南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(4/4)

南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(4/4)

 

Temple vol.4での松本紹圭さんとの対話記事、いよいよ最終回です!


「ほんとうのわたし」って? 「ほんとうの自由」って? 

最後までお楽しみいただけますとさいわいです。

 

前回までの記事はこちら:

南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(1/4)

南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(2/4)

南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(3/4)

 

 

 

「沈黙の静寂」としての「ほんとうのわたし」

 

松本:そうそう。ちょうど、これ、すごく面白いなあという表現に最近出会って。僕、この日曜日に、あるお寺の法要に行ってきたんですね。そこで、まあ、僕らとそんなに変わらないぐらいの年齢の女性の先生がヨガクラスをやっていらして、お話しさせてもらったんですよ。なんでヨガを始めたんですか? とか。そうしたら、当時から、ヨガには、教室に通ったりして、まあ、ふつうに親しんでいた、と。でも、あるとき、お父さんが亡くなってしまった。それがすごくショックで、ずっととても悲しかった、と。だけど、そのときに、なにか心の奥に、もう一人......まあ、「もう一人」って言うとちょっと違うんだけど、そういう、悲しんでいる自分を冷静に観ているなにかがいるっていうことに気がついたって言うんですね。で、その方は、そのなにかに、「沈黙の静寂」って名づけたらしくて。

 

私の感情は波風立って、いろんなことがあればすぐに反応してしまうんだけど、それをじーっと変わらずに観ている、それこそグラウンドと言ってもいいのかな、「沈黙の静寂」があって、それとともに、お父さんの死というインパクトの大きな出来事ののち、一年間過ごした。だけど、一周忌を迎えて、死のショックも少し和らいでくると、「沈黙の静寂」からだんだん遠くなっていった。でも、その時点で、その方にとっては「沈黙の静寂」とともにある状態っていうのがすごく大事なものになっていたので、そことつながり続けるためにヨガを続けて、最終的にヨガの先生になってしまった、と。ああ、なるほどなあ、って。

 

小出:「沈黙の静寂」。すごくうつくしい表現ですね。......これ、言われてみれば、実は、多くの人にとって、結構身近な感覚だったりするんじゃないかな。たとえばものすごく悲しんでいたり、パニックになったりしているときとかに、そんな自分を冷静に見ているなにかがいたりしません? 幽霊とかそういうような話ではもちろんなくて、感覚的なところなんですけど。まあ、冷静に見ている自分っていうのを、この自分が想像で作り出してしまっているだけっていうこともあるとは思うけれど、でも、それをもぜんぶひっくるめて、理屈を超えたところで、もはや「自分」とも言えないなにかが、こう、ただただ観ているような感じがするとき、ないですか?

 

もう、そこはもう絶対に揺るがないところで、ただ、そこで自分の感情がぽっと浮かんで、「どうしよう!」「パニック!」ってなったりしているのを、ただただ静かに、それこそ「沈黙の静寂」そのものとして観ている......。そういうことって、たぶん、あると思うんですよ。一瞬だったり、あまりにも微細な感覚だったりして、言語化できていないだけで。

 

松本:言語化しようとすると、また、掴まえられないものではあるしね。

 

小出:そうですね、「掴まえにいく私」が出てきちゃうし。それでも、なにか、感じるときって、あると思うんですよね......。

 

松本:ほんとうは......まあよくたとえられるのは、ひとりひとりの存在っていうのは海の泡みたいなものだっていう。泡だから空気を抱え込んでいるわけですよね。それで、たいていの人は、その空気を私だと思い込んで、泡自体をふくらませようとしたり、空気をよそからとってきたり、大きさを競ったり、それを失うことを極度に恐れたりして。それはぜんぶ、泡の中の空気を私だと思っているところから始まっていることで。けれど、ほんとうは水なんだよねっていう。空気じゃなくて。本質は。

 

だから、普段はすっごく狭いところで「私はこれ!」って思っているんだけど、いざその私を手放してみれば、ぜんぶが「わたし」で満たされているっていうことなんですよね。そういう比喩って、別にこれに限らずいろいろあると思うんですけど。

 

小出:青空に対する雲だったり。海に対する波だったり。そういうたとえもありますよね。その地平からの......青空や海からの、「ほんとうのわたし」からの呼びかけが、さっきからの話につなげれば、南無阿弥陀仏であると。

 

松本:まあ、自分にとっては、そうですね。僕だって、今日はこんな話をしていますけど、放っておくと、ほんとうのところは水なはずなんだけれど、泡の中身にとらわれたりとか、人と比べちゃったりとか、日々そういうことが出てくる。でも、出てくるんだけど、昔と確実に違うのは、前はそこにあらわれてくる自分こそが自分である、と思っていたのが、まあ、相変わらず放っておくとそこにはまっちゃう自分ではあるんだけれども、ほんとうのところはそうじゃない、ほんとうの自分はそれじゃない、っていうところを知っている、ということは言えるかもしれない。

 

 

"ふるさと"を大事に、ひとりひとりが自分だけの「念仏」を

 

松本:「知る」っていうことの意味合いがちょっと変わってきたというか......。仏教なり、キリスト教なり、そういった思想を、「これがほんとうに違いない」とか、「これこそが自分の頼る、支えにすべき教えに違いない」とか、そういう風に「信じる」あり方は自分の中にはもはやなくて、あ、これは"それ"だって、そういう風に知っていくというか。でもその表現は言語や文化によってそれぞれ違うので、「知っていること」それ自体の理解を、より多くのいろんなものに触れていくことによって、自分なりに深めていくのが、いまは楽しいです。生きることの苦しさは、昔に比べて、随分、少なくなったんじゃないかなあ、と思いますね。アホな自分を、アホだなあ、と放っておけるようになりました。

 

小出:「知っている」という感覚、これは私たち全員にとって、ものすごく大切なところだと思っていて。ほんとうは、"それ"って、ひとりひとりが、最初から「知っている」ことなんですよね。一時的に忘れていたとしても。だって、さっきもお話がありましたけど、まともな宗教や思想が指していることって、結局、すべて、自分のど真ん中、つまり、「ほんとうの自分」のことだったりするから。そこから切り離されて存在している人なんか、本来、ひとりもいないはずで......。

 

苦しさということで言うと、「苦しみ」とか「不満足」とかっていうのは、きっと、「これ」、この肉体、この皮膚の内側に閉じ込められた、いろんな属性にがんじがらめになった、"それ"と切り離された「これ」だけが自分だと思って生きていると、そういうのがどうしても生まれてきてしまうんじゃないかな、って思うんですね。でも、「ほんとうの自分」っていうのは、その苦しさや不満足を抱え込んでいるこの小出遥子をさらに抱え込んでいる、包み込んでいる、もっと大きな、果てしなく巨大ななにか、だったり。そういうところが、「ほんとう」なのかもしれない。そこから「自由」というものが生まれてくるのかもしれない。というか、それこそが「ほんとうの自由」なんじゃないかな、って。

 

松本:うん。「これ」を手放したら自分が消えちゃうとか、手放したらとんでもないことになるっていう迷いがもはやない。小出さんもないでしょう?

 

小出:「ない」って言い切りたいところですけど(笑) でも、まあそうですね、20代の、とにかく生きていくのが苦しかった数年間を経て......その苦しみが、ある意味極まったときに、パーンと視界が開けたというか。あ、これ、「小出遥子」にしがみついていたから苦しかったんだ、っていう気づきが、理屈を超えたところからやってきたんですよね。

 

松本:その苦しみっていうのは、なりたい自分になれないでいる苦しみですよね。

 

小出:そうです。だけど、その「なりたい自分になれない自分」すらひっくるめた巨大ななにか......ほんと、「なにか」としか言えないんですけど。その、存在っていうのかな、正確に言えば「存在」でもないんですけれど、"それ"を感じたときに、とにかく、すごく安心したというか。無限に広がった「わたし」だけがあったというか。"それ"からの、"そこ"からの呼びかけが、南無阿弥陀仏なのかなって、いまのお話を聞いていて思いました。

 

松本:まあ、その、南無阿弥陀仏っていうのが、自分にとっては、祖父が浄土真宗の住職だったり、この光明寺っていうお寺に自分もお世話になったりする中で、そういう機能を持つようになったわけで。あくまで、「自分にとっては」そういう働きをしている、というお話ですけれども。

 

最近、世界経済フォーラムの方と、グローバル・シチズンシップってなんだろう、っていうお話をしたんですね。いま、いろんな場面でグローバル化が進んでいっていますけれど、そのときの、まあ、市民というか、市民っていうのは○○国の××っていうことじゃなくて、まあ地球人としてのあり方っていうことですよね。それってなんだろうね、ってなったときに、なんでもかんでもがフラットになっていく、っていうよりは、ひとりひとりが持っている文脈が、すごく重要になってくると思うんですよね。

 

シチズンシップで言えば、とにかく、いまは、nation、国っていうのが強すぎて。自分はなにものであるのかっていうときに、まずnationalityを出してくるわけじゃないですか。そして、それに準ずる肩書き的なアイデンティティ。たとえば、日本人であり、北海道生まれであり、お坊さんでありとか、いろいろあるけれども。そういう、いろんなものが背景となって......まあ「縁」ですよね。縁の重なりによって、自分にとっては、念仏っていうのが、そういう役割を持つに至ったと。

 

小出:個別のコンテクストの上で。

 

松本:そう。だから人によっては、たとえば日蓮宗のお坊さんなり、信徒さんでもいいんですけれど、そういう方々にとっては南無妙法蓮華経がそれにあたるのかもしれないし、クリスチャンの家庭で生まれ育った方はまた違ったものかもしれないし。その人のコンテクストにフィットして、本人にとってしっくりくるなら、なにがそういう機能を持ってもいいと思うし。

 

僕だって、これからいろんなものに出会って、たとえばスーフィーの人に出会って、あ、すごい、これいいかもって思って、そういうものを取り入れるかもしれないし、それはわからないけれども、でも、とにかく「縁」ですよね。自分の背景にある「縁」。そういうのをむしろ大事にしていくっていうのが、すごく、現代的でもあるし、昔っぽくもあるんですけど、いま、大事なことのような気がするんですね。

 

小出:そうですね。だから、なんでもかんでも、誰も彼もが念仏をとなえればいいよ、っていう話でもないと思うんですよ。たとえば今日のお話が「縁」となって、じゃあ、南無阿弥陀仏をとなえてみようかな、っていう風に思ったとしたら、それがその方のご縁だと思うし、でもそこにはぴんと来ないっていうのも、また、ひとつのご縁のかたちだと思うんですよね。ただ、まあ、今回は、たまたま、この対話の舞台が浄土真宗のお寺だったっていう。

 

松本:そういうコンテクストだったと。そうそう、先日、小池龍之介さんと会ったときに、同じような論点で、「やっぱり自分の"ふるさと"が大事だよね」という話をしました。縁によって生きる私だから、これまで経験してきたあらゆるコンテクストの上に、いま、こうしてある私だからこそ、そこから自然に出会うものを大事にすればいいんじゃないかと。

 

小出:うん。本当にそうですよね。"ふるさと"は人の数だけありますし。ということで、個別のコンテクストの上での、カギカッコ付きの「ほんとう」からの呼びかけとしての南無阿弥陀仏っていうのを、今回、お聞きしたわけですけれど。すごく面白かったです。......というところで時間がきてしまいました。今日は本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

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Templeって?

 

 

Temple‐テンプル‐は、お寺が舞台のまったくあたらしいワークショップです。

主役は「仏教」や「お坊さん」ではなく、私たちひとりひとり。

ありがたいお話を聴くだけで終わりにせず、自分自身や、縁ある人々との対話を通して、それぞれが「ほんとう」に触れ、"自由"(=あらゆる依存から解放され、自分自身の足で立つこと)を生きるためのきっかけを見つけていく――

そんな場を目指しています。

 

Templeの柱はこの3本。

 

Reflection(リフレクション)

・・・自分の中にある「ほんとうのいのり」「ほんとうのねがい」に向き合う時間

Wisdom(ウィズダム)

・・・先人たちの遺した「ほんとうのことば」と触れ合う時間

Dialogue(ダイアローグ)

・・・ひとりひとりの思う「ほんとうのこと」を語り合う時間

 

うつろいゆく無常の世にあっての、たったひとつの流されない部分、消費されない部分、すべての軸となるべき不動の部分=「ほんとうのこと」を、仏教をはじめとする偉大な知恵(智慧)の数々にヒントをもらいながら探っていきましょう。

 

探求先は、自分自身です。

 

 

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小出遥子 (こいで ようこ)
>>プロフィールを読む 1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。 いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。http://temple-web.net/