大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(5/5)

大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(5/5)

 

大峯顕さんへの「さとり」インタビュー、全5回中の5回目、最終回です!

 

私たちは生まれてもいない。だから死ぬこともない。いまここで、間違いなく「ほんとうのいのち」を生きている―― 珠玉のメッセージ、最後まで、どうかじっくりとお読みくださいませ!

 

 

 

【前回までの記事はこちらです】

 

大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(1/5)

大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(2/5)

大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(3/5)

大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(4/5)

 

 

 

◆いまここで「ほんとうのいのち」を生きている

 

小出:いま、曇鸞さんの「無生の生」ということばをお聞きしましたが、日本の盤珪(ばんけい)禅師にも「不生」ということばがありますね。これも「生まれもしないし死にもしないいのち」、つまりは「ほんとうのいのち」のことを言っているのではないでしょうか。

 

大峯:そう。あれも「死なないいのち」のことを言っているね。つまり、生まれてしまった私のことではなく、生まれる前の私のことや。

 

小出:生まれる前の私。

 

大峯:生まれてしまった私から話をはじめるから死が怖い。生まれた以上、みな死ぬからです。しかし、ほんとうの私のはじめは生ではなく、まだ生まれる前の世界です。その「生まれる前」には死ぬということがない。だって、生まれなかったら死にようがないじゃないですか。生まれる前なんてもう消えましたって、みんなそう思うけれど、そんなことないじゃない。私はいったいどこからこの生に来たのでしょう? 不生というところから来たんでしょう。不生がなかったら生はないじゃないか。

 

小出:確かに。生まれる前がなければ、生そのものが存在しようがないです。

 

大峯:そうでしょう。生は不生から来たんや。不生以外のどこから来たのか。どこからも来ていないでしょう。生まれた以上、生れる前があるわけでしょう。はじめから生があったわけじゃないでしょう。生は生から来たのではなく、不生から来たのです

 

「長い生命の歴史が続いています」なんていうのは、一種のごまかしですよ。そんなのはあるムードか空想を言っているだけのことでしょう。思想を言っていないじゃないか。思想的に語るのなら、どうしても生まれる前の話をしないといけないでしょう。

 

盤珪さんがいう「生まれる前」は消えてしまった世界じゃない。この「いま」を常にあらしめている真の根源です。私たちはそこから来たわけや。だから死ぬことはない。この安心の世界を、盤珪さんは「不生の仏心」と呼んだのです

 

小出:私は、死なない。生まれもしないし、死にもしないいのちを生きている。いまここで、間違いなく、ほんとうのいのちを生きている......。

 

 

 

◆いまという時に「過去」をも見る不思議

 

小出:しかし、いまお話しいただいたような世界は、もはや、通常の時間の観念が通用するところではないですよね。過去も、現在も、おそらく未来も、なんのジャンプもなく、しかし間違いなく「いまここ」にあるっていうのは......。

 

大峯:それに関しては、やはり池田晶子さんが面白いことを書いていた。たとえば100億年前の宇宙の様子をハップル望遠鏡がとらえた映像を、我々は、いま、写真集で見られるわけでしょう。しかし、それはいったいどういうことなのか。

 

小出:ああ......。

 

大峯:100億年前に星を出発した光が、長い時間をかけて、いま、届いていると科学は説明します。そうすると、その光というのは、私が生まれる前に発せられたものだということでしょう。私はおろか、地球や人類が生まれる前に発せられた光で、それを、いま、私が見ているわけでしょう。

 

その場合、その光は望遠鏡が見ているのでしょうか? 違うでしょう。望遠鏡という科学技術の器具を使って、この私の目が見ているんでしょう。つまりこの私が見ているんでしょう。そうすると私の目っていうのは実に不思議じゃないか。いまここで、自分がまだ存在していなかった過去を見ているじゃないか。

 

小出:ほんとうだ......。

 

大峯:100億年前、まだ人類がひとりもいなかった時の星を見るのは、いまのこの私の目じゃないか。これはなんという不思議なことだろう。そうでしょう?

 

小出:100億年前も、間違いなくこのいまと。

 

大峯:うん、いまとつながっているじゃない。

 

小出:ほんとうに、一切、なんの境目もなく、まさしくこのまま、いまここに。

 

大峯:そうすると池田さんはすごいことを書いたね。こんなことを書いた人は、ほかにひとりもいなかったのではないか。僕はあの文章に教えられました。

 

小出:私も、ものすごく感動しています......。

 

 

 

◆自分のこととして話を聞かなければ救われない

 

小出:最後に、「救い」ということについて、もう少し質問させていただきたいのですが、よろしいでしょうか。

 

大峯:構いませんよ。

 

小出:さきほど、もともと仏だったものが凍って凡夫になっている、というお話をお伺いしました。私たちみんな、もともとは仏だった。それは間違いがないこと。だけれど、そこに自覚がなければ、自分が凍っていたということに気づかなければ、結局、救いにはならないですよね?

 

大峯:ならないですね。

 

小出:究極的にはみんな仏なんだって、まあ、言ってしまえば言ってしまえるけれども。

 

大峯:それだけを言ってみてもだめだね。救いにはならない。だから中国の善導(ぜんどう)さんはこんな風に言っていますよ。私は絶対に助からない凡夫だという、その絶望の自覚を抜きにしたところに救いはないんだ、と。この自覚を「機の深心」というんですけれど、それを抜きにしたら、すべてが阿弥陀さまに救われるという「法の深心」は、ほんとうには生まれないんだと。

 

死ねば仏だなんて、口先で言っているだけのことでしょう。それだけではなにを言ったことにもならない。「みんな仏」「死んだらみんな仏」だって言うと、聞いている方も「そうだそうだ」って頷くけれどね(笑) それじゃなんの救いにもなりません。

 

小出:その事実は、まさに、この自分が身をもって受けなくてはいけないことなんですよね。この自分が溶けなければ救いにはならない。溶けないうちは、やっぱり、遠いものを拝むことになってしまいます。おとぎ話になってしまいます。

 

大峯:そうですよ。自分自身がそれを聞かなきゃだめなんだ

 

小出:自分のこととしてとらえないと意味はない。

 

大峯:自分のこととして、ほんとうに私は助からん、どうしようもない凡夫だ、ということを知ったことが、そのまま助かるということを知ったことなんだね

 

 

 

◆追いかけられてつかまえられる

 

小出:でも、これもまた、通常の理屈では、決して理解できないことですよね。

 

大峯:うん。これはふつうの論理ではわからない。そのあたりのことを、西田幾多郎先生は「逆対応」と言ったんだね。仏と人間とは対応できない。面と面とは向かい合えない関係にあるんだ、と。

 

小出:向かい合えない。

 

大峯:人間の方が逃げていくからね。だから仏の方がひっくり返るわけです。親鸞さんは阿弥陀仏による衆生の「摂取不捨」のはたらきについて「逃ぐるを追わえ取るなり」という風に註釈しています。衆生は仏に向かっているのではなく、いつも仏から逃げ回っているわけです。仏に追いかけられて、つかまえられるのが我々です。

 

小出:私たちは、つかまえられる側なんですね。

 

大峯:我々の方から仏に向かっていくことはできない。どこまでも逃げていく。それで、仏の方が逃がさんぞ、と。追いかけてつかまえる。それが「逆対応」という関係です。「悪人正機」と言われているのも、そういう関係なんだね。

 

小出:そうなると、もう、ぜったいに逃れられないですよね。逃さないぞ、と言って、仏さまの方から来てくださるんだから。

 

 

 

◆人間は普遍的なことばによって救われる

 

大峯:いま、こういう話ができるのも、追いかけてつかまえられている証拠なんですよ。私の方から「なるほど、そうだ」という風にはいかない。仏につかまえられてはじめてわかるんです。

 

小出:大峯さんは完全に「つかまえられた者」としてお話しなさっていますね。ご著書の中でも、どういうわけかこの口が動いてこういう話が出てくるんだ、って語っておられましたが。

 

大峯:そうですよ。僕は、この頃、法話中、時計を見ていても時間を見ていないことがある(笑) 話の中に入っちゃったら、いまの意識がなくなるのかね。

 

小出:意識がなくなる。つまり「私が」っていうのが、そのときは、もう、消えちゃうのでしょうね。

 

大峯:うん、そのときは消えているんだね。また「私」は出てくるんだけれど、そのときは、話すことになり切っているんだね。

 

小出:縁の中で起きてくるものに、そのまま任せてお話をされている、と。

 

大峯:そういうことが時々あります。若い頃はそんなことなかったけど。80歳超えたら、やっぱりこれ、させてもらえているのではないか、と。僕個人が思いついてしゃべっているわけじゃなく、仏さまに「そう言え」と言われているみたい

 

小出:そうですか。

 

大峯:こういうことを、人生の終わりに、真実のことをしゃべるようにさせてくれているに違いない。嘘を言うような仕事をせんでもええように、やっぱり阿弥陀さまがしてくれていると、最近思うんですよ。それが不思議です。だから、お説教するのになんの準備もいりません。一枚の紙もなしに何時間でも話せます。

 

小出:大峯さんのことばは、もう、完全に、大海の方から来ていると感じますね。そのときの縁のまま、口が動いて、声になって......。

 

大峯:いつもそういうわけにはいかんけれどね。でも、聞いてくれる人たちには、「大峯さんの話は聞きやすい」って言われたりします。

 

小出:大峯さんのお話はほんとうのことだけだから。嘘がないから。

 

大峯:中身は難しいことを言っているんだけれどね。常識じゃわからんことでしょう。けれど、そんな話を、「聞きやすい、疲れない」と言って、みなさんが聞いてくださるのは、ありがたいことだと思いますね。

 

小出:もはや、大峯さん個人がお話しになっているわけじゃないですものね。そのまま仏さまの声になっているわけですものね。

 

大峯:だから僕はよく言うんですよ。お説教を人間がしていると思っておったら、仏教を聞いていることにはなりませんよ、と。個人としての人間が言っていることに感心しておっても、極楽には行けませんよ、と(笑)

 

小出:私なんか、今日、大峯さんのおことばに深く感心してばかりでしたけれど(笑)

 

大峯:僕のことばは、僕自身が作ったものじゃない。どんなにユニークで個性的なことばを聞いておったって助かりませんよ。人間は普遍的なことばによって救われるんだと思います

 

小出:大峯さんの声を通して、普遍的なことば、つまり仏さまのことばをお聞きし続けた数時間でした。いつまでもお聞きしていたいような、貴重で素敵なお話ばかりで......。生涯の宝物です。本日はほんとうにありがとうございました。




2016年4月13日 専立寺にて


聞き手:小出遥子 / 撮影:佐藤圭祐

 

 

 

==================================================================

 

大峯顕(おおみね・あきら)

 

1929年奈良県生まれ。

1959年京都大学大学院文学研究科博士課程修了。

1971-72年文部省在外研究員としてハイデルベルク大学留学。

大阪大学教授、龍谷大学教授、浄土真宗教学研究所長などを経て、現在は大阪大学名誉教授。

専立寺前住職。

俳人。毎日俳壇選者。

著書に『親鸞のコスモロジー』(法蔵館)、『宗教の授業』(法蔵館)、『君自身に還れ-知と信を巡る対話』(池田晶子との共著、本願寺出版)、『命ひとつ-よく生きるヒント』(小学館)など多数。

 

==================================================================

 




小出遥子 (こいで ようこ)
>>プロフィールを読む 1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。 いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。http://temple-web.net/