。確かに、縁起という言葉で説明される内容がほんとうのことかどうかにこだわるよりも、まずはこの人生をしっかり生き抜こうよ、っていうことなんですね。

 

:もちろん、単に人生を生き抜くためだけの教えではありません。さとりをひらいて仏と成る道です。このインタビューはそこがテーマなんですよね(笑)。

 

小出:その通りです(笑)。

 

:でも問いの立て方を間違えると、なかなかそのテーマに肉迫できません。このあたりは、これまで登場した僧侶のみなさんもお話されている通りです。ひと口に「さとり」と言っても、けっこう多様なストーリーがある。だから、道を歩む前にさとりを把握しようとしてもうまくいかない。

また、先ほど「来世を説いてこそ宗教」って言ったでしょ。でもね、この来世っていうのも、突き詰めると、あってもなくてもよかったりするんです。つまり、縁起を科学的に証明しても仕方ないのと同じで、来世の実在性に取り組んでも仕方ないんですよね。それも問いの立て方のエラーになります。

大事なのはその「物語」に自分をゆだねることができるかどうか、そこです。ほんとうにそこに身も心もゆだねることができたのなら、その人は救われると思いますよ。

 

小出:うーん、すごいお話です。ちょっと目からウロコが落ちたような気分ですね......。

 

 

 

◆自分だけの「物語」に出会えば間違いなく救われる

 

小出:「物語」に自分をゆだね切ってしまったとき、そこでいったいなにが起こるのでしょうか?

 

この教えは自分のためにあった! という世界が開きます。

『歎異抄』の「後序」に、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」とあります。これは親鸞聖人が日ごろ語っていた言葉だと言うのです。

なんのために阿弥陀の救いのストーリーはあるのか、それは自分ひとりのためだ、この私ひとりを救うためだ、そう言っていたらしい。親鸞は、「阿弥陀の救いでなければ、私は決して救われない」と徹底的に自覚していたのです。ほかの救済ストーリーじゃだめなんです。阿弥陀如来の物語が何千年にもわたって続いてきたのは、自分のためだって言うんですよ。これは親鸞の深い宗教体験から生まれた実感でしょう。

私のための「物語」に出会うと、もうほかの物語で代替することは不能です。そのとき、人は間違いなく救われます。

 

小出:自分だけの「物語」に出会ってしまったら、人間はその瞬間に救われるものでしょうか?

 

:自分だけというより、自分のためにこそある「物語」でしょうね。救われますよ。もう他の「物語」はいらないんですから。でも、それは「何の苦悩もなくなる」というのではありません。あいかわらず日常の苦悩と向き合い、抱えながら生きるのです。でも、その「物語」に身も心もおまかせしているんですから、道筋ははっきりしています。

いや、もしかするとかえって苦悩は深くなるかもしれません。『愚禿鈔(ぐとくしょう)』に「前念命終(ぜんねんみょうじゅう) 後念即生(ごねんそくしょう)」とあります。これまでの自分が死んであたらしい自分に生まれ変わるのです。

 

小出:信心を得るということですね。

 

:そうですね。そして、信心を獲得したあとでも、やっぱり揺れ続ける。揺れ続けるんですけれども、もう出会う前には戻れない。これは冒頭にお話した「物語」の本質と同じことです。

揺れながらも、間違いなく導かれていくというのを、親鸞は「自然法爾(じねんほうに)」という言葉で表現しています。

 

小出:揺れながらも、間違いなく導かれていく......。

 

 

 

◆どうしても「自分」にすがってしまうのが人間の本性

 

小出:その「揺れ」というのは、具体的にはどういうものなんでしょう?

 

:どこまでいっても「自分というもの」にすがるっていうことですね。親鸞は「人間は最後の息を引き取るその瞬間まで自分にすがるんだ」と言っています。

 

小出:「個としての自分」に執着するということですね。私も、身に覚えがあります......。そこに苦の根源があることはわかっているんだけれど、どうしても執着してしまうっていう。

 

:わかったからといって解決しませんね、人間の本性に関わる問題ですから。真宗大谷派の僧侶・植木徹誠は、息子の植木等が歌う「わかっちゃいるけどやめられない」という歌詞は親鸞聖人の教えだと言ったそうですが(笑)。

ことに現代は「個としての自分」が求められる社会です。ここに現代人のしんどさがあります。確たる「個としての自分」をもたねばならないという思い、それが強くなればなるほど苦しむ。

ところで、ご存知のように浄土真宗では「さとりをひらく」というところをあまり強調しません。代わりに、先ほど小出さんが言った「信心を得る」というのを大きな問題にします。親鸞は、この信心を「如来よりたまわりたる」と表現しています。また、「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしとときたまふ、大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり」という和讃があります。つまり、如来から廻施された信心を得るとは、「さとり」と同義なのです。

道元禅師のさとりに関する言説を読んでいると、親鸞の信心と同じ領域を語っておられるなあと感じたりすることがあります。私に仏教や浄土真宗を教えてくれた信楽峻麿先生は、「信心はめざめ体験だ」「信心は智慧であり、チッタプラサーダ(心澄浄)である」とおっしゃっていました。異端者あつかいされた人ですが、仏教としての浄土真宗をきちんと説いた先生です。私も同じ立場です。

 

小出:なるほど......。

 

:ただその一方で、親鸞は九十年生き抜いて一度も「さとった」とは表現しなかった点にも注目しています。この点は信楽先生も注目されていました。この身がある限り、どうしても「自分」にすがるっていうことが起きてくるところに向き合い続けたからです。それが我々の本性の一面であることは間違いない。この光と影の両面を抱えたままに生きていくっていうのが、親鸞思想の特徴だと思うんですよね。

 

小出:「さとり」と表現してもいいような面と、そうは言っても「自分」にすがるという面と。後者を無理に切り捨てようとはしないで、もっと言えば「見て見ぬフリ」をしないで、両面を同時に抱えていく、と。

 

:そうですね。親鸞はそこをごまかさないと言いますか、さとりと迷い、救いと罪の問題と生涯にわたって向き合い続けました。だからこそ阿弥陀仏の救済物語以外に道はなかった、そういう人です。

 

 

 

◆光と影の緊張状態がずっと続く道を歩んでいく

 

:仏教では「自他一如」と説くでしょう。確かに、自他の境界が融解すれば、苦悩は解体されるでしょうし、それは「さとり」でしょうし、「救い」でしょうね。

 

小出:自他未分っていうことは、「自分」っていうものの枠が外れた、つまり執着への根源が断たれたっていうことですものね。

 

:そうですね、それは確かでしょう。でも、「自分」という枠組みは、外れた次の瞬間から、またあらたな「自分」の枠組みが生まれてくる。

 

小出:わかるような気がします。「"自分"なんかどこにもいなかった!」って言っている「自分」が、もう、その瞬間にはいるじゃん、っていう(笑)。ずっとその繰り返しですよね。どこまで行っても「自分」から完全に自由になることはなくて......。

 

:そういうことです。コンコンとわきあがってくる自分の都合、それが親鸞思想の大きな論点です。まあ、なんと言いますか、光と影の緊張状態がずっと続くというような道を歩んで行ったんですね。

 

小出:それは、なかなかしんどそうな道だな、と思ってしまうんですけれど......。

 

:うん。しんどい道だと思いますよ。でも、世俗のただ中を歩む仏道とは、そういうことなんですよ。釈尊のような宗教的天才であれば自分の都合を滅してしまえるのでしょうが。あるいは『維摩経』に出てくる維摩居士みたいな人だと、なんの執着もなく世俗を生きることができるのでしょう。

我々のような愚者は、わき上がる自分の都合を見つめ続け、それを抱えたまま如来におまかせしていく。

 

小出:それが念仏の道なんですね。そこには特別な修行も戒律も必要ないと言われますが......。

 

:そうですね、他力の仏道であり、在家者の仏道ですから。

 

 

 

3回目に続きます!)

 

 

 

========================================

 

釈徹宗(しゃく・てっしゅう)

 

1961年大阪府生まれ。

龍谷大学大学院博士課程、大阪府立大学大学院博士課程修了。

学術博士。専門は宗教思想。

浄土真宗本願寺派如来寺住職。

相愛大学人文学部教授。

NPO法人リライフ代表、認知症高齢者のためのグループホーム「むつみ庵」を運営。

著書多数。近著に『死では終わらない物語について書こうと思う』(文藝春秋)、『現代人の祈り: 呪いと祝い』(内田樹との共著、サンガ新書)、『70! 人と社会の老いの作法』(五木寛之との共著、文春新書)など。

 

========================================

 


 


小出遥子 (こいで ようこ)
>>プロフィールを読む 1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。 いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。http://temple-web.net/