【対談レポート】南直哉×釈徹宗「生き抜く力」は自力か他力か?

【対談レポート】南直哉×釈徹宗「生き抜く力」は自力か他力か?


12月3日、朝日カルチャーセンター中之島教室にて非常に興味深い対談がありました。私は残念ながら参加できませんでしたが、なんでも大阪・應典院代表の秋田光彦さん(『葬式をしない寺』著者)も愛媛・栄福寺住職の白川密成さん(『ボクは坊さん。』著者、未来の住職塾三期生)も興味をそそられて参加されたそう。


対談は説明不要のお二人。化学反応を期待せずにはいられません!


青森県恐山菩提寺院代/福井県霊泉寺住職 南 直哉 師
浄土真宗本願寺派 如来寺住職 釈 徹宗 師

http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=264605&userflg=0


師走を迎えて一年を振り返ってみても、今年も大変に生きづらい世の中でした。災害や凄惨なニュースでなくとも、身の回りの現実になかなかポジティブな可能性を見出しにくいですよね。はたして閉塞感が増す一方の現代において「生き抜く力」とは? 自力か他力か? いや「無駄な時間を過ごす」こと?


未来の住職塾三期生の大西龍心さんがレポートしてくださいましたので、ぜひご一読ください。




南直哉×釈徹宗「生き抜く力」


宗派別に見ると片や自力の代表のように見られている曹洞宗の南直哉師、片や他力の代表のように思われている浄土真宗の釈徹宗師、お二人の対談があるというので聞きに行ってきた。


「生き抜く力」という対談のタイトルから予想される人生訓的な話とは全く正反対の内容で、中で語られた言葉は誤解を恐れずに書けば「夢や希望なんてなくてもかまわない」「仏教はヒューマニズムではない」「生き抜く力をつけるのではなく力を抜いて生きる」「仏教は問題解決には役立たない」「無駄な時間を過ごす」など刺激的な、ある意味仏教への甘い期待を破るような耳障りの悪い言葉が並んだ。


もちろんお坊さんという立場としては、人を救うために述べられる仏教的方便としての言葉は必要だと思うが、今日のお二人は仏教者として、宗教者として非常に真摯な態度で語り合われてたのが印象的だった。


仏教が真理を説いているとは言え、それは目の前の問題や現実の流れとリンクしていかなければならないし、僧侶としては常に現代の仏教という視点も持ち続けていかなければならない。その中で対談の最初に語られた現代社会のありようを敏感に読み取る必要があるだろうし、そういう意味では毎月ご自宅に訪問させていただいている日々の日行(月参り)は非常に役立つものである。高齢化や独居老人問題にとどまらず、単身赴任などで核家族ですら難しい時代、家族の閉塞感、家庭内暴力、介護の問題、そのような現状の中での仏教の持つ意味や役割はどこにあるのだろうか。


先日亡くなられた赤瀬川原平氏の『老人力』(直哉師曰くこの本が書かれた時点では「力」と言う表現はパロディだった)に始まる「〜〜力」ブームと、一方自分の「力」への過信と期待からそれに伴って生まれる自己決定と自己責任の論理。(述べられてなかったが婚活、就活、終活などに使われている「活」にもこのニュアンスがあるように思う)この考えの流れは仏教的な態度ではないと仰っておられたが、最近の「夢は叶う」(もちろん他人を勇気づけるための言葉として使うことを否定しているわけではない)という風潮にも少なからずそれを感じることがある。


仏教的にはそもそも四苦八苦にも見られるように「夢は叶わない」=「苦」というのが前提条件になっているように思う。また「夢は叶う」とセットでよく述べられる「感謝」も論理的に考えると矛盾を孕んでいるように思う。「夢は叶う」のならそこにお礼の気持ちはあるにせよ有り難いと言う「感謝」は生まれにくいはずで「夢は叶わない」からこそ叶った時に「感謝」が発生するのではないだろうか。そして「夢は叶う」と言う文脈で救われなかった人、傷ついてしまった人を守るために仏教の存在価値もあるのかもしれない。


そういった「力」が過剰に重視されている現代において「他力=受動の自覚」という視点は生きていく上で重要なヒントになるだろうし、それはまた「自己の実存」の問題とも大きく関わってくるはずである。自己に「苦」がある時にその「苦」をなくそうとするのではなく、自己をなくすことにより(もちろん自死という意味ではない)「苦」を道連れに消し去るという方法、すなわち自己を肥大化させるに連れて増していく「苦」をなくす方法として、自分のありよう(自我)を一時解除する方法も十分有効であるはずだ。


無自覚に授かった自己を解除し改めて自覚的に引き受ける、その再発見のために自らが行なう懺悔と他者に任せきる帰依をセットにして考える。また生きていく中で心が疲れた時にどこかに戻ることのできる場所を見つける。その場所は何かのためにではなくただ人生を休む、ただ無駄な時間を過ごすことのできる場所かもしれないし、それが直面の苦難を乗り越えるきっかけになる可能性もある。そしてその地点においてまさに念仏と禅は他力、自力を問わず非常に有効な手段たりえるのかもしれない。


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寄稿:大西龍心


1966年大阪生まれ。高野山真言宗観音院住職。


神戸大学文学部在学中に高野山にて加行。その後大学院(近世文学専攻)を出て母方の祖父の寺の跡を継ぐ。未来の住職塾三期生(大阪クラス)


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