::::::::寺入り娘より::::::::
いざ結婚が現実のものとなり、様々な物事が目の前に迫ってきて、「お寺に」嫁ぐということの特殊性を痛感するようになりました。よく「お寺に嫁がれるなんて大変ですね」と言われますが、なぜ嫁ぎ先がお寺だと大変なのか。わたしはお寺が特別なものだとは、あまり思いたくありません。お坊さんは伝説の聖者ではない、生身の人間なのだと。住職業も他の職業と変わらない、社会的欲や責任の上に成り立っているのだと。けれどお寺は普通の家とは違うのだと思っている人が、お寺の内にも外にもたくさんいて、それに適合できるように自分を変えていかなければいかないということが、今のわたしにはとても窮屈に感じられます。
わたしの彼もそうですが、仏教者であることと、寺を守っていく行動とのギャップに悩んでいる人はたくさんいると思います。彼と結婚するわたしもまた、その悩みを共有し始めています。でも本当の本当なら、そんなことに悩む必要はなかったんじゃなかったのかと思うのです。もっと等身大の姿で、大げさな言い方ですが野に下って世の中と接することができたら、お寺に対するイメージも改まり、お坊さんが真の仏教者として実現し、同時に寺を守っていくことも可能になるではないでしょうか。
そんなふうに考えながらも、現状は長い時間をかけて社会の変化に応じてつくられたものなのだから、それを変えようとするのは傲慢、危険、そうするべきではないという自制が強く働きます。伝統や歴史にガードされたものを変化させることは、いつの時代にも大変なリスクを負うもの。ましてやお坊さんは革命家ではないし、守らなければならない既存のものを持っている。
お坊さんと結婚することについての精神的な葛藤を書きましたが、このことが即ち、嫁として妻としてのひとつひとつの行動に大きく影響しています。
::::::::寺継ぎ坊主より::::::::
結婚をするということはどんな人でも人生の一大イベントだと思います。これからこの人と一生を共にする、生涯の伴侶を決めるのですから「本当にこの人でいいのだろうか」「本当にやっていけるのだろうか」と自問自答を延々と繰り返すものだと思います。
私もご多分に漏れず、結婚を決めたときに「本当にこの人と暮らしていけるのかな」とずいぶん考えました。この人と一緒に住んでいけるのだろうかという不安とともに、この人と一緒にお寺の仕事をしていけるのかということも大分考えました。お坊さんだけではないでしょうが、自分の生活空間で仕事をしている人にとって結婚相手とは、個人としての生涯の伴侶であるとともに、一緒に仕事をする仲間でもあります。どんなに好きになった相手でも、どこかで人事部長のように「この人は果たしてどんな局面でも柔軟に、且つ速やかに対処できるのだろうか」なんて考えていました。
八百屋さんなどの自営業と違うと思うのは、さらに宗教が入るということ。私の描いている理想の夫婦象として、夫婦揃ってなんまんだぶする姿があります。しかし宗教が違っていたら、いったいどんな生活になるのかまったく検討もつきません。
ただ、結局はやってみなければわからない。月並みですが、そう思うと気持ちはとても楽になりました。実際、彼女とそういう話をすると、「何とかなるようになるのよ」なんて言われてしまうから、こうなったら一生懸命なんまんだぶの生活をがんばるしかないです。