【「ひらけ!さとり!」番外編】日下賢裕さん・松本紹圭さんとの対話/「縁」ってなんだろう?(3/3)

【「ひらけ!さとり!」番外編】日下賢裕さん・松本紹圭さんとの対話/「縁」ってなんだろう?(3/3)

 

 

Temple vol.7での、日下賢裕さんと、松本紹圭さんと、私、小出遥子の三者ダイアローグ、全3回中の3回目、最終回です。

引き続きお楽しみくださいませ!

 

これまでの記事はこちら:

【「ひらけ!さとり!」番外編】日下賢裕さん・松本紹圭さんとの対話/「縁」ってなんだろう?(1/3)

【「ひらけ!さとり!」番外編】日下賢裕さん・松本紹圭さんとの対話/「縁」ってなんだろう?(2/3)

 

 

◆「夢」が「夢」だと気づいていれば

 

松本:さっき、いまここにある結果に良し悪しを見てしまうのも、ほんとうに「私」なんですか? というお話がありましたよね。まあ、確かに、ほうっておいても、良し悪しの判断ってどこからともなく湧いてくるんです。でもね、じゃあそれでいいのかっていうと、結構苦しいと思うんですよ、その状態って。

 

小出:うん。翻弄されているのってしんどいですからね。

 

松本:そう。でも、前回のTempleで「夢」の話をしたと思うんですけれど、それと同じで、ちゃんと抜け道はあるんですよね。良し悪しの判断もどこからともなく湧いてきてしまうんだ、と。そういうあり方の中に私たちはいるんだ、と。そういうこともひっくるめてすべては「縁」なんだ、と。そういうことを、どこかで知っているっていうのは、大事なことなんじゃないかな、と思うんですね。

 

小出:私もそう思います。夢だと見抜いた瞬間に世界は変わりますものね。夜寝ているときに見る夢もそうですよね。たとえば悪夢を見ているときって、ものすごく苦しいですよね。夢の中ではそれを現実だと思っているわけですから。だけど、寝ているとき、なにかのきっかけで「あれ、これ、もしかしたら夢かも?」って気づくことってないですか? そうなったら、もうこっちのものというか(笑) その瞬間から、こう、夢の中でも割と遊んでしまえるっていうことが起きてくるんですよね。「夢なら夢で楽しもう」みたいな。

 

この場合は「ぜんぶ縁の中で起きているんだよ」っていうことですけれど、「それはぜんぶ夢なんだよ」みたいな声が、ふとした瞬間に聞こえてくることってあると思うんですよね。その声の役割を果たすのが、まあ、宗教と言われるものだったり、いろいろな伝統的な知恵だったりするのかもしれないんですけれど。もちろん、そういう体系だった知恵に頼らなくても、日常の中にも夢の裂け目みたいなものは、実はそこら中に用意されていて......。そこをまっすぐに見つめたときに、大きな転換が起こってくるんじゃないでしょうか。

 

日下:うん。「縁」というものを常に見つめていくっていうのは大事なことだと思いますね。物事は常に関係性の上で成り立っている。じゃあ自分はどこからきたんだろう? って。そこをとっかかりにしていくのは、一番着実なやり方かもしれません。

 

松本:そうですね。そういうのが、夢から覚める練習になるのかもしれないですね。

 

 

◆「自我を滅する」ということばの絶対的な矛盾

 

参加者2:自分というものも「縁」の中に組み込まれているというお話がありました。でも、私としては、仏教というのは、最終的に自我を滅することを目標にしていると理解しています。縁に組み込まれているというか、条件の一部になっている自分が存在している、その一方で自我を滅するというのは、どういう風に考えれば良いのでしょうか?

 

日下:その自我を滅するためのとっかかりが、「縁」を見つめるっていうことになるんじゃないでしょうか。仏教では、まあ「解脱」であったり、「涅槃」であったり、「さとり」であったり、そういうことばが使われますけれど、それってつまりは「自分に対するとらわれがない状態」っていうことになると思うんですね。

 

そこに至るためには、じゃあどうしたらいいんだろう? っていうときに、まずはいまここにある「私」を起点として「縁」を見つめてみる。すると、なんだ、固定化した自分っていうものがあるわけじゃないんだ、と。そういう気づきが起こってくるわけですよね。すると、おのずと、自分というものにそれほど深くとらわれなくてもいいんだ、っていう考え方につながっていくのかな、と......。どうでしょうか?

 

松本:私たちの日常生活のことば遣いそのものが、すでに自我にとらわれているようなところがあるんですよね。たとえば「自我を滅する」って言いますけれど、じゃあ、誰が誰の自我を滅するの? って。滅するべき自我があるんだっていう前提自体が間違っているかもしれないよ? って。だって、滅するべき自我があるっていうことは、「常一主宰」の「私」っていうものがあるって言っているようなものなので。前提からしておかしいよね? っていうことになる。

 

まあ、あえてそのことば遣いに乗っかって言うならば、自我を滅したときには、なんだ、そもそも滅する自我なんかなかったんだな、っていう気づきが起きてくるはずなんですよね。はじめからそんなものなかったんじゃないか、って。

 

「自我を滅さなきゃ!」「自我を滅してもっと素晴らしい自分にならなきゃ!」っていう方向で修行をしちゃうと、変な風にスイッチが入ってくるというか、どこまでいっても自我の壁で止まってしまうんじゃないでしょうか。

 

 

◆「縁」の理解が深まると否定するものがなくなる

 

松本:小出さんはどう思いますか?

 

小出:そうですねえ......。まあ、究極的なことを言えば、その「自我を消そう!」と思って頑張っている自分すら、すでに「縁」の中にあるわけで。だとしたら、もう、そうやって「頑張ろう」と思っちゃうことすら、ほんとうに自分で選んでいるのかな? これも縁の中で起こっているだけなんじゃないかな? っていうところに着地するしかないんじゃないでしょうか。

 

自我を消そうと頑張っている自分がいることに気がついたら、それをなかったことにするんじゃなくて、「仕方ないよね、縁の中でこういう風になっちゃっているんだもんね」っていう風にやさしく包み込んで、そのままふんわり受け止めてしまう。そうしたら、ぎゅっと縮こまっていた「自分」というものがふわっとほどけて、ああ、なんだ、このままでなにも問題なかったんだって、安心できるんじゃないかと思うんですよね。

 

松本:ぜんぜん大丈夫じゃん、そもそもはじめから否定することなんかなかったじゃん、って。

 

小出:そうそうそう。「縁」というものがほんとうに深いところから理解できるようになると、否定するものがなくなっていくと思うんですよね。こう、積極的に、なにかを肯定していくというよりは......

 

松本:ポジティブシンキングとかじゃなくてね。

 

小出:そう。だから、もう、ただそこにあらわれているもの、すべて、そのままあっていいんだ、って。というか、「あっていい」と自分が許可するより前に、もうすでにそうなっているじゃん、っていう。「縁」の理解が深まると、目の前で起きていることに対しての力みがなくなるんですよね。「あれがあっちゃダメ」「これがあっちゃダメ」それこそ「自我があっちゃダメ」とかね、そういう否定自体がなくなってくる。

 

そうなってくると、たとえ自我っぽいものがあらわれてきても、そもそも問題にならなくなってくるんですよね。それすら縁の中でおのずからあらわれてきているだけなんだって深い部分で理解できていたら、自我があろうがなかろうが「いいんじゃない?」ってゆったり構えていられる。絶対的な受容ですよね。そういう方向での解決もあるんじゃないですかね。

 

松本:うん。そうですね。仏教の基本に立ち返ると、お釈迦さまは「人生は苦である」と言ったわけですよね。で、その「苦」というのは、英語で言うとunsatisfactory、「不満足」ですね。つまり「人生は不満足のかたまりである」と。ほんとうにその通りだな、と思うんです。

 

「自我を滅さなきゃ」っていうのも、「これじゃダメなんだ」っていう否定がどこかにあるからこそ出てくる発想ですよね。それで、この発想の上でなにかをしても、達成したと思ったらまた次の目標が出てきて、それをクリアしてもまた次の目標が出てきて。そうやって、常に満たされないまま生き続けて、気がついたときには、もう人生も終わりに近づいていて......。そういうことって、実は結構あるんじゃないかな、って。でも、そんな風に生きなくてもいいんだよ、っていうことですよね。

 

小出:うん。否定するものがある人生って苦しいですからね。なにかを否定してしまう自分に対してすら、「まあ、それもいいんじゃない? (縁の中で)そうなっちゃっているんだから」って脱力して生きていけたら、ものすごく楽なんじゃないかな。

 

 

◆「自分」は、実はものすごく曖昧なもの

 

日下:少し話がそれるかもしれませんが、「自分」っていうものが、いったいなにによって規定されているのかっていうことを、少し考えてみたいんですね。

 

というのも、最近、うちの父が「全健忘」という病気にかかりまして。短期間の記憶が無くなってしまう病気でして、まあ、数時間すると戻るんですけれど、自分がその間なにをしていたかっていうのを覚えていないっていう。幸い、父の病気は無事治りまして、もう再発しないと言われたんですけれど、家族としては、ちょっと心配しました。それで、そのときに、父の様子を見ていて、私を私たらしめるものって、もしかして記憶以外にはなにもないんじゃないか、と思ったんです。

 

もちろん、記憶がなくなったら自我が消えるっていうような単純な話ではないとは思うんですけれど、でも、その「自分」とか「自我」っていうものも、実はものすごく曖昧なものなんじゃないかな、って。

 

松本:確かにね。そうですよね。

 

日下:「自分」というのは、自分がこうだと思い込んでいるものでしかないというか。もちろん、周りにいる人たちが「あなたはこういう人ですよ」って伝えることによって、その人の輪郭がかたちづくられるっていう側面もあるのかもしれないですけれど。でも、もし記憶が無くなってしまった人に、「あなたはこういう人だったよ」って言っても、「ほんとうにそうだったんだろうか?」って、やっぱり思ってしまうと思うし。

 

仏教のことばに「五蘊仮和合(ごうんけわごう)」というのがありますけれど、「私」っていうものすら、いろんな物事がいまここで仮に合わさってできているだけなんだな、って。ほんとうに仮のものでしかないんだな、って。

 

こういう風にして、自分がどういったものによってかたち作られているか、一度じっくり見つめ直してみるのも、まあ、面白いのかもしれないなっていう気がします。その中で、ひょっとしたら「自我」っていうものも薄れていくかもしれないし、薄れないかもしれないし。それも縁次第なんですけれど。

 

小出:ほんとうですね。「いま」を起点に物事を見つめていくと......つまり、いま、どうしてこうなっているんだろうっていうことをじっくりと考えていくと、そこから見えてくる景色がありますよね。というか、そうやっていくことでしか、もしかしたら、世界は開けないのかもしれませんね。

 

......というところで時間が来てしまいました。話はあっちに行ったりこっちに行ったり、しかも結論らしい結論もまったく出ませんでしたけれど、これもまた縁の中で起きてきたことなので、まあ、いいんじゃない? と(笑) なにかのヒントになれば嬉しいです。日下さん、松本さん、ありがとうございました。

 

日下&松本:ありがとうございました。

 

 

 

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Templeって?

 

 

Temple‐テンプル‐は、お寺が舞台のまったくあたらしいワークショップです。

主役は「仏教」や「お坊さん」ではなく、私たちひとりひとり。

ありがたいお話を聴くだけで終わりにせず、自分自身や、縁ある人々との対話を通して、それぞれが「ほんとう」に触れ、"自由"(=あらゆる依存から解放され、自分自身の足で立つこと)を生きるためのきっかけを見つけていく――

そんな場を目指しています。

 

Templeの柱はこの3本。

 

Reflection(リフレクション)

・・・自分の中にある「ほんとうのいのり」「ほんとうのねがい」に向き合う時間

Wisdom(ウィズダム)

・・・先人たちの遺した「ほんとうのことば」と触れ合う時間

Dialogue(ダイアローグ)

・・・ひとりひとりの思う「ほんとうのこと」を語り合う時間

 

うつろいゆく無常の世にあっての、たったひとつの流されない部分、消費されない部分、すべての軸となるべき不動の部分=「ほんとうのこと」を、仏教をはじめとする偉大な知恵(智慧)の数々にヒントをもらいながら探っていきましょう。

 

探究先は、自分自身です。

 

 

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小出遥子 (こいで ようこ)
>>プロフィールを読む 1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。 いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。http://temple-web.net/