2005年3月 1日

20050214175544.jpg::::::::寺入り娘より::::::::

 死ぬということ。
 お粗末ですが、正直わかりません。
 死んだら何もなくなる。肉体も精神も、「我」である全てを無くすことなんだろうな、と思うくらいです。

 浄土真宗では、死後、全てのものは浄土へ行くのだと言います。わたしには、それもいまいちピンときません。

 死という話題から少しズレますが、誤解を覚悟で言うと、「わたしは仏教徒です、仏教を信じています」と言い切ることができないのです。今まで、自分の宗教についてきちんと考えたことなどありませんでした。それが彼と出会い結婚することになって、突然そして当然のこととして、あなたは仏教徒ですと決定された、そんな感じなのです。宗教で学んだことと言えば、中学高校と通っていたキリスト教の教会で聞いたことのほうが親しいくらいです。
 もちろん、ごく自然にすんなりと受け入れることのできる部分もありますが、特に死については、完全に未体験の実感のないものだけに、浄土がどうのと言われても、きっとそうなんだろうなぁと信じることができないのです。

 わたしは昨年、とても身近な人を亡くしました。その死はわたしには止めようのないものでしたが、失ったあとで、わたしは生まれて初めて真剣に仏様に手を合わせました。仏教的に正しいかどうかはわかりません。でも、「もし浄土があるなら、どうか迷わないように導いてあげてください、その後も、いつまでも安寧であるようにどうかよろしく・・・」と、すがるような気持ちで本気で手を合わせました。
 死んでしまった命について、果たしてその後の安寧などあるのかわかりません。浄土というものもよくわかりません。でも、あってほしいと心から願いました。

 わたしはまだ自分の死を現実に考える年齢ではないし、身近に感じた経験もありません。ですから、「死はおそれるものではない、死後には浄土があるのですよ」と言われても、「いや、別に浄土とか必要じゃないし・・・」などと傲慢な思いになってしまいます。
 けれど、もし死後に安らげる世界があるなら、それは死んでしまった命のためではなく、まだ死んでいない人、わたしたちのためにあるものなのだなぁと感じました。

 そんな思いで死を考えると、死とは自分の歩みのうちのひとつの通過点、そこを通過したあとは自我を無くしている、そんなものに思えます。

::::::::寺継ぎ坊主より::::::::

 僕もいつかは死ぬんだろうな、という漠然とした感覚があります。お坊さんといえども、毎日「死」を主観的にとらえているわけではありません。僕だってまだまだ20代、死ぬなんてことは考えなくたっていいのさ。とすら思うときもあります。それでもお通夜、お葬式に行った帰りなどは決まって人の死について考えてしまいます。

 今年のお正月、再放送されていた「北の国から~遺言」で、五郎さんが、遺言の先生からアドバイスもらった時に言われたのが、「自分が死んだ後の世界を想像してください」と言うことばでした。自分が死んだ後、世界はどう変わるんだろうか?と考えてみると、きっとどうも変わらないと思う。今までと同じように毎日が繰り返され、少しずつ世の中が変わっていく。それでいいんだと思います。もし、自分が死ぬことで誰かがものすごく生き方を変えなければいけないようなことがあったら、それは僕にとってはとても悲しいことです。

 お通夜、お葬式に行って思うのが、若い人の死、特に働き盛りの人の死は見ていてもとてもつらい。残された奥さんは明日からどうやって暮らしていくんだろう。子供が二人も居て、暮らしていけるんだろうか。そう考えてしまう。そういった日常のことで僕が何をできるわけでもないのはわかってはいるし、「かわいそう」なんて感情をもたれたところでせん無いことだと思われるけれども、そう思ってしまう。

 自分に照らし合わせてみると、もし僕が40歳のころ、妻と、子供をおいて死んだとする。うちには年老いた両親が二人、彼女の両親も合わせると4人。さらに祖父母もまだ健在かもしれない。それだけの人数を一人で支えるということを想像すると、死ぬなんて、とてもじゃないけれど考えることができない。

 お釈迦様はある弟子に「人間は死後存在するのか」と聞かれたときに、何も答えなかったと伝えられています。死後の世界はあるかもしれないし、無いかもしれない。でも、死後の世界がある・ないにかかわらず人は生まれ、老い、病気になり、死ぬ。苦しんだり悩んだりもする。だとしたら、あるかないかわからないものを想像することに時間を割くより、確実にある苦しみを取り除くことに時間を割く方が先だと考えてのことでしょう。

 自分ひとりのことで考えるのならば、自分の死に対して特別な感情を持たないでもかまわない。死んだら骨になるだけでもいい。でも、残された家族は、父親なり夫なりを「今からただの白骨なんだ」とは思えないでしょう。終わったばかりの恋愛のように、どこかにいなくなった人の面影を探してしまう。自分の思い出の中で生き続けてしまう。その形が死後の世界になるんだと思います。死後の世界を宗教として利用するのはいただけないけれども、死後の世界を完全に否定するのも、僕はあまり好きではない。大事なのは、残された人が日々生きていくために大事にしたいものを一緒に守っていくことなんだと思う。結局、答えは無いことはわかっていても自分自身に問い詰めていく。その問いこそが大事なんだと思う。

 同時に、自分が死んだ後の世界を考えたとき、自分の回りの人が大きく生き方を変えなくてはならない、そんなことが無いように普段からいざという時の用意をしているほうがいいんじゃないのかな。人生なべて一寸先は闇、ですから。

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みちこ
ふつうのOLから思いがけず浅草のお寺に嫁ぐ。子どもと旦那(お坊さん)の世話に追われながらお寺を切り盛りする忙しい日々。