2005年1月24日

20050121120713.jpg 新婚生活も落ち着いてきた最近、私たちはいろんなことを話しています。ここから数回の更新では、最近話題にでたトピックについて書いていきます。

::::::::寺入り娘より::::::::

「生きる」ということは、ただ「生きている」ということだと思います。生命を授かり、呼吸をして、歳月を送り、絶命する瞬間まで生命を継続させるということ。とは言っても、ただ「生存している」のではなく、自分を取り巻く社会、環境の中で様々なものに影響され、また影響しながら生きていくということ。
 笑っている日も泣いている日もある。欲をかいたり、期待したり、感謝したり、がっかりしたり、腹を立てたり。誰かを愛する日も、愛される日もある。誰かを恨む日も、恨まれる日もある。またあるときには、疲れ果て、何も感じず、ただ無気力に過ごす日もあるかもしれない。

 生きることに理由も目的もない。
 それでもただひたすらに、わたしは現実に生きているのだと気づくこと。
 それをはっきりと自覚したなら、そのときには自分の生命の意味にたどり着くかもしれない。

 多くの出来事が、人たちが、自分の上を通り過ぎていく。その繰り返し。
 そして自分もまた、多くの隣人と出会い通り過ぎていく。その繰り返し。

 もっと積極的に、人生は自分で切り開くもの、幸運は掴み取るものと思う人もいるでしょう。それも良いと思う。生まれることと死ぬことは操作できないけれど、誰でも自分の人生、経験できるただひとつの人生において、自由なのだと思うから。

 昨日があり、今日があり、明日もたぶんあるだろうということ。そして、自分の隣にもまた、同じように生きている人、物事があるということ。それが生きるということだと思います。

::::::::寺継ぎ坊主より::::::::

僕はもともとポジティブなほうではない。
「生きる」ということについて考えるときいつでも思うのが、結局生きると言うことは人間の義務なんじゃないかと思う。
「親より先に死ぬほど親不孝は無いよ」
「死んだら悲しむ人がいるでしょ」
自分が死を考える時によく言われるのはこう言う言葉だ。自分のためではない。人のため、社会のために生きていかなくてはならない。

もう10年以上も昔になってしまったけれど、友人を失った時、最後に伝えられた言葉を思い出す。
「俺の分もよろしくな」
なんて自分勝手なんだろうか。そう思った。
人の人生を勝手に背負わすな。とやさぐれた。
結局、彼の人生を背負うことも無いままここまで生きてきてしまった。
それとも、今生きているということは彼から託された義務を果たしているのだろうか?

生きている限り、自分がかかわった人の人生を背負っていくべきなのかもしれない。
でも、自分の人生すらまっとうできる自信がないのに、そんなこと言われてもつらい。
そもそも自分の人生ってどうやったらまっとうできるんだろう?

そんなこともわからないままこの年齢まで来てしまった。
今、僕は何をしてるのだろう。
毎日何かを食べて生きている。特に僕は食べることは大好きだ。
食べた分だけは責任を全うしよう、そう思って毎日生きている。
摂取したカロリーの分だけ、何かにつかわなくっちゃ。

今考えられるのはこんなことだけしかない。

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寺とは縁もゆかりもなかった女の子がお坊さんと恋をして、お寺に嫁ぐ。このケース、実は最近けっこう多いんです。このコーナーでは実際にお寺に嫁いだ寺嫁(てらよめ)の視点から、恋愛・結婚・出産・子育てなど、お寺での生活について現在進行形で体験レポートしていきます。
みちこ
ふつうのOLから思いがけず浅草のお寺に嫁ぐ。子どもと旦那(お坊さん)の世話に追われながらお寺を切り盛りする忙しい日々。