2005年5月 9日

::::::::寺入り娘より::::::::

 お寺で毎日あげるお仏飯は、炊きたての白米と決まっています。
 わたしには、これがとても不思議でした。なぜ、パンやおかずではいけないのでしょうか。彼に訊ねると、これは伝統的な作業だし、自分たちが毎日食べるものをあげることが大事だからと答えました。朝食に毎日食べるのは、米と味噌汁。日本人は昔からずっとそうだから、お仏飯は炊き立ての白米と決まっているんだよ、と。

 ところがわたしの実家では、毎日の朝食はパンです。というか、主食は登場せず、おかずとコーヒーとフルーツだけ、ということもよくあります。そしておかずやフルーツは日によって内容が違いますから、毎日決まって口にするものといえば、お供えはコーヒー?

 お寺にとってお仏飯をあげるというのは、朝起きたら顔を洗うようなごくあたりまえの作業です。そういった日常習慣的な作業を、何十年、何百年と続けていくことに意味があるのだと言います。継続は力なり。まず続けることが大切ですから、お寺ではない一般の家庭では必ずしも炊きたての白米にこだわることはない、と彼は言います。お仏飯のためにわざわざ炊くのではなく、その日のお皿の中から何かをお供えすればいいのだそうです。
 しかし、そこはお寺。ご本尊にミルクティーやメンチカツや餃子なんていうものがあがっていたのでは、さすがに具合が悪い。そういうわけで、たとえ朝ごはんにパンが食べたくとも、たとえ朝食は食べたくなくとも、場合によってはわざわざ、ご飯を炊いてお供えするのです。

 そう考えると、なんだか混乱します。

 お仏飯をあげるのは仏様もお腹がすくから?
 得られた日常の糧として感謝を表すため?その代表が米?
 インドや中国の人はどうしてるの?
 それともお仏飯をあげるためにご飯を炊くの?それって本末転倒?

 お寺の人にとって、なんの疑問ももたないであろう当たり前のことが、わたしにはときどきひどく不思議に思えるのです。

::::::::寺継ぎ坊主より::::::::

 今日はじめて朝のお仏飯にドーナツをあげた。お仏飯に炊き立てのご飯以外のものをあげるのは初めてでした。

 毎朝お仏飯用にご飯を炊いているのだけれども、うちではあまったご飯はすべて冷凍して保存しています。最近、冷凍ご飯が大分幅を利かせてきたので、たまにはご飯を炊かないで朝を迎えてみようと思い、お仏飯を炊かないでいました。
 それでも何もご本尊にお供えしないでお経をあげるのは毎日の流れとしても具合が悪いので、何かあげるものはないかと思い、昨夜買っておいたドーナッツをお供えすることにした。
初めて白いご飯以外をお仏飯としてお供えしたとき、僕の心の中にはどうにも言いようのないいやな気持ちが現れました。
 なんと言ったらいいんだろうか?20歳を過ぎてはじめてタバコを吸ったときのような気持ち。決して悪いことをしているわけではない。正々堂々、やっていいことをしているはずなのに心の中にもやもやとたちこめるこのいやな感じは何なのだろうか?
 「こう言うもの」という古い慣習にとらわれて、そこから抜け出すのが怖いのか?それとも何か大事な価値観が崩壊していくのが怖いのか、どちらともいえない感覚なんだと思う。

 妻のミチコは、朝食はパンとコーヒーで育ったといいます。僕の朝食は日本にいる間ずっとご飯と味噌汁。パンはあまり好きじゃないし、コーヒーは飲めない体質です。朝食にご飯以外はあまり食べたくない。だからご飯以外のお仏飯をあげる、という発想も浮かんでこない。
 ふと思い出すのが、ものすごくネガティブに捉えていた「前例が無い」という言葉。僕は、ご飯以外をあげることが、自分が自信を持って「ものすごく良い」と思えない以上、やはり前例に従いたくなってしまう。日本人の朝ごはんはご飯と味噌汁というところからあまりはみだしたくない。こういう考えは時代遅れかな?

 そんな思いの中、今日始めてあげたご飯以外のお仏飯。僕の中ではいまだに何か悪いことをしたようで後ろめたく、落ち着かない気分でいっぱいですが、果たして仏様は喜んでくれたのでしょうか?

 日々家族だけが住むお寺で暮らしていると、他のお寺のことをぜんぜん知らないことに改めて気づく。ドーナツをお仏飯にしているお寺、あるのかな?海外のお寺ではどうなんだろう?こっそり教えてください。

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コメント (3)

堀:

ブログが、良く解からないので、到着するかどうか?僕は、曹洞宗に関係してます。仏飯に、ついてですが、もちろん現代事情を考慮して、在家(一般家庭)さんに、毎日、仏様のために、ご飯を炊きなさいとは、さすが、言ってません。新鮮なもの、おいしいとだれもが喜ぶもの、ありがたいもの、つまり、見て、よだれが出るようなものなら、パンでも何でもOKですよ。と、言われています。禅宗では、座禅堂で、食事をするのですが、ほとんど、朝は、お粥なんですけど、摂心と言って、1週間、禅堂にこもって出てこないことが、あります。そうすると、在家と言わず、近所の人も、若い坊さんたちが、気の毒だからと、いろいろ差し入れをしてくださいます。で、差し入れを処分してしまう訳に行きませんから、お粥の代わりに、ぼたもちが出たり、おにぎりが出たり、おもちが出たりと、そういうときが、あります。

で、困るのが、作法なんですが、突然出てきて、さあ、どうやって、食べるのか?普通なら、料理にあわせて、ナイフやフォークが出るのでしょうが、応量器という修行用の食器ですべてを済ませないといけません。なんというか、クイズというか、必死ですね。
典座寮といって、コック係りも色々考えてくれるのですが、堂内は、言葉を発することが厳禁なので、うまく伝わりません。残すことも厳禁なので。。

で、ドーナツって、別に悪くないと思いますよ。永平寺の亡くなった副監首楢崎老師と、半年、24時間、同じ生活をしてましたから。。。

ちゃんと、老師は、頂いたものは、仏様に、お供えしてました。ただし、臭いのきついもの、嗜好品、酒など、いわゆる人間を惑わすものは、お供えしてませんでした。お酒は、神様の帰る、1日、15日のみ、神様だけに、供えてました。ところが、山の中で、孤立して、何も無いときは、お湯(さゆ)のみお供えしました。水ではなく、湯というのは、吹雪で孤立しているので、湯の方が、仏様がもし生きていたなら、喜ぶだろうという配慮です。

で、老師は、物にこだわるな。その行為の本心を供養しろ。と言ってました。

だから、在家の人が、例えば、お子さんが亡くなって、クリスマスケーキを供えるということですと、お寺では、お供えできませんが、ぜひ、お家で、お子さんの位牌の前でお供えしてあげてください。と、言っていたように思います。とにかく、修行僧は当時、国際的で、米国、カナダ、ドイツ、ブラジル、フランスなど、結構、国際的人員でしたから。。。で、琴欧州では、ないですが、彼らの方が真剣で、日本人の私は、たじたじでしたが。。。

KAKU:

堀さん、コメントをありがとうございます。
実は、ブログを移転する際にコメントが消えてしまったのですが、この記事は多くの反響があった記事です。
僕もご門徒さん(お檀家さん)にお仏飯について質問されたときには、「ご飯じゃなくても、パンでもおかずでもお供えしていいんですよ。」と答えています。
でも、お寺の本堂、仏飯器(浄土真宗ではご飯を盛る特別な器があります)にほかのものが乗っていたら、なんとなく落ち着かなく思います。
たとえるならば、南半球で真夏にやってくるサンタクロースのように、間違ってはいないもののなんとなく自分の価値観に一致しない、そんな気分です。
お仏飯がご飯にこだわることが無いのは頭ではわかるのですが、どうもビジュアルとしてしっくりこない。僕がそう思うならばほかにもそう思う人もいると思うので、やめておいたほうがいいのかな?
お寺は不特定多数がお参りに来るところだからこそ、自分の「思い」と同時に「見た目」にも気を使う。消極的に見えるかもしれませんが、そんな風に思っています。

堀:

KAKUさんの考えは、正しいと思います。教授師 楢崎老師も、私の父である本師も、寺は、布教道場だ。
本当のことをしないと、いけない。

パンでの間に合わせは、在家のすること。そんなことに甘えたら、坊さんを辞めろ。自分に厳しく、他人にやさしくだ。と、言い切っております。ですから、禅宗は、本願寺さんより、しきたりに、うるさいと思います。(失礼)如法に行事を行う。釈迦の時代と一切を変えない。という真如実際の精神がきついのですね。ただし、現代では、宗派の差は、感じませんので、本願寺さんでもすばらいい人は、みえるし、わが宗旨でも、私のような、だらく坊主もいます。なお、専用の佛飯器は、わが宗にもあります。形式や外見、上下関係は、非常に重んじます。

よって、わが本師は、寺でパンを供えるなんて、坊主なんか辞めてしまえというでしょう。ちなみに、92歳現役です。
ただ、見栄をはるなとも、いわれました。お前は、中身が出来ていないのに、剃髪なんかするな、バリカン刈りで、結構。在家を惑わすな。とも、言われました。

つまり、自分向けと在家向けとは、違うレベルなんだと。。。口で人に言うことの3倍は自分に厳しくないといけないとも。。。

僕には、実の息子を3寸角(柱)でなぐる師匠と、いつも、在家さんに、何があっても、にこにこしている師匠の格差には、ついていくのが、大変です。楢崎老師も、365日、毎朝4時間、座禅を私のとなりで、実行してみせていたので、それも、すごいと思いました。禅の本質について、誰かに任せるということは、決してしませんでした。役寮と言って、与えられた任務をするところは、たくさんありますから、前晩に、それらに任せるのですが、翌朝に、全部の点検を、にこにこしながら、眼力ですべてチェックしています。また、書道とかになると、マンツーマンで、私の筆を一緒に持って教えるというのも、感動ですね。全くの他人ですし、別に、授業料を払うわけでもなくてね。もう、そんな坊さんは、居なくなるでしょが。。。

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ふつうのOLから思いがけず浅草のお寺に嫁ぐ。子どもと旦那(お坊さん)の世話に追われながらお寺を切り盛りする忙しい日々。