第15回:全部うそさ、そんなもんさ(リゾ・ラバ)

第15回:全部うそさ、そんなもんさ(リゾ・ラバ)
(写真は爆風スランプ『リゾ・ラバ』のジャケットを意識しています)

池口:立春も過ぎましたが、辻村さん、今年の夢とかありますか?

辻村:そうですね〜、夢見心地で気持ちよく過ごしていきたいです!

池口:それって眠っているときに見る「夢」のほうですよね。もっと地に足ついたような現実の夢はないんですか?

辻村:「夢」ですから、地に足付かないのがいいんじゃないですか(笑)

池口:でも覚めない夢はないですよ。まぁ、私たちが起きているときに見ている世界も、夢の如くだといえるかもしれませんけれど。

辻村:中学高校の頃、目の前にいる人たちやモノはすべて脳が造り出した幻想なんじゃないかって考えたことありません?

池口:ありますよ。世界の成り立ちについて考えていた時期は、どこまでが脳内のイメージで、どこから先がリアリティなのかわからず悩みましたね。

辻村:目の前にあるモノは外界にほんとうに実在するのか?って問いは、仏教の中心的な問題意識でもあったんですよね。説一切有部は素直に実在すると考える。経量部も実在すると考えるけど、それは直接外界を認識しているんじゃなくて、あくまで実在すると推理せざるを得ないという。つまり僕らが見ているモノは意識に投影されているイメージを認識しているだけで(自証)、モノそれ自体を直接認識しているわけではない。でも投影されたイメージがあるってことは、その元になるモノが外界に存在しているはずだ、というわけですね。その経量部が唱えるカルマの種子説は、心の流れが一切止まる瞑想(滅尽定)を想定した時に行き詰まってしまう、というのが前回までの話でした。

池口:この経量部の立場を一歩進めたのが、唯識学派ですね。「ただ識のみ」という学派の名称が示すとおりですが、私たちは意識に浮かび上がってきているイメージを見ているに過ぎないので、外界の対象が存在するかどうかはわからないし、論者によっては外界が実在することを否定的にとらえるわけですね。虚無論っぽい感じもしますが、要は、心のあり方によって世界の見え方が変わってくることを論じたかったのだと思います。
それで、この唯識学派では、表層的な意識と深層的な意識を分けて考え、後者を「阿頼耶識」(あらやしき)と呼びます。『解深密経』によれば、「一切種子の心識(=阿頼耶識)成熟し、展転和合し、増長広大して、二(=五つの感覚器官と行為の種子)の執受(=保持、掌握)に依る」[T0676_.16.0692b11-12]とあります。つまり、私たちのいわゆる意識では気づいていないけれども、阿頼耶識は感覚器官や行為のなかに宿ってなんらかの影響を与えていると。

辻村:『解深密経』では、阿頼耶識を「阿陀那識」や「心」とも呼んでいます。「阿陀那識」は「取る意識」という意味で、「身体を保持し受け取るからである」[19a7]と説明されたり、「心」と呼ばれるのは、「色形・音・香り・味・触覚の対象といった現象をすべて集積し、完全に確立するからである」[19b1-2]と説明されたりします。これらの定義からすると、僕らが今見ているパソコンや、聞いている音楽、オレンジジュースのすっきりした香りと甘酸っぱさ、クリックしているマウスの手触りといった感覚の対象となる諸現象や、感覚の主体となる身体の、「すべての基盤」(阿頼耶)という感じですかね。

池口:『大乗成業論』には、「此の識(=阿頼耶識)は間断なきに由るが故に、無心位に於ても亦た、有心と名づく」[T1609_.31.0784c03-04]とあります。滅尽定に入っているときも阿頼耶識は絶えず続いているわけですね。そして、禅定から出るときには、「初めに識種より意識が還生し、後位に縁に随いて、余識は漸く起る」[T1609_.31.0784c13-14]、つまり、阿頼耶識が表層的な識をふたたびもたらしてくれるわけです(佐藤 1990(1978): 206-213)。

辻村:最近寒すぎて毎朝起きづらいので、いっそのこと春まで滅尽定に入ってたいです(笑)

池口:そうすると、冬眠中の熊とかは、さとりにかなり近い存在ってことですかねぇ(笑)

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<参考文献>
佐藤密雄訳 1990(1978)『佛典講座41 大乗成業論』、大蔵出版

<今日の一曲>


スートラ1980 (すーとら1980)
>>プロフィールを読む 「フリースタイルな僧侶たち」の池口龍法(代表)と辻村優英で構成される。現代社会の日常的視点から経典を読む「経典をナナメから読む会」を2011年12月より毎月主催している。