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2008年6月 アーカイブ

2008年6月23日

先日、実家に帰省した際、飼っている犬の体調があまりよくないと聞かされました。病院で血液検査をしても異常が見つらず、幸い、そのうちに症状も次第に穏やかになりました。それで、家族の間では、最近新しい犬を飼い始めたせいで、精焦りや寂しさ、嫉妬などで精神的にストレスを抱えてしまったためだろうということに落ち着きました。
でも一瞬は、この犬がもし死んでしまったら・・・という不安を感じました。かなりの大型犬ですので簡単に埋めるわけにもいきませんし、火葬してお骨になったとして、その辺の海や山に捨ててしまうというのも問題がありますし、だからといって納めるお墓に心当たりもありません。家族の心情としては、できれば同じお墓に入りたいくらいにかわいがっていますが、それは現実的ではないですよね。
親戚の家には、過去に飼っていて死んでしまった犬達のお骨が、まだ家の中に置いたままになっています。
また、ある家には、生後間もなく亡くなった子供のお骨が仏壇に置いたままになっているとか。その家ではご主人が分家にあたるためまだお墓がなく、本家のお墓もものすごく遠方で納められないそうです。家族には、「こんな小さな子供の骨なんだから、別にお墓に入れなくなっていい」とか、「もし次の子供ができると、やきもちを焼いてあの世に連れて行こうとするからちゃんと納めないとダメだ」とか、いろんな意見があるようですが、お母さん本人は、やはりどこかちゃんとしたお墓なり納骨堂なりに納めたいというのが本音だそうです。
でも、実際、このあと家族の他の人がお墓に入る予定も早急にはない状態です。そもそも自分達自身は、いざというとき、ちゃんとした葬儀もしてもらわなくてかまわないし、お骨だって海や川に散骨してもらえばいい、くらいの気持ちでいるのに、たしかにこんなに小さな子のお骨を入れるために、わざわざお墓や納骨堂を求めるというのも、経済的にもピンとこない。さて、どうしたものだろう・・・と悩んでいるのだとか。

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2008年6月 8日

友人の結婚パーティにお呼ばれしてきました。
わたしたちが参加したのは二次会だけでしたが、当日行われた挙式の様子も新郎のパソコンに写真がアップされていて、白無垢と羽織袴に身を包んだ、初々しくも厳かな表情で杯を交わす新郎新婦の姿を見せてもらうことができました。
このご両人、挙式は上野・寛永寺で仏前結婚式を行ったとのことでした。袈裟をつけたお坊さんが儀式を執り行う様子は、さすがにKAKUやわたしにとっては見慣れたものですが、集まった多くの参加者にはとても新鮮なようで、みんな興味深そうに見入っていました。

仏前結婚式、やっぱりいいですね。新郎新婦を囲むように両家の親族が並ぶ配置が、わたしはとても気に入っています。結婚が二人だけのものではなく、家と家との結びつきであり、つまり、二人の存在の由縁によってこそ、新しい絆、縁が結ばれたのだということを実感できるんですよね。それに、結婚式という、いやがうえにも緊張を強いられる場面だけれど、親しい顔が回りで見守ってくれるおかげで、なんとなく気持ちがほっとします。

なかなか出会う機会のない仏前結婚式ではありますが、これから結婚をお考えの方には、是非検討してみてほしいと思います。有名な大きいお寺なら、たいてい受け付けてくれますし、菩提寺など、ゆかりのあるお寺に相談なさってもいいと思います。というか、仏壇があれば、自宅でも可能ですよ!

それにしても。わたしも数年前に仏前で結婚式を挙げた身。今回の新郎新婦の様子に、当時の自分を重ねたりもしてみたのですが、いやはや、さすが寛永寺、舞台が違いますね。時代を感じさせる広くて重厚なお堂に、お坊さんの数もなんと5人!わたしたちは雅楽をお願いしたので、その奏者(お坊さん)や、住職の親しい友人(お坊さん)にも参列をお願いしていましたが、それを除けば、式を執行したお坊さんは1人だけ。それもKAKUのおじいちゃん。
さらに、寛永寺は密教系の天台宗なので、お堂の様子も、お坊さんの装束も、浄土真宗であるうちの寺のものとは全然違います。
本当に、「お寺」といっても実に様々なものだなぁと、改めて実感しました。

何はともあれ、新郎新婦、ご結婚おめでとうございます!この日の姿をお互いに忘れず、いつまでもお幸せに。

2008年6月 1日

今日、近所の仏教系幼稚園で行事があり、ちょっと覗いてきました。かわいいですね、子供たちは。我が家の赤ちゃんには幼稚園はまだ先の話ですが、集まった園児達に我が子の未来を重ねて見て、思わず笑みがこぼれました。

さて、その行事での一コマ。園児達が、事前に覚えていたある言葉を一斉に唱えるのですが、それが「これからも、わたしたち仏の子を見守ってください」というものだったんです。
それを聞いた瞬間、思わずゾッとしました。

「仏の子」。
その言葉の持つ強い響きに圧倒されて、身震いさえする思いでした。こんな幼い子供達に、いったいなんてことを言わせるのだろう、これでは洗脳じゃないか、と。
その幼稚園はうちの寺からとても近所なので、我が家の赤ちゃんもいずれ通う可能性が高いのです。ひどい嫌悪感に襲われましたが、よく考えてみれば、まぁ仏教系の幼稚園ならどこでもありえることだし、わたし自身の夫であるKAKUも、おそらくそんなふうに教育されてきたクチでしょう。
右も左もわからないうちから「わたしは仏の子」と刷り込まれたところで、別に大した問題じゃない、すぐにそう思い直しました。

でも、今日一日、頭の片隅にその言葉が焼きついて離れませんでした。
それが、突然わかちゃったんですよね。「仏の子」の意味するところが。

最初にそれを聞いたとき、「何言ってんの、あなたたにちはパパやママがいるでしょう!?」と、本当に思ったんですよ、わたし。でも、それじゃぁそのパパやママは誰の子なのだろう。当然、誰にでも父母があり、その父母にもまた父母があります。でも、人ひとりの存在は、けしてそれだけの単純なものではないんです。
『お寺に嫁いでしまった。』の中でも触れましたが、わたしは長女を出産する前に二度の流産を経験しています。もし、そのときに産めなかった子供たちが無事に産まれていたら、長女は存在しなかった。つまり、この世に生きられなかった命に、我が子は生かされているわけです。
それだけじゃない。出産した病院が違っていたら、里帰りの日にちを変えていたら、あのとき通った道を変えていたら、昨日の夕飯の献立を変えていたら・・・今、この子は生きていないかもしれない。笑っていないかもしれない、泣いていないかもしれない。

我が子が、わたし自身が、そして全ての命が存在し、今まさにそれぞれの時を過ごしている背景には、ものすごい偶然が幾重にも折り重なっているんですよね。その膨大な偶然を、例えば仏教では「縁」と言うのかもしれません。
そして、「仏の子」の意味する「仏」が、すなわち「縁」であるのだと。

無邪気に「わたしたちは仏の子」と言った幼い子供達に対して、「何言ってんの、あなたたにちはパパやママがいるでしょう!?」と本気で訴えていた、あまりにも刹那的な自分に驚いています。
こうやって時間をかけて考えれば、なるほど我が身もまた仏の子なのだと納得できる。逆に言えば、時間をかけてよくよく考察しなければ、それがわからない自分。三十路を過ぎて、子供まで産んでいながら、何もわかっていない自分。

ものの理屈など考えもしない頃から、自分や他の命が生かされている由縁を感覚できるような教育。その表れの一つが、今日のあの場面だったということなのでしょう。頭と図体ばかり育ちきってしまってから仏教に触れ合っているわたしと違い、あの園児達は、しっかりと開いた眼で世の中に出て行くのだろうと思うと、彼らが頼もしく、彼らの担う未来が輝かしく思われるのです。

寺とは縁もゆかりもなかった女の子がお坊さんと恋をして、お寺に嫁ぐ。このケース、実は最近けっこう多いんです。このコーナーでは実際にお寺に嫁いだ寺嫁(てらよめ)の視点から、恋愛・結婚・出産・子育てなど、お寺での生活について現在進行形で体験レポートしていきます。
みちこ
ふつうのOLから思いがけず浅草のお寺に嫁ぐ。子どもと旦那(お坊さん)の世話に追われながらお寺を切り盛りする忙しい日々。