南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(2/4)

南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(2/4)

 

Temple vol.4での松本紹圭さんとの対話記事、全4回中の2回目です。


宗教の真価・「垂直」方向の役割とは......? お話はどんどん核心に迫っていきます。

 

1回目の記事はこちら:

南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(1/4)

 

 

 

「不満足」の抜本的な解消を求めて

 

松本:いままで宗教の横軸のお話をしてきましたが、この、水平方向の機能が担っている部分の方が、実際、対人数で言えば圧倒的に多いわけですよ。だから、本来は「さとり」を志向する仏教でありながら、葬式仏教というか、そういう、浄土の物語を説いたり、お葬式とかの儀式をしたりしているわけです。人生の物語が破たんする極致っていうのは、「死」だと思うんですね。近しい人の死。だから、水平方向の機能を発揮する場として、お葬式などを担って、そこの部分を広くカバーしているんですね。

 

小出:そういうことだったんですね......。

 

松本:でも実は、その陰でいつの時代も、縁が整ったほんの一部の人の中に、宗教の縦軸、垂直方向の機能を求めるような動きが常に生じている。まあ、いまの話の流れで言えば、人間誰しもなにかしらの物語を生きているわけですよ。たぶんみなさんも、自分の人生これでいいのかな、あれでいいのかな、もうちょっとこっち行った方がいいんじゃないかな、これで成功するかな、とか考えたりすると思うんですけど、その物語の中にいる限り、いつまで経っても、ほんとうの満足は得られないんですよね。

 

物語にしがみついてみたり、「あ、これ違ったわ。やっぱりこっちにしよう!」って物語をとっかえひっかえしてみたりしたって、常にそれはなにかしらの破綻と隣り合わせだったりして......。要は際限がない、満足できるポイントがないんですよね。お釈迦さまが「人生は苦である」と言った、まさにその事実に、本当に一部の人たち......たぶんこのTempleっていうイベントに集まるような方々なんですけど、そういう人たちは気づきはじめているわけです。


それで、もう、物語を生きるのはやめよう、と。「この物語を生きることをやめよう」ではなくて「物語を生きることそのものをやめよう」ということです。自分の中で、こう、妄想をねつ造したような物語をとっかえひっかえ生きること、フィクションを生きることはやめよう、と。そこにはないわ、と。そういうことに気づいた人が、垂直方向に進んでいくわけですね。

 

小出:私自身も、極楽浄土? ほんとかな? と思いつつも、仏教に興味を持ち続けていたのは、その垂直方向への期待っていうのがあったんですね。私、いま31歳なんですけど、20代半ばから後半の頃、特別になにがあったというわけでもないけれど......まあ、あったりなかったりしたわけですけれど(笑)かなり、毎日毎日、苦しいな、なんでこんなにしんどいのかな、と思いながら生きていた数年間があったんです。

 

それは、いま思えば、自分という、この小出遥子という物語自体への苦しみだったんですね。あの頃、とにかく「ここじゃないどこか」を求めていたんですよ。常に。たとえば、人間関係でも、あ、この人とはうまくいかない、じゃあ次はこの人だ、とかそういう風にずっとずっと渡り歩いていた。職場も何回も変えてみたり。自分が苦しいのは環境のせいだと思い込んでいたんです。環境を変えれば、自分は満足できるんじゃないか、と。そうして次の物語、次の物語っていう風にとっかえひっかえ繰り返していたんですけど、でも、そこにはぜんぜん満足がなかったんですね。

 

そこで、仏教に期待を持ったんですね。この不満足を抜本的に解消するなにかが仏教にはあるんじゃないかな......っていう直観があって。まあ、私の場合はたまたま仏教にご縁があったっていうだけで、他にもいろんなツール、ルートはあると思うんですけど。そういうところから道を探り始めたんですね。

 

 

「私」という物語(フィクション)からの脱却

 

小出:いや、まあ、正直な話、仏教ひとつにそれを求めていたわけでもないんですけどね。他にも、呼吸法を習ってみたり、瞑想を試してみたり、覚者と呼ばれる人の本を読んでみたり......いろいろ手を出したりはしていたんですけど(笑)

 

松本:僕も仏教だけじゃないですね。袈裟を着てしゃべりながらこういうことを言うのもなんですけど(笑) 自分も、仏教はもちろん中心軸にあるけど、他に、いろんなものから影響を受けていて......。ラマナ・マハルシもそうだし、そういう人の本を読んで、逆に、仏教で言っていることってこういうことなんだな、っていうことがわかってきたりして。

 

だから、自分のアイデンティティを「Buddhistである」ということに置く、ということは特にないです。たとえば、Buddhistであり、日本人であり、父であり......とか、そういうものを並べることによって「自分」ができてくる、その一要素として宗教というものがある。そういうような関わり方は、僕自身はしたいとは思わない。むしろ、物語的な自己定義そのものを、もうやめたいなと。


小出:「物語的な自己定義」それ自体をやめる。

 

松本:はい。いままでいろんな宗教......哲学も含めて自分なりに学んできたんですけど、まあ、それらが扱っている問いをもしひとつに集約するならば、究極的には「わたしとは誰か」ということになると思うんです。そして、その問いを深めていくと、言葉、言語の限界に気づくんですね。言葉というのは、基本的に、対象にラベルを貼る性質があります。放っておくと、不安な自我は常に肥大化を指向して、私はxxである、yyである、というふうに領土拡大を目指してしまう。でも、たとえば自分にどういうラベルを貼っていくか、どういう肩書きを並べ立てるかっていうのが、「わたし」っていうものを表すわけではないんだということを、宗教は教えてくれるんですね。もし「わたし」というものがどこかにあるとするならば、むしろ、ぜんぶ捨てたところにそれはあらわれてくるんだ、ということを知りました。

 

小出:なるほど。もはや、個別の「私」という物語自体から外れてしまう、っていうことですね。

 

松本:そう、物語それ自体から。

 

小出:「私」だと思っているもの、それ自体が物語だったんだ、と。真実はそこにはない、と。ならば、もう、そこから外れてしまおう、と。


私の場合も、たとえば「この仕事をしている私の物語」とか、「この人と一緒にいる私の物語」とか、そういうところに満足を求めていっても、苦しみは深くなる一方だった。その事実を体感として知ってしまった。そうこうしているうちに、このやり方ではどうやっても満たされない、これはなにかが絶対的に違うぞ、っていうところが見えてきたんですよね。

 

そこで、じゃあ、たとえば、職業とか、住んでいるところとか、家族構成とか、交友関係とか、そういったラベルをぜんぶはいでしまったときに、つまり「私」の物語をひとつ残らず外してしまったときに、そこになにが残るのか、っていうことを、仏教はど真ん中に置いているんじゃないかな、と思ったんです。もちろん、仏教以外にも、そういうところにアクセスする智慧っていうのはたくさんあると思うんですけど。

 

松本:まあ、仏教に限らず、およそまともな流れの中にあるような思想、宗教って、だいたい言っていることは「なにものにもならなくていいんだよ」とか、「そのままでいいんですよ」っていうことだったりするわけで。

 

小出:「なにものでもないわたし」こそ「ほんとうのわたし」である、と。いや、「私」という言葉を使うと、どうしても「これ」、この肉体を持った「この私」という限定的なイメージになってしまうんですけれど、決してそうじゃなくて......

 

松本:まあ、言葉にしてしまうとね。難しいところではありますよね。

 

 

3回目に続きます!)

 

 

 

 

 

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Templeって?

 

 

Temple‐テンプル‐は、お寺が舞台のまったくあたらしいワークショップです。

主役は「仏教」や「お坊さん」ではなく、私たちひとりひとり。

ありがたいお話を聴くだけで終わりにせず、自分自身や、縁ある人々との対話を通して、それぞれが「ほんとう」に触れ、"自由"(=あらゆる依存から解放され、自分自身の足で立つこと)を生きるためのきっかけを見つけていく――

そんな場を目指しています。

 

Templeの柱はこの3本。

 

Reflection(リフレクション)

・・・自分の中にある「ほんとうのいのり」「ほんとうのねがい」に向き合う時間

Wisdom(ウィズダム)

・・・先人たちの遺した「ほんとうのことば」と触れ合う時間

Dialogue(ダイアローグ)

・・・ひとりひとりの思う「ほんとうのこと」を語り合う時間

 

うつろいゆく無常の世にあっての、たったひとつの流されない部分、消費されない部分、すべての軸となるべき不動の部分=「ほんとうのこと」を、仏教をはじめとする偉大な知恵(智慧)の数々にヒントをもらいながら探っていきましょう。

 

探求先は、自分自身です。

 

 

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小出遥子 (こいで ようこ)
>>プロフィールを読む 1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。 いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。http://temple-web.net/