藤田一照さんインタビュー/「つながり」を楽しんで生きること(1/5)

藤田一照さんインタビュー/「つながり」を楽しんで生きること(1/5)

 

 

「さとり」をテーマとしたお坊さんインタビュー。記念すべき初回にご登場いただくのは、曹洞宗の藤田一照さんです。

 

藤田さんのご著書を拝読したり、縁あって今年の4月からは仏教塾(仏教的人生学科・一照研究室)のお手伝いをさせていただいたりして、私はとにかく感動したのです。と言うのも、ああ、そっか、仏教って、こういうものだったんだ! って、そこであらためて出会い直せた気がしたから。

 

藤田さんは、いつも、仏教の"ど真ん中"にあるものを、バシッとキレよく、しかしあくまでもやわらかくユーモアたっぷりに、ありとあらゆる方面からの豊富な知識を交えて、私たちにわかりやすくお伝えくださいます。「さとり」について語っていただきたいお坊さんとして、真っ先に私の頭に浮かんだのが、まさしくこの方だったのでした。

 

目からウロコの「ほんとう」のお話が満載の藤田一照さんロングインタビュー、本日から5日連続で掲載いたします! どうぞ最後までお楽しみくださいませ。

 

 

 

 

 

日常の中でなにをしようが、すべて仏法の中に入っている

 

小出: 藤田さんは、仏教をどこか遠くのものとして説かないですよね。あくまで日常を生きる智慧として説いてくださる。それが、すごくありがたいなあ、って。藤田さんに出会って、仏教のど真ん中って......私が求めていたのって、本来そういうものだったじゃん! って、あらためて心に置けた感じがするんですよ。

 

藤田:いきなり変な言い方かもしれないけど、仏法の方が日常より大きいからね。ほら、集合論なんかでよく使うベン図ってあるでしょ? あれで言えば、日常の中でなにをしようが、すべて仏法の中に入っている、みたいなイメージなんだけどね。仏法は日常をみんな含んでいる。僕の中では。あるいはまったく重なっている、でもいいんだけど。

 

だから、なにか特別な、日常と違うことをやらないといけないと仏教にならない、みたいな一般的なイメージがあるけれど、禅の場合はそうではない。仏教っていうのは、心のあり方の問題だからね。心の向いている方向というかね。その方向性の中でやっていれば、日常だろうがなんだろうが、それは仏教になりますよ。

 

生きる照準の合わせ方っていうのかな。それがきちんと仏教にかなっていたら、その人の日常はぜんぶ、仏教になっているって言ってもいいと思いますけどね。その人のやること、言うこと、考えることそのものがみんな仏教で、その人と仏教が分かれていない。

 

どこかに到達しないと仏教じゃないとか、仏教と仏教じゃないものがあるとかって、どうなんだろうね。どうして日常と仏教と、ふたつのカテゴリーになってしまうのか、そういう考え方が生まれてしまうのか、僕には疑問ですけれどね。

 

小出:やっぱり、一般的には、どうしても、仏教は非日常のものだっていうイメージがあるんですよね。私自身そう思っていましたし。私も、以前は、それこそ、仏教を逃げ場所にしていたんです。日常がうまくいかない、どうしよう。そうだ、お寺に行こう! お寺に隠れよう! みたいな(笑) お寺に行けば、その場所にいれば、日常から守られる、という考えで。

 

まあ、私がお邪魔していたのは観光寺院ばかりでしたけど、でも、仏像と向き合っていたりとか、お庭を見てぼうっとしていたりする時間は、もちろん、なにかここにほんとうのことがあるな、っていう直観があったからこそ、そういったところに足しげく通っていたわけですけれど、やっぱり、あくまで「非日常」っていう感覚でそこにいたんですよね。

 

 

 

「非日常の仏教」では済まなくなる段階がくる

 

藤田:とっかかりはそれでいいと思うけどね。まあ、それしかないだろうね。仏教的なエレメントがなにもないところから始めるとすると、蜘蛛の糸じゃないけれど、日常の中にいたら、ある時すーっと糸みたいなのがおりてきて、あ、この上になにかあるかもしれない、っていう。でも、それでは済まなくなる段階っていうか、時期が来るっていうかね。

 

小出:まさに、「済まなくなる」んでしょうね。

 

藤田:だっておかしくなっちゃうよ。自分の中に仏教している時としていない時っていうふたつの部屋みたいなのがあって、仏教という札のかかっている部屋に入っている時だけ仏教で、そこから出たら違うっていうのは、居心地悪いでしょう? 仏教という部屋にいる時に居心地がいいと思うんだったら、なんでその居心地の良さを後にして、そこを去らなきゃいけないのか。別の部屋に入っても同じ状態でいてどこがいけないのか、っていうこともあるし、それから、部屋が変わっても同じ居心地良さを味わっていたいっていう、純粋な願いというか、そういうのが出てきますよね。

 

だんだんそれを広げていけば、まあ日本家屋で言えば、ふすまをどんどん取っ払っていけば、なんだ、結局、仕切りなんかどこにもなかったじゃん、っていうことに気づくっていうかね。自分があると思っていただけだったんだ、って。仕切りをひとたび外してしまえば、結局、ぜんぶ「ここ」みたいな。素通しっていうのかね。仕切りを少しずつ外していくと、最後には、どこまで行ってもおんなじ空気があるっていう。そういうイメージですけれどね。

 

 

 

仏教のど真ん中=「つながり」を生きること

 

小出:ある方向性を持っていれば、日常はそのまま仏教になる。それで、その「方向性」っていうのは一体どんなものなのかっていうと、いまの、仕切りを取っ払っていくお話にも関係してくると思うのですが、「つながり」っていうのが、ひとつ、キーワードとして挙げられるのかな、って。

 

藤田:ああ、はい。

 

小出:「仏道を歩むには、まずはつながりのビジョンを持つことから」って、藤田さん、いろんなところでおっしゃいますよね。つながりっていうのは、つまり、「主」と「客」とが分断されていない世界。「私」と「私以外」、もしくは、「私」と「世界」とが分かれていない世界。そういう世界こそが「ほんとう」なんだっていう。そのビジョンを、まずは持たなきゃいけないって。その上で、ビジョンを具現化していくこと。実際につながりを生きていくこと。それこそが仏教のど真ん中、つまり「さとり」を生きることなんじゃないかな、って、藤田さんのお話をお伺いして思ったのですが。

 

藤田:つながりね。うん、そうですね。

 

小出:「此岸」のビジョンと「彼岸」のビジョンという言い方もよく用いられますよね。それぞれ「分離・分断」と「つながり」をあらわすメタファーとして。

 

藤田:此岸と彼岸。そうね。そこを渡るイカダっていうのが、教義だったり、修行大系だったりするわけですよね。これ、やっぱり、一番素朴に、シンプルに仏教というものをあらわすメタファーなんじゃないかと思いますよ。

 

普段、我々がいるのは此岸だけど、実はもうひとつ岸がある。その岸はこんな感じだよ、って。で、渡る方法はこれだよ、って、そういう風に言っているのが仏教ですよね。

 

まあ、修行がさらに進んで、局面が変わると、実は此岸も彼岸も離れていない、っていう気づきが訪れて、メタファー自体が成り立たなくなるんだけれど。とりあえず、違いをはっきり言うには、良いメタファーですよね。

 

 

 

本来的なつながりを再発見していく営み=「行」

 

小出:そのメタファーを使せていただくなら、「つながり」っていう言葉ひとつ取っても、此岸の方にいる私たちは、どうしても、バラバラになっているものを無理やりくっつける、みたいなイメージを持ってしまうんですよね。でも、彼岸の方にいる人たちはそうじゃなくて、オリジナルな、本来的なつながりを見ている。ひとつらなりの世界、「主」と「客」、「私」と「私以外」に分断されていない世界を見ているというか。

 

藤田:そうだね。本来的なつながりを再発見していく、っていうのかな。それが彼岸のあり方ですよね。本来、ひとつらなりになっているところに、我々の自我意識が、わざわざ区切りをつけてしまったわけですよ。それをやめようよ、って言うのが仏教だよね。でも、それを当たり前のものとして刷り込まれてきた我々には、実際にそれをやめるっていうのは、なかなか難しいことかもしれない。

 

小出:たしかに簡単ではないかもしれませんね。でも、この此岸の世界しか知らなくても、ほんとうに「世界」はこれだけなのかな? っていうような疑いがうっすらある人には、なにか届くようなものがあるのでしょう。

 

藤田:彼岸的なものに興味を持つっていうか、此岸のあり方になにかひっかかるところがある。

 

そうなったら、いままで自分が何気なく言っていたことが、分断を引き起こしているのか、つながりを回復する方向なのか。自分がやってきた仕事が分断を深めているのか、つながりを回復することに貢献しているのか、みたいな問い方で、ひとつひとつ見直していけばいいわけだよね。

 

その結果、つながりの方向に変えていきたい、という願いが自分の中からもよおしてきたら、自分の身口意の三業を、つながりの方向に向かって、できる範囲で変えていってみる。そうやって、そこでなにが起こるかを見ていく。それが仏教の「行」ですよね。

 

 

 

変えられることは変えていく努力を、変えられないことは受けいれる努力を

 

小出:そこでなにが起きるか見てみよう、っていうのが、仏教の素敵なところだなあ、と。実験的というか、やってみようよ、みたいな、おおらかなスタンスが感じられて。

 

藤田:つながりの中では、なにが起きるか、とにかくやって、それを見るしかない、っていうのがあるんだよね。いままで分断・分離のビジョンで生きてきた自分にとっては未知のことに取り組むわけだから。

 

できることとできないことっていうのは、どうしてもあるんですよ。できることももちろんあるよ。でも、あとは「人事を尽くして天命を待つ」っていうほかないようなこともあるから。なにがなんでもつながりをを引き起こそう、引き起こさなきゃ、って力んじゃうと、それこそ分断の方向になってしまうんですよ。

 

小出:Buddhist -今を生きようとする人たち-という映画の中でも、藤田さん、おっしゃっていましたよね。「変えられることは変えていく努力を、変えられないことは受けいれる努力を」って。

 

藤田:そういうのは大事なことだと思いますね。

 

 

 

つながりを生きると楽しくなってくる

 

小出:「つながりのビジョンをそのまま生きる」というところ、もう少し詳しくお聞かせいただけますか。

 

藤田:さっきも言ったけど、まずは、これ、もしかして、分離しているよりもつながっていた方がいいんじゃないかな? って思うのが最初だと思うんですよ。どうも自分のやることなすこと、みんな分離を引き起こしているようだけど、もしかしてこれは違うんじゃないかな、っていう。違和感っていうのかな。そこから、つながって生きていきたい、っていう願いが出てくるわけですよね。

 

それに基づいて、言葉にしても、行いにしても、考えにしても、すべて裏返していくと、次に見えてくるのは、ああ、なんだ、僕がわざわざがんばってつなげなくても、最初からつながっていたんじゃないか、っていうところなんですよ。本来はつながっているのに、それをつながないようにつながないように壊してきていたからしんどかったんだなって、だんだん分かってくる。つながりのリアルさっていうのが、どんどん鮮明になってくるっていうかね。

 

そうしたらもう、つなげようと努力しなくても、ごく自然につながりを楽しんで生きていけるようになっていくんですよ。僕もそんな感じで生きようとはしています。おかげさまで、まあ、楽しいですよ(笑)

 

小出:なるほど。藤田さんのお言葉に強い力があるのは、藤田さんご自身が、つながりを楽しんで生きていらっしゃるからなんですね。

 

藤田:つながっている方が楽しいもん。どうせ生きるなら、なるべく楽しくしたいじゃない?

 

小出:いいなあ。ものすごく素敵だなあ。

 

 

 

第2回目につづきます!)

 

 

 

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藤田一照(ふじた・いっしょう)

 

1954年、愛媛県生まれ。

 

灘高校から東京大学教育学部教育心理学科を経て、大学院で発達心理学を専攻。

院生時代に坐禅に出会い深く傾倒。28歳で博士課程を中退し禅道場に入山、29歳で得度。

33歳で渡米。以来17年半にわたってマサチューセッツ州ヴァレー禅堂で坐禅を指導する。

2005年に帰国し、現在、神奈川県葉山の「茅山荘」を中心に坐禅の参究、指導にあたっている。

曹洞宗国際センター所長。

 

著作に『現代坐禅講義 - 只管打坐への道』(佼成出版社)、共著に『アップデートする仏教』(幻冬舎)、『安泰寺禅僧対談』(佼成出版社)など。

訳書に『禅への鍵』(春秋社)、『禅マインド・ビギナーズ マインド2(サンガ)など。


藤田一照公式サイト http://fujitaissho.info/

 

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小出遥子 (こいで ようこ)
>>プロフィールを読む 1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。 いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。http://temple-web.net/