世界経済フォーラム体験記2(松本紹圭)

世界経済フォーラム体験記2(松本紹圭)
スイスで開かれた世界経済フォーラム 2015年次総会と、
合わせて開催されたYoung Global Leadersのミーティングに
参加させていただきました。
(写真はYGLミーティングでお話しされたアル・ゴアさんです)

このフォーラムは通称「ダボス会議」と呼ばれていますが、
何か結論を出すための会議をする場というよりは、
特定の国の政府が主催するのではない比較的フラットな枠組みの中で、
国を超えて経済人や政治家や学者や文化人(そして少しの宗教者)が集い、
対話を重ねて互いの理解を深める場であると理解しました。
私も宗教者を中心にさまざまな人と対話をさせていただきました。

以下、今回の学びを3点にまとめてご報告します。

【Think global, act local】


日本でもときどき見かけるスローガンに、
「Think global, act local」
(グローバルに考えて、ローカルに行動しよう)
というものがあります。
グローバルというと何か遠い世界のことのように
感じてしまいますが、とてもローカルだけれど確かな歩みをしている
草の根活動(たとえば未来の住職塾のような)こそが、
実はグローバルに大きな影響を与えていくんだということを
目の当たりにした一週間でした。

今回私は主に宗教者との直接対話を中心に動いてきたので、
大きなカンファレンスなどはほとんど出席しなかったのですが、
たまたま時間が合い、メルケル首相の演説を聞く機会がありました。
テクノロジー産業の未来などが主題ではありましたが、
ギリシアやフランスなど近隣諸国の直近の課題などにも積極的に触れ、
立ち位置としてはドイツ首相というよりEUあるいはヨーロッパの未来に
責任を持つという気概を言葉の力強さ(ドイツ語でしたが)から感じ、
感銘を受けました。

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戦後こつこつと積み重ねてきたドイツの国際社会における
努力の成果が今表れているのだと思いますが、
翻ってアジアに目を向けてみると、そのようなリーダーシップの
あり方は未だ見当たらないことに気がつきます。
昨年のダボス(私は参加していませんが)では、
日本の安倍首相がメインスピーチをされました。
そのときのキーメッセージは「Japan is back」でした。
東日本大震災からの復興という意味も含みながら、
基本的にはアベノミクス、(再び)強くなった日本経済を
印象づけたかったのだと思います。
もちろん、一国の首相として自国を世界に売り込むことは
大切な仕事のひとつでしょう。
しかし、これほど世界が国境を超えてつながりを強める
ボーダーレスな時代において、隣人との共存共栄、
さらには世界との共存共栄のビジョンなくして、
自国の未来の繁栄を語ることはできません。
その意味では、強い日本というとき、
その強さはどういう種類の強さであるべきなのか。
日本のみならずアジア地域全体の平和と繁栄に責任を持つような、
そういう強さこそが必要なのではないかと思いました。

日本国内に居りますと、自分も容易に陥ってしまうことですが、
「日本人である」ということに誇りを持ちたい気持ちが勝り、
他国と比べて、近隣諸国と比べて、日本の優位性、日本人の優位性を示す
何かしらの材料を無理やりにでも探そうとしてしまうことがあります。
昨今、「こんなに素晴らしい日本」をアピールするTV番組も増えていますね。
もちろん、さまざまな縁が重なってそこに生まれること・住むことになった
日本という土地や人々に誇りを持つことはまったく否定しません。
他国の人に負けないくらい、日本の人たちもそれぞれに愛郷心を持つなら、
それは素晴らしいことです。

でもきっと、今私たちが持つべき誇りは
自分が「日本人である」ということに対してではなくて、
「縁あって日本人として暮らす地球市民である」
ということに対してではないでしょうか。

これほど世界が相互に影響をし合うグローバル社会になっても、
未だ世界の枠組みは国民国家であり、
それを超克する確かな枠組みは生まれていません。
しかし、枠組みは何であれ、枠組みや仕組みというものは
人間が作る限り完璧なものはありえません。
優れた枠組みや仕組みが生まれることを待っていては
いつまで経っても始まりませんから、個人レベルの意識から、
少しずつ世界の見方・あり方が変わっていく他は
ないのだと思います。

ときに「ガラパゴス」などと言われる(自称もする)日本ですが、
国土が海に囲まれているだけであって、
実際には世界ともすごくつながっているし、
無理やりに自国の文化の良さや違いを探さなくても
十分にユニークな素材がたくさんあります。
日本の文化そのものを日本人として世界に向かって発信するというよりは、
日本の文化から学ぶべき素材を、
日本を故郷とする一人の地球市民として十分に享受した上で、
同じく他の文化圏に属する人にも尊敬をもちながら
相互に学び合うことが大切なのではないでしょうか。

地球市民とは、英語が話せる人でも、
飛行機に乗っている時間が長い人でもありません。
立ち位置と視野の問題です。
その視野は地上からどれだけ高く上を見上げているかではなく、
宇宙から地球を見下ろしながらも、同時に自分の立っている地面に
しっかりと足がついているかどうかということです。
スーパースターの出現ではなく、地球に立っている
一人ひとりのリーダーシップが求められていることを
強く感じました。



【宗教リテラシー教育の重要性】


世界には宗教に関わるさまざまな紛争・戦争が絶えません。
まさに今、日本もイスラム国の脅威にさらされています。
とはいえ、仏教・キリスト教・イスラム教のような
世界宗教と呼ばれる普遍性を持つ宗教ならば、
本来どれひとつとして人殺しを勧めるような教えはありません。
にも関わらず、宗教を背景とした紛争がこれほど多いのは、
宗教に対する社会の無理解と、自己の利益のためには
あらゆるものを使う人間の業が絡み合っているのでしょう。
ムスリム世界のリーダーの方ともお話しさせていただきましたが、
宗教に対する誤った教育を押し付けられた子どもたちが
テロや戦争に巻き込まれていく現状をとても憂いていました。

今回のダボスで感じたのは、そのような宗教の現状を踏まえ、
今後世界的に「宗教教育」が重要になってくるということです。
といっても、いわゆる「布教」のようなかたちで
特定の宗教・宗派の教えを熱心に説くという教育ではなく、
「宗教とは何か」「宗教現象のメカニズムはどうなっているか」
「主要な世界宗教の基本的な教えや価値観はどのようなものか」
といった広い視点から宗教について学ぶ教育です。
(ITリテラシーに例えるなら、宗教リテラシー、と呼べます)
これは最終的にはいわゆる一般の方々にも広めるべきものですが、
それ以前にまず僧侶や牧師や神学者など宗教界に身を置く人自身が
学ぶ必要があります。
世界中どの宗教を見ても、宗教家の立場にありながら、
自分の属する宗教・宗派の教えしか知らず、他宗教に対する
正しい理解ができていない人が少なくはないからです。

ご年配のムスリムの指導的学者の方を中心に開かれた
少人数の会議に参加させていただいたのですが、
私は「宗教者に対する宗教リテラシー教育の必要性」
について発言をしました。
そうしたら、会議のまとめの際にそのムスリムの学者さんが
私のほうを指差して、通訳の方になにやら話しを始めたので、
「あれ、自分、何かマズいこと言ったかな?」と少々焦ったのですが、
「あの日本のブッディストの言ったことはまさしくその通りだ」
という賛同だったので、ホッとしました。

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同じく会議に出席していた仏教僧のマシュー・リカールさんが
「基本的に、人を殺して良いという宗教などどこにもない」
という発言をされました通り、宗教そのものは基本的に
とても平和的なものです。
また、最近よく使われる「radicalization(先鋭化)」という
言葉について、クリスチャンの方が問題提起されました。
もし宗教が正しく先鋭化するのであれば、それは平和になると
いうことであり、人が宗教を背景にテロなどに走るのは、
宗教の先鋭化ではなくて、宗教の誤解であるという趣旨でした。
そして、そのように宗教を誤解してテロなどに走る子どもたちは
ほぼ90%、社会的弱者であり、
99%のムスリムは平和を望んでいるという指摘もありました。
宗教は問題の原因ではなくソリューション(解決法)にならなくては
ならないし、そのためには宗教(リテラシー)を正しく理解する人が
ナラティヴ(言説)を広げて、理解者を一定数の規模に増やしていく
ことが必要だというコメントで、会議は締めくくられました。

教育は短期間で成し遂げられるものではありませんが、
だからこそ草の根からコツコツと少しずつでも
確実に努力を積み上げていく必要があります。
何事も、魔法の解決法はありません。


【世界から見た未来の住職塾の意義とこれからの僧侶の役割】


ところで、宗教リテラシー教育において
とても大事になってくるのが、宗教間の対話です。
英語で「inter-faith dialogue」などと言いますが、
今回のダボス会議でも宗教間の対話の重要性が至るところで
強調されていました。

なぜ、宗教間で対話をすることが大事なのか。
紛争や戦争の背景にある人々の価値観を理解するためには、
その宗教の教えについて学ぶだけでは不十分だからです。
身近なところでは、たとえばいくら日本仏教の本を読んでも
実際の日本のお坊さんがふだん何をしていて何を考えて
どういう行動原理や価値観を持っているのか分かりませんよね。
実際に出会って話をしたり時間を共に過ごすことが重要です。

しかし、言うは易しで、実際に宗教者の間で
宗教リテラシーを高める学びの機会を作るのは、案外大変です。
たとえ宗教間対話を重ねたとしても、もともとバランス感覚の
優れた人でなければ、結局最後には「うちの教えだけが正しい」
「相手の教えより優れている」「自分と相手の教えはここが違う」
となってしまい、ネガティブな意識を拭いさることは難しいものです。

しかし、ここで思い出されるのが未来の住職塾です。
私自身、未来の住職塾を始めてからこの3年間のうちに
サンガ(卒業生)の皆さんとの深い対話を通じて、
ずいぶんよくさまざまな宗派のことを理解するようになりました。
各宗派の教義や仕組みに関する知識も増えましたが、
それ以上に、その宗派のお坊さんが実際にふだんどんなことを
していてどんな価値観を持って行動しているのか、実際に
そのお寺の現場を訪れて生の声を聞かせていただいているのが
とても大きな経験となっています。
人と人との深い相互理解は単に本を読んで得られるようなものではなく、
厳しい体験や真剣な議論の時間を共に重ねてこそ、
尊敬の念とともに育まれるものであることを、
私は未来の住職塾において身を以て知りました。
未来の住職塾の本科に参加された方で、参加する前と後では、
他宗派に対する見方や接し方が変わったという方は
決して少なくないはずです。

つまり未来の住職塾は、思いがけずも参加者にとって
「宗教リテラシー」を高める場になっているのです。
教義の解釈ではなく「お寺のあり方」に焦点を当てることにより、
通常ならばなかなか難しい他宗教・他宗派が仲間となって
同じテーブルにつき、寺業計画についてかなり真剣な議論を重ね、
尊敬とともに相互理解を深めることが実現されています。
もちろん、このことは日本仏教のユニークなあり方を前提として
成り立っているのですが、世界がこれから宗教リテラシーを
高めるための教育を考える上で、ひとつ重要な示唆を与えてくれます。
今回のダボスでも多くの方に未来の住職塾サンガの話をしましたが、
皆さんとても驚き、インスピレーションを得ていました。

そのようなことを踏まえると、
これからの職業的僧侶あるいは宗教者の役割としては、
属する特定の宗教・宗派の教えを説くことよりも、
より普遍的な視点から宗教・霊性の先生となることが
強く求められるようになるのではないかと思います。
所属する宗教・宗派の信者を増やすことに目標を置くのではなく、
縁のあるコミュニティにおける宗教リテラシー向上の教育に
責任を持つような宗教者のあり方です。
といっても、個人の信仰・信心を軽視するわけではありません。
宗教リテラシー向上には知識だけでなく個人レベルでの対話も
欠かせないことを考えると、その宗教者自身が個人として信仰を
しっかり持っていないと、良い先生にはなれないでしょう。

これからの仏教僧侶のあり方としてまとめるならば、
一般市民に対しては仏教だけでなくより広い意味での
宗教・霊性の先生として普遍的に語る力を持ちながら、
同時に求めに応じて自己自身の信心について深く語り、
対話する力を身につけることが必要になるでしょう。

もうひとつ、これから宗教・宗派を超えて
宗教全般について学ぶ宗教リテラシー教育といった
ユニバーサルな取り組みが増えてくることと思います。
しかし、どうしても人間がやることなので仕方ないのですが、
せっかく良い取り組みを皆でやろうとしていても、
最後には「うちの宗教・宗派・組織が中心でなければダメだ」といった
エゴが出てきて取り組みが進まないことが少なくありません。
そのとき、きっと仏教徒の役割としてきっと重要になるのは、
「こだわらず相手の土俵に乗る」「積極的に他宗教のテーブルにつく」
ことであるかもしれません。

宗教ごとの寛容性や柔軟性は教義そのものよりも
個人のポリシーや感性に依るところが大きいです。
なので、一括りにして語ることはできません。
ただ、いわゆる一神教の宗教に比べて仏教は、
行動に柔軟性を持ちやすいのも確かだと思います。
誰が、どの組織が主導権を持つかにこだわらず、
むしろどんどん積極的に他宗教が用意した枠組みに
乗っかりながら必要な活動を広げていく捨て身の身軽さに、
仏教徒としての誇りを持ちたいです。

仏教は仏の教えであると同時に、
人間が仏になる教えです。
それはつまり、仏教には「人間のままではダメなんだ」という
考え方が内包されているということです。
仏教はヒューマニズムとは違います。
放っておけば自己中心的な視野狭窄に陥ってしまう自己を律し、
広くて深い仏の目を持って、地球市民として考えていくこと。
同時に、そうは言っても人はあくまでも人ですから、
人間社会において地に足のついたローカルな行動を、
こつこつと積み重ねていくこと。
「Think global, act local」とは菩薩道のことなのかも知れません。


以上、3つの気づきを書かせていただきました。
今回はまさしく未来の住職塾のおかげで参加させて
いただくことのできた今回の世界経済フォーラムでした。
本当に良い機会を与えてくださり、ありがとうございました。
この場を借りて皆さんに御礼申し上げます。


ーーーー

最後に:
今回の記事を書きながら思い出したのですが、
ずいぶん前に似たようなことを考えて本に書いていたので、
そのページを抜き出したものをこちらに貼付けます。
ちょうど5年ほど前の記事になりますので、ご参考まで。


宗教リテラシー教育のすすめ
<出典:『お坊さん革命』(講談社プラスα新書)松本紹圭 2010年3月>

  「日本人のこころが失われたのは見えないものを敬い大切にする宗教的感性が失われたからだ。これからは宗教教育にもっと力を入れていかなければいけない」という議論をしばしば耳にする。実際、日本の公教育で宗教を学ぶ機会はほとんどない。
 たしかに公立の学校は公共の機関だから特定の宗教に偏った教育はすべきではないだろう。もちろん宗教に関する歴史的な出来事について知識として触れていくことは必要だが、少なくとも布教的な仕方で宗教を教えることは学校でやるべきことではないと思う。
 しかし、一般論として「宗教は大切です、見えないものを敬い大切にしなさい」というばかりでは宗教教育にならない。第一、子どもたちは納得できないことは受け入れられない。見えないものを敬うことが大切だと学校で教えられても、先生が理由と目的を明確に合理的に説明できなければ、今の子どもたちは見向きもしないのではないだろうか。他の科目は「なぜ? どうして?」の疑問を持つことを推奨されているのに、宗教の授業だけ「大事だから大事」というわけにはいかない。「いのちは大切だ、宗教は大切だ。なぜかって? 大切だから大切なんだ」という種類の教育は、家庭の教育の中で行われるべきだ。

 逆説的だが、もし学校で宗教教育をしたければ、宗教というものについて徹底的に合理的・科学的・文化的・歴史的な視点から客観的・批判的に評価するための教育を、いわば宗教リテラシー教育を行なうことが、最終的には日本人の宗教性を底上げすることになるのではないかと思う。人心が荒廃している理由を宗教に対する不信心に帰するとしても、だからといって何でもかんでも宗教を信じる心を養えばよいというものではない。

 つまり日本の学校教育が抱える宗教に関する問題は、宗教の大切さを教えていないことではなくて、宗教に対する批判的精神を養っていないことにあるのだ。「宗教は大切です」と説くのではなく、「なぜそれを求める人がいるのか」を知ることのほうがはるかに意味がある。宗教現象を正しく理解してそれに対する自分の立ち位置を確認し、うまく付き合っていくための知識と技術こそ必要なのではないか。それが足りないから、宗教そのものを毛嫌いする人や、エセ宗教に騙される人が後を絶たないのだ。

 子どもたちに自衛の手段を提供する目的で、義務教育における宗教リテラシー教育として「マインドコントロールのメカニズム」という講義を学校で行ったとしても宗教関係者から文句は出ないだろう。真に価値ある宗教ならどんな切り口にも耐えられるはずである。宗教に関する正確な知識を提供し批判的な視点を養うことが、結果的に日本人全体の宗教的感性の向上に貢献するはずだだろう。

松本紹圭 (まつもと しょうけい)
>>プロフィールを読む 1979年北海道生まれ。本名、圭介。浄土真宗本願寺派光明寺僧侶。一般社団法人お寺の未来理事。東京大学文学部哲学科卒業。超宗派仏教徒のウェブサイト『彼岸寺』(higan.net)を設立し、お寺カフェ『神谷町オープンテラス』を運営。Indian School of BusinessでMBA取得。2012年、若手住職向けにお寺の経営を指南する「未来の住職塾」を開講。2013年、世界経済フォーラム(ダボス会議)のYoung Global Leaderに選出される。著書多数。近著に『お寺の教科書-未来の住職塾が開く、これからのお寺の100年-』(徳間書店)。