南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(3/4)

南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(3/4)

 

Temple vol.4での松本紹圭さんとの対話記事、全4回中の3回目です。


いよいよ「南無阿弥陀仏ってなんだろう?」というお話のスタートです!

 

前回までの記事はこちら:

南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(1/4)

南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(2/4)

 

 

 

念仏は極限までシンプルでポータブルな「指」

 

松本:少し話は戻って、さっきの阿弥陀仏の物語。それが、やっと最近、自分にとって、ああ、こういう意味合いですごく特別な意味を持つんだな、っていうのがわかるようになったっていう。「自分にとって」というところが重要です。自分を外に括り出して客観的に論じても、宗教の物語の真価は発揮されないので。それは、宗教の垂直方向の構造に対する理解が深まってきたからこそ、っていうのがあるんですよね。

 

さっきも言ったように、まともな宗教、まともな思想が最終的に指し示しているところって、たぶん、言語化しようとしてもできないようなところなんですね。月と指のたとえがありますけれど。月っていうのは、まあ、あえて言葉で表現するなら「真理」であり、それを指し示す指が「経典」である、と。まあ仏教で言えばお経だったり、キリスト教だったら聖書だったり......。表現の違いはあるけれども、指し示しているところはそっちの方なんだ、と。

 

たとえば阿弥陀仏の物語が浄土教の経典に書かれているわけですけれど、それだけを見て、その物語自体を評価する......たとえば「これはすごい! 物語としてのクオリティーが高いわ!」とかそういうところに注目すべき話なのかっていうと、そうじゃなくて。じゃあ、その物語が指し示しているところはいったいどこだろう、ということで見ていくと、その意味がやっとわかるようになっているんですね。二重性がある、というか。

 

小出:二重性ですか。

 

松本:だから、「月」をズバリ指し示す表現もあるわけですよ。たとえば龍樹が説いた「空」とか。般若心経にも「色即是空 空即是色」とありますね。そういう思想に触れてみれば、それはそれでかなりダイレクトに書いている。でも、ものすごく難解なわけですよね。誰もがすんなり理解できるようなものでもない。

 

でも、一旦そういった表現に親しんで、その後でもう一回阿弥陀仏の物語をみてみると、そういう構造を上手に取り入れながら物語化していることがわかるんですね。しかも、それが最終的に織り込まれた先が「南無阿弥陀仏」っていう六文字だけ、っていう。極限までシンプルでポータブルなものとして成立していった、その全体の構造というのが、ようやく理解できるようになって。これはすごいな、と。

 

小出:そうか。そういう構造になっていたんですね。

 

松本:しかも重要なのが、その垂直方向の理解、「世界の本質は空である」とか、「私の本質は空である」とか、そういうことをごちゃごちゃ考えて理解をしている自分っていうのも、いっつもそんな風にいられるわけではなくて。まあ、生きていればいろんなことが起こるわけですよね。親族が亡くなったりして、焦ったり、取り乱したりするようなこともあったりとか。そんなとき「空とは......」とか言っていられないし、「じゃあまずは坐禅するか」とかそういう感じでもないし、っていうような極限状態に置かれたときに、とにかくポータブルで有効なのが、南無阿弥陀仏なんだな、と思いますね。

 

小出:南無阿弥陀仏は、極限までシンプルでありながら、仏教のど真ん中を指し示すものなんですね。じゃあ、たとえば、とにかく焦っていたり、取り乱したりしているときに念仏をとなえると、そこでどんなことが起こるんでしょう?

 

松本:なにが起こるっていうわけでもないんですけどね。呪文じゃないから。だけど、ひとつ言えるのは、南無阿弥陀仏ってすごいポータブルなんだけど、確実に「月」を指し示しているものなんですよね。でも、さっきお話ししたように、小学生、中学生時代の僕にとっては、いくらお坊さんに「南無阿弥陀仏は"月"を指し示すものがぜんぶ織り込まれたものだから、どうぞ、となえてください」って言われたところで、いきなり南無阿弥陀仏とか言われても、なに言ってんの? っていう感覚でしたからね。織り込まれていなかったんですね、自分の中に。というか、そこにすでに織り込まれているものを見出す準備が整っていなかったんですね。だから、それだけを与えられても困るだけだったんだと思います。

 

でも、それだけいろいろ、ああでもない、こうでもないと思考錯誤して、いろんな思想に触れて、あ、仏教ってこうなのか、仏教以外から見ても、「月」っていうのはそういうものなのか、っていう理解が深まったところに、やっと織り込む点としての意味を持った、という感じなんですね。

 

よく、禅を極めた老師が「やっぱり最後は念仏」とか言うじゃないですか。熟達した老師なら、別に「南無阿弥陀仏」の六文字じゃなくても、どんなものにだって、犬のフンにだって、世界に織り込まれたものを見出すことはできるはずです。でも、それを世の人に伝えるときに、犬のフン、というわけにはいかなくて。そこで、先ほどの話に戻りますが、水平機能においても豊かな物語が織り込まれていて、しかも、垂直にも深く高い射程を持つ、究極にシンプルな表象としてのこの六文字に、すべてを託したくなるんじゃないでしょうか。

 

 

リマインダー機能としての「南無阿弥陀仏」

 

松本:南無阿弥陀仏は、まあ、ひとことで言うなら、「リマインダー」ですよね。人が取り乱しているようなときは、その対象に意識が引っ張られて、乗っ取られているわけですよ。それはまあ、人間だし仕方ない。そういうこともあります。そうなっちゃっても仕方ないんだけれど、でもほんとうのところはそうじゃないんだよな、っていうことを、思い出させてくれるもの。それが念仏なんじゃないかなって。

 

小出:取り乱しているときは、この「取り乱している私」の物語の中に埋没、没入してしまっている。だけど、南無阿弥陀仏の六文字によって、その物語を解体することができるよ、ということでしょうか。

 

松本:解体という機能もあるけれど、その前に、それをそのまま観る「わたし」がいる、ということですよね。不可逆の解体に至るまでは、よほどの修行が必要でしょうし、それは僕にはわかりません(笑) とにかく南無阿弥陀仏という呼びかけによって、私の奥にある、まあ、オブザーブする視点というか、起こっていることを観察している「わたし」が起動する。南無阿弥陀仏とともにあることによって、その視点としての「わたし」とともにある......。人間、日々なにかあったら、焦ったり、怒っちゃったり、悲しんだりするでしょう。そういう人間としての私がいなくなるわけじゃないんです。成仏は、まだまだ先です。でも、そういうまさに人間的な、どうしようもなく人間的な自分もひっくるめて......

 

小出:ただ起きていることだ、と。

 

松本:うん。ただ、「縁」によって起きている。ご縁ですね、と。

 

小出:たとえば、なにかが起きて焦るといったようなことがありました、と。その出来事も、自分の焦りの気持ちもひっくるめて、なにかこう、オブザーブしている......

 

松本:グラウンドというかね。

 

小出:グラウンド。まさに「ここ」で、すべてが起きているっていう。

 

松本:そう。よく言われるのが、南無阿弥陀仏っていうのは、色もなくかたちもない仏からの呼びかけ、callingであると。グラウンドからのcallingですよね。グラウンドに立っていようとしているはずなのに、こう、なにかあると離れていっちゃう自分に対しての呼びかけというか。

 

小出:呼びかけ。「地に足をつけなさいよ」という感じですか?

 

松本:まあ、地に足がつかない私であるっていうこともひっくるめてっていうのが、浄土的なあり方ですよね。まあ、上座部、テーラワーダとかは、絶対グラウンドから足が離れないところまでいかないとだめだよねっていう考え方をするのかもしれませんが。爪先がちょっとついたぐらいじゃダメ。それはまだレベル1。そこから、もっと、ベタ付けで、絶対に地から足が離れないどころか、体ぜんぶ埋まっちゃうぐらいにしないとダメだよねっていうのが、修行系の仏教なんじゃないでしょうか。

 

小出:それと比べると、大乗仏教的な見方は、おおらかと言えばおおらかと言えるのかな、と。焦って地に足のつかない自分もひっくるめて、「ただ観ている」っていう。それで思い出したんですけど、最近、「観る者なくして観る」っていう哲学の言葉を聞いたんですよ。「観る"私"なくして観ている」、そういう状態......まあ正確に言えば「状態」でもないんですけど、それが本来なんだって。

 

つまり、普段は、この小出遥子がすべてを見ていると思って生きているわけですよ。それはそのまま小出遥子の物語に埋没しているっていうことになるんですけれど。そこを生きていると、どうしても「この私」の視点に固定されてしまうんですね。そうしたら、もう、焦ったら焦りっぱなし、悲しんだら悲しみっぱなし、いつまで経ってもこの物語から抜け出せない。

 

だけれど、小出遥子が焦っている、なにか焦るようなことが小出遥子の身に起きて、とにかく焦っている。そのこと自体を、さらに大きな視点から......小出遥子が焦っているということすらひっくるめたところに、ただただすべてを観ている「なにか」が"ある"。まあ、「ある」っていうのも誤解を生むところだとは思うんですけど、そういうことだと思うんですよ。それを思い出させる機能が、南無阿弥陀仏にはあるんだよ、っていうことなのかな。

 

松本:まあ、もちろん、いろんな表現があるとは思うんですけれどね。

 

 

4回目に続きます!)

 

 

 

 

 

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Templeって?

 

 

Temple‐テンプル‐は、お寺が舞台のまったくあたらしいワークショップです。

主役は「仏教」や「お坊さん」ではなく、私たちひとりひとり。

ありがたいお話を聴くだけで終わりにせず、自分自身や、縁ある人々との対話を通して、それぞれが「ほんとう」に触れ、"自由"(=あらゆる依存から解放され、自分自身の足で立つこと)を生きるためのきっかけを見つけていく――

そんな場を目指しています。

 

Templeの柱はこの3本。

 

Reflection(リフレクション)

・・・自分の中にある「ほんとうのいのり」「ほんとうのねがい」に向き合う時間

Wisdom(ウィズダム)

・・・先人たちの遺した「ほんとうのことば」と触れ合う時間

Dialogue(ダイアローグ)

・・・ひとりひとりの思う「ほんとうのこと」を語り合う時間

 

うつろいゆく無常の世にあっての、たったひとつの流されない部分、消費されない部分、すべての軸となるべき不動の部分=「ほんとうのこと」を、仏教をはじめとする偉大な知恵(智慧)の数々にヒントをもらいながら探っていきましょう。

 

探求先は、自分自身です。

 

 

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小出遥子 (こいで ようこ)
>>プロフィールを読む 1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。 いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。http://temple-web.net/