2008年1月 5日

三が日も過ぎ、町は少しずつ普段どおりの静けさを取り戻していく・・・はずですが、ここ浅草では、まだまだお正月の賑わいが続いております。皆様は、どんな年明けを迎えられましたか?

さて、普段はお仏飯をお供えするだけのご本尊にも、お正月はおせち料理やお雑煮を少し分けてお供えしました。もちろん、輪餅(鏡餅のようなもの)とみかん、それにお屠蘇もお供えします。普段より豊富な品揃え(?)に、ご本尊も喜んでくれたでしょうか!?
それにしても、お供えというのは、どうしてこんなふうに食べ物に特化しているんでしょうかね。例えば、今のような寒い季節には仏様に厚着をさせるとか、たまには誰かが一緒に寝てみるとか、そんな習慣があってもよさそうなのに。いつも、ご飯をあげて、花を入れて、お経をあげて、おしまい。ご本尊を取り巻く環境には、ほとんど変化がありません。何か珍しい頂き物なんかがあったときにもお供えをすることはありますが、それもやっぱり食べ物が多いですしね。
あ、でも宗派によっては、お堂で歌ったり踊ったりするかもしれないし、人形や着物を供養に飾ることもあるでしょうから、一概に「お供えは食べ物」とも言えませんね。

スミマセン、年明け早々、またしても頓珍漢なことを書いてますね。一年に一度、いつもと違うものをお供えしたものですから、ついつい余計な想像力を働かせてしまいました。
今年はひとつ、ビシッとピリッと冴えのある記事を書いていけるよう、気持ちを引き締めていこうと思います。
この新たな一年も、よろしくおつきあいくださいませ。

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コメント (8)

miel:

はじめまして。みちこさん。いつも楽しく拝見しています。
私も在家からお寺に嫁ぎまして一年が経とうとしています。
分からないことだらけで失敗も数知れず・・・ですが、周りの方々に教えて頂きながら何とか歩んでおります。
今回のアップを拝見していて是非お願いがあります。それは「こうする。ああする。」というカタチだけではなく、「その意味するところ」を若院や周りの方々から教えて頂いてください。疑問・・・に思う事は素晴らしい事ですが、みちこさんは「坊守」としてご門徒の方々に伝えていく立場の方ですよね。今回の「ご本尊」に関するアップは正直、驚いてしまいました。浄土真宗のご本尊は決してお供えを豪華にしたからといって喜ぶご本尊ではないはずです。あのアップには続編があるべきではないでしょうか?こういう疑問が浮かびましたが、こういう意味だと教えてもらいました・・・とか。在家からお寺に入った者として色々な事が新鮮に見えるのは素晴らしいです。分かります。でも、でも・・・ご本尊に関する事など、どうか真摯に向き合っていってください。みちこさんのその様な姿勢こそが、我々読者を励まし、導いてくれるものだと思います。

みちこ:

>mielさま
はじめまして。コメントありがとうございます。
さて、今回のアップでは、少なからぬショックを与えてしまってごめんなさい。たしかに、自分でもあれだけ書いておしまいにしたのは、少々乱暴だったと反省しています。おっしゃるとおり、近いうちに続編というか、同じトピックでも、もう少し掘り下げた視点からの記事を書かなければ、と思っています。
ただ、「普段より豊富な品揃え(?)に、ご本尊も喜んでくれたでしょうか!?」という一文には、わたしなりのご本尊に対する思いを込めたつもりです。
もちろん、普段より豪華なお供えだからといって、ご本尊が本当に喜ぶとは思いませんが、「せっかくお正月なのだから、仏様にもおせちをお供えしよう」という素朴な思いは、けして否定される類のものではないと思うのです。それは、日頃お仏飯をお供えする際、例えば電子レンジでチンするレトルトのご飯ではなく、必ず炊き立てのご飯をお供えしたいと思うのと、それほど違わない気持ちからの行為です。そんな、真宗の教えの厳密なところからすれば、的外れで無作法な行為に、ご本尊はけして喜ばずとも、眉をひそめて拒絶することもないだろうと思うのですが、いかがでしょうか。
まぁ、今回の記事は、本当におっしゃるとおり、自分でもいささか具合の悪いものだった気がしています。厚着や添い寝など、ちょっと筆が滑りすぎた感も否めませんよね。ご指摘、ごもっとも、叱ってくれるお言葉をありがたく拝見しました。
お寺の嫁というのは、ポーズに終始せず真心から務めたいと思うと、なかなか難しいところがありますね。でも、坊を守る者の本分を見失わないように、周囲から求められている姿をしっかりと見定め、自分のものにしていかなくてはと、目の覚める思いです。
コメント、本当にありがとうございました。これからも彼岸寺をよろしくお願いいたします。

ロシン:

初めて書き込ませていただきます。

みちこさんの今回のブログを読ませていただいて、いつだったか子どもの頃、寒い冬に親に「お地蔵さん、あんな格好で寒くないの? 半纏をかけてあげようよ」と言って、親が困った顔で笑っていたことを思い出しました。

成長し、僧侶になり、諸仏諸菩薩に対する尊崇の念が高まったからなのか、そういった発想が出てくることは無くなったのですが、小さい頃自分が抱いていたそういう自然発生的な”お地蔵様を大切に思う気持ち”というものを忘れたくないなと思います。

色々な人の色々な思いがリレーされて、2500年以上にわたって仏教という信仰のあり方が現在まであるわけで、そういう中で自分は仏教の僧侶として生きているので、色々な人の色々な思いを受けとめていきたいです。

何だか文章まとまらなくなってきましたが(苦笑)、みちこさんの発想は、僕に常に新鮮な驚きを与えて下さいます。

このブログに「ふつうの家庭から、お寺の嫁に」というサブタイトルがついていますが、お寺とゆかりの無かった在家の方の発想は、僕のような寺生まれ寺育ちの人間には良い刺激になりますので、寺族として宗義を正しく伝えるというスタンスを持ちつつ、もう一方で「ふつうの家庭から嫁いだ」というスタンスをこれからも発揮していっていただきたいなと思います。

先輩、本年も宜しくお願いします☆

miel:

みちこさん。どうかこれからもお互いに尊い仏縁に出遇わせていただきましょう。

坊守という立場的なものも無碍にはできませんが、一番大切な事は、僧侶であれ坊守であれ、在家であれ・・・人として生まれさせていただいたからには、「自分自身(我が身)が仏に出遇わせていただく」という、この事ひとつに尽きると・・・そう思います。ポーズではなく「生身なまみ」で結構だと思います。み教えは「きれい事」ではないハズですよね。

「おこころを問うていく」真剣な姿勢が・・・(私自身もですが)大切ですよね。

「いつもご本尊にご飯をあげて、お花を入れて、お経をあげて、おしまい。」・・・という様なくだりがありましたが、そもそもお経はご本尊に聴かせているのではなく、我々が「お経をいただいていく」という姿勢が大切なのだと思います。そういう観点からすると、先日のみちこさんのこの文章には正直、真摯な姿勢が感じられず、少々粗雑な印象を受けました。それから、お仏飯やお花の意味も・・・教えていただいてください。その意味「おこころ」が分かれば、この文章の与える印象について分かっていただけるのではと思います。

新鮮な疑問は大切ですが、み教えの「かなめ」の部分、「おこころ」はどんなに時代がかわっても、大切に受け継いでいきたいものですね。この彼岸寺の活動だって、きっと根本にはその事があるからみなさん、頑張っておられるのでしょうから。

みちこさんの真摯なお姿をこれからも応援いたしております。


Solei:

お供えもお正月バージョンになるのですね!
御節やお雑煮は知りませんでした^^
わたしは日本人ですが、普段あまりお寺に行くきっかけがなく知らないことがいっぱいです。
それに比べ、昔の人たちはもっとお寺が身近だったと聞きますがどうなのでしょうか?そのあたりご存知ですか?

みちこさんのBLOG、お寺のことを良く知らない人にはとても興味深いと思います!これからも楽しみにしています。


KAKU:

miel様。

はじめまして。彼岸寺のKAKUです。
コメントを読み、僕もからも書かせていただきたいと思います。
僕は、みちこに仏の教え、その心を「教える」という感覚ではおりません。仏教の教えは教わるものではなく、出会うものという思いがあり、そのためには、一つ一つ言葉で諭していくよりも、僕自身が一僧侶として日々を暮らす姿を見ることで彼女自身が、自然な形で仏縁に触れるときを待つのがよいのではないかと考えるからです。
けして、仏の教えを求めて寺に暮らし始めたわけではない彼女が、多くの所作、しきたりをポーズではなく真心から受け入れるのは、安易なことではないと思います。本来、自由なはずの個人的な「心」の深部に、仏教が深く切り込んでいくわけですから、それをときには鎧でガードしようとしたり、逃げ腰でやり過ごそうとすることもあるでしょう。そういった頑なな気持ちを解いていくのは、み教えそのものよりも、むしろそれを説くわれわれ僧侶の普段の生活であったり、振る舞いであったりするのだと思います。
そう言っておきながら、今回のように、読者の方に誤解を与えるよな記事が生まれてしまうのは、僕の生きる姿が甘いのかもしれません。
もう一つ、彼女が寺の暮らしの中でいきあう様々な疑問や葛藤について、僕がきちんと説明できる言葉を持っていないという現実もあります。お寺の子として生まれ、理屈の前に信心があった僕にとって、仏教の教えや仏のこころを、それをもとより求めていない人間を相手に言葉にするのというのは大変に難易度が高いもので、説明しようとすればするほど、自分の言葉足らずが、彼女を混乱させてしまうような気がしています。
ただ、今回もそうですが、彼女の中に生まれる粗野で的外れな感情も、けして乱暴なだけのものではなく、在家出身の彼女なりに、手探りの中から芽生えた無垢な思い。それもまた、尊い「仏に向き合う姿」の表れなのだと、僕は喜んでいます。
もちろん、ウェブサイトはある意味で公共のものですから、自分の思いついたままをストレートに言葉にするだけが適切ではないこともあります。その点は、彼女にとっても大きな反省点だと思いますが。
いずれにしても、諸々の所作、しきたりについて、「これにはこんな意味があるんだよ」くらいのことは、当然教えてきました。しかし、全ての根源に流れる仏のこころまでは、「教える」ものではなく、気づくものだと思っています。その過程で生じる寄り道もまた、彼女という一人の人間が気づきに至るまでの大事な道のりだと思い、周りにいる僕もそれを受け入れ、見守っていこうというのが、家族としての僕のスタンスであることをご理解いただきたいと思います。

みちこ:

>mielさま
重ねてのコメント、ありがとうございます。
KAKUからお返事したようですので、またわたしが書くのもくどいかなと思い、今回は短めに。
本当にわたしは心が硬いというか、天邪鬼というか、寺の人間が大事にしている仏教の教えに対して、まず疑問から始まってしまうんですよね。「ただ信じる」の境地は、まだまだ遠いものです。教えてもらったことを素直に受け入れ、仏の心にすすんで触れようとしているmielさんに比べて、そもそものスタート地点の程度が低く、土俵が違うようですね(笑)。
それでも、愛する人が大事にしているものを、自分も大事にしていきたいと願っています。
わたしの的外れな言動も、「それもあり」と認めてくれるKAKUや彼岸寺の面々、そして時には寛容のうちにも意識を促してくれる読者の方々の存在が何よりもありがたく、励みになります。

miel:

みちこさん。

私もみちこさんと同じです。嫁いですぐから色々な所作、しきたりに「かたちなんて・・・」と反感をおぼえたものです。在家出身の自分のあまりの知らなさに、自分自身、「疑問」を持つのをいいことに「反感」をぶつけていたように思います。そんな私を若さんは根気づよく、あるいは熱意を持って、そのももの「いわれ」というか「意味ところ」を教えてくれました。そして、その「いわれ」「意味するところ」が分かっていくうちに、自分の頑なだった心、孤立感が少しづつ、柔らかくなっていきました。

そんな経験もあるものでしたので、コメントさせていただいたのです。決して、単なる批判のつもりはありませんでした。

私はそちらから遠く離れた北海道の本願寺派のお寺の若坊守です。直接みちこさんとお話できないのが残念ですが、これからもお互い、ご門徒さんと共に歩む坊守になりたいですね。

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みちこ
ふつうのOLから思いがけず浅草のお寺に嫁ぐ。子どもと旦那(お坊さん)の世話に追われながらお寺を切り盛りする忙しい日々。