大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(3/5)

大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(3/5)


 

大峯顕さんへの「さとり」インタビュー、全5回中の3回目です!

 

先生ご自身の「信心獲得の瞬間」から、「他力」のほんとうの意味まで......。今回も、とにかく濃密です。どうぞお楽しみくださいませ!

 

 

 

【前回までの記事はこちらです】

 

大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(1/5)

大峯顕さんインタビュー/「ほんとうのいのち」に従って生きること(2/5)

 

 

 

◆「南無阿弥陀仏」は呼びかけへの返答

 

大峯:しかしこういった問いに襲われるのは、当たり前のことなんだよな。なんのためにここに来たんだろう。なんのために生まれてきたんだろう。ここはどこだろう。いま生きているのはいったいどういうことなんだろう。そして死ぬとはどういうことだろう、って。この当たり前の問いにいっぺんも襲われないのは、人間としてどこかおかしいんじゃないかと、僕は思うね。

 

だってこれは人生そのものの問いだもの。偶然の問いじゃなくて、問わざるを得ない問い。人生そのものがはじめから持っている問いですよ。個人がこさえあげた問いじゃないんだ。個人はそれにつかまるわけです

 

小出:つかまる......。どうしようもなく、向こうからやってくるような問いなんですね。

 

大峯:向こうからやってくるんだね。人間はそれにつかまえられるんだ。

 

僕は60歳のときに内臓の手術を受けたんです。胆嚢ポリープができて、その中に癌が入っているかもわからなかった。だから念のため大学病院で開腹手術をしたの。結局、癌ではなかったんだけれどもね。

 

それで、集中治療室で執刀医の先生が「大峯さん、手術は無事に終わりました」と呼びかけたらしい。そのときに、僕は「はい」って返事をしたんだね。自分が「はい」っていう返事をしたことを覚えているの。

 

小出:それは、まだ意識が戻っていない段階で?

 

大峯:そう。意識は自然には戻らないらしいんです。高度な人工状態で麻酔をやっているから、外から刺激を与えないと目は覚めないのね。それで、先生が、「大峯さん。わかりますか? 手術はもう済みましたよ。わかったら返事してください」って僕に呼びかけていたらしい。ところがその声は僕には聞こえなかった。しかし、僕は「はい」って答えた。その自分の声だけは明確に意識していたんです。

 

僕は、あの経験で、南無阿弥陀仏を称えるということはこういうことか、と。阿弥陀さまの呼びかけは意識上では聞こえない。でもほんとうは聞いているんだね。無意識で聞いている。だから「はい」と返事ができたんだと後でわかった。だって無意識でも聞いていなかったから「はい」とは言えないはずでしょう

 

小出:ああ......。「はい」っていうのは、そのまま、呼びかけへの返答ですものね。なにも呼びかけられていないのに、「はい」って言うことはないです。

 

大峯:そう、ないんです。この経験を後から反省してみて、ああ、そうか、浄土真宗が長い間、伝統的に何百年も教えてきた真理とはこういうことだったのか、と。それが、いわば、僕の信心獲得の瞬間でした。

 

小出:貴重なお話です。

 

 

 

◆阿弥陀さまの声が聞こえたことが信じたこと

 

大峯:「帰命とは本願招喚の勅命なり」という親鸞さんのことばがあります。ああ、そうか、こういうことだったのか、と。帰命というのは、阿弥陀さまに「はい」と応えることでしょう。本願というのは「目を覚ましなさい」と呼びかけ続けている阿弥陀さまの声ですよ

 

小出:私たち、ほんとうはずっと呼びかけられているんですね......。

 

大峯:だから、「目を覚ましなさい」ということばがほんとうに聞こえたら、目を覚ますんだ

 

小出:聞こえたら、その瞬間に目が覚めてしまうんですね。

 

大峯:うん。教学者はあれこれ難しい議論をするけれども、実際に聞こえたら、小難しい理屈抜きでいっぺんにわかる。

 

小出:それこそawarenessですね。気づき。

 

大峯:「気づき」なのよ。「信じる」というような間延びした体験じゃないね

 

小出:距離がない。

 

大峯:そう、向こうから呼んでいるということは、そのままこちらが応えているということや。阿弥陀さまと自分との間にまったく距離がない。そこに人間の理屈はいらない。

 

小出:「信じよう」っていうのは、頭のはたらきなのかもしれないですね。こういうことなのかな、それともこういうことなのかな、って理屈で解釈して、対象を一生懸命信じようとする。でも、そこにはまだ力みというか、はからいがある気がしますね。それが距離を作り出してしまう。

 

大峯:そうだねえ。「聞思して遅慮することなかれ」ということを親鸞さんは言いますからね。「信」の瞬間は一瞬だからね。考える暇もない。阿弥陀さまの声が聞こえたことがそれを信じたことだ

 

小出:考えるまでもなく、すでに信じている、と。それはもう、圧倒的な体験ですよね。

 

 

 

◆宇宙から「いのち」を与えられているということ

 

大峯:これはなにも特殊な体験なんかじゃないんだよ。難しいことじゃない。

 

小出:阿弥陀さまの声を聞くのは、特殊な体験なんかじゃない?

 

大峯:そう。たとえばね、あなたは毎日息をしているでしょう? それはあなたの意志でやっていますか? あなたの意志で、あなたの肺は動いていますか?

 

小出:ああ、ほんとうだ......。

 

大峯:あなた自身の肺に対して、心臓に対して、腸に対して、あなたの意志がなんらかの影響を与えていますか?

 

小出:なにひとつ、与えていませんね。

 

大峯:与えていないでしょう。ということは、あなたの肺は、心臓は、腸は、あなたのところにあるけれど、あなたのものじゃないでしょう。言い換えると、あなたが作って自分で動かしているものじゃないでしょう。あなたにすでに与えられたものでしょう。宇宙から与えられたものでしょう

 

小出:すでに、宇宙から......。

 

大峯:「他力」ってそういうことを言っているのよ。それが仏教じゃないか。阿弥陀さまじゃないか。

 

小出:いまここの、この鼓動が、呼吸が、腸の動きが、そのまま阿弥陀さまからの呼びかけなんですね。

 

大峯:そうよ。 だから、「さとり」ということばを使うならそこで使えばいいんです。自分の内臓は自分の意志で動いていないということがほんとうにわかった。そのことが「さとり」ですよ。それでいいじゃない(笑) 「なかなかさとれない」なんて言って苦しむ必要は少しもないじゃないの。

 

小出:ほんとうですね。このお話を聞いて楽になる方、たくさんいらっしゃるんじゃないかな。あまりにも当たり前すぎて見過ごしてきたけれど、私たち、すでに絶対的な他力の中で生かされていたんだって。阿弥陀さまの慈悲の中にあったんだって。

 

 

 

◆空が慈悲としてあらわれたとき仏になる

 

小出:いまのお話の流れでいくと、つまり、阿弥陀さまというのは、キリスト教の神のように、固定化された、人格的な存在ではない、ということでしょうか。

 

大峯:そこが少し表現が難しくなるところでね。阿弥陀如来の人格と、キリスト教の神の人格というのは、確かに違うものなんですよ。でも、阿弥陀如来は人格的なものではないと言えるけれども、しかし、単に非人格的なものだとも言い切れない。西谷啓治先生は「非人格的人格」とか「人格的非人格」とかいう表現を使っていらしたけれど、阿弥陀如来というのはそういう言い方をするほかない存在なんですね。

 

阿弥陀如来の人格の背景には「空(くう)」というものがあるんです。つまり人間の心や物質みたいな実体がないんですよ。その空が慈悲としてあらわれるときに、人格のかたちをとる

 

小出:空が慈悲としてあらわれる......。

 

大峯:空はもともと実体的なかたちはなにも持たないでしょう。でも、それはただの空っぽということじゃない。鈴木大拙先生は「動く」ということばをよく使われます。空が動いたら慈悲になる、阿弥陀如来になるんだ、と。

 

小出:「動く」というのは、具体的に言うと?

 

大峯:現実の苦しむ衆生の心にはたらきかけるということです。

 

小出:現実の世界に、なんらかのかたちをもってあらわれる、ということでしょうか。

 

大峯:空の世界は現実の形の世界と別にそれだけでじっとしていないんですよ。「衆生の世界は大変だなあ、可哀想だなあ」という風に上からそれを眺めているのじゃなくて、自分の方からその中に飛び込んでくるんだ。衆生の苦しみを自分の苦しみとするのです。

 

小出:飛び込んでくる。それが慈悲ということなんですね......。

 

 

 

◆仏教では悪を「あり方」としてとらえる

 

大峯:なぜ平穏な空の世界から、衆生の苦しみの世界に飛び込んで共に苦しむのか、と。多くの人はそんな疑問を持つんだけれど、その「なぜ」ということはないわけです。慈悲は「なぜ」ということがない世界なんだ

 

小出:なぜ、がない。

 

大峯:慈悲心の発動には人間が考えるような理由はなにひとつない。そこがキリスト教の神の愛とはだいぶ違うところだね。

 

小出:キリスト教との比較は興味深いですね。

 

大峯:仏教とキリスト教とが違うところはそこでしょうか。たとえば、キリスト教では、神に反対する悪魔というものが実在のものとして見られています。

 

小出:悪魔が実在してしまうのですか? 観念ではなく?

 

大峯:観念じゃない。

 

小出:それは驚きました。そうなんですね......。たとえば、仏教だと、六道輪廻などで、修羅とか餓鬼とかを説きますよね。あれは悪的な存在として描かれていますけれど、でもそれすら個体としてあるものじゃなくて、人間のあり方の可能性として説いているだけであって......。

 

大峯:そう、仏教では一般に「悪」というものをそういう風に説きます。しかし、浄土真宗では「悪人成仏」という思想の中に従来の仏教を超えた立場が見られます。

 

小出:従来の仏教を超えた立場、ですか。

 

 

 

◆煩悩の氷が溶けると仏になる

 

大峯:親鸞さんが和讃で使う水と氷のたとえでは、悪というものは凍った心の状態のことを言うんです。煩悩は凍りついた水の状態。だから、我々、みんな凍っているわけです。でも、氷は溶けるとかならず水になるでしょう。つまり仏になる。

 

小出:仏の慈悲、仏の声が聞こえたときに。

 

大峯:そう、仏さまの声が聞こえたら、自我の枠の中で凍りついておった私が溶けるんだね。そして「はい」と返事をするんだね。「はい」というのは「溶けました」ということよ。

 

氷は自分からは溶けようとしない。でも、呼びかける慈悲の声が溶かしてくれるんだ。そうしたら、仏と同じものになるんだね

 

小出:同じものに......。氷も、もともとは仏だったから。

 

大峯:そう、氷というのは、もともと仏が凍ったものなんだ。人間の世界へ降りたら、仏でも凍らなきゃならんでしょう? 煩悩具足の人間の世界がわかるということは、氷と同じところにまで仏が入ってくるということですよ。

 

でも、入ってくるものは氷じゃなくて光だ。あるいは、慈悲だ。仏は氷を溶かしたい一心でしょう。罪悪深重の衆生を自分と同じものにしたいんでしょう。だから光となって、慈悲となって入ってくるんだ。

 

しかし、そこに人間が考えるような理由はないんだね。分別や計算なしに、ただ入ってくるものを仏という、と。こういう風に言ったらいい。

 

なんで清浄な仏さまが、悪いことばっかり、嘘ばっかり言っているような罪悪深重の凡夫の世界の中に入ってくるのかと、誰でも当然のように問うでしょう? でもそういう問い自体が凍りついているんだな。

 

小出:氷からの問いですね。

 

大峯:そう、氷が問うているだけや。それはまだほんとうの問いじゃない。ほんとうの問いはね、やっぱり「溶かしてもらいたい」という気持ちとひとつなんですよ

 

 

 

4回目に続きます!)

 

 

 

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大峯顕(おおみね・あきら)

 

1929年奈良県生まれ。

1959年京都大学大学院文学研究科博士課程修了。

1971-72年文部省在外研究員としてハイデルベルク大学留学。

大阪大学教授、龍谷大学教授、浄土真宗教学研究所長などを経て、現在は大阪大学名誉教授。

専立寺前住職。

俳人。毎日俳壇選者。

著書に『親鸞のコスモロジー』(法蔵館)、『宗教の授業』(法蔵館)、『君自身に還れ-知と信を巡る対話』(池田晶子との共著、本願寺出版)、『命ひとつ-よく生きるヒント』(小学館)など多数。

 

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小出遥子 (こいで ようこ)
>>プロフィールを読む 1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。 いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。http://temple-web.net/