お寺とお墓をめぐる新たな物語 ー短編物語としての永代墓、長編物語としての家族墓

お寺とお墓をめぐる新たな物語 ー短編物語としての永代墓、長編物語としての家族墓

松本 いきなりですが、ひとつ、仏教界の秘密をぶっちゃけていい!?

 

井出 何?

 

松本 実は・・・一般の檀信徒ほど墓参りに熱心なお坊さんに出会ったことがありません。

 

井出 それはどういうこと?

 


松本 つまり、お寺の住職やその家族が、自分たちの(お寺の)先祖の墓をどれくらい大事にしているかってこと。境内墓地にお墓のある檀信徒は、人にもよるけど、熱心な人は毎週のように来て、近しかった家族やご先祖に手を合わせていきますが、お寺の人たちでそこまで熱心な人はあまり見たことがない。もちろん、先祖のお墓を大事にしていないというわけではないんだけど、熱心な檀信徒と比べると、そこまでお墓には気持ちが向いていないというか。先日も、あるお寺の娘さんとこの話をしていたら「そういえば、うちの先祖の墓がどこにあるか、私知らないかも!」という衝撃の発言もありました。

 

井出 ふ〜ん、意外といえば意外。じゃぁ、お寺の人は自分の先祖の供養をしないというわけ?

 

松本 いや、そういうわけじゃないんだよね。たとえば、先ほどの娘さんも「うちの家族(寺族)にとっては、本堂のご本尊さまにお参りすることが、そのままご先祖様にも手を合わせることという感覚で育ったから、あえてお墓のことはほとんど意識したことがなかった」と言ってました。特に浄土系のお寺の場合は、ご先祖様=阿弥陀如来の浄土に往生した仏様、と受け止めるので、阿弥陀如来に手を合わせることにすべてが込められるんだよね。お墓の下に眠っているんじゃなくて、浄土に往生して仏になったというリアリティに生きている。

 

井出 なるほど。だから、少なからぬ住職が寺業計画において「檀信徒が本堂を素通りしてダイレクトに墓参する現状」を課題として捉え、とにかくいろんな工夫を施して檀信徒に家族のお墓だけでなく本堂のご本尊にもお参りしてもらえるように努力するんだよね。

 

松本 宗派の研修などで、「檀信徒教化には、まず寺族自らが手本を示そう」ということが叫ばれますが、そういうときでも「まずは住職が自ら率先して先祖の墓に参ろう」とはあまり言われなくて、「まずは住職がしっかりご本尊様に向かって朝夕の勤行を徹底し、お荘厳(本堂の飾り付けを美しく保つ)を徹底しよう」ということになります。お墓ではなく、まずご本尊なんです。

 

井出 檀信徒の側とお寺の人の側の感覚にズレがあるよね。そういえばお仏壇にしても、檀信徒の側は「家族の誰かが亡くなったとき、故人を供養するための場」として認識していますが、お寺の人の側は「家族が亡くなる・亡くならないに関わらず、家の中にご本尊をお迎えして礼拝生活を営むためのミニチュア版お寺」として認識しています。

 

松本 認識がズレたままで、よくこれまでその形を保って来られたものだとある意味感心しますが、最近では家族のあり方自体もかなり多様化してきています。お寺にとっても檀信徒にとっても、お墓をどうするか、故人の供養をどうするかというテーマに対する解答を出すことの難易度が上がっています。お墓の形態も多様化していますが、井出家のお墓はどんなかたちですか?

 

井出 典型的な家族墓です。先日も父方の実家の法事があって田舎のお墓に行ってきましたが、親族が皆集まって、賑やかでしたよ。最近では法事や葬儀などの機会でなければ出会わない親戚も増えてきて、法事が貴重な一族の絆を確かめる場になっています。法事を勤めてくださった和尚さんにも「最近では、こんなに大勢集まる法事は珍しい」と褒められました。それはさておき、最近は永代墓が増えていますが、私は逆に最近は「案外、家族墓は悪くない」と感じています。故人(のお骨)が見知らぬ人の集団に紛れると、手を合わせても何かしっくりこない。家族墓は「家族」という自分と強烈に関係のある集団で区切られているからこそ、手を合わせやすいんです。

 

松本 お墓というのは「記憶の装置」であり、家族墓は「家族という物語の記憶の装置」です。私は広くお寺の存在意義を「そこを訪れる人が自らの生きる意味を問い、生きているという経験を取り戻す舞台環境」であると考えていますが、近代以降、少なからぬ日本人にとって「イエ」という概念がその人の生きる意味を支える大きな要素として機能してきました。自分個人の人生を短編物語とするならば、それを「イエ」という長編物語におけるひとつの章として位置付けて、前後の章とのつながりや、大きな物語全体に思いを馳せるための装置として、家族墓があるわけです。

 

井出 そう考えると、「イエ」という大きな物語の後継者がいなくなってしまった人、「イエ」という大きな物語に意味を見出しにくくなってしまった人などが、大きな物語をいったんペンディングして、自分(あるいは夫婦)の人生という短編物語における記憶の装置として、永代供養墓が登場したのだとも言えそうですね。

 

松本 近代のお寺は安定した寺檀関係に支えられて成り立ってきました。その寺檀関係を象徴するのが、お寺の境内墓地にある家族墓です。家族墓には、参詣者と強くつながった「家族」という物語が埋め込まれていますので、お寺が努力しなくても、お墓が価値ある世界観とお参りの動機を提供してくれます。しかし、永代墓の場合は参詣者と故人の一対一関係であり、家族墓と比べると物語の力が弱い。お寺側の努力で大きな物語を提示しなければなりません。永代墓はお寺の安定性だけでなく住職の宗教者力も問われるため難易度が高い。住職が大きな物語を提供できなければ、人の集まる永代墓ではなく、寂しい無縁墓になってしまいます。

 

井出 シングルの女性も増えていますし、「私の 代で家が途絶える」ことが確実視される人にとって、永代墓は有力な選択肢になっています。一方で、多死と少子化が進む現代に起きているのは、一人あたりの継承する「イエ」の数が増えているという現実です。例えば、夫の家の墓と妻の家の墓を両方継がねばならず、どう墓を守れば良いのか、自分たちが亡くなったときにどちらの墓に入ればいいのか、困り果てる夫婦も少なくありません。いわゆる「家」から「個」へという流れだけでなく、多様化する家族のあり方に家族墓の形態が追いついていないという問題も大きいです。家族墓の時代が終わったから永代墓を作ろう、ではなく、「個」の受け皿となる永代墓を作りながらも、家族墓をイノベートする必要があります。

 

松本 お寺はお墓の問題の核心に寄り添う必要があります。現代人は、家族墓という象徴によって受け継がれた「先祖代々からの家族」という長編物語を背負いきれなくなっています。その結果、家族墓を手放し、自分の人生という短編物語を刻むお墓としての永代墓に移っています。お寺がなすべきことは、長編物語を編み直す編集者として、檀信徒の複雑化した家族の物語の再編集を手伝うことです。

 

井出 別の見方をすれば、永代供養墓は血縁に依らない「仏の家族」の集団墓であるとも言えます。住職は人を惹きつけることに長けている必要がありますね。いずれにしても、これからのお寺に重要なお墓戦略の基本方針は、「家」から「個」へという大きな流れの中で永代墓の重要性が増しつつも、永代墓のみで完結するということではなく、家族墓の選択肢も用意した上で、相手の主体的な選択に寄り添うことが大事です。家族墓しか選択肢がないと、行き詰まる人もいます。逆に、最初は永代供養墓が自分にはベストな選択だと思っていた人が、住職との対話を通じて、「やっぱり家族墓のほうがいいね」ということにもなりえます。

 

松本 未来の住職塾でも人の集まる永代供養墓づくりの通信講座を開いていますが、「永代墓をどうするか」だけでなく、「今後のお墓戦略全体をどう設計するか」「お寺の将来ビジョンをどう描くか」という大きな視点から考えることを大事にしています。流行に飛びついて目先の取り組みに終わってしまえば、永代どころか20〜30年でお寺が終わることにもなりかねません。

 

井出 ・・・ぶっちゃけ話から、最後はやっぱり堅い話になっちゃったね。

 

松本 すみません、ついつい。ちょうど今、未来の住職塾の通信講座「人の集まる永代供養墓教室」のお申し込み受付中なので、ぜひお寺関係の皆さんは、ご活用ください! 通信講座ながら、成功事例の見学スクーリングも予定しています。1泊2日で私もご一緒しますので、一晩中、お墓について語り合いましょう!(笑)



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