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      <title>お寺に嫁ぐということ</title>
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      <description>寺とは縁もゆかりもなかった女の子がお坊さんと恋をして、お寺に嫁ぐ。このケース、実は最近けっこう多いんです。このコーナーでは実際にお寺に嫁いだ寺嫁（てらよめ）の視点から、恋愛・結婚・出産・子育てなど、お寺での生活について現在進行形で体験レポートしていきます。
みちこふつうのOLから思いがけず浅草のお寺に嫁ぐ。子どもと旦那（お坊さん）の世話に追われながらお寺を切り盛りする忙しい日々。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>桶で水遊び</title>
         <description>先週はわりと暖かい日が続き、赤ちゃんのお散歩も気持ちよく歩くことができました。でも、さんざん歩いて寄り道もして、けっこう疲れた様子に見えても、家に帰ってくるなり「もいっかい、おんも！」と言って、タッタッと走り出す赤ちゃん。
うーん、もう一度行ってあげたい気持ちは山々だけど、実は親のほうが疲れてしまっていたりして、なんとかなだめて家に入ろうとするのですが、なかなかうまくいきません。
そのとき、赤ちゃんが玄関先に置いてある、お墓参り用の桶に手を入れて水遊びを始めたんです。よしよし、これならつきあえると、さっそくわたしたちも水遊びの用意。桶の中の樒を抜いて、かわりに水を多めに入れてあげ、家の前の道路に置いて柄杓をわたします。
キャッキャと明るい笑い声をあげ、雄たけびとともにあちこちに水を撒き散らす赤ちゃん。あっという間に足元はびしょ濡れです。でも、本当に楽しそう。
玄関先の手軽な場所に、いつでも桶と柄杓があるなんて、家がお寺でラッキーなことです。</description>
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         <pubDate>Sun, 11 May 2008 23:22:07 +0900</pubDate>
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         <title>飽きもせず・・・</title>
         <description>子供部屋にある洋服ダンス。中にはもちろん、我が家の赤ちゃんの洋服が詰まっているわけですが、幼くても女の子なんですね、それを引っ張り出してファッションショーするのがお好きなようです。下着からズボンから帽子から、片っ端から引っ張り出して、ときには十枚近くも重ね着したりして、その姿を鏡に映してニヤーッとして。
まぁ、そこまではかわいいからいいのですが、問題はそのあと。引っ張り出すまでは簡単なんですが、もちろん一歳児にはたたんでタンスに戻すなんてできませんから、それは当然親の仕事になるわけです。
着込んだ服を脱がせて、一枚一枚たたんでタンスにしまう。何回も何回もそれを繰り返して、ようやく全部終わろうかというときになって、今度はファッションショーよりも親の真似をしたい虫がうずき出し、たった今しまったばかりの洋服を引っ張り出しては、広げてたたんでみる赤ちゃん。もちろん、ちゃんとたためてなどいません。それでも、せっせせっせとたたみ続け、ある程度たまったところで、まとめて引き出しにドサッ。そして、「できたよ」と満面の笑み。
子供の無邪気な気持ちに水を差してはいけないと、「上手にできたねー」とこちらも笑顔で答えながら、「でも、これじゃぁ引き出しが閉まらないね」と言いつつ、パッパッとたたみ直して再びタンスへ。すると、お気に入りのワンピースが目に入り、そこからまたファッションショー再開。振り出し。そして繰り返し。

とまぁ、飽きもせずそんなことを繰り返す日常です。
子供って、びっくりするほど飽きないんですよね。毎日毎日、同じぬいぐるみ、同じビデオ、同じ歌、同じ遊びに夢中になる、。けして、それしかないから仕方なく、というのではなく、本当に楽しそうに熱中して遊ぶんです。けれどよく見ていると、例えば同じぬいぐるみ相手に同じように遊んでいても、昨日とは違う言葉を話しかけていたり、同じ歌を歌ってとわたしにねだっても、昨日までは聞いているだけだったのが、今日はおぼつかないながらも一緒に歌おうとしていたりします。

我が家の赤ちゃんはまだ保育園などにも行っていませんから、彼女の世界はこのうちの中の家族だけ。それでも、限られたその狭い世界の中で、ものすごい勢いでいろんなものを吸収して成長につなげているわけです。
それに比べて、育ちきってしまったわたしの世界は、彼女の何倍も何十倍も広く、自分の思い一つでさらにいくらでも広げていくことができるのに、およそ「成長」ということになると、さっぱり広がりがありません。
もっともっとと広い世界、つまりいろんな刺激を求めても、それが欲でしかなくなり、もはや糧にはなりえていないわけです。

飽きもせず、一つのことに夢中になりながら、そこからあらゆるものを吸収していく赤ちゃんの日常に、驚きと焦りを感じずはにいられません。</description>
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         <pubDate>Sun, 04 May 2008 23:19:09 +0900</pubDate>
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         <title></title>
         <description>恥ずかしながら、数日前から風邪をひいております。
主に熱と鼻づまりに悩まされているのですが、風邪菌が目や耳にくるというのを初めて体験しました。耳は、トンネルや航空機で耳抜きがうまくいかない感じが続き、目は、かゆいような痛いような感覚で、目やにがたくさん出るんです。噂には聞いていましたが、すごく鬱陶しい症状ですね。

さて、わたしがこんな調子なので、赤ちゃん（そろそろ2歳。赤ちゃんというには、育ちすぎ）の世話はもっぱら寺の両親に任せっぱなし。朝ごはんを食べさせたあと預けて、夕飯のあとお風呂まで入れてもらってから引き取ります。食事の用意や片づけは、ＫＡＫＵがいつも以上に活躍してくれています。家族みんなが家の中にいるって、ありがたいことです。
わたしはというと、寝たり起きたりを気ままに繰り返し、こんなふうにちょこちょこパソコンをいじりながらのんびり養生させてもらっています。特に用事もないので家から、というか部屋から出ることもなく、32歳にもなって、まるで箱入り娘のような生活です。外に働きに出ないって、便利なものです。

いやぁ、会社勤めをしていた頃の自分が懐かしいです。ちょっと消極的な意味で。少々の風邪であろうと、暴風雨であろうと、暦どおりに出勤し、少なくとも定時までは会社に詰めて仕事をする。それが普通だったんですよね。
でも、以前、年末年始の休み中にインフルエンザにかかっていることに気づかず、今日は仕事始めの大事な日だからと、高熱とひどい頭痛をおして出勤したら、会社に着いてエレベーターに乗ったとたん、上昇していくときのあの気圧の変化に負けて倒れたことがあったんです。周りにいた人が社内の診療室に連れて行ってくれ、診察の結果、そのまま近所の病院に即入院。結局、職場にはずいぶんと迷惑をかけてしまいました。

お寺の暮らしにどっぷり浸かっていると、ときどき後ろめたく感じることがあります。世の中の多くの人は、雨にも負けず、風にも風邪にも負けず、規則正しく出勤して、家族団らんを犠牲にしても、会社のため社会のために、それこそ体を悪くするまで働いている。それに比べて、わたしはなんて恵まれた生活をしているんだろう、って。それでも、その恵まれた暮らしの中でも、怠惰を退け、努めて有意義な時間を過ごしていれば、後ろめたい思いなんてしないのかもしれません。
わたしがお寺での暮らしに負い目を感じてしまうのは、きっと、普段からダラダラと甘えた過ごし方をしているからなんでしょうね。

お寺の暮らしって、本当はとっても素敵なものだと思うんですよ。日の出とともに起き、日が沈んだら休む。体調がすぐれないときは活動を止め、天候が悪い日には家の中で静かに過ごす。
そんな、自然に則った穏やかな暮らしの中からこそ、「実り」というものが生まれるんじゃないかな。そんなふうに思います。

まずはしっかり風邪を治して、日ごろの生活を省みようと思います。</description>
         <link>http://www.higan.net/blog/totugu/2008/04/post_117.html</link>
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         <pubDate>Fri, 25 Apr 2008 20:13:54 +0900</pubDate>
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         <title>暗闇ごはん</title>
         <description>先日、『暗闇ごはんVol.3』が開催されました。いつもは、参加者の男女比はだいたい半々くらいなのですが、今回は定員の12名中、なんと男性はただ一人。会場はまるで女子高のような、明るく賑やかな雰囲気に包まれました。いやいや、男性が多くても、いつも十分に賑やかですが、会場に男性の声が目立つのとそうでないのとでは、やっぱりその場の感じはだいぶ違うんですよね。

もう一ついつもと違ったのは、とっても久しぶりに暖房をかけずにすんだこと。会の終盤になって、むしろ少し送風をかけましたが、空調のいらない季節になったのだと思うと、なんだか気持ちもさわやかになりますね。
『暗闇ごはん』は月一度の開催なので、使う食材にも季節の移り変わりを感じやすいものです。毎回ＫＡＫＵが何度も市場に足を運び、できるだけ新鮮で、季節感のあるものをと心がけて選んいます。参加者の方は、目隠しをしたままでの食事に、「今、自分が食べているものはなんだろう？」と、めいっぱい想像力を働かせ、周りの人と、ああでもない、こうでもないと話に花を咲かせるものですが、一つ、「この時期の旬はなんだろう？」ということに注意を払うと、正解への近道になるかもしれませんね。</description>
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         <pubDate>Sat, 19 Apr 2008 09:13:25 +0900</pubDate>
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         <title>お寺の挨拶</title>
         <description>法事などで、ご門徒さんがお寺に集まるとき。今でこそ、「こんにちは」「おはようございます」と自然に言葉が出るようになりましたが、嫁いできた頃は、いったいなんと言って声をかけたらいいのか、いつもすごく戸惑っていました。
最初に思いついた、というかなんとなく口に出たのは、「いらっしゃいませ」だったんです。自分でもなんだかしっくりこないなとは思いつつも、外からやってきた人に対して、他にかける言葉が見つからなかったんですね。
義母は、「お店じゃないんだから、『いらっしゃいませ』は変よ」と言いましたが、それじゃぁ義母はなんて言っているかと思って聞いていると、「あ、どうも」くらいの、あっさりしたやりとりで。わたしときたら、結婚したばかりの新米で、「どうも」なんて言ったところで、お互いに顔も名前も心当たりがないわけだから、「どうも」では、ちょっと心地が悪い。
それなら、普段、人に会ったときどういうシチュエーションでどんな挨拶をしているのか、考えてみました。会社であれば、まぁせいぜい午前8時とか9時とかに顔を合わせますから、「おはようございます」が自然ですよね。アルバイトしていた頃は、同僚同士ではやっぱり「おはようございます」。お客に対しては、当然「いらっしゃいませ」。それから、自宅にお客さんを招いたときも、「あら、いらっしゃい」なんて言っていました。
でも、お寺で法事などのために集まった人に対しては、どんなふうに声をかけるのが自然なんでしょう？自宅に招いたお客じゃないから、「あら、いらっしゃい」なんていう、くだけた感じはなんとなく気まずい。かと言って、ご門徒さんは、寺に買い物をしにきたわけでもないから、「いらっしゃいませ」もおかしい。でも、「こんにちは」なんて言うのは、まるで外でバッタリ会ったときの挨拶のようで、的外れな気がします。
法事が終わって、お見送りするときの挨拶にも迷いました。やっぱり、お店屋さんではないから、「ありがとうございました」は具合が悪いですし。
結局今は、お迎えするときは「おはようございます」や「こんにちは」、お見送りのときには「お疲れ様でした」「お気をつけて」などと言っています。それが正解なのかどうかわかりませんが、ずっと言い続けていると、自分でも馴染んでくるから不思議ですね。</description>
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         <pubDate>Sat, 12 Apr 2008 14:47:13 +0900</pubDate>
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         <title>新たな一歩</title>
         <description>もう、かれこれ10年以上の付き合いになるでしょうか。大のお気に入りで、ＯＬだった頃には休日に、結婚してからはそれこそ毎日のように使っていたある物が、そろそろくたびれ切って使い物にならなくなってきました。既に選手交代用に新しいものも用意して、いつでも捨てられる状態になっているのですが、あまりにも愛着があって、どうしてもサヨナラすることができずにいます。

それは、一足の靴です。

実家の母が旅行先で買ってきてくれた革製のローファー靴なのですが、誂えたようにわたしの足にぴったりで、さらに何年も履き続けるうちに、革がわたしの足になじんで、まるで自分の足のようにさえ思われてくるほどでした。なので、どこへ行くにも重宝して、普段使いはもちろん、犬の散歩やハイキングなど、あらゆる場面で大変に活躍してくれた一足でした。そんなお気に入りの靴ですから、お手入れにも気を使って、履く前には必ず防水スプレーをかけ（防水だけじゃなく、汚れにくくなる効果もあるんです！）、履いた後には汚れ落としのクリームを塗り、靴底が磨り減るとこまめに修理に出し、大事に大事に使ってきました。
ところが、ここ一年ほど、とうとう革自体が薄くやつれて、染みも大きく目立つようになり、急にくたびれた感じがしてきました。それでも頑張って使い続けていたのですが、先日、ついに革に穴が開いてしまったんです。中に履いている靴下が丸見えで、見るからにみすぼらしい雰囲気。
泣く泣く、心の中で履き納めの日を決め、新しいローファーをいつでも下ろせるように準備しました。
でも・・・。今日が最後と決めたその日から、もう一週間ほどたつのですが、まだ捨てられずにいます。さすがに履いて出かけることはありませんが、まだ玄関に置いたまま。たかが靴一足、されど靴一足、青春時代をともに過ごしてきた戦友を失うような気がして、寂しくて仕方ないんですよね。

先日、友人の結婚式に出席しました。
今日は、演劇をやっている友人の最後の舞台を観てきました。

外へ出れば、桜の花が短い隆盛の時を終え、柔らかな若芽が姿を見せ始めています。

わたしも真新しいピカピカの靴を履いて、新たな一歩を踏み出さないと、ですね。
自分の体の一部のように馴染んだ靴にお別れするのは、今でもやっぱり寂しいのですが、世の中もちょうど節目の季節。力強く安定した歩みのためには、一つのけじめが必要みたいです。
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         <pubDate>Fri, 04 Apr 2008 00:22:38 +0900</pubDate>
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         <title>頑固なショッピングモール</title>
         <description>浜松にある実家で、祖母の三回忌法要が行われました。久しぶりに親戚が集まり、ＫＡＫＵも浅草から駆けつけてくれました。
お寺での法要が終わり、自宅に場所を移しての宴会、ではなくて、お斎が設けられ、ワイワイと賑やかに話が弾みます。そのとき、どこかの席から、「今度そっちのほうに、頑固なショッピングモールができるら？」という発言が出ました。すると、ＫＡＫＵが敏感に反応しました。
「頑固なショッピングモールって、何？」と言わんばかりに、無言で目を丸くしています。
ああ、それはね、とわたしはここでの「頑固」の意味を説明しました。
浜松の方言なのですが、「頑固」には、すごいとか、大きいとか、たくさんといった意味があるんです。英語で言えば、「メガ」に相当するニュアンスですね。なので、頑固なショッピングモールとは、ものすごく大きなショッピングモールといった具合です。
他には、例えば大荷物を抱えている人に向かって、「頑固持ってきたらねぇ」なんていう使い方もあります。

ＫＡＫＵは、なるほどと納得しましたが、彼は浜松に来ると、毎回何かしら言葉の壁にぶつかるようです。生粋の江戸っ子の彼にとっては、浜松はかなり方言のキツい地域なようで、年配の人の言葉は外国語のように聞こえることもあるとか。さすがにわたしとの会話では、全く意味不明というようなことはありませんが、それでもときどきは、「僕の知らない言葉で話されているようで寂しい」なんて言われることも。
普段、在家からお寺の暮らしに飛び込んだわたしが感じている、身の置き所のなさというか、疎外感というか、違和感を、浜松では彼がひしひしと感じるているんですね。

わたしたちの結婚について語るとき、お寺の跡取り息子と、在家出身のＯＬというキーワードは外せませんが、出身地の違いというのも、日常でぶつかるギャップの大きな一因です。
実際、祖母の通夜・葬儀にＫＡＫＵが来てくれたとき、葬儀式については人並み以上の知識も経験もあると自負していた彼が、「何から何まで、今までと勝手が違うお葬式だった」と、心底驚いていました。たしかにうちの実家のある地域は、この辺り一帯でもさらに特殊な習慣の残る地域だと聞きましたが、お坊さんが面食らうほどなのですから、よっぽどですよね。

今回のお斎の席でも、飛び交う方言の中で、彼はやっぱりどことなく所在なさげに見えました。でもわたしには、そんな空気に身を置くことがなんとなく心地よく感じられたんです。久しぶりにどっぷりと浜松便に浸っていると、普段、無意識のうちに纏っている殻が剥がれ落ち、ものすごく身軽で気軽な気持ちになります。そして、そんな自分の隣で、浜松時代のわたしを知らない伴侶がちょこんと座り、ちびちびとお酒を飲っている。

窓際には、静かに微笑む祖母の遺影が置かれていました。
おばあちゃん、おばあちゃんの三回忌のおかげで、あちこちから親戚が集まってこんなに楽しくお酒を飲んでるよ。
心の中で祖母に話しかけ、「なるほど、これを仏縁と呼ばずしてなんと呼ぼう！」と、一人ふむふむと頷いたわたしでした。</description>
         <link>http://www.higan.net/blog/totugu/2008/03/post_113.html</link>
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         <pubDate>Sun, 30 Mar 2008 22:55:01 +0900</pubDate>
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         <title>それぞれの環境で</title>
         <description>今月末に、わたしの実家で祖母の三回忌が行われます。実家の菩提寺は臨済宗のお寺で、わたしが暮らす浄土真宗のこの寺とは、読むお経も、本堂の感じも全く違います。
お寺って、もちろん宗派が違えばいろんなことが異なりますし、地域や規模によっても、状況は様々なんですよね。
嫁ぐ前は、「お寺」という一括りでしかイメージがなくて、それこそアニメの一休さんや日本昔話に出てくるようなお寺しか、想像がつかなかったんです。でも、こうしてお寺に嫁いでお寺に暮らし、いろいろなお寺の方と話をするようになると、お寺というのは、こうという形のない、ある意味とても自由で開放的な場所なんだなと感じます。

先日、沖縄にある知人のお寺を訪ねました。待ち合わせ場所にやってきたそのお坊さんが乗ってきたのは、軽トラック。荷台には、何本ものロープや工具を積んで。お坊さんと軽トラックという組み合わせが意外で、ちょっと驚きました。それから気をつけてみてみると、周囲を走っている車のおよそ九割が軽自動車なんです。東京・浅草ではありえない光景です。それから、お墓の形も、わたしが知っているものとは全く違うし、場所もお寺にあるわけではなく、町中のいたるところに点在しています。本堂の前に立派なシーサー、そして、お寺から見える景色が抜けるような青い空と海というのも、新鮮な驚きでした。
さてさて、こんなふうに、目に見える違いはいくつか気づいたのですが、肝心のお話が始まると、連れて行った赤ちゃんが暴れだしてしまって、お世話に追われて全く聞かれなかったのが残念です・・・。沖縄という個性の強い土地にあって、興味深いお話がたくさん聞けるだろうと期待していたのですが、子供連れだと何事も計画通りにはいかないものですね。

いずれにしても、言われてみれば、例えば浅草のうちの寺も浅草寺も、京都の金閣寺も、みんなお寺だけど全然違う。
もちろん、宗教施設なのだから、それぞれの教義に則って規律正しくあってしかるべきなんだけど、「そうは言っても」というところが、多分に赦されている。土地の風土や時代によって、それぞれの置かれた環境で受け入れられやすいように変化しながら、それでも、何十年、何百年と存在し続けているわけです。
考えてみたら、仏教そのものが、古くインドに発祥したのち、途方もない長い距離と時間の中でさまざまに形を変えながら、今ここにあるんですよね。そんな自由さもまた、仏教の真実の姿なのかもしれません。</description>
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         <pubDate>Sat, 15 Mar 2008 00:59:47 +0900</pubDate>
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         <title>冬には冬の悩みごと</title>
         <description>悩みといっても、そんな大層なことではないんです。それは、ベランダに置いているプランターにまつわる悩み。
うちでは、料理をするときに切った野菜の切れ端をスープにしたり、出汁をとったあとの昆布やシイタケを佃煮にしたりするので、生ゴミがあまり出ません。それでも、どうしてもゴミになってしまったものは、細かく刻んでプランターに埋めているようにしています。
そうすると、春頃になると思いもよらない新芽が出てきて楽しいものです。去年は自家製のトマトとイチゴをずいぶんと堪能しました。捨てた種から芽が出て、ちゃんと育って実をつけてくれたんです。おかげで、春から秋頃にかけては、野菜の成長ぶりが楽しみで、洗濯物を干しにベランダに出ると、水をやったり剪定したり、ただ眺めたりしてついつい長居してしまいます。
でも、大きく立派な実をつけてくれると、カラスに狙われる心配も。さすがカラスはそれぞれの実の一番の食べ頃をよく知っていて、わたしが「これはそろそろだな。明日の朝、摘んでこよう」と思っていると、狙い定めたように、夜中から明け方のうちに採っていってしまいます。
まぁ、誰も気づかないうちに朽ちて落ちてしまうよりは、せめてカラスが食べてくれればいいのですが、こちらにしてみれば、何か月もの間、かわいがってお世話して、家族の口に入る日を楽しみに待っていたのですから、そのご馳走を横取りされたときのショックは大変なものです。
その点、冬の間はカラスが狙うようなものもなく、ベランダも静かで安心・・・とういわけにもいかないんですよ。
冬も、生ゴミをプランターに埋めるのは欠かさないのですが、その、埋めた生ゴミをカラスが狙うんですよ！
もちろん、それは捨てたものですから、カラスが取っていったところでがっかりもしませんし、さんざんついばんで土を柔らかくしてくれたら、かえってありがたいくらい。
ところが、カラスは土に埋めた生ゴミを掘り起こそうと、滅茶苦茶に暴れるものだから、ベランダ中に土や生ゴミが散乱してしまうんです。もちろん、干してある洗濯物に湿った土がベッタリ、なんてことも。
何の花も実もない冬の間も、カラスとの攻防は続きそうです。</description>
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         <pubDate>Sun, 09 Mar 2008 22:19:48 +0900</pubDate>
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         <title>お坊さんの思春期</title>
         <description>KAKUをはじめ、ここ彼岸寺に集うお坊さんの多くは、自分のお寺の副住職を務めています。そして、彼らに限らず、世の中の多くの副住職の実態は、次期住職という意味合いが強く、住職の補佐的な役割がメインです。中には、住職は事実上ほとんど引退していて、法事やお葬式など、日常の法務はおおむね自分が勤めている、という人もいるかもしれません。
しかし、「副」住職である以上、何かあったとき、寺や社会に対する責任を自分でとることはできず、やはりそこは住職の出番になります。もちろん、副住職であっても、たいていの場合は既に成人した大の大人で、それなりに社会経験も積んでいるでしょう。寺の中のことも、世の中のことも、たいていのことは自分で考え、判断し、行動できる。少なくとも、そのつもりでいる。しかし、その結果について自身で責任をとることができない。</description>
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         <pubDate>Wed, 27 Feb 2008 12:09:43 +0900</pubDate>
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         <title>レトロ家具</title>
         <description>家具ってほどでもないのですが、皆さんのおうちには、ポットはありますか？そう、お湯を沸かしてストックして、いつでもすぐに熱湯を注ぐことができる、あのポットです。
我が家では、このポットは法事の際の必需品。急須に茶葉を入れ、ポットにお湯と、人数分のお湯飲みをセットして、「ご自由にどうぞ」と、各自で淹れて飲んでいただいています。

ところが、実はわたしが寺でポットを使うようになる以前にポットを使ったのは、おそらく20年近くも昔のこと。幼い頃、祖父母と一緒に暮らしていた頃以来なんです。そのあとも、何かの機会に触る程度に使ったことはあるかもしれませんが、自宅において普段から使った経験はありません。両親とわたしだけで暮らすようになってからは、お湯は必要なときに必要なだけ、そのつどやかんで沸かしていました。家で飲むものも、お茶だけでなくコーヒーが多くなり、水とコーヒー豆だけでＯＫなコーヒーメーカー多用するようになってからは、ポットの出番はますますなくなっていきました。

あるとき、「今どきポットを日常使いしている家なんて、珍しいよねぇ」とKAKUに言うと、とても驚いた様子でした。「じゃぁ、お茶を飲むときはどうするの？」と目を丸くする彼に、「必要なときに必要な分だけ、沸かすんだよ」。そして、「一人暮らしをしてからは、家でわざわざ熱いお茶を淹れるなんてことも、少なかったしね」と言うと、「へぇ・・・」と意外そうにしていました。</description>
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         <pubDate>Sat, 09 Feb 2008 01:02:28 +0900</pubDate>
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         <title>暗闇ごはん、スタート！</title>
         <description>お待たせしました！これまで休止していた「暗やミール」が、満を持して再開です！完全な真の暗闇の中、部屋の広さや隣の人の顔、自分の手元はもちろん、運ばれてくる料理が何かも、一切が見えない真っ暗闇で食事をしていただくという、日本初のブラインドレストラン。その「暗やミール」が、およそ半年振りに再開。今日は、装いも新たに「暗闇ごはん」としてリニューアルした初日でした。</description>
         <link>http://www.higan.net/blog/totugu/2008/01/post_108.html</link>
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         <pubDate>Sat, 26 Jan 2008 10:12:11 +0900</pubDate>
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         <title>今年の挑戦</title>
         <description>先日、KAKUと二人で着物を着てお出かけをしました。着物を着るのにも、さすがにKAKUは手馴れたもので、ササッと着付けてあっという間に準備完了。ところが、わたしのほうはなかなかうまく着付けることができず、何度もやり直しを。帯を締める頃にはすっかりクタクタで、後ろ手に腕を上げることもできません。「もうやめた！洋服で行く！」と半ばヤケになりながらも、KAKUに手伝ってもらってなんとか着終わった頃には、出発予定時刻をなんと一時間半もオーバーしていました。

実は、昨年の秋頃から、着物を着ることに凝っているんです。この一年ほど、友人･知人の結婚式やら何やらでおしゃれして出かける機会が多かったのですが、妊娠･出産を経て体型が微妙に変化し、手持ちのワンピースがどれも似合わなくなってしまったんです。体重自体は妊娠前と変わらないのに、思いもよらないところにお肉がつくものなんですよね。最初は新しい洋服を買おうかと思ったのですが、なかなか体にしっくりくるものが見つからないし、もしダイエットに成功したら、また新しい洋服が欲しくなっちゃうかも！？と思って少々困っていたのです。

そこで思いついたのが、着物。結婚するときに、実家の母や祖母がくれた着物が大量にあり、これを使えば当分の間は新しいものを買わなくても着回せそうです。</description>
         <link>http://www.higan.net/blog/totugu/2008/01/post_107.html</link>
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         <pubDate>Sun, 13 Jan 2008 00:41:47 +0900</pubDate>
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         <title>お正月は、お供えも豪華でした</title>
         <description>三が日も過ぎ、町は少しずつ普段どおりの静けさを取り戻していく・・・はずですが、ここ浅草では、まだまだお正月の賑わいが続いております。皆様は、どんな年明けを迎えられましたか？

さて、普段はお仏飯をお供えするだけのご本尊にも、お正月はおせち料理やお雑煮を少し分けてお供えしました。もちろん、輪餅（鏡餅のようなもの）とみかん、それにお屠蘇もお供えします。普段より豊富な品揃え（？）に、ご本尊も喜んでくれたでしょうか！？
それにしても、お供えというのは、どうしてこんなふうに食べ物に特化しているんでしょうかね。例えば、今のような寒い季節には仏様に厚着をさせるとか、たまには誰かが一緒に寝てみるとか、そんな習慣があってもよさそうなのに。いつも、ご飯をあげて、花を入れて、お経をあげて、おしまい。ご本尊を取り巻く環境には、ほとんど変化がありません。何か珍しい頂き物なんかがあったときにもお供えをすることはありますが、それもやっぱり食べ物が多いですしね。
あ、でも宗派によっては、お堂で歌ったり踊ったりするかもしれないし、人形や着物を供養に飾ることもあるでしょうから、一概に「お供えは食べ物」とも言えませんね。

スミマセン、年明け早々、またしても頓珍漢なことを書いてますね。一年に一度、いつもと違うものをお供えしたものですから、ついつい余計な想像力を働かせてしまいました。
今年はひとつ、ビシッとピリッと冴えのある記事を書いていけるよう、気持ちを引き締めていこうと思います。
この新たな一年も、よろしくおつきあいくださいませ。</description>
         <link>http://www.higan.net/blog/totugu/2008/01/post_105.html</link>
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         <pubDate>Sat, 05 Jan 2008 00:00:49 +0900</pubDate>
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         <title>年を迎える思い</title>
         <description>今年も、残すところあと3日。大掃除を終え、年賀状も投函し、今日はお正月用の食材を買い込んだり、お飾りを整えたりしました。
結婚する前、わたしは一人暮らし暦が十年。学生時代は年の瀬まで部活の稽古があったし、社会人になってからは仕事納めが毎年12月30日で、実家に帰省しても、わたし自身が何かお正月を迎える準備をしたという記憶は、あまりありません。ところが結婚してからは、うちの寺では年末から三賀日が明けるまでの間に、何かと細々とした決まりごとがあり、毎年クリスマス前後になると、その準備に終われます。

ここだけの話、「面倒くさいな」なんて思っていたんです。お正月をお迎えする準備なんて言えば聞こえはいいけれど、実際は、「お正月までにコレをしなくてはいけない」「三賀日が明けるまではコレはしてはいけない」といった決まりごとが多く、正直、ちょっと窮屈です。もちろん、好き勝手に出歩くわけにもいかず、友達とカウントダウンパーティができないとか、デパートの初売りにいけないなどということにもがっかりでした。</description>
         <link>http://www.higan.net/blog/totugu/2007/12/post_104.html</link>
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         <pubDate>Sat, 29 Dec 2007 23:41:10 +0900</pubDate>
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