料理という「ことば」で仏教を伝えるお坊さん/料理僧・青江覚峰さん(1/3)

料理という「ことば」で仏教を伝えるお坊さん/料理僧・青江覚峰さん(1/3) 『坊主めくり』をスタートして3年目、いよいよ彼岸寺のお坊さんたちをめくる時が来ました! 一人目は、料理僧として『暗闇ごはん』などのイベントを通じて仏教を伝える、KAKUさんこと青江覚峰さん。私にとっては、『坊主めくり』の企画を彼岸寺に持ち込んだときに最初にお会いしてお話したお坊さんでした。あの頃はまだ、お坊さんと話すことに慣れていなくて、緊張しながら浅草のお寺の門前に立ったのをよく覚えています。

とはいえ、KAKUさんとじっくり向き合ってお話を聴かせていただくのは初めてのこと。彼岸寺の活動を通して見聴きしていたKAKUさんの断片的なイメージが、ひとつひとつ生身のKAKUさんに結びついていって「ああ、それでKAKUさんはこういう活動を」「だからこんな風に言っていたのか」と腑に落ちるようなことがたくさんありました。おそらく、彼岸寺読者のみなさんにとっても、改めてKAKUさんを知っていただけるインタビューだと思います。今週から全3回でお届けしますのでどうぞお楽しみに!

初めての剃髪がトラウマに......


kAKUさん―小学校のアルバムより――青江さんは浅草のお寺(緑泉寺)で生まれられたんですか?
はい。兄弟がいないので、小さいころから跡継ぎとして望まれていました。それがもう嫌で嫌で。でも、小学生のころはわけがわかんなかったし、ふつうにお寺を 継ぐことを受け入れていたように思います。それこそ、大人が話しているのを聴いて言葉を覚えるのと同じように、お経や作法を覚えて育ちましたから、得度するときにも特別な勉強はまったくしなかったです。いつも詠んでいるお経の名前を「これは正信偈っていうんだよ」と覚えたくらい。「いただきます」っていうのは「合掌」って言うんだよと教わったような感じですよね。

――そんなにもお寺の生活になじんでおられたのに、「お寺を継ぐのはいやだ」と思いはじめたのはどうしてだったのでしょう。
小学校6年生の夏休みに得度をして坊主頭にしたら、新学期にみんなにやいのやいの言われてすごく傷ついたのがトラウマになってしまって。「継いでやるものか」というのが始まったのもその時からです。僕、それからずっと中学校、高校、大学の途中までロン毛だったんですよ。とにかく視界のなかに前髪が見えないと落ち着かなくなってしまったくらいです。

――お坊さんにはならないつもりで大学まで進まれて。大学のときにアメリカに留学されていますよね。
はい。大学2年生のときに1年間の交換留学でアメリカに。日本の大学はあまり勉強しないけれど、アメリカの大学は違います。留学を機に学ぶことへの姿勢が変わって、大学3、4年生では人生で初めてというくらい勉強をしました。さらに卒業後はアメリカの大学院を受験してふたたび留学をしたんです。


MBA留学――お坊さんから遠く離れて

――アメリカの大学院、しかもMBA(経営学修士/Master of Business Administration)をとりたいと思ったのはどうしてですか?
学生時代のKAKUさんひとつは、とにかくお坊さんとは正反対の生き方、いちばん距離のあるものになろう思ったから。当時の僕の考えでは、お坊さんは世間から遠ざかっていくイメージが強いけれど、経営コンサルタントは世間の中心にいて世の中を動かしている感じがあって、お坊さんとは対極にあると思っていたんですね。

当時は、大学卒業後すぐにコンサルタントになる時代ではなく、またMBAを取得できる大学も国内にはなかったので、アメリカの経営学の大学院に留学しました。もうひとつ、アメリカに行った理由は、日本にいると親やお檀家さんが「帰っておいでよ」と気軽に遊びに来るだろうし、自分もまた里心がついて戻ってきてしまうのではと危惧したからです。アメリカまで行けば、言葉の壁もあるし、わざわざアメリカまで飛行機で来て空港から知らない町まで追いかけては来ないだろうと。

――MBAを取得した後は、アメリカで仕事をするつもりでいたんですか。
そうですね。僕の専門はアントレプレナーシップ(entrepreneurship、起業)だったので、ゼミがすごく実践的で。具体的なビジネスを企画して、先生の友人の銀行の人にプレゼンをすると、「これなら何万ドル融資するよ」と本当に融資されちゃうんです。僕らのチームはアロマテラピー関連のビジネスで融資を受けることになり、在学中にアメリカ人やシンガポール人たちと起業しました。僕は、ビザの関係で就労はできませんでしたが、アメリカで起業して仕事をするとはどういうことかを、非常にリアルかつ実践的に学んでいました。

――卒業後にその会社で仕事をする可能性もあったと思うのですが、そうせずに帰国されたのはどうしてでしょう。
僕がアメリカにいた2000年に、9.11同時多発テロ事件が起きたんです。東日本大震災後の日本でも同じように感じられている方がいらっしゃると思いますが、当時の僕は胸にぽっかり穴が空いてしまい、何をするべきかを考える拠りどころもなく茫然としていました。さらには、自分が拠りどころとして持っているはずの仏教がそこになかった。ずっと食わず嫌いをしていたから。

アメリカ、そして9.11事件に問われたアイデンティティ

――では、9.11以降に仏教を拠りどころにしようと思うようになった?
カリフォルニア州立大学フレズノ校での卒業式そうではないんです。そのときの僕は、なにか大きなものに身をゆだねることを望んで、翌年の夏休みにカリフォルニア州のヨセミテ国立公園でレンジャー(公園監視員)のアルバイトをしました。今回の震災もそうですが、自然にはどうしようもなく大きな力があります。ヨセミテでは、そのすさまじい力と共存する人間の非常に厳しい覚悟を目の当たりにしました。

たとえば、カリフォルニアには夏にファイアシーズンがあって、必ずどこかで山火事がありひどいときには何か月も山が燃え続けます。でも、ヨセミテでは一切消そうとはしないんです。ところが、山にある5メートルほどの幅の道があると、そこで火事が食い止められることがあります。人間が道を作ることは自然を破壊すると同時に、自然を守る役に立つこともあるんですよね。一方で、車が通れるようにセコイヤの巨木の真ん中をくりぬくいて木を腐らせてしまうこともあって、これなんかは人間の仕業による自然破壊ですよね。

ヨセミテで、「自然vs人間」という単純な構図ではなく、自然と共存できるやり方とそうでないやり方があることを知り、そのなかで人間はどういう風に考えて生きていくのかを間近に見て経験したことは、自分にとって大きな宝になったと思います。

――9.11の翌年にヨセミテに行くまで、テロの衝撃は長く続いていたのでしょうか。
アメリカ全国でですよね。僕は留学してからずっと、アメリカはどんな国なのかよくわからなかったんです。でも、9.11事件を経て「アメリカは星条旗を大切にする人たちの国なんだ」と納得しました。テロの後、半年くらいはすべての家や建物、お店、車、学校に国旗が掲げられていて、掲げていないのは僕ら留学生だけだったんです。

アメリカは人種のるつぼと言われていて、カリフォルニアにはヒスパニック系、ベトナムから来たモン族の人も多いけれど、彼らも星条旗の半旗を掲げるのを見て、「ああ。こういうことなんだ」と思いました。僕は、気軽に星条旗を買ってきて「僕も」とする気持ちにはなれませんでした。やっぱり僕は日本人だし、いつかはちゃんと日本に帰って仏教を勉強するべきだろうという気持ちがくすぶりはじめたことを感じるようになったんですね。

――追いかけて来られないところまで逃げようとしたのに、逃げた先で仏教に直面したというか。
イメージとしてはこういう感じなんですよ。日本にいると、コアな部分に仏教があるとしてもいろんなものが付着してぶくぶくになっていて、どこに仏教があるのかわからなかったんです。でも、アメリカというまったく未知な国でいろんな文化に触れることで、あるいは「あなたの宗教は?」「信仰は?」「政治的信条は?」といろんな質問を受けることで自分がどんどん丸裸になっていくんですよね。そこで自分のなかに残っていたのは、自分が日本人であることと、バックボーンに仏教があるらしいということだけだったんです。

でも、結局僕は食わず嫌いをしてきたので、ブラックボックスがあって中には仏教が入っていることはわかっているけれど箱の開け方はわからないような感じで。あるいは、仏教という本が手のなかにあるけれど文字の読み方はわからないというか。じゃあ、MBAが終わったら一度この箱の開け方、文字の読み方を学んでみようと思って帰国しました(第2回へつづく)。

プロフィール


青江覚峰/あおえ かくほう
http://www.higan.net/apps/mt-cp.cgi?__mode=view&id=31&blog_id=58
浄 土真宗東本願寺派緑泉寺 住職。1977年東京生まれ。カリフォルニア州立大学よりMBA取得。超宗派の僧侶達が集うウェブサイト「彼岸寺」や、日本初・お寺発のブラインドレストラン「暗闇ごはん」、等を運営する組織IBA代表理事。料理僧として料理、食育に取り組む。彼岸寺では「KAKUさんの仏料理」を連載中。

緑泉寺
http://www.ryokusenji.net/
元和元年豊臣家滅亡の年、江戸に下り本郷湯島に湯島山緑泉寺として建立。当時東本願寺派は江戸神田明神下に在りしも、明暦三年正月、世にいう振袖火事により類焼、当山ことごとくに帰す。後、東本願寺とともに浅草に遷ってから今日まで連綿と法燈を継ぐ。
元和元年より昭和五十五年今現在、実に三百六十五年を閲す。大正十二年九月一日の関東大震火災、昭和二十年三月十日の第二次世界戦争の劫火により、寺宝は申すに及ばず一屋余すところなく焼尽するも幸い、古くより伝来する阿弥陀如来像並びに記録系図等消失を免れる。
昭和二十四年、焼け跡に仮堂を建立、三十三年四月、本堂の竣工を見、三十六年十一月十二日、本堂落慶法要を厳修す。
こ れより先、大正十二年九月一日の関東大震火災後、東本願寺とともに墓所を保谷市ひばりが丘の地に移し、現在に至る。当初建立の田無出張所は、五十余年の歳月に漸く老朽したため、昭和五十四年四月、西松建設株式会社設立施行により支坊建設に着手、同年十二月完成、昭和五十五年十月十九日、支坊落慶法要を厳修した。


関連タグ:暗闇ごはん 青江覚峰 彼岸寺 料理僧 緑泉寺 カテゴリ: 体験  浄土真宗 

杉本恭子 (すぎもと きょうこ)
>>プロフィールを読む 大阪生まれ東京経由京都在住のライター。同志社大学文学部社会学科新聞学専攻卒業。お寺取材を経験するうちに「お坊さん」に興味を持ちインタビューを始める。