::::::::寺継ぎ坊主より::::::::
僕はお坊さんは暇なことが身の上だと思っています。お坊さんは基本的に自由に出歩くことはあまりできません。常に寺に居り、いつ来るかもしれないご門徒さん(お檀家さん)を待つ。だから家族全員そろって外出することはまずありません。それこそ家族の冠婚葬祭のときだけでしょうか。でも、寺に居さえすれば時間は自由にあります。
最近、なぜこんなに暇を与えられているかをよく考える。僕の場合、暇であるから、いつでも人が来たときにおもてなしができるし、暇であるから、おもてなしの用意をしておける。そしていつでも入れ替わり立ち代りいろんな人がやってくる。
つまりは与えられた暇をどのように使うか、というのが各々のお坊さんが考えていくことだと思う。お経を読むもよし、仏教説話を読みふけるもよし、書画などの芸術に力を入れるのもよし。ただひたすらに修行にいそしむもよし。
ところで、昨日までは秋のお彼岸。いろんな方が一度にお寺に足を運ぶ時期でした。でもこの時期は、お経に法話にと忙しく、お寺に足を運んでくださった一人一人にゆっくりと時間をとることも中々出来ない。お坊さんとして一番多くの人と会う機会を与えられる時期に、お坊さんの身の上を発揮できないことに矛盾を感じる。そんなことを考えながら、今年も秋のお彼岸が過ぎてしまいました。
また今日から料理を作ろう。
::::::::寺入り娘より::::::::
たしかにお坊さんは暇なほうがいい。あまりあちこち忙しく飛び回っていたり、日常の雑多なことに忙殺されていたのでは具合が悪い。あまり現実的なことに塗れていると、考え方や言動も俗っぽくなってしまうのかもしれない。思えば、アニメの「一休さん」や「日本むかし話」に登場するお坊さんも、素朴でいつものんびりしているし、あるいは、人里はなれて霞を食って生きているような世捨て人の雰囲気がある。いずれにしても、あまりご多忙な様子には見えない。
実際、わたしにとっていちばん身近なお坊さんであるKAKUも、友人の坊主松本も、お坊さんは暇でなくちゃ!という考えを持っている。まぁ、この二人は実際にはとても忙しく動き回っているけれど。
でも・・・と、わたしは思う。
たしかに常に余裕をもとうと心がけているおかげで、たくさんの人が気軽に訪ねてくれるし、ときにはちょっとした悩みを打ち明けてくれることもある。そんなときは、わたしたちも親身に話を聞くし、相手が同世代であれば他人事ではない相談もあったりして、いつだって真剣に向き合おうと努めている。でも、なんとなく会話がすれ違っていくような、お互いの思いが交わらないような、なんとも言えない違和感を感じてしまうことがある。そんなとき、わたしはこんなふうに思ってしまう。
「どうせお坊さんは人にこき使われることがないから」「どうせお坊さんはお金や職業で苦労することがないから」「どうせお坊さんはいつものんびりしていられるから」・・・普通の人の気持ちなんてわからないんだ、って思われてるんだろうな、と。
お坊さんに限ったことではないだろうけど、ことの大小によらず、人から頼られたら、相手と同じ視点で物事を見てしまってはいけないと思う。でも、相手に視点の違いを気づかせてもいけないと思う。
お坊さんは暇なほうがいい。本当にわたしもそう思うのです。でも、ほとんどの人が忙しく働き、それぞれの生活や責任に追い立てられて過ごしているこの世の中で、暇を旨としていたのでは、お坊さんはまたしても社会とすれ違ってしまうのではないかという恐れも、たしかに感じています。