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2007年8月 アーカイブ

2007年8月30日

お盆も一段落し、しばらく実家のある浜松へ帰っていました。家の中に仏壇のある風景がいつの間にか当たり前になり、そこで微笑んでいる祖母の写真にも、違和感なく話しかけられるようになりました。
ところで、今でこそ仏壇の中身(?)のセットもきちんとしていますが、祖母がなくなったときには、もともと仏壇がなかった我が家、実はお線香もロウソクも用意がなかったんです。
祖母が息を引き取ったことをお寺に連絡すると、お坊さんが枕経をあげにきてくれました。そして、「お線香とロウソク、ある?」と母に問いかけました。すると、「あります、あります」と母が持ってきたのは、なんとアロマキャンドルとお香。「これって、海外旅行のお土産でもらうような、匂いのするやつだよね?」と、眉をひそめるお坊さんです。「これじゃぁダメですか?だってロウソクでしょう?」と、無邪気な母に、「とりあえず今はこれしかないから、仕方ないけど・・・」と、しぶしぶアロマキャンドルを前にお経をあげるお坊さん。お香の煙とアロマキャンドルの香りで、介護用のベッドに横たわる祖母の周りは、次第になんともいえない、良いような悪いような匂いに包まれていきます。

今となっては笑い話ですが、たしかに、仏壇のない家には、仏様用のロウソクなんてないですよね。あるとすれば、やはりアロマキャンドルか、せいぜい誕生日のケーキに立たせるカラフルなロウソクくらい?

余談ですが、結婚してオール電化のマンションに引っ越した友人夫妻はタバコを吸いません。あるとき、友人が、アロマキャンドルに火をともそうかと思ったら、家には火をつける道具が何もないことに気がついたそうです。それからというもの、どこかお店に入るたびにマッチをもらってくるようにしていると聞きました。

ロウソクにお線香。以前はどこの家庭でも、あって当たり前だったものが、今ではそれを置かない家も少なくありません。
祖母の枕経に駆けつけてくれたお坊さんの、「ロウソクの用意もないの?」というひと言が、今も印象的に残っています。わたし自身、寺の人間である今では、ロウソクもお線香も、仏壇も、あって当然のものです。でも、それが世の中のスタンダードだとは、けして思わないようにしないといけないな、と思い起こさせてくれるエピソードです。

2007年8月 7日

前回ご紹介した、我が家の赤ちゃんの南無阿弥陀仏。その後も順調に進化しておりまして、お堂に行くと、誰に手を引かれるわけでもなくご本尊の前まで行き、両手をスリスリしながら、「なんなんなん」とやっています。その様子にKAKUは、「お寺の子がどうやって作られていくか、わかるでしょ?」とえらくご満悦。「いつも、お寺のことに関して、『あれはどうして?これはどういう意味?』なんて聞かれても僕が上手に答えられないのは、お寺の子は、生まれながらに、心にというより体に仏教が染み込んでいるからなんだよ」と言います。まだ「ママ」とさえ言えないのに、上手に念珠を手にかけてお参りの真似事をする我が子の姿に、「なるほどなー」と納得してしまうわたしです。
でも、気になることがあるんです。それは、この子はいつ仏教と出会い、それを信仰するようになるのかということ。わたしは、「これがわたしの宗教」というものを持たずにお寺に嫁いできました。何か心の拠り所となるものを求め、それを宗教に見出すという経験のないわたしですが、いつかは僧侶との妻として、寺の嫁として、自分の中に信心が芽生えるのだろうかと、淡い期待を抱いています。それは、仏教の中にある、道徳的、倫理的、あるいは文化的なエッセンスをかいつまむのではなく、強く確かな「信仰」を獲得することへの憧れです。
しかし、ではお寺に生まれ育ち、物心つく前から仏教を生きている人には、わたしの考える強く確かな信仰心というものが、本当にあるのでしょうか。少なくとも、KAKUにはそれがあるように思います。人の心の中を割って覗くことはできませんが、日ごろの彼の言動を見る限り、彼の軸には仏教があるのだろうと感じられます。ただ、それは、彼が20代のときに海外で過ごした数年間で、自分の中の仏教を再認識したことで得られたもののように思います。だとしたら、生まれながら体に染み付いた、つまり先天的な宗教を持っている人は、海外で暮らしたり、そうでなくても何か刺激的な出来事にでも出会わない限り、人生の途中で宗教に出会う人々が持っているような宗教心を得ることはないのではないでしょうか。それは、わたしたちが普段、自分は日本人だ!とか、自分は女性だ!とかいうことを、強烈に認識する機会に恵まれないように。
理屈や理由ではなく、体に流れる血と同じように仏教と共に生きるKAKU。我が子もまた、同じように仏教を生きていくのでしょうか。一方わたしは、自分の中に信心を見出すために、何か信じるためのきっかけ、理由を求めてしまいます。ただ信じるのではなく、これならば信じるに足る、納得して信じることができるという根拠を。
「ただ、信じる」。きっと、これが宗教、信仰というものだと思います。わたしは、まだまだそれができません。それを求めているのかも、わかりません。ただ、家族として、夫や子供と同じ精神を共有したいという願いはあります。でも、どこまで行っても、お寺の子はお寺の子。わたしは、その傍観者でしかいられないのかもしれません。

寺とは縁もゆかりもなかった女の子がお坊さんと恋をして、お寺に嫁ぐ。このケース、実は最近けっこう多いんです。このコーナーでは実際にお寺に嫁いだ寺嫁(てらよめ)の視点から、恋愛・結婚・出産・子育てなど、お寺での生活について現在進行形で体験レポートしていきます。
みちこ
ふつうのOLから思いがけず浅草のお寺に嫁ぐ。子どもと旦那(お坊さん)の世話に追われながらお寺を切り盛りする忙しい日々。