2008年6月 1日

今日、近所の仏教系幼稚園で行事があり、ちょっと覗いてきました。かわいいですね、子供たちは。我が家の赤ちゃんには幼稚園はまだ先の話ですが、集まった園児達に我が子の未来を重ねて見て、思わず笑みがこぼれました。

さて、その行事での一コマ。園児達が、事前に覚えていたある言葉を一斉に唱えるのですが、それが「これからも、わたしたち仏の子を見守ってください」というものだったんです。
それを聞いた瞬間、思わずゾッとしました。

「仏の子」。
その言葉の持つ強い響きに圧倒されて、身震いさえする思いでした。こんな幼い子供達に、いったいなんてことを言わせるのだろう、これでは洗脳じゃないか、と。
その幼稚園はうちの寺からとても近所なので、我が家の赤ちゃんもいずれ通う可能性が高いのです。ひどい嫌悪感に襲われましたが、よく考えてみれば、まぁ仏教系の幼稚園ならどこでもありえることだし、わたし自身の夫であるKAKUも、おそらくそんなふうに教育されてきたクチでしょう。
右も左もわからないうちから「わたしは仏の子」と刷り込まれたところで、別に大した問題じゃない、すぐにそう思い直しました。

でも、今日一日、頭の片隅にその言葉が焼きついて離れませんでした。
それが、突然わかちゃったんですよね。「仏の子」の意味するところが。

最初にそれを聞いたとき、「何言ってんの、あなたたにちはパパやママがいるでしょう!?」と、本当に思ったんですよ、わたし。でも、それじゃぁそのパパやママは誰の子なのだろう。当然、誰にでも父母があり、その父母にもまた父母があります。でも、人ひとりの存在は、けしてそれだけの単純なものではないんです。
『お寺に嫁いでしまった。』の中でも触れましたが、わたしは長女を出産する前に二度の流産を経験しています。もし、そのときに産めなかった子供たちが無事に産まれていたら、長女は存在しなかった。つまり、この世に生きられなかった命に、我が子は生かされているわけです。
それだけじゃない。出産した病院が違っていたら、里帰りの日にちを変えていたら、あのとき通った道を変えていたら、昨日の夕飯の献立を変えていたら・・・今、この子は生きていないかもしれない。笑っていないかもしれない、泣いていないかもしれない。

我が子が、わたし自身が、そして全ての命が存在し、今まさにそれぞれの時を過ごしている背景には、ものすごい偶然が幾重にも折り重なっているんですよね。その膨大な偶然を、例えば仏教では「縁」と言うのかもしれません。
そして、「仏の子」の意味する「仏」が、すなわち「縁」であるのだと。

無邪気に「わたしたちは仏の子」と言った幼い子供達に対して、「何言ってんの、あなたたにちはパパやママがいるでしょう!?」と本気で訴えていた、あまりにも刹那的な自分に驚いています。
こうやって時間をかけて考えれば、なるほど我が身もまた仏の子なのだと納得できる。逆に言えば、時間をかけてよくよく考察しなければ、それがわからない自分。三十路を過ぎて、子供まで産んでいながら、何もわかっていない自分。

ものの理屈など考えもしない頃から、自分や他の命が生かされている由縁を感覚できるような教育。その表れの一つが、今日のあの場面だったということなのでしょう。頭と図体ばかり育ちきってしまってから仏教に触れ合っているわたしと違い、あの園児達は、しっかりと開いた眼で世の中に出て行くのだろうと思うと、彼らが頼もしく、彼らの担う未来が輝かしく思われるのです。

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寺とは縁もゆかりもなかった女の子がお坊さんと恋をして、お寺に嫁ぐ。このケース、実は最近けっこう多いんです。このコーナーでは実際にお寺に嫁いだ寺嫁(てらよめ)の視点から、恋愛・結婚・出産・子育てなど、お寺での生活について現在進行形で体験レポートしていきます。
みちこ
ふつうのOLから思いがけず浅草のお寺に嫁ぐ。子どもと旦那(お坊さん)の世話に追われながらお寺を切り盛りする忙しい日々。