慚愧

慚愧


「無慚愧(むざんぎ)は名づけて人とせず、名づけて畜生とす」 『涅槃経』


今週の仏教語は『涅槃経』の一節よりいただきました。『涅槃経』は釈尊臨終の教えと言われるお経です。今回は「慚愧(ざんぎ・ざんき)」という言葉についてのお言葉です。


この「慚愧」という言葉、皆さんも一度は耳にしたことがある言葉ではないでしょうか。そう、政治家や役人の答弁などで「慚愧に堪えません」という言い回しで使われますよね。その場合は、残念さや反省を表すニュアンスで使われるようですが、「無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす」、つまり慚愧の無いものは人ではないと示されるように、「慚愧」という言葉には、口先だけの反省などとは比べ物にならないほどの重みがあるものです。そして今回の仏教語の前には、「慚愧」の意味がこのように示されています。


〈二つの白法あり、よく衆生を救(たす)く。一つには慚、二つには愧なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞(は)づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく〉


ここには、「慚」とは罪を作らないようにと思う心であり、「愧」とは人にも罪を作らせないようにとするはたらきであると示されます。自らの愚かな行いを深く恥じ入り(=慚)、その深い深い反省の姿勢が、どうか自分以外の人には、同じ過ちを犯してほしくないという慈しみの心となり、人にも自らの愚かさを気付かせる(=愧)ものとなる、これが「慚愧」という心です。そしてまた人にも、そして天にも恥じ入るほどの心であると示されます。


そして「慚愧」とは、失敗や過ちに対する、ただ一度の反省ではありません。なぜならば、「慚愧」しなければならないのは、私たちの在り方そのものに原因があるからです。貪り、怒り、何事も自分の思い通りになるという誤った想い、すなはち「貪・瞋・癡(とん・じん・ち)」の三毒の煩悩を行動の元にし続ける限り、私たちの在り方はどう転んでも、愚かな行いにしか繋がっていきません。そんな在り方しかできないからこそ、「慚愧」というものが大切となってきます。どれだけ反省しても、改めきることのできない愚かしさが自分の中にある。そのことに向き合い続け、恥じ入り続けることこそが「慚愧」なのです。


けれどそのような深い深い自己への反省は、自分は常に正しいという誤った思いを抱えた私の心から自然と湧き起こってくるものではありません。「慚愧」という深い反省は、仏法に我が身の真実の在り方を照らされて初めて、揺り起こされてくるものなのです。


そして「慚愧」という心が揺り動かされたならば、人が罪を犯した姿からも、同じ罪を犯しかねない要素が私にも具わっていることが見えてくることでしょう。それは悪いことをした人を、反面教師にすることではありません。反面教師にするということは、「私はそうならないようにしよう」と思うことです。それは、自分にはまだ悪性はない、自分は正しい人間である、と考えているということ。そうではなく、罪を犯した人、愚かな行いをしてしまった人と、同じような恐ろしいものが実は私の中にもあるのだと、厳しく自分自身を見つめていく。それも「慚愧」という姿勢の一つと言えるのだと思います。


慚愧していくこと。それはそのまま、「仏教に生きる」ということなのかもしれませんね。


日下賢裕 (くさか けんゆう)
>>プロフィールを読む 1979年、石川県生まれ。浄土真宗本願寺派の僧侶、布教使。 広島大学人文学部東洋史学科卒業後、本願寺派の教育機関である中央仏教学院、伝道院にて仏教を学ぶ。 現在は故郷の山中温泉にて、本願寺派の若手僧侶が作るサイト「メリシャカ」や「彼岸寺」との関わりを通して、仏教を外に発信するとともに、地元の人たちに愛されるお寺作りに挑戦中。