2004年8月 3日

::::::::寺入り娘より::::::::

 そもそも、お寺のお坊さんと普通のOLがどんなふうに知り合ったのか、皆さまも興味のあるところだと思います。今回はわたしたち二人の出会いをご紹介します。出会い方についてはどちらが書いても同じなので、今回は彼の監修によりわたしが書いています。

 数年前からわたしは近所でお茶を習っていたのですが、そこの先生の実家がまさに彼のお寺だったのです。住職(彼のお父様)は先生の実弟、つまり彼は先生の甥子さんにあたります。さらに彼のお母様も同じ教室の先生で、教室と寺が徒歩1分の距離にあるため、お茶の行事にお寺の部屋を使わせていただいたり、逆にお寺の行事に茶道教室の生徒がお手伝いにいったりという交流が日ごろからありました。

 そんな中、2003年のお正月に彼とわたしは出会いました。

 お茶には「初釜」という行事があります。例によって寺の一室で行われたそれの、その日受付をしていた彼にわたしが「今度飲みに行きましょうよ!」と声をかけたのがはじまりでした。

 先生に甥子さんがいるということは以前から知っていましたが、彼はしばらくアメリカに留学していたため、わたしが彼と顔を合わせるのはその日が初めて。わたしはおいしいものを食べたりお酒を飲んだりすることがとても好きなので、同じくお酒が大好きでご近所に住んでいる彼のことを、これはつないでおくしかない!って思いました。酒好きのお坊さんなんて、かなりレアな合コンネタになると思ったんですよね。

2004年8月 9日

::::::::寺入り娘より::::::::

 いざ結婚が現実のものとなり、様々な物事が目の前に迫ってきて、「お寺に」嫁ぐということの特殊性を痛感するようになりました。よく「お寺に嫁がれるなんて大変ですね」と言われますが、なぜ嫁ぎ先がお寺だと大変なのか。わたしはお寺が特別なものだとは、あまり思いたくありません。お坊さんは伝説の聖者ではない、生身の人間なのだと。住職業も他の職業と変わらない、社会的欲や責任の上に成り立っているのだと。けれどお寺は普通の家とは違うのだと思っている人が、お寺の内にも外にもたくさんいて、それに適合できるように自分を変えていかなければいかないということが、今のわたしにはとても窮屈に感じられます。

 わたしの彼もそうですが、仏教者であることと、寺を守っていく行動とのギャップに悩んでいる人はたくさんいると思います。彼と結婚するわたしもまた、その悩みを共有し始めています。でも本当の本当なら、そんなことに悩む必要はなかったんじゃなかったのかと思うのです。もっと等身大の姿で、大げさな言い方ですが野に下って世の中と接することができたら、お寺に対するイメージも改まり、お坊さんが真の仏教者として実現し、同時に寺を守っていくことも可能になるではないでしょうか。

 そんなふうに考えながらも、現状は長い時間をかけて社会の変化に応じてつくられたものなのだから、それを変えようとするのは傲慢、危険、そうするべきではないという自制が強く働きます。伝統や歴史にガードされたものを変化させることは、いつの時代にも大変なリスクを負うもの。ましてやお坊さんは革命家ではないし、守らなければならない既存のものを持っている。

 お坊さんと結婚することについての精神的な葛藤を書きましたが、このことが即ち、嫁として妻としてのひとつひとつの行動に大きく影響しています。


::::::::寺継ぎ坊主より::::::::

 結婚をするということはどんな人でも人生の一大イベントだと思います。これからこの人と一生を共にする、生涯の伴侶を決めるのですから「本当にこの人でいいのだろうか」「本当にやっていけるのだろうか」と自問自答を延々と繰り返すものだと思います。

 私もご多分に漏れず、結婚を決めたときに「本当にこの人と暮らしていけるのかな」とずいぶん考えました。この人と一緒に住んでいけるのだろうかという不安とともに、この人と一緒にお寺の仕事をしていけるのかということも大分考えました。お坊さんだけではないでしょうが、自分の生活空間で仕事をしている人にとって結婚相手とは、個人としての生涯の伴侶であるとともに、一緒に仕事をする仲間でもあります。どんなに好きになった相手でも、どこかで人事部長のように「この人は果たしてどんな局面でも柔軟に、且つ速やかに対処できるのだろうか」なんて考えていました。

 八百屋さんなどの自営業と違うと思うのは、さらに宗教が入るということ。私の描いている理想の夫婦象として、夫婦揃ってなんまんだぶする姿があります。しかし宗教が違っていたら、いったいどんな生活になるのかまったく検討もつきません。

 ただ、結局はやってみなければわからない。月並みですが、そう思うと気持ちはとても楽になりました。実際、彼女とそういう話をすると、「何とかなるようになるのよ」なんて言われてしまうから、こうなったら一生懸命なんまんだぶの生活をがんばるしかないです。

2004年10月 8日

contents_totsugu_8.jpg::::::::寺入り娘より::::::::

はい。K&M(M)です。
大変ご無沙汰をし、失礼いたしました。
結婚式が近づくにつれ、本当に忙しく、結婚以外の作業に手をつけることが全くできませんでした。
当日を迎えるまでのさまざまな出来事もご紹介したいのですが、記憶も新たなうちに、まずは結婚式そのものについてお話したいと思います。

式以前に寺への引越しを済ませていたので、お興し入れの仕度には新郎宅から出かけることになりました。白無垢の着付けは近所のホテルにお願いしていました。寺へは歩いて5分ほどの場所です。式が10時から、9時半には集合でしたので、9時の仕上がりでお願いしたところ、余裕をみても、着付け、鬘、化粧すべて込みでホテルへは8時に行けばよいとのこと。早いのはありがたいですが、少し味気ない気持ちがしました。とはいえ、わたしの親族は皆浜松から、前日なり当日の早朝に上京し、いっせいに着付けに入るので着付け部屋は大忙しです。

化粧を終え鬘を戴き、いよいよ白無垢に袖を通します。実は事前に衣装合わせをしていましたので、白無垢を着るのは初めてではありませんでした。正直、衣装合わせで袖を通したときのほうが感慨深いものがありましたね。また、ウェディングドレスよりもはるかに身の引き締まる思い、神聖な気持ちになりました。

余談ですが、白無垢を着付けた後は、新婦には必ず介添の人がつきます。着慣れない衣装で動きが不便なためか、あるいは女にはひとり立ちさせないためなのか、とにかく新婦は誰かに手を引かれないでは動いてはいけないとのこと。角隠し、綿帽子にしても、どうも女性には納得のいかない風習が多いものですね。もっとも、結局のところそんなことどうでもいいじゃないか、お望みでしたら如何様にでも、という強さが女性にはあるから、現在でも続いているのかもしれませんね。
ちなみに寺での挙式は綿帽子、神社でなら角隠し、というのが本来ですが、最近ではあまりうるさくないようです。わたしは昔からの憧れもあり、迷わず綿帽子を選びました。その綿帽子にしても昔とはだいぶちがってきているようで、本当の意味でなら、綿帽子は新婦の顔がすっぽり隠れる大きさ、視界は足元しかないようなものですが、わたしがお借りしたものは顔は全開で鬘の前髪部分まで見えている有様。もっと本格的なものはないかとたずねても、そのほうが写真写りがいいですよと言われる始末でした。

さて、いくら徒歩5分の距離といっても、新婦が白無垢で歩いていくのはとても困難なこと。しかもタクシーのような乗用車では車高が低く鬘が通らないため、通常はハイエースのようなワゴンタイプの車で移動することが多いそうです。けれどそれではいかにも風情がありません。せっかく浅草に住んでいるのだからと、人力車を手配しました。歩いて5分、人力車ではものの3,4分で到着してしまう距離ですが、出発のときにはホテルの従業員の方々や居合わせた外国人観光客、近くの鰻屋の女将さんまでが見送ってくれ、とても思い出深いシーンになりました。

母とふたり人力車に揺られ、道中いろんな人に手を振られながら寺に近づいていくと、雅楽が聞こえ、寺の半被を着た人や隣保のお寺の方々の姿が見えます。以前見せてもらった、新郎ご両親の結婚式の写真と同じ光景に、胸が熱くなりました。こうやってわたしも寺の歴史を受け継いでいくのだわと、感無量です。白無垢を着たときよりも式に臨んだときよりも、このお輿入れの光景が、わたしはにいちばん印象に残っています。

こうして無事お輿入れがすみ、いよいよ新郎の待つ本堂へ。
かなり長くなりましたので、実際の式様子はまた改めてにさせていただきたいと思います。


::::::::寺継ぎ坊主より::::::::

結婚しました。

新婦に同じく、大変ご無沙汰いたしました。K&M(K)です。
報告が遅くなりましたが、先日10月2日に私たち、結婚いたしました。式はもちろん仏前の結婚式。どんなことをするのか知らない方がほとんどでしょうからここでざっと紹介させていただきます。

朝6時30分、新郎新婦ともに起きて支度を開始しました。晴れの日なのにゆっくりと寝ていられるのも自宅で結婚式を挙げる強みですね。

7時ころになると花嫁様は着付けに出発。服装はもちろん白無垢です。
新郎はこのころいつ自分の部屋にお客様が来るのかわからないので、布団をきれいにしたり床にクイックルワイパーをかけたりしていました。

8時にはカメラマン、ビデオその他結婚式にかかわるスタッフが続々と集まってきます。ここで新郎自らご挨拶と打ち合わせ。両親である住職たちはこのころ集まってくるお坊さんたちの接待をしています。

一通り打ち合わせを済ますと今度は新郎が準備。急いで結婚式用の着物に着替えます。結婚式用の衣装については後日お話したいと思います。

着物が着終わったころ、玄関口で「ぷわ~ん」という雅楽の音が聞こえてきました。雅楽の音にあわせて人力車に乗った花嫁様のお輿入れです。
近所の人も見守る中、静々と花嫁が人力車から降り、お寺に入ってきます。

新郎新婦がそろっていよいよ結婚式の準備が整いました。

(つづく)

2004年10月24日

::::::::寺入り娘より::::::::

結婚して、これまで他人だった人と、今度は家族としてともに暮らすということ。もちろん苦労に感じることもありますが、わたしはとても興味深いことだと思っています。よく、「相手の箸の上げ下ろしまで気になってしまう」なんていうことを耳にしますが、なるほど、ほんの些細な習慣の違いが、毎日の暮らしの中には無数に存在しています。たとえば、彼は朝晩とも歯磨きは洗面所でしますが、わたしは夜はお風呂で歯磨きします。

たとえば、彼はお風呂から上がるときに浴槽から壁、天井にいたるまでカラ拭きしてから上がりますが、わたしは冷水をかけるだけ。たとえば、彼は真新しいタオルやシーツを、封を開けたまますぐに使いますが、わたしは必ず一度洗濯してから使います。どちらでもいいことなのですが、お互いに良かれと思って続けてきた習慣なので、違う文化が入ってくると戸惑ってしまうものです。

先日、こんなことがありました。
夜、何か少し深刻な話をしていたとき、ふと見ると彼が目を閉じています。遅い時間でしたから眠いのも仕方ないと思いつつも、「寝ないでよ」と言ってみると、彼はパッチリと目を開けて、「寝てないよ、考えてたんだよ」と言うのです。

彼は何か大事なことを考えたり、集中したいときには目を閉じるそうです。できるだけ他の情報が入ってこないように、目を閉じ、テレビやオーディオも消して、完全に自分の世界に入って考えたいそうです。そうしないと、余計なことが頭に浮かんできて考えがまとまらないし、思いついたことにもいまいち自信がもてないとか。そういえば、披露宴で祝辞を頂戴している最中も彼はときどき目を閉じていて、隣で見ていたわたしは、ヤダこの人、高砂で寝てるわ、なんて思っていました。

わたしは誰かと話しているときも、一人で考え込むときにも、目を閉じることはありません。そのとき目に映るもの、耳に聞こえるもの、いろいろなものの影響を受けながら湧いてきたものが、そのときの自分の考えだと思うからです。そもそも、目を閉じて考え事をする習慣がないので、目を閉じると、「わたしは今、目を閉じている」ことに気が散って考えなんてまとまらないのです。なので同じことを話題にしていても、話し始めたときと終わるときでは意見が違ってしまうこともあり、結局、「まぁ、今のところはわたしはこう思うのよ」なんていう曖昧に会話を終えてしまうことも少なくありません。

ふと、昔読んだ「地図の読めない女・話しを聞かない男」の一例を思い出しました。男性が歯磨きをするときは、鏡の前に仁王立ちし、片手を腰に当てて歯を磨くことだけに集中する。女性は、歯磨きする手を上下に動かしながら、空いている手でテーブルを拭き、目ではテレビを追っている。

結局は、男性と女性の差なのかしら、なんて思いつつ、それだけでは説明のつかないことも日常にはごろごろ転がっています。だからと言ってムッとするわけでもなく、お互いに譲ったり譲られたりしながら、なんとなく新鮮な気持ちで暮らしていける、そんな他愛もないことが幸せに感じられる今日この頃です。


::::::::寺継ぎ坊主より::::::::

これを読んでいる方は独身の方が多いと思うのですが、独身の方は是非結婚をしてみることをお勧めします。結婚をしてみると毎日がとても面白いです。なんといっても自分が今まで当たり前のようにしてきた「日常」に待ったがかかるのですから。
他人と一緒に日常を過ごすということは、如何に驚きが多いことか。今日はそのひとつを紹介します。

ある日、私が彼女とちょっと込み入った話をしていました。適当に答えることでもなかったのでわたしはちゃんと考えをまとめようとしました。すると、「寝ないで考えて!」と彼女に言われてしまいました。
「何だよ。一生懸命考えているんだろ」などとそのときは言いましたが、なるほどこれはよく考えると面白い。

私は、ものを考えるときは昔から目を瞑るのが癖なのです。目を閉じて、静かなところでじっくりと考える。目を開けているとやれテレビの映像が気になったり、あそこが汚れている、ここを片付けなきゃと、関係のないことを考えてしまいます。じっくりと物事を考えるときには耳栓をして目を閉じることが当たり前でした。ところが彼女は考えるということは五感をすべて使って考える。目を開け、相手の表情を良く見て、その変化までも考えに入れる。こう言うのです。

わたしの中で考えるということは、自分の中でイメージを完結させること。というきわめて個人的なことなのですが、彼女の中では、考えるという個人的なことでさえコミュニケーションだと思っていることの差。普段当たり前のように行っていることでさえ、こんなにも違うもの。日々の生活がまさに異文化交流です。

自分の中の常識にもう一度疑問を投げかけるということにおいても、結婚というものはいいのかもしれません。
あなたは目をあけて考えますか?目を閉じて考えますか?

2005年1月 1日

contents_totsugu_12.jpg::::::::寺入り娘より::::::::

大晦日の晩から、年越しの準備で大忙しでした。我が家は三世帯同居。年越しと元旦の食事は、やっぱり家族そろっていただかなくてはと、おとそもお節もお雑煮も、いつもの食事より
張り切ってつくります。普段は祖父母が二人で座っているこたつを六人で囲むので、大混雑です!
結婚を経るとどこの家でもあることでしょうが、年末年始などは、やはり各家庭の文化の違いが色濃く出ますね。わたしは食べ物の好き嫌いはほとんどないので、何をどんな調理で出されても大丈夫ですが、嫁ぎ先の家に従うということは、育った実家のやり方と決別することになるので、準備の段階から寂しい気持ちがしていました。わたしは昨年の年明けすぐに結婚を決め、秋には結婚式を挙げたので、「家族で過ごす最後のお正月」という実感がないまま、嫁ぎ先での正月を迎えてしまいました。今頃実家では、両親がわたしのいない正月を寂しく過ごしているのではと思うと、誰もいない水屋で涙が出てきちゃいます。

さて、気を取り直してめでたく六人で乾杯!90歳の祖父から27歳の彼まで、皆とても元気です。ありがたいことですね。我が家は、おそらく非常に非常ににぎやかな家庭だと思います。
みんな思い思いに大声で勝手なことを話しているので、テレビの音などほとんど聞こえません。一人っ子のうえ、10年以上も一人暮らしだったわたしは、年越しの瞬間を迎える頃にはすっかり人中りでぐったりしてしまいました。それでも、大家族は楽しいもの。いつの間にかわたしもすっかりほろ酔いのいい気分です。お節って、見通しが良いように蕗、”芽が出る”と縁起が良いからくわいだなんて、本当はいけないのかしらなど思いながら。

朝になって、お仏飯やお雑煮の準備をします。今朝は両親が浅草、わたしたち夫婦がひばりが丘へ向かいます。暖冬といわれ続けた今冬も、ここへきて急激な冷え込み。浅草の本坊でさえ家の中で息が白くなるほどなのに、西東京にあるひばりの支坊はどんなかしらと不安です。いつもはパンツスタイルのわたしなので、元旦用におろしたスカートが心もとなく感じます。
道が混む前に区部を抜けたいので、少々駆け込み気味にお雑煮をいただいて、7時過ぎには浅草を出発。道中、道が凍ってタイヤがスリップ!ひやりとする一瞬です。
到着したひばりが丘では、子どもの頃のような懐かしい寒さの支坊、生まれて初めての雪かき、雪をかぶった庭の木々など、日本のお正月らしい風情を味わいました。
さぁ、新しい一年の始まりです。


::::::::寺継ぎ坊主より::::::::

あけましておめでとうございます。皆さん初詣には行かれたでしょうか。お正月にお墓参りに行かれた人も 多いと思いますが、お正月・元旦のお坊さんの一日を紹介したいと思います。

6時00分 起床。普段はおしゃれに気を使わない私もお正月くらいはと新しい服に袖を通しま す。
6時15分 仏様の前にお仏飯を置きに行きます。普段は白いご飯ですが、今日はおせち料理とお 餅を あげます。
6時30分 朝のお経をあげます。何事にも「はじめ」というものは緊張するものでいつもより心 なし か丁寧にお経をあげます。
7時00分 お雑煮が出来上がり、家族そろっていただきます。おっとその前におとそで乾杯も忘 れず に。
7時30分 ご飯を食べ終えたらすぐに仕度を整えて車に乗り込みます。今日はひばりが丘のお寺 でお 経を上げて留守番をしなくてはなりません。
*うちの寺は浅草とひばりが丘(東京都市部)に両方お寺があります。な のでこまめに行ったり来たりを繰り 返すのです。
8時20分 東京区部を抜けると、まだ昨日の雪が残っていて道路が凍っています。タイヤが滑っ てひ やりとしながらゆっくりと運転していきます。
8時40分 ひばりが丘のお寺に到着。寒い!浅草と3度くらい気温が違います。行ってみてびっく り。 お寺の前の道路に雪が積もっていてくるまで通行できない。仕方がないので近くに駐車し て雪の中をお寺に 向かいます。
8時50分 門を開け、ひばりが丘のお寺でもお経をあげます。
9時40分 お寺の前の雪をどかすべくミチコと二人で雪かきを始めます。普段運動をサボりがち な私 にはこれがキツイキツイ。全身の筋肉を酷使しながら雪かきをします。
11時00分 雪かきを終えるとぐったり。しかも体の心から冷え切ってしまいました。ここであり がた いことに奥さんがコーンスープを作ってくれました。あったまります。
11時30分 ミチコがお昼ごはんの仕度を始めます。私はその頃うつらうつら。やりなれないこと をす るとぐったりしますね。
12時30分 お昼ごはん。今日はカレーです。うちは毎年元旦にはカレーを食べます。元旦は何か と忙 しいので、暖めればいつでも食べられるカレーは本当に重宝します。きのこカレー、おい しかったです。
13時00分 お昼のお経を上げます。せっかく温まった体もお堂に30分もいるとまた冷たくなって しま います。
13時40分 お檀家さんがいつ来ても良いように待機、というと聞こえは良いですが、お茶をすす りな がらお留守番をします。
16時00分 夕方のお経を上げます。相変わらずお堂は寒いです。
16時30分 そろそろ帰るための仕度を始めます。戸締り、火の始末。このあたりはしっかりとし ない と危ないです。
16時45分 浅草に向かって出発。この頃になると道路の雪も解けていて運転も楽です。
18時00分 浅草のお寺に到着、早速年賀状のチェックをします。毎年いろいろな年賀状が来てい て楽 しみです。
19時00分 晩御飯。おせち料理に舌鼓を打ちます。
20時00分 一日のやることを終え、ゆっくりとメールチェック。お気に入りのサイトめぐり、 ニュー スを読んだりします。

いかがでしょうか。あるお坊さんのお正月の一日でした。もちろん地域によって、お寺によってすることは 変わってきます。特に今年は雪かきというイベントも入り、盛りだくさんでした。
明日も朝ひばりが丘に移動します。今夜は早く寝なくっちゃ。

2005年1月13日

PICT0293.jpg::::::::寺入り娘より::::::::

 だいぶ前のコラムで、他人(夫婦ではあっても)と暮らすことはとても興味深いと書きました。その気持ちはもちろん今も変わっていないけれど、結婚式を終え新婚旅行を終え、次第に新婚とは言っても平凡な日常生活に入ると、興味深いとばかりは言っていられない状況もしばしば。
 
 特に朝方、夜型の違いには閉口しています。わたしはOL生活7年。正直、あまり朝には強くなかったけれど、それでも毎朝出勤して仕事をし、夜には退社して寝て起きて出社、というリズムを繰り返していたので、夜は完全に自分の時間で、多少のズレはあっても寝起きの時間は決まっているのが普通でした。

 ところが彼は違うのです。お坊さんという仕事柄、出勤という習慣がないので、昼夜問わずいつでもオンと言えばオンだし、オフと言えばオフ。朝起きてとりあえずご飯を食べても、眠たければまた寝てしまうし、夜も寝るのに気が向かなければ、何時まででも際限なく起きている。
 彼とわたしはリビングで過ごしていることがほとんどです。特に、わたしのベッドと彼のパソコンはドア一枚隔てたすぐそばにあるので、彼が仕事の話をする声、カチャカチャとキーボードをたたく音など、どうしても気になり眠ることができません。しかも、仕事上、彼だけの仕事ということもなく、彼の性格上、彼だけの知り合いというわけでもないため、わたしも、なんの仕事してるんだろう、誰と話してるんだろうと顔を突っ込んでしまうのです。そして彼もまた、わたしが部屋をうろうろするのが気になり、仕事に集中できないとか。
 結果、わたしは生活のリズムを整えることができず、彼は思い立ったときに仕事に集中できない悪循環。

 何が正しいと決めつけるわけではありませんが、わたしはどうしても、一日の終わりには二人でゆっくり過ごしたいと思っていて、それは割りとフツーの感覚だと思っています。もちろん、いつ何時どのような仕事を頼まれるかわかりませんし、お通夜だお葬式だとなれば、深夜早朝でも丁寧に対応するべきなのは当然と納得しています。でも、そうでもない用事、パソコンをいじったり、昼間でもできる用事をわざわざ夜中にしていたりというのを見ると、なんだかストレスに感じてしまうのです。実際、草木も眠る丑三つ時に、お檀家さんから緊急の電話を受けるということは、おそらく彼の記憶の中でも非常にまれなことでしょう。
 一方、彼は彼で、夜型だろうが不規則だろうが、自分の思い立ったときに自由に身軽に動くことが良い成果を生むと考えているので、わたしが彼につられて生活のリズムを乱しストレスを溜めている姿が、実は彼にとってもストレスになっているようなのです。

 好きで結婚した相手です。一緒にいられてとても幸せですが、誰かと一緒に暮らすというのは、なかなか容易なことではありませんね。。。


::::::::寺継ぎ坊主より::::::::

 [坊主松本の徒然日記]の、「超夜型生活」を読んで心に染み入った。仕事が溜まって夜遅くまで作業を続けてしまうことはそのまま僕にも当てはまる。そういえば昔は3時4時までよく勉強をしていたものだ。
 でも今はそれをしないように心がけている。うちは三世帯同居という大所帯をなしている。祖父、祖母、父、母、そして妻と僕。これだけ家族がそろえば立派な社会だ。中々身勝手をするわけにもいかない。だから昼間のうちにやることを終わらせ、夜は早く休みたい。
 これだけのことだけれども中々うまくいかない。6人家族、しかも全員在宅勤務とくれば理由を見つけてよく呼ばれる。「あの書類はどこにいった。」「今日は○○さんの3回忌だからお経をあげておいて。」という寺の用事もあれば、「お茶にしようか」「買い物に行くからお留守番をお願いね。」というきわめて家庭的な用事で呼ばれることもある。
 加えてお檀家さんも時間を選ばない。僕は普段5階に住んでいるので、チャイムがなると1回まで猛ダッシュをすることになる。速達、勧誘、電話応対と来ればもう一日中ひっきりなしに忙しくなることもある。
 あわただしい中に時間はどんどん過ぎて行き、昼間やりたかったことが昼間のうちに終わらなくなる。なんだかんだで夜にずれ込んでしまう。でも、そこは新婚夫婦、夜は二人でゆっくりとしたいと思う。
 「出社」「登校」という明らかな「オン」「オフ」が無い生活をしている僕と家族。となると、自分の中でオンオフをつけなくてはいけない。でもそのオン/オフを家庭内の誰にでもわかるようにすることは難しいものだ。できるだけ昼間は自分の世界に没頭していたいと思うものの、哀れなり意思弱き自分。目の前に楽なことがあるとついそちらに傾いてしまう。お茶に呼ばれればつい行ってしまう。これが昼間に仕事を終わらせないことに拍車をかけている。
 こうなるとはじめの思いはどこへやら、結局夫婦の時間を削って深夜に作業をすることになる。「独身時代は自分の時間を自由に使えたのにな。」なんて愚痴を言ったところでイマサラである。

 オンとオフの曖昧な線上に生きることのできる僕はいまいちこの曖昧さに翻弄されている気がする。

2005年11月 3日

 先日、わたしたちは結婚記念日を迎えました。
 記念日のお祝いに、披露宴をしたレストランでディナーを予約していました。
 さて、記念日の夜。いつもよりお洒落をして出かけます。いつもは作務衣で過ごしている彼も、この日ばかりはスーツにネクタイ、びしっとキメて男前です。
 向かうは、日比谷公園が目の前、その向こうにはオフィス街の夜景も煌めくレストラン・アラスカ。
 ところで、レストランウェディングも珍しくなくなったきたこの頃ですが、わたしたち夫婦が、数あるレストランの中からどうしてここを大切な一日の舞台に選んだのか、今日はそんなエピソードをご紹介したいと思います。

 結婚が決まって間もなくの頃、わたしたちは結婚情報誌を読みあさり、会場探しに明け暮れていました。そんなある日、レストランウェディングを始めた歴史が古く、何より「料理がおいしい!」と評判のこのレストラン注目し、まずは気軽なランチを試食してみることにしたのです。
 ちなみにこのレストランは、日比谷・内幸町という場所柄、ビジネスランチに利用する方も多く、ランチとはいえスーツ姿のビジネスマンや外国の方も多く、わたしたちにはちょっと敷居の高いレストランです。しかも、試食当日の彼の姿といえば、着古したトレーナーにヨレヨレのジーンズとスニーカー。お店にも他のお客にも申し訳ないというか、恥ずかしいというか・・・。
 少し毛足の長いやわらかな絨緞を、おそるおそる店内へ進みます。そんな場違いなわたしたちを迎えてくれたお店の方は、笑顔で迎えてくれました。そして案内された席は、店内でも厨房の出入り口に近い、比較的に目立たない席でした。反対側には、日比谷公園を眼下に臨む全面ガラス張りの席が並び、明らかにわたしたちの席は末席にあたります。案内してくれた方の丁寧な対応で多少はほっとしていたものの、やっぱりこんな格好で来て場違いだったんだね、ちょっと居づらいね、とわたしたちは顔を見合わせました。
 ところが、席についたあとも、水を持ってきてくれる人、注文をとってくれる人、料理を持ってきてくれる人、誰もが皆、そんなわたしたちにもとても親切に接してくれ、サービスも申し分なく丁寧なのです。お店の人の優しい対応で緊張もほぐれ、次々に運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながら、わたしたちは、場違いな格好で末席に通されたという印象が、いつの間にかすっかりなくなっていることに気がつきました。ふと見ると、お昼どきで大勢いるお客さんも、誰一人としてわたしたちに白い目を向ける様子もありません。皆、目立たない端っこの席にいるわたしたちに、気づいていないのです。
 人を見かけで判断してはいけない、ということをよく耳にします。しかし、ここレストラン・アラスカで、この日、わたしたちは場違いな服装でその後の対応を判断されました。しかし、場違いな服装で来た失礼な客に肩身の狭い思いをさせるのではなく、場違いではあってもゲストであるわたしたちが、服装のことを気にせず純粋に食事を楽しめる環境を用意してくれたのです。

 これは、わたしたちにとって素晴らしい体験でした。このお店なら、わたしたちの大切な一日を任せられる、招待する大勢の来賓や友人たちにも必ず喜んでもらえると確信できたのです。
 ランチを終えたわたしたちは、食後のコーヒーでひと息ついたあと、お店の方に、自分たちが披露宴会場を探していたこと、今日のランチを終えてみて、是非こちらで披露宴をしたいと思ったことをその場で伝えました。そしておよそ半年後、このお店で開いた披露宴が、本当に心に残る、満足できるものになったことは言うまでもありません。

2005年12月13日

ご報告です。
念願の赤ちゃんを授かりまして、ようやく5ヶ月、安定期に入りました。
実は、わたしたち夫婦はこれまで二度の流産を経験しました。二度の流産のあとは、いつもは非常に能天気なわたしもさすがに落ち込みましたね。自分が流産したショックも精神的・肉体的に大きかったですが、彼の子供を生んであげられなかったこと、とても大切な大好きな彼の子供なのに守ってあげられなかったことに、すごく自信を喪失しました。本気で離婚を考えもしました。彼は子供が生まれるのをすごく楽しみにしていたし、うちは寺だからやっぱり家族も跡継ぎを期待している。でもわたしは生めない。だったら違う人を奥さんにもらうしかないじゃない、と。
そんなわたしたち夫婦も、本当に幸運なことに、再び命を授かることができました。
まだ胎動、赤ちゃんが動いているのを直に感じることはありませんが、身をかがめたときなどに、「おなかのなかに何かがいる」という感触はあります。
妊娠する前は、結婚したら自然に妊娠して、妊娠すれば10ヶ月たてば自然に生まれてくるんだ、なんて思っていました。でも実際には妊娠しても生まれないことだってあるし、10ヶ月の間にもいろんなことが起こる。出産だって絶対に安全とは言えないし、無事に生まれても健康に育つ保証はない。人が生まれて生きて、一生を終えるというのはすごく当たり前のことだけど、本当はもしかしたらものすごい奇跡みたいなものなんじゃないか。今はそんなふうにも感じます。
それに、もし過去の二度の妊娠で授かった子たちが生まれていたら、今わたしの中にいるこの子は存在さえしなかった。そう思うと、一人の命の重みが何十倍にも感じられます。親がいて、そのまた親がいて、数え切れないほどの人たちの命を引き継いで、また人が生まれる。でも、死によっても命は受け継がれていく。ケンユウさんがちょうど一年前のコラム「リレー」の中で、こんなふうに書いていました。「死というものも全く意味のないものじゃない、死によっても命はリレーされていくんです。」
それを、今まさに実感しています。

2005年12月29日

鳥打帽に黒眼鏡に雨具。これ、誰のことだかわかりますか?
実は、いまをときめくレイザーラモンHGのことなんです。先日テレビに出てきた彼を見て、寺の祖母が言った一言です。言われてみれば、たしかに鳥打帽に黒眼鏡ですが・・・雨具?彼のお決まりのビニール素材のコスチュームも、祖母にかかると雨具になってしまうのですね。
ところで、「この日和に雨具なんて着ちゃってね。でも、あれ流行ってるのよね。」と言う祖母は88歳。実はこのところ頭がすこぶるはっきりしないのです。十年ほど前に足を悪くして以来ほとんど部屋から一歩も出られないのに、「この間、国電に乗って出かけたら、往来の人々がみんなあの格好をして歩いていた」と言うのです。時間の感覚も場所の感覚もなく、絶え間なく幻覚が見え続け、家族のこともわかっているような、いないような。

祖母は足を悪くしてからも頭は大変にしっかりしていて、家族と頑固な祖父との良き仲介者として信頼されてきました。しかし、今年の6月に長年連れ添った祖父を亡くした前後から心身の衰えが顕著になり、不可解な言動が増えてきました。しっかり者だった祖母の姿を見てきた家族は、今の祖母の姿にとてもショックを受けています。祖母にしてみても、健全でない心身を家族にさらし、孫息子やその嫁にお下の心配までされることは、けして思い描いていた理想の老後ではないでしょう。長寿社会が実現した現代、あちこちの家庭でこんな光景が見られることと思います。
しかし、外から嫁いできたわたしには、少し違った見方ができました。
「すごいなぁおばあちゃん、時間も空間も自由自在なんだわ」と。
今、祖母は明らかに死へと向かっています。俗世間に別れを告げ、新たな次元へと足を踏み入れようとしています。わたしには、時間も空間も自分のことさえわからなくなっているその姿が、なんだか死の準備を始めているように見えました。時間、空間、自己認識など、それらはこの世の物差しの一つにすぎません。それらに縛られ守られて、人は生きています。人は何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいくのだと言いますが、現実の死に対峙する今、祖母はこの世のあらゆる秤から開放され、何にも縛られないただの肉体となって、新たな次元へと歩みを進める準備をしているように思われて仕方がないのです。
祖母は、まだ完全に何もわからくなっている状態ではありません。なんだか自分がおかしい、家族が自分を見る目もおかしいと混乱し、嘆き、憤りを見せることもあります。それでもわたしたち家族には、何もできません。時間を戻すことも、進めることもできないのです。ただ、心も体も不自由になっていく祖母が、少しでも心穏やかに過ごせる時間が多いようにと願います。
少しずつ、俗世間に生きるわたしたちの理解の及ばないところへ近づいていく祖母。その姿に、人智の及ばない深遠なる場所の存在を垣間見る気がします。

2006年3月 2日

皆さんは、いつも何度くらいのお風呂に入っていますか?わたしの快適温度は、今頃の時期なら40度くらいです。でも、普段は44度くらいのお湯にして入っています。なぜなら、彼の快適温度が46度くらいだから。彼は、熱いお湯をたっぷりにして肩までどっぷり浸かるのが好きなんです。でも、わたしは本当はぬるめのお湯で半身浴したい。で、間をとって44度前後のお湯を、彼の半身浴くらいの湯量にして溜めるんです。
実はこのお風呂の温度、一緒に暮らし始めた当初、かなりモメたポイントです。わたしはぬるめのお湯で半身浴というのが快適だし、何よりも健康に良いと信じています。でも彼はそれじゃぁ物足りない、物足りないということは体に悪いということだ、と主張します。お互いに自分の快適温度で入りたいものですから、両者ともなかなか譲らず何度も口ゲンカになりました。まったく、くだらない理由なんですけど。で、しばらく暮らすうちになんとなく譲り合いながら、44度でわたしには多め、彼には少なめの湯量に落ち着いたわけです。

ところが今日になってちょっとした事件が起こりました。一昨日、わたしは出産する予定の病院で母親学級を受講してきたのですが、そこで「妊婦は熱いお湯に肩まで入ってはいけない。40度くらいのお湯で半身浴するのが良い」と教わってきたので、さっそく実行してみたのです。でも、いつも44度のところを急にぬるくすると彼がびっくりしてしまうと思い、いちおう41度で溜めてみました。ただ、うっかりお湯を溜めすぎてしまい、湯量は相当なものになってしまいましたが。でも、お湯の温度はわたしにはちょうどよくてとっても快適、うっとりしてしまいます。そして、わたしたちはいつも一緒にお風呂に入るので、今日も同じく二人で湯船に浸かっていたら、彼が「おなかが痛い・・・」と呟いたのです。そしてだんだん言葉数が減り、「ごめん、トイレ行ってくる!」と言い残して、突然お風呂を出てしまったのです!
そう、41度というのは、彼には物足りないどころかぬるすぎる、というか「寒い」と感じる温度だったんです。もともと非常におなかの弱い彼。今日は温度はぬるいけど、たっぷりのお湯にしたから大丈夫と思っていたのですが、甘かったようですね。

2006年4月15日

今回は、実家で介護している祖母のお話。これを書いたまさに翌朝、祖母は眠るように息を引き取りました。亡くなってからのことは、また後日アップします。

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出産準備のため、実家のある静岡に帰ってきました。
実家には、両親のほか父方の祖父母と大型犬2匹がおり、両親の姉妹たちやヘルパーさんも頻繁に出入りするので、なかなか賑やかです。同居の祖父母は、さいわい頭のほうは非常にはっきりしていて、家族の中で実はいちばん冴えてるんじゃないかと思うほどですが、体は弱っていく一方で、今では食事も排泄も自力ではままなりません。

祖父母とも、もともとは近所で二人で生活していました。そして体の衰えに不安を感じ始めた3年ほど前から長男夫婦であるわたしの両親と同居、介護が始まりました。当時はまだ元気で、日常のことも自力ででき、介護とはいっても安心のために一緒に暮らしているだけのもので、「周りに迷惑をかけずに逝きたい」「わたしたちのためにはお金も手間もかけんでいい」「発作がおきたら楽に死ねる薬を打ってくれ」などと、よく口にしていたものです。おそらく、それが本心だったのだと思います。
しかし日に日に衰弱し、何度も発作を起こし、いよいよ「死」と現実に向き合うようになってきた今、二人は「生」への強い執念をむき出しにします。毎食の内容を細かくチェックし、少しでも栄養・カロリーが足りないと感じると非常に不安がり、「体力を使って死んじゃいかんもんで」と、まだ体が動くうちから身の回りのことを一切しなくなり、「何かあっちゃいかんもんで」と、医者から処方された新しい薬にも過剰な警戒を示します。おそらく、それが本心なのだと思います。特に祖母のほうはちょっと特殊な病気で、治療ということはできず、ひたすら栄養を蓄えて生存を維持し、いずれ衰弱しきって寿命が尽きるのを待つだけという、たしかに残酷な状況です。なので、とにかく体力を消耗しないように、ということが常に念頭にあるようです。

まぁ、介護の現状は置いておいて。この「生」への執念というものが、わたしにとっても他人事ではないのです。これまで、わたしは自分の死を現実のものとして意識したことはありませんでした。しかし、間もなくわたしは出産に臨みます。出産で命を落とす産婦は以前に比べて格段に少なく、出産が危険なものという認識は、それほど高くはないでしょう。しかし今でも、国内で年間約100人の産婦が、出産で亡くなっているそうです。そして、わたしがその100人に入らないという保障はありません。
ドラマなどでときおり見かける場面。「母子ともに非常に危険な状態です」となった場合、彼は、わたしと子供とどちらを選ぶのだろう。
先日、彼は唐突に、「もしそうなったら、僕はみっちゃんを選ぶけど、いい?」と言いました。わたしとしては、わりと本心でどちらでもよく、その場での彼の判断に完全に任せるつもりでいます。でも、過去の二回の妊娠や今回の妊娠でも中期の頃までは、「子供はまたつくれるから、絶対にわたしを選んでほしい!」って思っていたんです。死にたくない、まだ生まれてもいないこの子より、わたし自身が生きていたい、とはっきりと自覚していました。
でも、今は気持ちが違います。
愛する人と共に過ごすはずだった何十年かの未来を失うことは、とても切ないです。二度の流産を経て、やっと生まれてくれる我が子の成長を見られないことはとても寂しいです。まだまだ見たい物も行きたい場所も、やりたいこともたくさんあります。これまでの人生でわたしが成し遂げたことなどほとんどないに等しく、どちらかというと、やり残したこと、心残りばかりです。
でも、未来を失う寂しさはありますが、人生これまでと思うことに不満はありません。結婚して2年足らずですが、わたしは本当に幸せでした。彼と暮らして、既に一生分の幸せはもらったな、と心から思っています。なので、わたしの人生、これはこれでもう十分、という思いです。むしろ、これまで自分ひとりでは何の役にも立たなかったわたしが、胸を張って「わたしはこれをやり遂げた」と言うことができるとしたら、それは新しい命をこの世に送り出すことなんじゃないかと思うんです。
もちろん、無事に出産を乗り越えたら、その先にこそやるべきことは山積みなのでしょうが、今は、子供の命と引き換えになら、自分は死んでも惜しくないなぁと思っています。大切な子供を託す相手が彼ならば安心ですし。

わたしのこんな気持ち、これもまた「生」への執着のひとつの形かもしれません。自分自身の命にはこだわりがなくても、自分の分身として命を引き継いでくれるものに希望が持てるからこそ感じる思いなのかな、と。
あと何週間かで迎える出産という一大事。その瞬間に、自分がどんなことを感じるのか、楽しみでもあり、怖くもあります。

2006年4月19日

80歳の誕生日まで3週間を残して亡くなった祖母は、肺の病気で慢性的に呼吸が不自由でした。肺の組織がどんどん死んでいき、酸素と二酸化炭素の交換がうまくできず、いつも苦しそうにしていました。医者の言葉を借りれば、「水の中で息ができない感じが24時間続いている」くらいの苦しみだそうです。本人も、「死ぬときはよっぽど苦しいんだろうねぇ」と、いつも不安な顔をしていたものでした。
でも、実際の祖母の死は、苦しそうな表情も一切見せず、自宅で排泄介助のため祖父に抱きかかえられているときに意識を失い、祖父と母とでベッドの上に運んで寝かせたあと、夫である祖父と、長男家族に見守られながら、まさにろうそくのともし火が費えるように静かなものでした。

祖母は4月に入ってから急激に弱っていきました。わたしが帰省した頃から、「みっちゃんの赤ちゃんはわたしの生まれ変わりになるから、わたしは赤ちゃんが生まれる前に逝かなきゃかんだよ。生まれるまで生きてちゃかんだよ。」と、しきりに口にしていました。それまで見せていた死の苦しみへの恐怖を語ることは一切なくなり、大きくなったわたしのおなかに向かって、「わたしがちゃんと生まれ変わりになるから、待っててね。」と話しかけていました。寝るときにいつも装着している酸素マスクも、死の3日ほど前からは「もういいだよ」と言って自ら外し、祖父にも改まって「今までありがとう」とお礼の言葉を伝えていたそうです。臨終の前の数日間の祖母は、何か覚悟を決めたような、とても穏やかな表情でした。
意識を失ったそのとき、祖母は本当に安らかな気持ちだったのでしょうか。わたしは、きっとそうだったのだろうと思うことができます。自分が死ぬのはたしかに怖いし、寂しい。でも、こうやって目の前に新しい命の誕生を実感することができ、自分は死ぬけど、かといって無になるわけではないと感じたんじゃないだろうかと。本当は、あと少しでひ孫の顔が見られると思えば、せめて生まれるまで、せめてこの手に抱くまでと欲が出そうなところですし、希望を持ってしまったからこそ諦めがつかなくなる、ということもあるとは思います。でも、祖母は本当に生まれ変わりを感じ、言ってみれば「命のリサイクル」をするという思いだったのではないかと思っています。

出産を控えた今、わたしも同じような思いを抱いています。もちろん、もっとずっと生きていたいし、家族と一緒に楽しい時間を過ごしたい。でも、それが叶わなくても、まぁいいかな、と思います。どこまで生きれば満足かなど見当もつきませんし、だったら、いつか死ぬとしたら今は最高のチャンスかな、と。今なら、死んで無になるのではなく、新しい命として引き継がれるんだな、って思えるから。きっと、子供の顔を見て成長を見続けていったら、責任感も芽生え、希望も断ち切りがたく、死への覚悟など消し飛んでしまうから。

「みっちゃんの赤ちゃんに生まれ変わるからね」と言い残して、実際にひ孫の誕生を待たず死んでいった祖母の死に触れ、とても頼もしいような心強い気持ちでいます。命というものが自分のものではなく、自分自身の存在が、何か大きな「命」というつながりの中の一部なんじゃないかと感じたからです。子を産み生き続けていくことへの強い希望と、子の命と引き換えに死んでいくことへの晴れやかな覚悟が同居する、とても穏やかで清々とした気持ちです。

2006年5月 5日

今回の祖母の死は、わたしたち家族にいろいろな問題を投げかけました。その一つが「家の断絶」という問題。
わたしは一人っ子です。しかも、父方にとっては唯一の内孫、母方にとっては唯一の孫という、自分で言うのもなんですが、とても貴重な存在でした。そのわたしが寺に嫁いでしまったわけですから、それによって、父方と母方、二つの家の血を絶やすことになります。もちろんそんなことは、結婚の話が出た段階で誰にも分かっていたことです。しかし、両親ともわりと進歩的な考え方の持ち主で、大事な娘だからこそ、家というものに縛り付けず自由な人生を歩かせようと、二つの家を絶やしても嫁に出すことを了解してくれました。あとから聞いたこところでは、やはり祖父母の反対は激しく、納得させるのにとても苦労してくれたそうです。

亡くなった祖母の入るべき墓は、もともと自宅からものすごく遠い場所にありました。そこで、それではお参りに行く人が大変だろうと、祖父母は既に30年ほど前に、自宅近くの寺に墓地用の地所を購入していました。宮大工の棟梁だった祖父が釣鐘堂を建立した、我が家にとっても縁のあるお寺です。幸いなことに、地所を購入した後およそ30年、我が家からは不幸が出ず、祖母が初めてそのお墓に入ることになりました。ところが、我が家には仏壇も墓石もありません。とりあえず仮の仏壇と墓標を用意しましたが、近いうちには正式なものを用意することになります。
もう、葬儀がやっと終わった翌日から、いろんな業者の訪問、電話、郵便物の対応にてんやわんやですが、我が家には初めての買い物なので、本当に気に入ったものをじっくり選んで買いたいと、両親は一生懸命です。黒塗りの仏壇らしい仏壇がいいかな、家具調の手入れのしやすいものがいいかしら。お墓の石はやっぱり黒御影石がいいわよね、何百年ももつのよ。形はちょっと今風にしてみようかしらと、話し合いは尽きません。
でも、考えてみれば、せっかく買った仏壇も墓石も、守っていくのはわたしが最後。祖父と両親の死後は、この家も壊してしまうでしょうし、当然仏壇も処分、墓地も撤収してお骨は菩提寺か浅草のうちの寺のいずれかの無縁仏になるでしょう。
何気なくその話をしてみると、両親は急にはっとした表情になり、「そうよね、末永く使えるいいものをと思っても、このうちはすぐに絶えてしまうのね」と、寂しそうな顔をしました。わたしも、自分の親が無縁仏になることを、生々しい現実として初めて感じました。

結婚を決めたときから、いずれそうなることは想像していました。でも、結婚というお祝い事、好きで自分が選んだ相手との新しい暮らしばかりに心が向いていて、家を絶やすという現実がどれほど残酷なことなのか、自覚が足りなかったような気がします。実際、一人娘、一人息子が家を出て他所に嫁ぐことは、今でこそそんなに珍しいことではありません。家業をもつ家の跡取りが、家業が好きになれず廃業して勤めに出たり新しい商売に転向することも、よく聞く話です。
でもほんの少し前までは、好きな仕事も選べず好きな相手とも結ばれず、「お家のため」と、自分の夢や理想を殺して人生を全うした人がとても多かったはずです。そうやって、自分を犠牲にしても家を守ることにこだわってきたのはなぜなのか、そこにどんな意味、重みがあったのか、真剣に考える機会は、わたしには果たしてなかったように思います。

わたしたちの結婚式のパーティの最後、父が新婦の父親としての挨拶の中で、「一人娘を嫁に出すことに親戚からは当然反対の意見が出ましたが、娘が自ら望んだ結婚で、そこで子を生み、嫁ぎ先であるお寺の繁栄の一端を担えるなら、絶やすことになる二つの家の歴史にも意味があったと思える」と言っていました。奇しくも、前回のコラムでわたしが書いた、「今なら、死んで無になるのではなく、新しい命として引き継がれるんだな、って思える」というのと、同じことなのだと思います。父自身、そのときは本当にそう思ってくれていたのだと思います。でも、実際に家が絶える現実を目の前につきつけられ、どうしても寂しい気持ちは拭えない。
自分の命なら諦めがついても、何百何千という人々が自らの人生を犠牲にしても繋いできた歴史を、自分の代で打ち切りにすることには、今になってやはりためらいを感じます。それがどんなに残酷なことなのか、そして、嫁に出て新たな命を生んで歴史を受け継いでいくことにどんな意味があるのか、それが明確に分からないから、よけいに不安だし、これでよかったのか自信が揺らいできました。

2006年5月30日

出産予定日を今月の27日に見送り、明日、いよいよ出産本番を迎えます。ひと口に出産と言っても今はいろいろな方法がありますが、わたしたち夫婦は無痛分娩を選びました。まぁ、何がなんでも無痛でというわけではなく、陣痛が起きたときに間に合えば無痛で生めたらいいね、くらいの気持ちでした。ところが、予定日を過ぎてもいっこうに生まれる気配がない。昔は「初産は遅れる」とよく言われたようですが、実際には周りでは予定日よりも早くに生まれるケースが多かったので、わたしも早めの出産になるつもりだったのが、ちょっと計算違いでした。で、予定日過ぎてあまりのんびりしているわけにもいかないので、医師と相談の上、明日、陣痛促進剤を入れることに決めたんです。
KAKUも昨日から浜松に来てくれています。今日は夫婦二人の最後のデートということで、近所のシネコンで話題作の「ダ・ヴィンチ・コード」を観てきました。だいぶ前に原作を読んでいて期待が大きかった分、映画はどうかなーと少々不安もあったのですが、まぁ映画としてはけっこう楽しめたと思います。
でも、赤ちゃんが生まれたら、しばらくは映画館なんて来られないだろうなぁ。その分、DVDはたくさん観たいなぁなんて、二人で過ごす最後の時間も、結局は赤ちゃんとの暮らしに思いを馳せるばかり。10ヶ月の妊娠生活はすごく長く感じられて、その前に二度の流産もあったせいか、結婚してからずっと妊娠しっぱなしのような気がして正直ちょっと飽きてもいましたが、それも明日で終わりだと思うと複雑な気分です。KAKUはパパになり、わたしはママになる。うーん、想像はどんどん膨らむけれど、実感は沸いてこない。とりあえずは、明日の出産を無事に乗り切らなくては。きっと、これまでの人生でも例のない、特別な一日になるんだろうな。
今夜はゆっくりお風呂に入って、体を休めます。出産後は一週間の入院生活になるので、出産のご報告はKAKUにバトンタッチします。皆さま、どうぞお楽しみに!

2006年5月31日

点滴 KAKUです。
 本日朝、ミチコが入院しました。
 予定日を過ぎても出産の兆候が見られないのと、本人の希望とあわせ、計画出産に踏み切りました。
 「出産はみんなやっていることだから」と簡単に考えていましたが、立ち会ってみると本当にすごい一大事業だと感じます。
 今朝早く病院についてミチコは軽く診断を受けます。健康健康。普段おいしいものを食べているのが効いたのか、健康には問題がありません。予定通りに出産計画が進められます。
 朝9時ごろから陣痛促進剤を点滴で投入を始めました。アトニン5単位と書かれた点滴を入れてから3時間ほどたつとミチコが「おなかが痛い」と言い始めます。陣痛が始まり、いよいよお産がスタートします。この頃のミチコはまだ余裕があり、友達にメールで「今入院したよー」「あ、陣痛が来たー」などとやっています。

 しばらくすると陣痛が段々強くなり、話すこともままならなくなりました。この頃メールを断念、現場からの体験レポは終了してしまいました。
分娩監視装置.JPG この頃、分娩監視装置をおなかにつけ、おなかの赤ちゃんの心拍と陣痛の様子(おなかの張り)を逐一監視します。僕に許されている仕事はこの装置を眺めることだけ。心拍が上がったり下がったりする様子を一喜一憂しながら見守ります。
 陣痛は時間を追うごとに強くなっていきます。ミチコは顔中真っ赤にして歯を食いしばりながら痛みに耐えています。しかし子宮口はあまり開いてくれません。
 昼過ぎから始まった陣痛が、夜の8時を過ぎても子宮口が開いてこないので、今日はいったん分娩をやめ、明日改めて仕切りなおしにしようということになりました。
 赤ちゃんの顔を見るのは明日に延期です。

2006年6月 1日

取り急ぎご報告のみで失礼いたします。

先ほど6月1日午後10時47分、2636グラムの女の子が誕生いたしました。
母子ともに健康、母乳を吸って眠っております。

「お寺に嫁ぐということ」読者の方々にはご心配をおかけしました。
今後、新しい家族が増えた「お寺に嫁ぐということ」をどうぞよろしくお願いいたします。

*明日の夜当たりに詳しい経過と写真をアップいたします。

2006年6月 5日

KAKUです。

totugu0003.JPG 6月1日に無事2636グラムの女の子が誕生いたしました。母子ともにいたって健康です。
 僕は生まれて始めて出産に立ち会ったのですが、本当にものすごい苦労を乗り越えて人は誕生するものだとつくづく感じさせられました。
 ミチコのお産はかなり難産だったようで、陣痛が始まってからまる二日間かけてやっと出産までたどり着きました。二日の間、5分間隔(後半は2-3分間隔)で来る陣痛に必死で耐えている姿を見ていると、その苦しんでいる姿を目の前にして、何も出来ないことにいたたまれなくなってしまいます。食事をする余裕も無く、意識も朦朧となりながら、それでも定期的に起きる陣痛に付き合わなければならないその姿はまさに拷問を見ているようでした。
 「このつらさは後どのくらい続くんだろう?後1時間くらいならいいけど、これが後一日続くなら耐えられない。」普段めったに弱音をはかないミチコが漏らした言葉に心を打たれました。
 二日目の夜になっても一向に分娩にたどり着かないのを見かねて、助産婦さんが何人か駆けつけ、ミチコのお腹をぐいぐい押しながらお産を進めていきます。このあたりから僕は廊下に出されます。こうなると出来ることは動物園の熊のようにうろうろとするだけです。
 夜も大分遅くなって来たときにようやくお産の兆しが見えてきたようで、ようやく分娩室へ移動。それからの時間の長かったこと。一晩中起きていたかのように感じましたが、時計を見るとたったの30分。分娩室の様子が見えないだけに心配がつのります。そんな中、お隣の部屋でもお産に面している夫婦がいて(後から聞けば私たちの一時間後に無事にご出産をされたようです。)、お隣のご主人と話しながら気持ちを落ち着けられたのが幸いでした。
 こうやって多くの人に支えられながら生まれてきた命。ありがたくもやっと生まれてきてくれた命を目の当たりにすると、この子がちゃんと幸せに育ってくれるような環境を作っていきたいと心のそこから思います。