釈徹宗さんインタビュー/死では終わらない物語を生きること(1/5)

釈徹宗さんインタビュー/死では終わらない物語を生きること(1/5)



「さとり」ってなんだろう? ズバリお坊さんに訊いちゃおう! ......というこのインタビュー企画も6回目。今回ご登場いただくのは、浄土真宗本願寺派如来寺住職の釈徹宗さんです。

 

高名な宗教学者でもいらっしゃる釈先生。広大な学識と視野をもって、仏教をも含む宗教という「物語」の構造を、やわらかく、そしてユーモアたっぷりにお説きくださいました。

 

その場では、ただひたすらに、先生の素晴らしい語りに圧倒されるばかりだったのですが......いざ、お話を原稿にまとめようと、自室の机に向かった瞬間。私は、大変なことに気づかされてしまったのです。

 

これは、「さとり」という物語をも、根こそぎ吹き飛ばしてしまうお話だ――

 

正直、焦りました。だってこの連載タイトルは「ひらけ! さとり!」。「さとり」ありきで、いままで何人ものお坊さんたちに体当たりで取材を続けてきたのです。それなのに、その企画自体が、ここにきて、あの2時間の釈さんとの対話で、大きな揺らぎを見せている......。

 

いや、揺らぎどころの騒ぎじゃないです。事実、釈さんとの対話によって、自分が無意識のうちに抱えてきた「思い込み」に、思いっきりヒビを入れられたんです。その「思い込み」は、仏教、もっと言えば宗教、ひいては生きること全般に対するものでした。

 

はっきり言って、つらかったです。ここで語られていることを受けいれるのは、自分がいままで懸命に築き上げてきたものを、まっさらに戻してしまうことにほかならなかったから。すごくつらかった。向き合いたくありませんでした。こんなことなら、お話を聞かなきゃよかった......とさえ思いました。(先生、ごめんなさい。)

 

でも―― ほぼ毎日泣きながら(実話です......)このインタビューを構成して、長い時間をかけて、いざ、原稿が完成したとき。私の目の前に広がっていたのは、信じられないほどに清々しく、広々と開けた世界だったのです。

 

「さとり」という物語を抜けた先に広がっている、もうひとつの物語。宗教が太古から存在し続けてきた理由を、肌で感じた瞬間でした。......なんて言うと、少し大げさかもしれませんが。でも、このインタビューで、その景色の、ほんの片鱗でも感じ取ってくだされば、これ以上にうれしいことはありません。

 

釈先生のお話は、本日より5日間連続で更新いたします。どうぞ、最後までじっくりとお楽しみくださいませ◎

 

 

 

◆私も、愛も、宗教も......あらゆるものは物語

 

小出:釈さんが昨年の秋にお出しになられた『死では終わらない物語について書こうと思う』(文藝春秋=刊)というご本、素晴らしかったです。何度も繰り返し拝読しました。こちらの本の中で、釈さん、このように語られていますよね。

 

我々は物語の中に生きています。「私」という存在も、この世も、あの世も、愛も宗教も、すべて物語であり、虚構であり、共同幻想です。少なくとも仏教では「私」や「世界」をそのようにとらえようとします。(同書201頁)

 

この部分に、私は大きな衝撃を覚えたんです。というのも、私はずっと、宗教、少なくとも仏教は「絶対的な真実」を指し示したものだと思っていたので。ここで言う「真実」というのは、「"私"という物語以前のところにあるもの」というような意味なんですけれど。

つまり、宗教というのは、物語を解体する機能を持つものだと思っていたんですね。この世に溢れる「私の物語」から唯一フリーであるのが宗教の領域なんじゃないか、って。だけど釈さんは「宗教すら物語」とおっしゃる。これがものすごくショックで......。自分の宗教に対する認識、それ自体に大きく揺さぶりをかけられた気がしたんです。

 

:そうでしたか。

 

小出:はい。たとえば今回は「ひらけ! さとり!」というシリーズでお邪魔させていただいていますけれど、「さとり」という言葉で語られる領域すら、「語り」が入った瞬間に、端から物語になってしまうんだ! って。いくら宗教の言葉を用いたところで「絶対的な真実」は決して語り得ないんだな、って。ということは、つまり、私たちは、人間である限り、どうしようもなく物語を生きていかなきゃいけないんだな、って......。

 

:はい、確かに我々は意味から逃れることはできません。この場合の「物語」とは、意味の体系を指します。我々の人生も物語であり、神や来世、幸せとは何か、何が正しくて何が間違っているのか、なんのために生きるのか、などといった人間にとって本質的な問題もある種の物語です。仏教はあらゆる意味を解体していく恐るべき体系ではありますが、やはりそれもひとつの道筋をもった物語だと言えます。

 

 

 

◆「物語」とは、出会う以前の自分には戻れないもの

 

:実は、私としては「情報」と区別したいっていうような思いがあって、戦略的に「物語」という言葉を使っているんですよ。そういう風に表現すれば、現代人の心にも届くんじゃないかなと思いまして。

 

小出:「情報」と「物語」の区別ですか。詳しくご解説いただけますか。

 

:「情報」っていうのは基本的に使い捨てでしょう。あたらしいものがやってきたら、それ以前のものは不要になってしまう。消費されてしまう、ということですね。

「物語」というのは、これとは違う性格を持っている。簡単に言いますと、一度出会ってしまったら、出会う以前の自分には戻れない。今の自分のあり方が問われる。そういう力を持ったものが「物語」。そういうものを「物語」と呼ぼう、というわけです。

もちろん、実際はこんなクリアには分かれません。でも、一度こういう風に捉えてみると、話の道筋がわかりやすくなるかな、ということで区別をつけてみたんです。

 

小出:なるほど。そうしますと、宗教の領域に属するものは、決して、使い捨ての「情報」などではなく、強い力を持った「物語」ということになりますね。宗教の語りによって人生がすっかり変わってしまうという事態は、太古から数多あったわけですから。

 

:そういうことですね。現代人の苦悩について考えているうちに、こういう言い方をするようになりました。

 

 

 

◆宗教という「物語」に出会うことが最大の終活になる

 

:たとえば、現在は、戦後二回目の"死のブーム"などと言われています。一回目は1970年代後半から1980年代前半にかけて起こった臨死体験ブームあたりを指します。そして、今が二回目。世界一の長寿社会となり、少産多死社会へと移行して、老病死の問題があらためて浮上してきました。とくに、終末医療や延命措置に関して自分で意志表明しなければならないという問題が大きいですね。また、我々は毎月の支払いとかローンとか不動産とか、いろんな契約の中で暮らしていますからね。自分が死ぬ前にいろいろ整理しなきゃいけない。そんな中、2010年に「終活」という言葉が流行語大賞にノミネートされました。現代人は自分の終末に向けて準備をしなければならないということになった。

でも、一般に言われる終活というのは、いかにも「情報」という印象を受けます。「エンディングノート」などを見ていると、死に関する自分の要望と、没後の指示内容が大半ですよね。

だから、どうせなら死をぐっと手元に引き寄せ、死と向き合うことで、いまの自分の生き方が問われるようなものになればいいのに、と思ったんですね。

 

小出:死をぐっと引き寄せる......。自分が死ぬ、ということを真剣に考えるということでしょうか?

 

:そうですね。もし、今晩息を引き取るとしたら、自分は今日これからなにをするだろう? って、そういう風にリアルに考えてみると、日常の枠が揺れますよね。思ってもみない考えが浮上するかもしれないですし、普段すごく大事にしているものが色褪せて見えるかもしれない。そうしたら、もう少し日常が整理されて、自分が何を大事にして生きているのかがわかるかもしれないでしょ。古来、人間はそういう終活を実践していたんですよね。

 

小出:それこそがほんとうの終活なんじゃないかなって、私も思います。そうすると、さっきの話に戻れば、宗教という「物語」に出会うことは、そのまま最大の「終活」になるのではないでしょうか。

 

:宗教というのは、生と死に関する最終的な意味づけをする体系でもあります。そして、「死をも超えて続く物語」を持っているところにこそ、宗教ならではの特性はありますので。終活をつきつめていけば、宗教の物語という問題が出てくることでしょう。

 

 

 

◆来世を説いてこそ宗教だ!

 

:私は、来世を説いてこそ宗教だ、と考えているんですよ。来世は、世俗の枠組みを超える領域でしょう。社会というのは、来世を取り扱うことができないんですよね。そういった、社会におさまらない、枠組みを超えた領域を説いてこそ宗教です。そこに宗教の役割がある。逆に言えば、世俗社会の枠組みの範囲内だけでしか語らないのであれば、宗教の存在意味って、ほとんどなくなってしまうんじゃないでしょうか。

 

小出:社会の枠組みを超えたところにある「物語」に出会うことによって、いまここの自分の人生が相対化される。それこそが宗教の役割だということでしょうか。

 

:そうですね。そこにこそ宗教による救済がある。世俗社会を超える領域への扉が開くからこそ、この苦難の人生を生きることができる。そして大切なポイントは、世俗を超える物語と出会いながら、世俗から足を離さないところにあります。

 

小出:それこそが宗教的な生き方なんですね。

 

:私はそういう構図をイメージしています。

 

小出:扉は開かれているけれど、そちらに行かないっていうのは面白いですね。あくまでもいまここを生きるんだ、と......。

 

 

 

2回目に続きます!)

 

 

 

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釈徹宗(しゃく・てっしゅう)

 

1961年大阪府生まれ。

龍谷大学大学院博士課程、大阪府立大学大学院博士課程修了。

学術博士。専門は宗教思想。

浄土真宗本願寺派如来寺住職。

相愛大学人文学部教授。

NPO法人リライフ代表、認知症高齢者のためのグループホーム「むつみ庵」を運営。

著書多数。近著に『死では終わらない物語について書こうと思う』(文藝春秋)、『現代人の祈り: 呪いと祝い』(内田樹との共著、サンガ新書)、『70! 人と社会の老いの作法』(五木寛之との共著、文春新書)など。

 

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小出遥子 (こいで ようこ)
>>プロフィールを読む 1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。 いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。http://temple-web.net/