お寺に嫁いで以来、どこに行ってもたいてい聞かれることは、「お寺さんも大変でしょう?おつきあいとか、気を使いますよね」ということ。これを聞かれる回数がダントツです。次いで、「毎朝早起きで大変ですよね」。これが二番目。たしかに、ご門徒さんたちとのおつきあいや、お寺同士のおつきあいなど、「これっぽっちも苦労なんてありませんよ」とは言えません。早起きにしても、「いえい、毎日昼過ぎまで高いびきですよ」というわけにもいきません。
でも、人づきあいや早起きなんて、どんな職業でもついてまわるものですよね。むしろお寺での人づきあなんて、日がな一日誰かと顔をつき合わせているわけでもないし、空も白む前から外に出て活動するわけでもありませんから、そういう意味でなら、「大変」な仕事は、世の中にいくらでもあるんじゃないでしょうか。
それでも、わたしがあえて、「たしかにお寺も大変だなぁ」と思うことは、一つは、誰かと会ってお話しするとき、そこにはたいてい、その誰かにとっての「家族の死」があることです。
例えば、寺で法事がある日には、わたしはご門徒さんがお休みする部屋を準備し、お茶を用意し、KAKUが着る装束を調えます。そして、お見えになったご門徒さんとお話しをして、お布施やお盛り物を預かり、それをご本尊にお供えします。お経が始まって皆さんが部屋から出られると、使い終わったお湯飲みを下げて洗い、机を拭き、座布団をそろえ直し、お墓参りのためのお線香に火をつける。
法事の度に、これを繰り返します。結婚してまだ三年余りですが、少なくとも百回は経験したと思います。自分の住んでいる寺で、普段と同じ格好で、ひたすらお湯飲みを洗ったりお線香をつけたりしていると、ついつい、ただの作業をしている気持ちになってしまいます。
でも、お寺に来る方は、どなたか親しかった人の法事にやってくるのです。しかも、数年に一度、あるかないかの法事でしょう。わたしは、よほど気持ちをしっかりしていないと、自分では気がつかないようなところで、ものすごく失礼なことをしてしまうかもしれません。「お寺のお嫁さん」だからと、わたしの立ち居振る舞いや服装、言葉遣いなどに、何か不躾けなところはないだろうかと見ている人もいるかもしれません。でも本当に失礼なことは、礼儀正しくしないことなどではなく、そこにいる人の気持ちを推し量れないこと、推し量ろうともしないことです。
でも、これが簡単なことではない。自分にとっては日常の一コマにある中で、その日を特別な思いで迎える人と、気持ちの置き場を同じにすること、これはけして容易なことではないんです。
さらに、毎日の早起きだって、わたしはお世辞にも早起きとは言えない生活をしていますが、例えば住職は、毎朝必ず五時に起きてお経を上げます。わたしも七年間の会社務めの経験がありますから、その大変さの百分の一くらいはわかるつもりです。でも、お寺で「早起きが大変」なのは、起きてすることが、お経を読むことだということです。会社に行くわけでもない、誰かにメールをするわけでもない。誰もいない本堂で、誰に聞かせるわけでもなく、ただ、お経を読む。それだけのために、どんなに寒い朝でもどんなに眠い朝でも、必ず起きて本堂に向かう。期限付きでなく、体が動く限り、一生涯続ける。これも、生半可な気持ちでできることではありません。
人づき合いが大変、早起きが大変。たしかに、そうなんです。表面的なパフォーマンスではなく、自分の弱さ、ズルさをいかにごまかさずに生きられるか。それを突き詰められる厳しさが、お寺の大変なところなのだと思います。
ただ、実際のわたしは、人にも自分にも、優しい、と言うより甘い人間です。多くの時間を、ただなんとなく、無為に過ごしています。会社勤めの頃のように、自分が動かなくても、やるべきことが次から次に与えられる環境ではない今、いかに無駄に生きないか、わたしにとっては、それをクリアすることが、もっとも大変なことのような気もします。
なんて、それもこれも、深い信心があれば、ちっとも大変なんかではなく、ごく当たり前のことだと思えるのかもしれませんね。わたしには、まだちょっと、よくわからない世界です。
コメント (5)
お寺で育つということ。
実は良く聞かれる「大変でしょう?」ということより大変なこと。それは、前に出ず控えめな生活をすること、だったと思っています。
子供の頃は、店屋物や外食はほとんどありませんでした。お供え物からのものを中心に、お店をされている檀家さんで順番に、満遍なく買い物をするというのが、なんとなくの慣習でした。着るものも、グレー系を着ていると似合っているといわれていましたね。ジーンズは着ませんでした。外での買い食いもなかったですね。
祖父母から教えられていた立ち居振る舞いは、常に檀家さんの心付けで寺を守らせてもらっている、というのが根底にあったように思います。
逆に、お寺で育って会社勤めをしているものとしては、時々キシキシと心が痛くなることが、あります。
投稿者: さいとう | 2007年10月25日 00:58
日時: 2007年10月25日 00:58
>さいとうさま
コメントありがとうございます。
前に出ず控えめな生活をする・・・耳が痛いことです、まったく。たしかに、いわゆる「お寺さん」のイメージでは、あまり暮らしぶりが派手なのは違和感ありますよね。
ただ、場合によっては「檀家さんの心付け」だけでは寺を守れないケース、今はよくても遠くない将来にはその心配があるケースもあるでしょう。何より、人々の暮らしの中から、「お寺」や「僧侶」の存在感がこれほどまでに失われている現状にあって、我々はひっそりと暮らしているだけではいけない、寺の人間として、僧侶として生きる姿を、ある程度強く発信していかなくてはいけないのではと、そんなふうに考えることもあります。「お寺」と「仏教」の両立が容易でない上、そこに「お寺さん=控えめであるという美徳」という一つの価値観が介在すると、自分の生き方をこうと定めるのが、より難しい気もします。
それでも、だからと言って、ある程度積極的な、人の目につきやすい生活がむしろ必要なのではと思っても、そこに単なる私利私欲がこれっぽっちも入らずにいられるかというと、これもまたとても難しいことだと思います。
いずれにしても、お檀家さん・ご門徒さんからの施しはもとより、それに止まらず誰しもが大きな社会の輪の中で生かされているのだという謙虚さは、見失わないように努めたいものです。
投稿者: みちこ | 2007年10月25日 01:55
日時: 2007年10月25日 01:55
みちこさん、はじめまして。
いつも読ませて頂いています。私も、会社員の家からお寺(教会になりますが)に嫁ぎました。
先日、主人とあるドラマを見ていて、
「会社ってこんな感じだったなぁ」と私がつぶやきました。
そうしたら、主人は
「自分は「仕事」って感覚すらないから、その感じがわからないなぁ」と言いました。
彼も、お寺で育ち自分もお寺を守る立場になった人です。
私には、明確に「仕事」と「家庭(プライベート)」の区別 がOL時代からあったので、やはり、彼の「お寺の仕事は仕事ではない」感覚が私には想像がまだできません。
「お寺」という存在に対しての心の構え方なのでしょうが、まだ私には「お寺」は「仕事」の感覚があります。
そう思っている間は「大変だ」なんて感覚も出てくるのかも知れません。
私も、毎朝一人でお堂でお経を唱えなさい、といわれたら「大変」とおもいますもの。今だって。
それを「仕事」だと割り切りやることは可能でしょう。
しかし、主人も「仕事」ではなく「あたりまえ」の事としてやっているのですよね。
私にも、その感覚は未だ不思議な世界です。
投稿者: 有機 | 2007年10月25日 22:09
日時: 2007年10月25日 22:09
こんにちわ。はじめまして。
浄土真宗本願寺派の僧侶をさせていただいている私ですが…
正直、朝には弱いし、買い食いするし、すんごい太ってるし…あんまり…というか、かなり〝僧侶イメージ〟な僧侶ではありません。
でも、あえていわせていただければ(自分の行動を都合よく曲解しているだけだといわれそうですが)、あんまり在家の皆様とかけ離れたような状態もどうかと思うのです。
私は拙いながら、ブログのようなものを書かせていただいておりますが、そこである方に〝衆生と同じ目線で共に悩む、おもろい僧侶ですな…。〟というコメントを頂きました。
そうなのかもしれません。でも、僧侶といえど、その中はやっぱり〝人〟なのだと思います。
だから、『こんな僧侶って、僧侶としてどーなんだよ』などと
自問自答を繰り返しながら、それでも『私は私』と割り切って生活させていただいています。
私は、僧侶って、〝心理カウンセラー〟だと思います。
〝自分を振り返ることで、自分を癒す〟ことのお手伝いするのが〝心理カウンセラー〟だと思うのですが、僧侶の役割は、言うならば『吐き出し口』役。どんなかたちでも、吐き出すだけ吐き出してもらうのが『吐き出し口』の仕事です。
そして、ほとけさまに手を合わせる時、手を合わせる静かな時、亡くなられた相手を想う心を経由して、その方自身が、自身の心に気付いたとき、癒される。まさしく、カウンセリングそのものです。
目を向けるのはほとけさまですが、相手をするのは、かけがえのない『人』ですから。
板汚し失礼致しました。ごめんなさい。
投稿者: 光輪 | 2007年10月31日 00:32
日時: 2007年10月31日 00:32
>有機さま
はじめまして。コメントありがとうございます。
そう、「仕事」という考え方については、生粋の寺人間であるKAKUと、会社勤めを経験しているわたしとでは、いまいち話がかみ合わないんです。やっぱり皆さん、同じような感じなんですね。
お寺で繰り広げられる様々なことを、仕事=義務ではなく、信仰に基づく作法として受け止められるようになれば、きっといろんなことが解決できるのでしょうね。
>光輪さま
はじめまして。コメントありがとうございます。
光輪さんのおっしゃること、とてもよくわかります。いわゆる「俗」に交わらず、「聖」に留まるからこそ存在意味があるのも本来ですが、今の世の中、あまりにも周囲と感覚がズレていたのでは、それこそ誰からも忘れられ取り残されてしまうのではないか、そんなふうにも考えます。
いずれにしても、僧侶たる生き方とは、信仰とは何かという問いから離れず、自分の軸をブラさずに、そして「自由に」社会に接する覚悟、それらを見失わないように努めたいものです。
投稿者: みちこ | 2007年11月 6日 20:33
日時: 2007年11月 6日 20:33