天上天下唯我独尊

天上天下唯我独尊


「天上天下唯我独尊 三界皆苦吾当安之」


すっかりご無沙汰してしまいましたが、今日は4月8日、お釈迦さまご誕生をお祝いする日です。ということで、今回はお釈迦さま誕生の時に発せられたという伝説のある言葉を味わってみたいと思います。


「天上天下唯我独尊」という言葉、きっと皆さんも一度はどこかで見聞きしたことがある言葉なのではないでしょうか。私も子どもの頃に「花まつり」のお話でよく聞いたものですが、不良が登場するマンガで、特攻服に刺繍されている言葉で出会った、なんて方もひょっとしたらおられるかもしれません。


この「天上天下唯我独尊」という言葉は、「天の上にも、天の下にも、ただ私一人尊い」という意味になるのですが、お釈迦さまがお生まれになった時に、七歩歩んで自ら宣言された、という伝説があります。生まれたばかりの赤ちゃんが七歩歩むとか、言葉を発するとか、あまりに非現実的なエピソードではありますが、その点はちょっと置いておくとしても、自ら自分が一番尊いと宣言するのは、なんとも尊大であると感じられます。そのようなイメージから、この言葉はしばしば誤解されて、「俺が一番偉いんだ!」ということを表す言葉として誤用されたり、特攻服に刺繍されるようになってしまいました。


確かに、私たちの感覚で考えれば、自ら「自分が最も尊い」などど言えば、不遜であり、かえって愚かさを標榜しているようなものであると感じられますが、この「天上天下唯我独尊」という言葉は、そのような傲慢な言葉ではありません。この言葉には、実は続きがあるのです。


それが、「三界皆苦吾当安之(さんがいかいくがとうあんし)」という言葉。これは三界(欲界・色界・無色界)、つまりあらゆる世界はみな「苦」にあえぐ世界であり、私がその「苦」を安らかにする、解決する、ということを表しています。この部分をしっかりと読めば、「天上天下唯我独尊」という言葉も、少し意味が変わってきます。つまり、あらゆる世界の、苦にあえぐあらゆる命に安らぎをもたらす、そういう尊い存在に私はなっていこうとする、お釈迦さま(まだ悟りを開く前の一人の赤子ですが)の決意表明と味わうことができるのではないでしょうか。


この「天上天下唯我独尊 三界皆苦吾当安之」という言葉は、『修行発起経』というお経の中に出てくるそうですが、三蔵法師として有名な玄奘の『大唐西域記』には、「天上天下唯我独尊 今茲而往生分已尽(こんじにおうじょうぶんいじん)」と記されているそうです。この「今茲而往生分已尽」というのは、今ここ、この命で、迷いの輪廻から離れ、再び輪廻することはない」ということを表している言葉です。つまり、この命で必ず解脱を成し遂げよう=仏となろう、そういう尊い存在に私はなっていこう、というのが、この『大唐西域記』にある「天上天下唯我独尊」の意味となります。


どちらにせよ、この「天上天下唯我独尊」という言葉は、傲慢な意味の言葉ではなく、苦しみの世界を輪廻することから離れ、そしてその苦しみから解放されるための安心の教えを、あらゆる命のために開いていこう、そのような仏教の原点が表された言葉であるのです。


今日4月8日は、お釈迦さまが誕生された日。それはつまり、仏教という大樹の種が発芽した日とも言えるでしょう。仏教の原点のこの日に、改めてこの「天上天下唯我独尊 三界皆苦吾当安之」、あるいは「天上天下唯我独尊 今茲而往生分已尽」という言葉から、仏教の原点を感じていただけたらと思います。



※「天上天下唯我独尊」については、他にも『長阿含経』の中の『大本経』に「天上天下唯我為尊 要度衆生生老病死」ともあり、「三界皆苦吾当安之」とほぼ同じ内容を表しています。他にも、パーリ語の文献などには、『大唐西域記』と同じように、解脱者として尊いということが説かれております。


日下賢裕 (くさか けんゆう)
>>プロフィールを読む 1979年、石川県生まれ。浄土真宗本願寺派の僧侶、布教使。 広島大学人文学部東洋史学科卒業後、本願寺派の教育機関である中央仏教学院、伝道院にて仏教を学ぶ。 現在は故郷の山中温泉にて、本願寺派の若手僧侶が作るサイト「メリシャカ」や「彼岸寺」との関わりを通して、仏教を外に発信するとともに、地元の人たちに愛されるお寺作りに挑戦中。