【「ひらけ!さとり!」番外編】日下賢裕さん・松本紹圭さんとの対話/「縁」ってなんだろう?(2/3)

【「ひらけ!さとり!」番外編】日下賢裕さん・松本紹圭さんとの対話/「縁」ってなんだろう?(2/3)

 

 

Temple vol.7での、日下賢裕さんと、松本紹圭さんと、私、小出遥子の三者ダイアローグ、全3回中の2回目です。

どうぞお楽しみくださいませ!

 

1回目の記事はこちら:

【「ひらけ!さとり!」番外編】日下賢裕さん・松本紹圭さんとの対話/「縁」ってなんだろう?(1/3)

 

 

 

◆「縁」こそが「私」

 

松本:僕たちって、普通、誰かがいて、その人の行為がまた違う誰かに作用して、これこれこういう結果を及ぼしましたっていう風に思っちゃうんだけど、でも、実は「その人」っていうところからして違うわけですよね。だって「常一主宰」なものはないわけですから。

 

だから、たとえばAさんという人とBさんという人がいて、そのふたりをつないでいる線が「縁」なのかって言ったらそうじゃなくて、「縁」こそが「私」なんだっていうことですよね。そういうことを、たぶん、仏教は言っているんじゃないかと思います。

 

小出:「縁」こそが「私」。そして、「縁」は決して辿り尽くすことができないから、つまり、すべてが、いまここの「私」を成り立たせる「縁」なんだと言ってしまえる、ということですね。まあ、そう言うしかないというか......。

 

日下:いろんな縁のひとつの結節点が「私」なわけですよね。でも、その「点」というのも固定的にあるわけではない

 

松本:うん。だから、よく、縁と縁とが絡み合って、網の目が一時的に出来る、みたいなたとえが使われますけれど、決して「網の目」というものが実体的にあるわけじゃないわけで。

 

日下:ただ絡み合っているものを、そう呼んでいるだけなんですよね。

 

松本:この瞬間だってそうですよ。こういうセッティングで、こういうメンツで、こういうテーマで話をしているからこそ、いま、自分の口からこういうことばが出てくるのであって。かならずしも自分が事前に話そうと決めていたことをしゃべっているわけじゃないんですよね。しゃべりながら、あれ? なんでこんなこと言っているんだろう? って思っている自分もいたりするわけで。それがダイアローグ(対話)で構成されるTempleの面白さでもありますよね。

 

 

◆私たちは「いま」以外にいたことがない

 

小出:ダイアローグひとつ取ってもそうですけれど、日常においても、自分の思った通りに動いている瞬間なんか、果たしてほんとうにあるのかな、って。自分の言動すら、すべて縁次第で、おのずから起こってきているんじゃないかな、って。

 

松本:えっ、そうなんですか? それって、つまりぜんぶ決まっているっていうことですか?

 

小出:急になんですか(笑)

 

松本:いや、「すべて縁次第」っていうと、驚いて不安になる人が多いので、代わりに驚いてみました(笑) じゃあ、あえて聞きます。すべての人は、すでにどこかに運命が書かれているということですか?

 

小出:いいえ、違います。......ってはっきり言っちゃっていいのかどうかわからないですけれど、でも、仏教は決してそういう話をしているわけじゃないですよね。まあ、そういう風に思ってしまう方もね、やっぱり、どうしてもいらっしゃるとは思うんですけれど。っていうか、正直、以前の私がそうだったんですけれど。「仏教って、つまりは運命決定論のことなの!?」って、私自身、思いっきり勘違いしていたわけですけれど。

 

でも、因果っていうのは、さっきも言いましたけれど、あくまで「いま、こういう風になっています」というところから説明するしかないものであって、「これから先こうなります」っていうのは、また、ぜんぜん違う話になってくるんですよね。そもそも「未来」っていつ? っていう話もありますしね。「未来」について考えて語っているのは、いったい「いつ」起こっていますか? って。......「いま」ですよね。

 

松本:うん。僕らが「いま」以外にいたことってないんですよね

 

小出:そう。どこまでいっても「いま」なんですよ。「いま」から逃れることはできなくて。だから極端なことを言えば、「私」っていうのも「いま」生まれました、とも言えるんですよね。たとえば、小出遥子っていう人間は1984年の125日に生まれました、と。でも、そう語っているのは「いま」ですよね? 両親からそういう風に聞きました、だからそれは紛れもない事実です、と。でも、そう語っているのは「いま」ですよね? 「いま」以外には、やっぱり、なにも起こっていないわけですよね?

 

日下:過去が「あった」とは言えるのかもしれないですけれど。

 

松本:それも結局同じですよ。「あった」っていうことを、「いま」言っているだけですよね。

 

小出:......ってね、そうやって探っていると、もうほんとうに、いろんなことがあやふやになってくるんですよね。どうにも説明しようのない「いま」がここにあって、それをなんとか説明するために「縁」ということばが考え出されたんじゃないかって思うぐらいで。

 

 

◆伯父の死がなければ、私は生まれてこなかった

 

小出:「いま」の話にはまっていくとキリがなくなりそうなので、ひとまずこれぐらいにして......。話を本筋に戻します。以前、日下さんとお会いしたときに、「縁」について、とても考えさせられるようなお話をされていたので、それをシェアしていただけないかな、と。

 

日下:はい。私自身の話で恐縮なんですけれど、あるとき、ふと、自分がいまここにいるのって、もしかしたらものすごいことなんじゃないかな、って心の底から実感したことがあったんです。

 

私は、現在、石川県の山中温泉というところにある恩栄寺というお寺のお坊さんをしておりまして。現在の住職は私の父が務めているんですけれど、実は、父は婿養子なんです。つまり、母方の家系に伝わってきたお寺に、父が入った、というかたちになるんですね。

 

それで、私の母には、ほんとうは兄がいたんです。私にとっては伯父にあたる人物なんですけれど。だから、順当にいけば、その伯父がお寺を継ぐ予定だったんです。でも、伯父は、二十歳のときに突然亡くなってしまうんですね。まあ、自死だったという話なんですけれど......。

 

私の祖父母からすると、跡継ぎだと期待していた長男が、その若さで、しかもそういった亡くなり方をしてしまって、もう、不幸のどん底を味わったんじゃないかと思うんです。でも、とにもかくにも代々続いてきたお寺をどうにかしなければいけない、跡継ぎをどうにかしなければいけないっていうことで、結局、私の母がお坊さんと結婚して、その人に婿養子に入ってもらった、と。それが私の父だったんですね。そうして私が生まれるわけですけれど。そういう事情がありまして......。

 

それで、もし......まあ「もし」を考えるのって、あんまりいいことではないのかもしれないですけれど、もし、伯父さんが生きていたらどうなっていたんだろうなって、あるとき、ふっと思ったんですね。もし伯父さんが生きていたら、いま私がいるお寺は、当然、その方が継いでいるはずなんです。そして、伯父さんはやがてお嫁さんをもらって、子どもが生まれて......。まあ、そういう風にして、うちのお寺の血筋は続いていったんだろうな、と。

 

そうすると母はお寺に残る理由もなくなるので、誰かほかの人のところに嫁いでいたでしょう。でも、そうなったとき、そこに私はいないんですよね。私は生まれてこないことになる。つまり、伯父の死がなければ、私は生まれてこなかったっていうことになるんです。

 

 

◆「死」=ひとりの人間の存在の終わり?

 

日下:......ということを思ったときに、ひとりひとりの存在とか生き死にっていうことは、実は想像しているよりも遥かに大きな意味合いがあるんだなあ、と。20年生きたら20年生きただけの、80年生きたら80年生きただけのなにかが、そのあともさまざまなかたちで「いのち」というものにつながっていく。それは「死」によって断絶なんかしないんだ、と。そんな風に強く感じたんですよ。

 

伯父さんは若くして亡くなった。しかも自死という亡くなり方だった。家族の悲しみは大変なものだったと思うし、当然、周りからも不幸な出来事として受け取られただろうと思います。でも、そのあとのことを考えてみると、ほんとうに、なにがどうつながっていくかなんて、わからないんだなあ、って。

 

小出:そうですね......。

 

日下:そこから翻って、今度は、じゃあ、自分が死んだらどうなるんだろうって考えてみたんですよ。まあ、自分の死なんか、ほんとうにいつ起こるかわからないんですけれど、でも、もし明日、自分が死んでも......まあ、確かにこの肉体はそこで消えてしまうのかもしれないけれど......自分が生きて、いろんな人との関わりを持ってきたことが、どういうかたちかはわからないけれど、それこそなんらかの「因」や「縁」となって、またドミノを倒していけるんじゃないかなって。

 

そう考えたときに、「死」というのは、果たして、この日下賢裕というひとりの人間の存在の終わりを意味するものなのだろうか、と。そんなことを思ったんですよね。

 

小出:日下さんとその伯父さんは、当然、生きて出会うことはなかった。それは、まあ、通常の論理で平たく言ってしまえば「縁がなかった」っていうことになるわけですよね。でも、いまここにある事実を、直に、深く深く見つめていけば、伯父さんの存在とその死は、日下さんにとって、それはもう「縁があった」どころの騒ぎじゃないぐらいの大きな「縁」になってくるわけで。「縁がなかった」という「縁」もあるんだと考えると、もう、ほんとうに、すべてが「縁」なんじゃないかな、って。「縁」でないものなんか、ひとつもないんじゃないかな、って。

 

 

◆良し悪しの判断すら「縁」の中にある

 

松本:「死」って、ほとんどの場合、ものすごくネガティブなものとして受け取られますよね。自分の死もそうだし、誰の死も不幸なこととされている。もちろん、そこには悲しみがあるからそう捉えられるのも当然の話なんですけれど。でも、仏教では、ほんとうのところ、ひとつひとつの結果に良いも悪いもないんだ、と。そこがすごく強調されていますよね。

 

もちろん、人間である限り、こんな出来事はない方が良かったとか、受けいれたくないとか、いろんな思いが湧いてくるでしょう。だけど、それはあくまで「思い」であって、出来事自体に色はついていないんだっていうことですね。それがどういう結果であれ、それがまた次のなにかしらの「因」や「縁」になっていくんだ、と。でも、まあ、ついね、目の前の出来事に色をつけてしまって、良い悪いを判断してしまうんですけれどね。

 

小出:でも、その良し悪しの判断も、ほんとうに自分の力だけでやっているのかな? って。それだって、ぜんぶ縁の中で、おのずから起こってくるものだと言うこともできますよね。

 

日下:そうですよね。さっきの話で言えば、私の祖父母からすれば、我が子が亡くなったのは大変な悲しみであるわけで。でも、その悲しみ、苦しみの中から、また、あたらしいいのちが生まれてきて、私の「いま」につながっていて。それは果たして良いことだったのか、悪いことだったのか......それはわかりませんが、ひとりの「死」ということさえも、実は「縁」となって広がっていく世界がある。そして、ぜんぶがぜんぶ、縁の網目の中にどうしようもなく組み込まれていて、自分がたまたまその位置にいただけなんじゃないかって。

 

参加者1:ひとつ質問をしていいですか? 日下さんご自身は、伯父さんの生を受け継いでいるっていう感じはありますか?

 

日下:それはないですね。私自身は、伯父の生まれ変わりなんだと思ったことは一度もない。でも、ひとつのものの見方として、いのちはつながっているな、と。見たことも会ったこともない伯父ですけれど、その人生が、私のいのちの深いところに重なっているなということを、ただ、感じたんですね。

 

 

 

3回目に続きます!)

 

 

 

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Templeって?

 

 

Temple‐テンプル‐は、お寺が舞台のまったくあたらしいワークショップです。

主役は「仏教」や「お坊さん」ではなく、私たちひとりひとり。

ありがたいお話を聴くだけで終わりにせず、自分自身や、縁ある人々との対話を通して、それぞれが「ほんとう」に触れ、"自由"(=あらゆる依存から解放され、自分自身の足で立つこと)を生きるためのきっかけを見つけていく――

そんな場を目指しています。

 

Templeの柱はこの3本。

 

Reflection(リフレクション)

・・・自分の中にある「ほんとうのいのり」「ほんとうのねがい」に向き合う時間

Wisdom(ウィズダム)

・・・先人たちの遺した「ほんとうのことば」と触れ合う時間

Dialogue(ダイアローグ)

・・・ひとりひとりの思う「ほんとうのこと」を語り合う時間

 

うつろいゆく無常の世にあっての、たったひとつの流されない部分、消費されない部分、すべての軸となるべき不動の部分=「ほんとうのこと」を、仏教をはじめとする偉大な知恵(智慧)の数々にヒントをもらいながら探っていきましょう。

 

探究先は、自分自身です。

 

 

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小出遥子 (こいで ようこ)
>>プロフィールを読む 1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。 いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。http://temple-web.net/