大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(4/5)

大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(4/5)

 


大峯顕さんへの「さとり」インタビュー、全5回中の4回目です!

                                                                                 

煩悩が煩悩のままで問題にならなくなる境地がある......。いよいよ大乗仏教の極致のお話です! 「ほんとうの救い」とはなにか......。大きなヒントとなるようなことばがいっぱいですよ。お楽しみくださいませ。

 

 

 

【前回までの記事はこちらです】

 

大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(1/5)

大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(2/5)

大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(3/5)

 

 

 

◆煩悩を疑わなくなると慈悲に包まれる

 

小出:「どうして氷として生まれなくちゃいけなかったんだろう」という問いはどうでしょうか?

 

大峯:それは問いじゃなくて疑いですね。我々はなんで苦しむのか、と。欲が深いからなのか、と。

 

小出:ふつうはそう考えてしまいますよね。欲が苦しみの原因なんだって。

 

大峯:そうじゃなくて、欲にいつも疑いがくっついているからでしょう。疑いの心が苦しみのもとになっているんだね

 

小出:疑いの心、ですか。

 

大峯:うん。欲があること、つまり煩悩自体は悪ではないのですが、そこに煩悩に対する疑いが共存しているんです。それが凡夫の苦しみの真の原因ですよ。つまり煩悩を腹の底から認めていないということですよ。どこかはからいがあるんだ。中途半端になってしまっている。しかしほんとうの悪の自覚は、その疑いがないところまで行くんだね。

 

私は罪悪深重の凡夫だ、どうしたって仏になれない、底の底まで罪悪の凡夫だ、ということの自覚。そこには疑いがないよ。煩悩の底まで行ったら、疑いがなくなってしまうんだ

 

よく口先だけで「私はほんとうに煩悩の凡夫です」なんて言うけれど、どこかまだそのことに疑いがあるんだ。本気でそう思っていない。だからいつまで経っても煩悩がとれないのね。慈悲に包まれないんです。

 

小出:疑いのないところまで行き切ったら、慈悲に包まれる?

 

大峯:そうですよ。親鸞さんも『歎異抄』でそう言っているでしょう。自分はお浄土への道と思って南無阿弥陀仏をしていない。お浄土への道だと思ってとなえる南無阿弥陀仏はまだどこか疑いのある念仏だ。お念仏したら果たしてお浄土に行くのかどうか、私は知らん。あるいは念仏は地獄へ行く道であるのか、それも知らん。どちらも私はなにも知らん。ただ、「念仏せよ」と教えてくれた法然上人の教えを少しも疑っていないだけだ。だからどちらになってももともとだ、と。ここには一切の疑いがありません。それが親鸞という人ですよ。

 

小出:すごい迫力です......。

 

大峯:だから親鸞という人は自分を捨てたんやね。「罪悪深重の凡夫」っていうのは、自分を捨てたということや。そこではじめて阿弥陀さまの慈悲に包まれる

 

 

 

◆さとった凡夫とそうでない凡夫がいる?

 

大峯:しかし、ここもまた間違われやすいところでね。浄土真宗の中には、自己弁護するために、よく、「捨てられないのが凡夫というものです」という風に言う人がいます。

 

小出:言い訳として使っちゃうんですね(笑)

 

大峯:「自分は凡夫だからとてもそんなことはできません」って言うんですよ。しかし、自分が凡夫だということは、本来、阿弥陀さまに知らされてはじめてわかることなんですよ。自分の方から納得することでは決してない。

 

小出:すると、ほんとうの意味での凡夫の自覚を得た人は、つまりは「さとり」を得た人だということですね。

 

大峯:そう言ってもいいね。仏の慈悲に包まれた人、ということやからね。浅原才市(さいち)という妙好人はこう言っている。凡夫と言っても二種類あると。迷いが迷いにおいてある凡夫と、迷いがさとりにおいてある凡夫と

 

小出:まったく印象が違いますね。後者からは圧倒的な安らかさが感じられます。

 

大峯:さとりの上にある迷い。これがほんとうの迷いというか、浄土真宗の言う迷いだと。ふつうの人の迷いはただの迷い、自分が思っているだけの迷いです。しかし、迷いがさとりにおいてあるというのは、迷いはあるんだけれども、それは必ず如来によって転ぜられる。だから安心していられるんです

 

小出:迷いが迷いのままで問題にならない。迷いは必ず如来によって転ぜられるから。これは、ほんとうに、ほんとうに、ほんっとうに、究極の救いですよね。

 

大峯:まさしく大乗仏教の極致ですね。「生死即涅槃」とか、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という考え方は、キリスト教にはないようです。キリスト教では煩悩とか悪とかいうのは、いつも神の敵とみなされるからね。

 

小出:それは、随分しんどそうな......。

 

大峯:しんどい。「敵と戦え」なんて、そもそもできないことをやれと言うんだから。それで戦いを徹底しなかった者は地獄へ行くと言うんだから。

 

小出:厳しいですね......。

 

 

 

◆煩悩の氷は溶けはじめたらどんどん溶ける

 

小出:敵というのを固定化してしまうこと自体厳しいことですし、なにかを敵とみなして戦うっていうのも、実のところ、自分の力だけではどうしようもないところはありますよね。逆に誰かを救おうと思っても、自分の力だけではどうしようもできないというのがほんとうだと思うんですけれど。

 

大峯:うん。個人にはそういう力はないでしょう。親鸞さんも言っている。この世にどれだけ可哀想なことが起きていても、自分の慈悲はどうすることもできない、と。だけど自分が仏になったら思う通りに助けることができるんだ、と。

 

小出:親鸞さんはよく海のメタファーをお使いになりますが、やっぱり人間が人間である限り、人間としてのいのちがある限り、一片の波であることをやめることはできないんですよね。波というのは、全体のダイナミズム、海そのもののうねりの中から起きてくるものであって、決して自分で選べるものではない。たったひとつの行動すら。たったひとつのことばすら選べない。

 

大峯:そうです。だから一片の波が他の波を救うわけにはいかないんだね。

 

小出:私自身、それは深く実感するところです。波は、波を救えないです。

 

大峯:救えないよね。波がどんなにがんばったところで、一片の波すら救えないですよ。

 

小出:そうなってくると、海そのものに戻るというところにしか「救い」はないのではないでしょうか。

 

大峯:それが真理だね。煩悩が去るところはどこにもないんだ。去っていくところが別にあるように思うけれど、そうじゃない。煩悩は本願の海へ溶けるだけだ

 

小出:本願の海へ溶ける......。なるほど。こういった話を頭で理解するだけでも、ほんの少し、氷は溶ける気はしますね。

 

大峯:煩悩は排除されるのではなく、そっくり仏心の中へ溶けるんです。そして一度溶けはじめるとどんどん溶けるんだ

 

小出:溶けはじめる、ということが大事なんですね。

 

大峯:そう、それが大事なんです。それが信心の世界ですよ。いままで凍りついておった心が、信心を獲得すれば、もう溶けはじめるわけよ。そして最後には、つまりこの世のいのちが終わるときには、ぜんぶ溶けてしまっている。

 

小出:流氷がぜんぶ溶けて、海になってしまうんですね。そうして仏になってしまう。

 

大峯:そうそう。

 

 

 

◆煩悩即菩提 我を捨てたところに救いはある

 

大峯:曇鸞(どんらん)さんも、よく、そういうたとえを出しています。

 

小出:浄土真宗七高僧・第三祖、曇鸞和尚ですね。

 

大峯:曇鸞さんは実にダイナミックな思想を展開された方ですよ。「無生の生」って知っていますか? あれも面白い。

 

小出:無生の生、ですか。

 

大峯:極楽に生まれるときは、母の胎内から「オギャー」と生まれるわけじゃない。胎生だったら、必ず死ななきゃならんでしょう。

 

小出:それだと、結局また、限りのあるいのちを生きることになってしまいますものね。

 

大峯:極楽にはそういう意味で「生まれる」ということがない。人間が一般に言う「生まれる」ということじゃない生が往生です。もはや死ぬことはないから、それを「無生の生」という

 

小出:文字通り、限りないいのちがそこにはある、と。面白いですねえ。

 

大峯:曇鸞さんという人はもともと煩悩の強い人だったようです。最初、仙人のところに不死の術を学びに行ったんです。「仏教を研究するには、なんと言っても長生きしなきゃならん」と思って、実際に中国の江南の方まで行った。そこで陶弘景(とうこうけい)という仙人に弟子入りして、仙術を身に付けて、経巻までもらった。それで華北に帰る旅の途中、洛陽の町で、菩提流支(ぼだいるし)という僧に会って、こんな風に言われた。「長生きの道なんてつまらない。この『観無量寿経』には"死なないいのち"のことが書いてあるぞ」と。そこで曇鸞さんは『観無量寿経』を読んで、仙経を焼き捨て、二度とそれを手にすることはなかった。そうして本格的に浄土教に帰依したんです。51歳の頃だと言われています。

 

小出:「死なないいのち」を体得される前に、「この世のいのち」、つまり「いつか死ぬいのち」をできるだけ延ばす、ということを本気でされたんですね。思っているだけじゃなくて、本気でやった。すごいなあ......。

 

大峯:うん、本気だったんだね。だからこそ、「煩悩が菩提に転ずる」というダイナミックな生命の思想を持てたんでしょう。ふつうは「煩悩を断ち切って菩提を得る」という道をとるじゃない。

 

小出:それが通常の論理ですよね。

 

大峯:ところが生命世界には通常の論理なんか利かない。生命は転ずるんだと。ひっくり返るんだと。煩悩のまんまで菩提なんだと。曇鸞さんも我を捨てた人です。我を捨てたところに救いはあるという、生命の論理を説いたものが、彼の『往生論集』という書物です。

 

小出:我を捨てきったところに、煩悩が煩悩のままで問題にならなくなる境地がある......。それこそがほんとうの「救い」だと、私も、心の底から思います。だって人間である限り、煩悩はぜったいについて回りますからね。縁によって、ほんとうにいくらでも出てきてしまう。煩悩を消し去るなんて不可能ですよ。

 

大峯:そうです。煩悩の問題を見て見ぬふりしているかぎり、どんなに綺麗ごとを言ってもだめですね。真理じゃない。その問題を正面から直視しないとね。

 

 

 

5回目に続きます!)                 

 

 

 

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大峯顕(おおみね・あきら)

 

1929年奈良県生まれ。

1959年京都大学大学院文学研究科博士課程修了。

1971-72年文部省在外研究員としてハイデルベルク大学留学。

大阪大学教授、龍谷大学教授、浄土真宗教学研究所長などを経て、現在は大阪大学名誉教授。

専立寺前住職。

俳人。毎日俳壇選者。

著書に『親鸞のコスモロジー』(法蔵館)、『宗教の授業』(法蔵館)、『君自身に還れ-知と信を巡る対話』(池田晶子との共著、本願寺出版)、『命ひとつ-よく生きるヒント』(小学館)など多数。

 

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小出遥子 (こいで ようこ)
>>プロフィールを読む 1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。 いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。http://temple-web.net/