南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(1/4)

南無阿弥陀仏ってなんだろう?/松本紹圭さんとの対話(1/4)


去る824日(月)の夜、東京・神谷町光明寺にて、対話の集い、Temple vol.4が開催されました。今回、初の試みとして、光明寺僧侶の松本紹圭さんと、Temple主宰者である、私、小出遥子の、「ほんとうのこと」をテーマとした公開ダイアローグを行ったのですが、これがもう、相当濃くて深い対話になりまして......。ぜひ、彼岸寺読者のみなさんにもシェアさせていただきたく、記事にまとめてみました。

 

宗教の構造から、念仏の機能、そもそも「自分」とはなにものなのか、まで......。とにかく「ど真ん中」のお話が満載です。

 

本日より4日間連続で更新予定。

 

ぜんぶで15000字以上の超ロングダイアローグですが、最後までお楽しみいただけましたらうれしいです!

 

 

 

極楽浄土ってホントにあるの?

 

小出:今回は、「ほんとう」に触れて、"自由"を生きよう、というテーマを掲げたTempleという場での対話ですので、もう、とにかく、ど真ん中の質問を、遠慮なくさせていただきたいと思います。

 

まず、仏教ってそもそもなんなの? 仏教が言っていること、そのど真ん中にあるものっていったいなんなの? というところ。それが、私も含めて、みなさん、一番知りたいと思っていらっしゃる部分だと思うんですよ。と言っても、それをそのままお聞きしても、この短い時間では絶対におさまりきらないだろう、と。それで、今回、Templeの会場としてお借りしている光明寺さんは、浄土真宗のお寺ですよね。ということで......ご本尊の阿弥陀さま、阿弥陀如来って、いったいなにものなんでしょう? 念仏って、南無阿弥陀仏って、いったいどういうものなんですか? というあたりのお話からお伺いしたいのですが。

 

松本:「阿弥陀如来ってなにもの?」とかいう以前に、そもそも、「そんなお話、信じているの?」っていうところに最初の疑問があるんじゃないでしょうか。というのも、僕自身がそうだったんですよ。僕はお寺の生まれではないのですが、北海道の実家の近くで祖父が住職をしているお寺がありまして、しょっちゅう遊びに行ったり、本を借りたりしていたんですね。それで、のちに、「仏教ってなんなの?」って、まあ、まさにそういう質問をするようになって。そういうことで、法話を聴いたり、お説教師さんのお話を聴いたりするようになったんですけど。

 

そこで、浄土のお話を聞くわけですよ。極楽浄土というのが西の方にあって、亡くなった方は仏になって、そこに往生するんだ、浄土に生まれていくんだと。そういうお話を、お説教のお坊さんたちがしていたんですけれど、正直、なに言ってるんだろう? そんなことあるわけないだろう、って思っていました。小学生、中学生ながらに、このお坊さんはほんとうにそんなこと信じているのかな、と不思議だったんです。

 

それってぜんぶ「物語」じゃないですか。まあ、物語という言葉を使ったとしても、「真実の物語である」といったようなことを聞かされるわけですね。でも、真実って言われても......と。確かに、世の中には色んな物語があって、阿弥陀さんのお話だってそのうちのひとつに過ぎなくて、まあ、あなたはそれを信じているのかもしれないけれど、自分にはぜんぜんそんな風にも思えない。むしろ気持ち悪い。押しつけられたくない。って、そういう風な子どもだったんですよね。

 

小出:ふふ、嫌な子どもですね(笑)

 

松本:その一方で、物語的じゃない仏教の説き方というのもありますよね。いま言ったような、浄土がどう、阿弥陀さんがどう、っていうような物語は、まあフィクションって言っちゃったらそうとしか思えないし、あんまり興味が湧かなかったんですが、でも仏教自体を見てみると、すごく論理的な部分とか、体系だったステップとかもあったりして。たとえば、「空」とか、「縁起」とか、「四諦」とか、「八正道」とか......。そういう概念、理屈で理解できるコンセプトの部分に関しては、それはそうだなあって。そこに関しては、すごく納得するところがあったんですね。

 

お釈迦さまの言っていること自体は、すごく腑にも落ちるし、立派な人だなあと思っていた。だけど、それと、そういう浄土とかの物語がどう関係するのか、さっぱりわからなくて......。お寺は死んだあとの話ばっかりしているし、お葬式とか法事ばっかりやっているし、まあ生きる道筋としての仏教っていうのには興味があるけれど、そういう物語を言われたところで、気休めにしかならないんじゃないかなって、そんな風に思っていて。

 

小出:それって、実は結構多くの人が疑問に思っているところだと思うんですよ。お釈迦さま自身は、実在の人物じゃないですか。ゴータマ・シッダールタという人が存在していたということは、史実として残っている。でも、じゃあ、「阿弥陀さま」ってどこから出てきたの? いったいなにものなの? っていうのが、実は、仏教に詳しい人たちの間でも、曖昧なままだったりするような気がしていて。

 

だから、それこそ、お葬式や法事で、「おじいさまはお浄土で笑っていらっしゃいますよ」とか、そういう話を聞いたりするわけじゃないですか。でも、仏教って死んだ人だけのためのものなの? そんなわけないよね? それだけじゃないよね? っていうのが自分の中にずっとあって。お釈迦さまが遺されたのは、生きている人のための、生きるための教えなんじゃないの? そういう話は直接は聞かせてもらえないの? って。生意気なんですけどね。だからその阿弥陀さまの物語とかも、まあ、真剣に信じていらっしゃる方にとっては、もちろんそれが真実なんでしょうし、信じることができたら素敵だなあとも思うけれど、でも、どうにもそこを信じられない、信じ切れない、私のようなひねくれた人間はどうすればいいんですか? って思っていたんですよね。

 

松本:うん。しかも、自分はお寺の孫なんで、お寺の裏舞台も知っていて。裏舞台っていっても、何かあくどいことがあるわけじゃなくて、ごくふつうの、家庭的な部分ということですが。だから、お坊さんに「私は阿弥陀さんを信じています」って言われても、たまたまお寺に生まれたからそう言ってるだけじゃないの? っていう風に斜めから見てしまうところがどうしてもあって。別に自分で選び取ったっていうことでもないだろうし、ただずっと聞かされているからそう思いこんでしまっているだけで、ほんとうにそうなの? と。

 

 

「水平」と「垂直」――宗教の2つの方向性

 

松本:でも、実は、最近になって、やっと自分にも「これは確かに、真実の物語だ」って思えるところが出てきたんですよね。物語が変わったわけではないので、自分が変わったんだと思います。阿弥陀仏の物語、浄土の物語の意味とか、その真実性とかが、遅ればせながら感じられるようになってきました。

 

小出:その部分、詳しくお聞かせいただけますか?

 

松本:これは仏教に対する理解っていうよりは、宗教に対する理解が深まったことが大きいと思うんです。宗教現象、なぜ人間には宗教が必要なのか。必要じゃない人もいるけど、まあ、なぜ宗教というものがあるのか、存在しているのか。そこらへんを、すごく考えるようになったっていうのがあって。世の中には、性質的にはとても宗教的なのに、特定の宗教組織に帰属することなく自由に生きている人がいますよね。そういう人たちとも対話しながら、すごく思うところがあったんですね。

 

最近、「ああ、なるほどな」と非常に腑に落ちた宗教の構造についての話があるんです。ケン・ウィルバーという哲学者の説で、宗教には二つの機能がある、というんですね。水平方向の機能と、垂直方向の機能。水平の機能って、まあ、横軸に広がっていく方向ですよね。それに対して、垂直の機能は、深いとか、高いとか、上下どちらでもいいんですけど、縦軸ですね。

 

世の中でふつうに生活している人にとって、宗教的なものって、普段はそんなに必要とされないんですよね。通常の生活を送ることができていて、それがとくに破綻していなければ......家庭もまあうまく回っているし、友達関係も問題ないし、仕事もうまくいっている、つまり、「自分がこうありたい」って思っているような自分になれているな、っていう感覚があるときは、たぶん、宗教的なものを意識する必要もないと思うんです。言い換えると、自分が思い描いたストーリーが、一応破綻なく進んでいるって思えている状態にあるときは、宗教は必要ない。皮肉っぽい言い方で言えば、自分のストーリーに「埋没する」ことができていれば、それでいい。人生、何も問題ないわけです。

 

小出:そうかもしれないですね。

 

松本:でも、人生、思いがけないことも起きてくるわけじゃないですか。思い通りにいかないこともたくさんあるし。仕事がうまくいかなくなったり、友達が、家庭が......って。それで、なんでこんなことが起こるのかなって思ったときとか、「こうありたい」っていう自分の期待値を含めて、描いている物語が破綻しかけたときとかに、「これは大変だ!」ということになるわけですよね。そんなとき、破綻しかけた自分の物語を抱えてよれよれになっている自分に、より大きな物語として寄り添って支えてくれるのが、ひとつの宗教の役割、水平方向の役割なんじゃないかな、と。僕自身、思いがけないこととか、なんでこんなことが、っていうことがたくさん起こったときに、その大きな物語が、確かに救いになっている部分があるなあ......って、そんな風に思えるようになったんですね。歳ですかね(笑)

 

それで、いまお話ししたようなことは、だいたいほとんどの人が宗教と出会う流れ......それはもちろん仏教だけじゃないんですけど、キリスト教でも、ユダヤ教でも、イスラム教でも、なんでもいいんですけれど、およそ宗教と名のつくものからの、なにかしら恩恵を享受する一連の流れ、パターンになっているんじゃないかな、と。とりあえずは、この物語、たとえば阿弥陀如来とか、浄土の物語が自分を支えてくれている。だから大丈夫、と。そこから支えられて立ち上がって、自分自身の物語を再生させていく、という動きも出てくるでしょうし。

 

小出:それは、とても大切な機能ですよね。

 

松本:そうです。本当に大切な機能です。広さでいえば、これほど多くの人の支えになる機能もないわけですから、宗教の最高の機能ともいえます。でも実は、もうひとつ重要な宗教の価値、特に深さという点での圧倒的な真価は、水平ではなく垂直方向にあるんですね。

 

 

2回目に続きます!)

 

 

 

 

 

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Templeって?

 

 

Temple‐テンプル‐は、お寺が舞台のまったくあたらしいワークショップです。

主役は「仏教」や「お坊さん」ではなく、私たちひとりひとり。

ありがたいお話を聴くだけで終わりにせず、自分自身や、縁ある人々との対話を通して、それぞれが「ほんとう」に触れ、"自由"(=あらゆる依存から解放され、自分自身の足で立つこと)を生きるためのきっかけを見つけていく――

そんな場を目指しています。

 

Templeの柱はこの3本。

 

Reflection(リフレクション)

・・・自分の中にある「ほんとうのいのり」「ほんとうのねがい」に向き合う時間

Wisdom(ウィズダム)

・・・先人たちの遺した「ほんとうのことば」と触れ合う時間

Dialogue(ダイアローグ)

・・・ひとりひとりの思う「ほんとうのこと」を語り合う時間

 

うつろいゆく無常の世にあっての、たったひとつの流されない部分、消費されない部分、すべての軸となるべき不動の部分=「ほんとうのこと」を、仏教をはじめとする偉大な知恵(智慧)の数々にヒントをもらいながら探っていきましょう。

 

探求先は、自分自身です。

 

 

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小出遥子 (こいで ようこ)
>>プロフィールを読む 1984年生まれ。新潟県出身。早稲田大学第一文学部日本文学専修卒業。編集プロダクション、美術系専門図書館勤務を経て、現在はフリーランスの編集者・文筆家として、仏教系テキストを中心とした編集・執筆活動を行っている。 いのちからはじまる対話の場「Temple」主宰。http://temple-web.net/