何日か前、エジプトで新たに二体のミイラが発見されたというニュース記事を読みました。そのミイラの氏素性については、これから詳しい調査が行われるそうです。調査の中で明らかにされることがあれば、きっと、何らかの形で報道されることでしょう。
常々疑問に思っていることがあるのですが、どうしてミイラは、こんなにも大々的に画像が公開されるのでしょうか。死体、ですよね。遺体でも、呼び名はなんでもかまいませんが。例えばこれが、交通事故や爆発事故などで亡くなった方の遺体であれば、おそらくテレビ画面でわたしたちが目にすることはないと思います。病死した著名人の遺体も然り。亡くなったことがニュースになるような有名人や、大きな事件、事故であっても、人の死体が不特定多数の第三者の目に触れることは、通常ではまず考えられません。
それが、エジプトのミイラや、日本であっても即身仏として奉られているようなものであれば、大っぴらに、開けっぴろげに公開されている。「何年ぶりの公開です!」と、展示会まで開かれる。不思議です。死体の新しさが問題なのでしょうか、身分の違いが問題なのでしょうか。遺族の理解があるから?あるいは、遺族がいない、特定できないから?
通常、人の死体が公開されない背景には、遺族の心情への配慮、グロテスクな映像・画像配信の自粛、死者の尊厳への配慮などがあると思います。
ミイラや即身仏の場合、遺族感情への配慮という面では、もしかしたら問題がないのかもしれません。だとしても、例えばミイラや即身仏などは、見方によってはかなりグロテスクとも見えます。さらに死者の尊厳については、ミイラや即身仏の公開が全く問題にならないということであれば、人の尊厳には有効期限があるのではないかという疑問が沸きます。
そんな思いでテレビ番組を見ていたら、こんな場面に出会いました。子供向けの自然科学系の番組なのですが、「では、カマキリのカマを抜いてみよう、セミの羽をちぎってみよう、アリの触覚を引き抜いてみよう」と言うのです。これ、相手が昆虫でなく人間だったら、間違いなくアウトですよね。こんな場面が教育番組で明るく元気に放送されている一方で、「どこそこの公園で四肢の爪を剥がれたネコが見つかった」、「頭に矢の刺さったカモが見つかった(古い!?)」と言っては、キャスターが深刻な面持ちでニュースを読んでいる。不思議です。
いや、わたし自身、普段は不思議とも思っていないんですよ。でも、考えてみたら、不思議と思わないこと自体が不思議でもあります。
命は平等、なんて言ってみたところで、昆虫と人間の命を秤にかけたら、わたしは迷わず人間をとるでしょう。ミイラや即身仏に向ける視線は、「人間」というより、資料、つまりモノに向けるそれに近いかもしれません。
虫より動物、動物より人、他人より、家族というように、命には悲しいかな優先順位があるように思います。そうでなければ、この複雑な世の中が成り立たないとも感じます。しかし、そうやって命に優劣をつけることに、一抹の違和感、後ろめたさがあることもまた、事実なんです。
毎日毎秒、そんなことを考えてはいられませんが、自分の中のその違和感、後ろめたさを見失わないようにしなければ、と思います。
コメント (5)
このコラムには初めて投稿させて頂きます。33歳、浄土真宗僧侶です。
大衆は本当は暴力的なもの、グロテスクなものを求めています。その濃淡は人により違うにしても。もっと過激なものを、と。頻発する凶悪犯罪に大衆は困惑しておきながら、ゴールデンタイムには「世界凶悪犯罪」的な番組が放映され。内心はどこかで「またきた少年犯罪」という感覚がある。「人体の不思議展」という肉体が輪切りにされた展覧会は大盛況で。
表層をプツ抜いた裏側の本当。僕には大衆のその表と裏の‘ズレ’が気持ち悪く。。
対し身の回りの日常では「教育」も目にする「風景」もどこか無機的に直線的になっていき。無機的のつるつる、と取り返しのつかないどろどろの両極。その間はタブー、禁止。おそらくすっと以前、日常にはその間に波打つ「過程」があったように思います。仏教的でいうところの「縁」。その中に今でいうところのグロテスクも転がっていたように。生物との体験も。。
日常から「生(なま)」が消え、表層ではそれを否定しながら、何かを介してそれを求めているように思います。
過去記事に対してですが、送信します。
投稿者: キューピー | 2007年12月 9日 00:28
日時: 2007年12月 9日 00:28
気づき と 言う言葉が、浮かび上がって来ました。
人間のこころ、精神は、日々刻々と変化?進化?
して行きとどまることは、決して無い。
親のこころ 子知らず、虫のこころ 人知らず。
経験を通して体感していくことで、命の平等 を
悟 のでしょうね。
ハトのお話 や 蚊のお話 が浮かんで来ます。
殺生に気づく 瞬間に出会いながら、
この世の学び を 歩むのですね。
野蛮人から 洗練された人へ、
自分本位で、虫を殺しても何とも思いませんが、
立場を逆転させて、虫になってみると分かることは、
小説の世界だけでは、無いのですね。
日常を通して、自分自身を大切にする。
より良く生きることから、尊いものへ反応する
目線が養われていくのですね。
やじろべえ の ように左に右に振れながら...。
超我、すがたを変えるように。(洒落です。)
ひとりごとのような? コメントで申し訳ありません。
今年も、残りわずかです。お風邪など引かれぬように
お身体お大切にお過ごしくださいませ。
投稿者: りみ | 2007年12月26日 08:26
日時: 2007年12月26日 08:26
はじめまして!お坊さんの彼氏をもっている23歳です。
みちこさんが「不思議だ」と感じている理由は2つあるように思います。
それは、視点の違いからくるものですが、
1つは「結果のみをみるか、動機をみるか」の違い。
もう1つは「学問の視点からみるか、命の視点からみるか」の違いです。
まず1つ目です。
何がどうされている、という結果にはそれをしている側に動機と行動があります。
ミイラで言えば、「ミイラが公開されている」という結果には、公開している研究者やマスコミに「歴史的大発見だから、公開せねば」という動機と「公開する、報道する」という行動があります。
事故で亡くなった方、著名人の死体を公開しても、人類の歴史が解明されるわけではありません。
エジプト歴史には詳しくないですが、砂漠に覆われているということを考えれば、人の文明が途絶えてからかなりの時間が経っていることが分かります。
人は水がなければ生きていけない。例えば日本のようにたくさんの山々からなる河川があれば、人の住んでいた史跡がいくらでもみつかるし、人が現在でも住んでるから、書物や口伝から歴史を読み取ることができる。
しかし、砂漠はすべてを砂と一緒に飲み込んでしまう。
そういう土地の歴史が明かされるというのは、本当に快挙だと思います。
ミイラになっているということは石室に手厚く葬られた王族ということですから、エジプトの歴史の一部が解明される大きな手がかりとなることは言うまでもありません。
過去を顧みらざる者は、現在また未来においても盲目であるという言葉のように、歴史を解明することも私達日々の生活には直接関わらなくとも重要な役割を担う学問だと思います。
もちろん、大発見です!と騒ぐばかりのリポーターがここまで考えてミイラミイラと言っているのかどうかは分かりませんし、画像は載せずに文字と言葉だけで伝えればいじゃないとも思うでしょうが、それが報道の性質ですから仕方がありません。
自然科学の番組についても同じです。
生物の生態を知るため羽をむしるのであり、ストレスからくるやつあたりやいたずらで鴨に矢を放つのとはわけが違います。
次に2つ目の視点の違いについてです。
確かに、ミイラも自然科学の番組も、命の視点で捉えてはません。ただ学問の資料として取り扱っているのだと思います。
歴史学者はミイラを考える。
生物学者は昆虫の生態を考える。
僧侶は命を考える。
それでいいんだと思います。
>しかし、そうやって命に優劣をつけることに、一抹の違和感、後ろめたさがあることもまた、事実なんです。
毎日毎秒、そんなことを考えてはいられませんが、自分の中のその違和感、後ろめたさを見失わないようにしなければ、と思います。
さすが、寺嫁さんだ! 見習わないと!と思いました。
ただ、学問は命を軽視している、という風には見誤らないでいただきたいなあと思います。
考古学者は、ミイラに対しては最大の尊厳を持って取り扱っているはずです。(学者はそうあるべき、というわたしの希望ですが。)
番組で羽をむしっている時だって、やっている人が何も感じていないと思いますか?
ミイラと昆虫の生態は、わたしたちの生活には直接関わりはないですが、例えば病気のときに服用する薬はマウス実験で安全を証明されたものがどれだけあるでしょうか。毎日の食事に関しては論を待たず。
だから、日々の当たり前のことに感謝して生きていく。
命に感謝して生きていく。
それが、お寺に嫁ぐための絶対条件なのだろうな、と改めて思うことができました。
投稿者: tima | 2007年12月26日 15:17
日時: 2007年12月26日 15:17
>キューピーさま
はじめまして。お返事が遅くなってしまい、申し訳ございません。
たしかに、日常から「生(なま)」が失われたことによって、かえって人々がグロテスクな刺激を求める、というのは正解かもしれませんね。ただ、「生(なま)」の情報の伝えられ方の大げさぶりがエスカレートしていくことに危険を感じています。「生(なま)」はけして刺激的なものでもなんでもなく、どこにでも転がっている、当たり前すぎる現象で、現代人の生活にもありふれているものです。失われてしまったのは、「生(なま)」の感触ではなく、それを感じ取るセンス、感受性なのでしょうね。
>りみさま
コメントありがとうございます。
「殺生に気づく」。この感覚を失わないようにと心がけたいものです。わたしには仏教の教えの深いところは、まだきちんとわからないのですが、KAKUは常日頃から命について注意を払っています。彼は毎日料理をしますが、台所では、必ず殺生が行われています。自分自身が命を摘むこともあれば、息絶えた「死体」を扱うこともある。それを切り刻み、加熱し、飾り立てて、わたしはたちは食べるのです。そうしなければ、生きていけない。
自分の命は、けして自分だけのものではない。
転じて、他の命もまた、自分の命である。
そこを見失わないでいれば、殺さずには生きられない業の中にも、常に感謝を持ち続けられる気がします。
投稿者: みちこ | 2007年12月26日 15:59
日時: 2007年12月26日 15:59
>timaさま
はじめまして。コメントありがとうございます。
timaさんのおっしゃること、どれも「なるほど」と頷けます。現代社会は、過去の歴史、そしてその探求無くしては実現されなかったものですね。過去を知ることは、より良い未来のために現在をどう生きるか、ということに繋がります。
しかし、つきつめて考えれば、果たして「知る」ことがそんなに重要なのか、必要なのかという問いを無視することも出来ないのではないでしょうか。知るということは、必ず「欲」と背中合わせです。歴史は、人間が何を考えどのように行動しようとも、時間の経過と共に着実に堆積し、存在します。昆虫など自然界の事象も然りです。そこに、「知りたい」「知るべきである」という欲求のために土足で踏み込んでいくことには、ときとして注意深さも必要なのだと思います。
学問や研究というのは、間違いなく尊い営みです。しかし、注意深さ、あるいは謙虚さを失った結果、その名を振りかざし、「人間にとって」有意義で、有用で、快適な環境を模索することだけが正当な最終目的に据えられ、結局のところ、侵略や破壊、社会の退廃、荒廃を繰り返すばかりだったことは自明です。
いや、かく言うわたしも数多くの偉大な学問や研究の恩恵にあずからずしては、暮らしていくことが出来ませんし、そもそも歴史や自然科学が大好きです。抑えがたい興奮、ロマンを感じますよね。
あまり極論を言うとただの屁理屈になってしまいますが、心のどこかに不可触の領域の存在を認める必要はあると思います。気候の厳しいところ、土地の痩せたところには人間は住めない。病や老いから逃げ切ることは出来ない。古いものを食べたらおなかをこわす。それが自然なことです。文明とは、リンゴの実が枝から離れ、最終的には地に落ちるのを、あの手この手で遅らせよう、妨げようとするのと、大して違いがないように感じます。
単純な時間の積み重なりという意味での歴史や、自然など、人智の及ばない領域に対する畏怖を持ち続けていかなければならない、そんなふうに思います。
現実の暮らしの中では、なかなかに難しいことですけどね。
投稿者: みちこ | 2007年12月27日 00:39
日時: 2007年12月27日 00:39