とうもろこしのすりながし寄せ
2011年06月25日
梅雨の季節に楽しみにしているものがふたつある。ひとつは梅。もうひとつはとうもろこし。
とうもろこしは実によく人間を助けてくれる。
主食といえば日本では米だけど、とうもろこしを主食にしている地域は非常に多い。私の暮らしていたカリフォルニのすぐ隣はメキシコだが、メキシコの食事にはとうもろこしが欠かせない。それほど豊かでない土地でも強く育ち、加工しやすいとうもろこしは、それこそ人類の始まりの頃から世界各地で食されており、遺跡からその痕跡が見つかることも少なくないのだ。
古今問わずたくさんの人が食べているということは、とうもろこしを豆乳で煮たものをミキサーにかける。
私の祖父が亡くなったのは6年前の6月のこと。晩年の祖父を思うとき、必ず思い出されるのがそら豆だ。年が明ける頃、薄皮のそら豆が出まわる。このそら豆は大変柔らかく、茹でると皮ごと食べられるのだ。祖父がまだ元気で一緒に食卓を囲んでいた頃、齢のためか既に目が悪かった祖父は自分で皮を向くのが難儀で、しかも総入れ歯で少しで固い物は食べにくそうにしていた。それで、この小さくて柔らかい薄皮のそら豆を好んで食べていたのだった。
今、我が家には0歳、2歳、4歳の娘達がいる。やはり我々大人と全く同じ物が食べられるわけではなく、辛い物、苦い物、固い物は食べられないし、自分で皮を剥いて食べるようなものも苦手だ。そこへいくと、老人だった祖父の好んだ薄皮のそら豆は、幼い娘達にも無理なくおいしく食べられる食材だと気づく。
私の目指す「仏料理」の一つの指標として、「食のユニバーサルデザイン」がある。老人だから、子供だからと言って、皆と違う食材や違う調理の物を出すのではなく、誰でも無理なくおいしく食べられる物を出そうというものだ。まさにこの薄皮のそら豆がそうだし、調理にひと工夫すれば、苦い、固いといった食材でもユニバーサルデザインになり得る。
0歳の赤ん坊から60代後半の父までの幅広い年齢層が暮らす中で、日頃から自然とそれを頭において料理しているが、祖父の命日が近づき、その思いをいっそう確かにした。
とろこで、フキノトウにしろタラの芽にしろ、春野菜の苦みは、「命」そのものなのだという話を聞いたことがある。冬の間ずっと雪の下に隠れていたのが、ようやく春になり、これから花を咲かせていく。そういう生命の息吹が成長のエネルギーであり、そのエネルギーはとても強いものだから苦く感じるのだと。
どんな時代でも時の流れが淀むことはなく、季節は確実に移り変わっていく。暗く厳しい冬も、時が満ちれば必ず穏やかな春を迎える。そして夏を迎え秋を迎える。何もしないでも、季節は移ろうのだ。しかし、訪れる季節により強く美しく生きようとする力は、春野菜がそうであるように、その生き物の内にあるのもまた真実である。重い大地を突き破り、堅いつぼみを押し広げる力は、そのものの内側から溢れ出てくるものなのだ。混迷の中からも一歩踏み出し、絶えることのない季節の移り変わりを、力強く、希望のうちに歩んでいきたい。
春野菜を噛みしめじわりと広がる苦みは、わたし達にそんな勇気と覚悟を思い出させてくれる気がする。
さて、天ぷらを上手に揚げるコツは天ぷらの衣をしっかり冷やしておくことと衣を混ぜすぎないことに尽きる。よく解いた卵に水を加えた卵水を冷蔵庫で冷やしておき、揚げる直前に小麦粉を加える。小麦粉はダマが残るくらいがちょうどいい。良く混ぜすぎるとフリッターのようにごわっとした衣になり、天ぷららしからぬ体になる。天ぷらの種を冷たい衣にさっとくぐらせカラッと揚げる。これが上手にできたときはなんとも言えず嬉しい気持ちになる。
里芋や筍など、一度炊いて味を含ませたものは表面に片栗粉を薄くまぶしてさっとあげるとカリッとした唐揚げができるのだが、これもまた美味しい。

青江覚峰 (あおえ かくほう) >>プロフィールを読む 浄土真宗東本願寺派緑泉寺 副住職。1977年東京生まれ。カリフォルニア州立大学よりMBA取得。超宗派の僧侶達が集うウェブサイト「彼岸寺」を運営。料理僧として料理、食育に取り組む。お寺発のブラインドレストラン「暗闇ごはん」を主催。










