2006年9月 9日

百鬼巡礼 第五夜 [怪異考]

【鎌鼬】:鋭くよく斬れる鎌のような爪を持った鼬で空中に浮遊していて姿を見せず、時々人を襲う。襲われた人は皮膚にえん月形に割れた傷口ができるといわれ、現在でもこれに襲われる人もいる。
(笹間良彦著『未確認生物事典』より)

◆ 化け物の気配、なしとも申し難い事

常識を逸脱した現象・事象は人々の好奇心にのって伝播します。大小様々な内容が真偽等問わずに広がり形を変えていく様を後から追従していくのは楽しいものです。そこで伝播の効率と対象の内容の関係性には興味がいくところで、研究なさってる方もいらっしゃるでしょうが、個人的な趣向でいくと「真偽にこだわるのもナンセンスなトンデモ話」と「もしや?と思わせられる些細な変異(怪異)」に惹かれ、覚えていて人に話したくなる傾向にある気がします。前者でいうならば、僕の友人がベッドで寝ていると何物かの気配が彼のベッドを壁側にひっくり返そうと持ち上げたという体験を聞きました。ベッドが突然ナナメになったものだから体が壁際に転がり、壁とベッドが作る谷にはまっていたそうな。彼は一人暮らしなので、それは幽霊のしわざだと話していたけれど、ああそれは幽霊のせいに違いないと同意するしかない状況に笑いが止まらなかったのを覚えています。ベッドをひっくり返す何物か…、妖怪に枕返しというのがありますが、ベッド返しという新手でしょうか。

さて後者は最近のものですが、鎌鼬(かまいたち)に遭遇したという女性からの報告です。駅から家の道のりを帰るたそがれ時、ふと気付くと足がスパッと一文字に切れていたそうです。しかも不思議な事にストッキングは無傷で足だけ傷ついているのです。そして大きな傷になっているのに血が出ていない…。よくある鎌鼬の伝承の中で、鎌鼬は3匹でやってきて1匹目が人を倒し(転ばせ)2匹目が下半身に傷をつけるが3匹が薬をつけていくので血は出ないというのがあります。このケースでいくと転ばされはしなかったものの2匹目と3匹目の役割と現象は合致しています。1匹目の鎌鼬くんは失敗してしまったのでしょうか?何故か3匹目が治癒していくというのも面白い。前者のベッド返しにも言えますが、こういった愛嬌が非常に妖怪じみていると思うのです。ちなみに鎌鼬の件については対策を求められたので「古暦を燃やした黒灰を粉にして白湯飲むと傷の治りがはやい」と助言しました。まさか『日本未確認生物事典』が日常生活に役立つとは思わなんだ。備えあれば憂いなし、と実感しつつこの本の帯の推薦文を見ると「わけの分からない"存在"というのはいないのではなく い る のです。ただ、気がつかないだけです。案外皆さんの回りにも"未確認生物"がまじっているかもしれません。是非用心のために一冊御手元に置いて下さい。 水木しげる」…フハッ!大先生!恐れ入りました!

(文・遠藤卓也)

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2005年10月30日

百鬼巡礼 第四夜 [タヌキ考]

◆ 秋の深山、陽気な妖気に化かされて。

【狐と狸】:人里近くに棲息した野生動物。変化能力があり、人に対して様々ないたずらをする怪しい動物と認識されてきた。各地には名前のついた化け狐や狸が多く伝わっている。(平成十八年版妖怪暦より)

ここ最近、狸に心惹かれています。といっても、獣としての狸の生態にときめいているわけではなく、化かす化かされたのお話のほうの狸に夢中なのです。以前は狸や狐の話にはあまり興味が持てなかったのですが、不可思議にも私の中で芽生えた狸への愛着について、妖怪という存在を説明するひとつのモデルを用いて解明を試みてみましょう。

例えば、ひとつの箱を思い浮かべてみて下さい。箱にはいくつかのカードが入っていてそれぞれ「キュウリが好物」「相撲をとる」「頭に皿がある」などの、ある特徴・行動・習性などが書いてあるとします。その箱には「かっぱ」という名前がつけられていて、私達はカードのヒントを頼りにぼんやりと箱の中の「かっぱ」の姿を捉らえる事が出来るのです。そして地域によっては同じ名前の箱でも中のカードが違ったり、全く同じカードがはいっている箱でも別の名前がつけられていたりします。それらの箱を蒐集し、差異を示しあう事はある種の妖怪の楽しみをあらわしていますが、「容姿」という属性のカードが既に決定されている狸や狐に関してはこの楽しみが半減していると思えるのです。故に孤裡の類を軽視してしまっていたのですが、それはとても浅はかな考えだったようです。

狐狸が持つカードの代表として「化ける」という行動属性のものがありますが、これは妖怪的価値観からいうと抽象的で汎用性が高いです。そして居所は山野から街までと幅広く、姿まで決定しているとなれば必然と利用頻度が高まります。つまり孤狸の話は多く、それは逆に僕が狐狸を軽視してしまった一因でもあるわけですが、そもそもの狸や狐が御馴染みの獣として実在しているために近代~現代にまで長く息が続いていたのです。湯本豪一さん編の『明治妖怪新聞』という明治時代の怪奇ニュースを集めた本に、[ 狐狸の事件簿 ]という章があり多くの狸ニュースが紹介されています。僕が気に入ったのは「狸の学校」です。広島の新築の小学校にて生徒も帰宅した黄昏から先、アイウエオを言う声を教職員が聞いたらしい。怪しむ者が見に行ってみた所、狸が数十匹教室に集まり生徒のように各々の席についてしきりに勉強していたという。想像するととても微笑ましいエピソードです。また、田中聡さん著の『東京妖怪地図』にもユーモラスな狸の話が多く紹介されています。なんと汽車が登場し始めた明治時代に、汽車に化けた狸がホンモノの汽車に挑み正面衝突、朝になって線路に狸の轢死体が転がっていたという話が多くあったそうなのです。当時、まさに化物の如く登場した新しい技術に、遂に妖怪が屈してしまったというようなもの悲しさを湛えていますが、同時にその無謀さが天晴れ狸の心意気と大江戸の空に殉職狸の笑顔が浮かぶ能天気さも感じられる印象深いお話です。同書には日露戦争に参戦した狸の話も載っています。愛媛の喜左衛門狸が小豆に化けて大陸に渡り、上陸するとともに豆を撒くようにパラパラと全軍に散り赤い服を着て戦ったと言われているそうなのです。敵将クロパトキンの手記にも「日本軍にはたまに赤い服を着た兵隊が現れて、これはいくら撃っても平気で進んでくる。赤い服には○に喜の字の印がついていた。」と書いてあったとの事で、異国人をも巻き込んだ珍しい怪異として貴重です。

さて、私のお気に入りの狸ストーリーを3つほど並べて書きましたが、文明開化の狭間で奮闘する狸の健気さや、ふてぶてしさになんとも愛着を感じてしまいます。これは、容姿のカードが決定しているおかげでロングセラーを続けた狸ならではの事だと思います。お馴染みのキャラクターだからこそ愛嬌と人間味たっぷりのエピソードを多く残している狸たち。妖怪を見た目で判断してはいけないということでしょうか。僕は正に、狸の容姿に化かされていたと思えてなりません。
(busse posse issue 05/10/29号掲載/文・遠藤卓也)

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誰そ彼を召しあがれ

■“誰そ彼を召しあがれ”
テラス奥にある飲食カウンター「彼岸バー」ではお飲み物とお食事、デザートをお出ししております。

乾いた喉を潤すソフトドリンク。心地よい酔いがライブへの期待を高めるお酒。
気温の下がった夜のテラスで体を温める特製おでん。
やさしい甘みと白く透き通って柔らかい、お坊さんの手造りわらびもち。お寺で淹れたあたたかいお茶。
もっと刺激を!という方には別売場にてカレーもご用意しております。
雨降る秋の夜、お寺の景観や賑わいと一緒にご賞味ください。

本堂で行われる演奏やDJ、法話に比べるとずっとささやかではありますがテラスでの人や食べ物との出会いもまた、ひとつのライブと言えましょう。
この場所が好きな人や好きな食べ物との出会いやつながりの助けになるとしたらそれがなによりの喜びです。どうぞ、誰そ彼をおなかいっぱいご堪能下さい。

神谷町オープンテラス店長 木原健 (busse posse issue 05/10/29号掲載)

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2005/10/29

■ 6月以来の「誰そ彼」ですが、のんびり寛いでもらえると嬉しいです。
当初は、お寺で音楽聴いてお酒飲んでゴロゴロするとは「ご冗談を」と興味本位で参加しましたが、こんな冗談みたいな毎日なら楽しいですね。「冗談で済むなら警察はいらねぇんだよ」と怒った人がよく言いますが、警察がいらない世の中なら素晴らしいと思うのでもっともっと冗談を。本日(10月19日)先程地震あり。当日(10月29日)も大地震が起きたり六本木ヒルズ目掛けて突っ込んできた旅客機が目標手前で落ちたりしたら光明寺もろともみんなでお陀仏。お陀仏と書きましたが地震やテロで仏にゃなりたくない。僕達は様々な脅威の下で生きていますが、楽しく暮らす環境作りのひとつとして冗談はガシガシ生活に取り入れたい。小さな冗談で世界を変えるとはなかなかバカにできない、と言うか、バカにしかできないことなので、この場を借りてバカ最高宣言。それが僕の「誰そ彼」だと思っています。
(宮原秀一 / サーファーズオブロマンチカ)

busse posse issue 05/10/29号掲載

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2005年1月 2日

百鬼巡礼 第二夜 [言霊考]

さあ、たそがれ時。化け物の話を一つ、存分にしてみましょう。
(busse posse issue 04/12/25号掲載/文・遠藤卓也)

【言霊】:(コトダマは)近世になって国学者たちが語学関係でよく用いるまでは、あまり使用されていなかった。(中略)コトダマはふつう「言霊」と書かれて、それが「言葉の精霊」を意味するものだろうというくらいである。そして、そんなものは昔の人の迷信だったとしか思われていない。それをとりたてるのは、よっぽど「もの好き」の部類かもしれない。
(豊田国夫著『日本人の言霊思想』より)

…さて、毎回妖怪を紹介しているこのコラムですが、“それで【コトダマ】とはどういうことだ?”と、いわれてしまいそうです。確かに【コトダマ】なんていう妖怪は、何処の妖怪の本を見ても登場しません。しかし、【コトダマ】は妖怪の秘密に迫る為には重要なキーワードなのです。
【コトダマ】とは【言霊】、つまり言葉に霊が宿るという思想で、アニミズム(精霊信仰)に由来するものといえます。この、古代人のあらゆるものに精霊が宿るという信仰の名残からやってきた妖怪というのはたくさん居ます。いわゆる付喪神というやつです。器物も百年使えば霊を宿す、化け傘や鳴釜などの妖怪達がそれに該当します。その、霊が言葉に宿るという【言霊思想】も、広【言霊】にも様々な形態がありますが「名実一体」、名に宿る言葉の精霊感というのは捉えやすいのではないでしょうか?古く中国でも「名は体に応じ、体は名に応ず」などと言われたようですし、仏教の唯識論でも「名は自性を詮にす」といって、この思想を説いているようです。妖怪には、ネーミングがわかり易く「まんまじゃん」なんて言われがちな奴もいますが、そこがかわいらしく愛嬌に繋がっているかと思います。例えば「あかなめ」はその名の通りお風呂の垢を舐める妖怪ですし、「豆腐小僧」は豆腐を持った小僧タイプの妖怪です。他にも「枕返し」や「足長手長」など、行為や物理的特徴が名前になっていますが、そのどれもが“ちょっとウザい”くらいで可愛いげがあってつい興味をもってしまいます。最近まで名前しかなくって水木しげるさんが形を与えた妖怪なども沢山いるはずです。こういった、愛すべき名前=即オチ妖怪達も見方を変えれば言霊の一種です。何らかの、説明できないモノ・コトに名前をつけて精霊を宿したというわけです。

また、妖怪の歴史は古き日本の差別の歴史とも少し関わりがあります。例えば最先端の技術を持った一族がいたとします。その一族が、見たことも無い道具を使いこなし、自分達の腕では想像もつかない事をさらりとやってのけられたら、「妖術だ!」と言うしかないでしょう。…そうやって特殊な技能を持つ集団に自分達と違う名前をつけて区別(畏れや恐れ)していたような歴史もあるらしいのです。これは身体的特徴にも言えますので、先程述べた「足長手長」なんかは「もしかしたら…」とつい想像してしまいますね。

先日、深夜のTV番組でタレントのみうらじゅんさんがとても面白い事を言っていました。「暴走族は暴走族なんてそれらしい名前で呼ばれるから絶えないのだ。例えば“おならプープー族”と、呼称を変えてニュースなどで報道すれば、恥ずかしくてみんな暴走をやめるのではないか?」と。僕はこれぞ妖怪ロジックの現代の利用法だ!と唸ってしまいました。妖怪は怖いものではないので悪役を押し付けてはいけませんが、仕組み的には利用していると言えるでしょう。そして彼はこう続けます、「第2次世界大戦だって、2(ツー)だから3(スリー)もあるかもしれないんです。"完結編"とかって呼んでしまえばいいじゃないですか。」…映画好きの彼らしい発想です。妖怪はなまけものなので戦争は好きではないでしょうから、その言霊はなかなか妖怪じみたアイデアだと思いました。

…さて、大晦日から元旦にかけてなんかは特に、おならプープー族達の動きに注目ですね!

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投稿者 tasogarecords : 03:26 | コメント (0)

誰そ彼 Vol.05 メッセージ

教会ではありません、お坊さんはおります。
賛美歌はありませんが、歌や祈りはあります。
ケーキはありませんが、ろうそくはあります。
シャンパンは空きませんが、甘酒は頂けます。

イルミネーションはありませんが、控え目な明かりは灯ります
サンタさんはおりませんが、阿弥陀さんはおります。
Silent nightの保証はできませんが、Holy nightには違いありません。
楽しいゆうべでありますように。
幸せな師走がありますように。

(木原健) - busse posse issue 04/12/25号掲載

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2004年11月28日

百鬼巡礼 第一夜 [びろーんの巻]

文・遠藤卓也 - busse posse issue vol.03 掲載 (04/09/18)

今回はお寺の音楽会という事で、妖怪【びろーん】を紹介しようと思います。

【びろーん】:別名ぬりぼとけ、全身がこんにゃくのようにぶよぶよしていて、しっぽで人の顔や首をなでる。びろびろびろーんという呪文を唱えて、仏様に化けようとして失敗したという。塩をかけると消えるらしい。(『いちばんくわしい日本妖怪図鑑』より)

…さて、妖怪を紹介しましょうと言って【びろーん】とは人をなめているのかと、言われてしまいそうですね。実際問題この妖怪、つっこみどころは盛り沢山です。まず名前が妖しい、[ろーん]という音引きからして歴史が古くなさそう。そして[呪文]を唱えて[仏様]に化けるというのも何だかめちゃくちゃです。実は、この妖怪はちょっと困り者の妖怪なのです。先ほど、妖怪の成り立ちを説明しましたが(エントリー【「誰そ彼」の由来】参照)その中に“妖怪作家による創作”というのも挙げる事が出来ます。古くは『画図百鬼夜行』で有名な鳥山石燕、最近で言うと水木しげるサンとか。

この妖怪は佐藤有文の『いちばんくわしい日本妖怪図鑑』に出ています。この本は所謂子供向けの妖怪本で、難しい説明を省いたキャラクター化された妖怪がわかりやすく紹介されている本です。デフォルメ化に際して実際の一次文献を参考にしたものであれば広い範疇で妖怪と称しても構わないのでしょうが、この【びろーん】は明らかに最近作り出されている、元ネタが見当たらないらしいのです。しかも、厄介な事に鳥山石燕の創った妖怪【塗仏(ぬりぼとけ)】を[別名]として取り入れてしまっていて、形も微妙に似ている…。そして形が面白い事から水木しげるサンが漫画に登場させてしまったり、荒俣宏サンがTVで紹介してしまったらしいのです。現在の妖怪研究家達がいくら探しても元ネタがわからないので、佐藤先生本人にインタビューしてみても「江戸だったか平安だったかの絵巻に書いてあったんですよ」とおっしゃっている…。江戸と平安なんて範囲が広過ぎるからいかにも怪しいし、なんとも対処に困ってしまっているというお話なんです。研究している人が困ったってそれを調べるのが研究者の仕事だと言われればそれまでですが、例えば後続の人が、石燕の描いた【塗仏】を調べようとした場合にまた紛らわしい分岐ができてしまう事もありえます。博物学的な見地から捉えれば、並べてしまえばそれまでヨの問題なのですが、妖怪好きとしては、過去にも現在にも創作され続けている妖怪達を、何処までが妖怪とみなすかという線引きでも悩んでいるのです。その中でもこの「びろーん問題」は有名な話らしいです。(詳しくは新潮社『妖怪馬鹿』参照)

曖昧な境界を漂ってしまっている【びろーん】の目を見ていたらだんだんぼんやりとしてきてしまい、それが夕方の心持に似ていたのでこの場で紹介しようと思いました。みなさんも本日は本堂で怪音・奇音を聴きながら、目を瞑って唱えてみてください、「びろびろびろ~ん」と。

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誰そ彼への道

文・木原健 - busse posse issue vol.03 掲載 (04/09/18)

私は方向音痴である。知らない土地を歩くとき、まず間違いなく道に迷う。何度も通った道を歩く時でさえ三度に一度は道に迷う。「この先まっすぐ」「徒歩五分」そんなの嘘だ。信じない。目的地への道がどれほど単純でも、どれほど近くにあろうとも、迷わず迷う。例えば昨年九月の第一回「誰そ彼」にて。私が光明寺に着いたのは午後五時半のことだった。「早いね、もう来てくれたんだ」松本君は気さくに声をかけてくれる。私は曖昧に頷く。しかし、私が午後四時半には神谷町に着いていたことや光明寺まで徒歩一分の道で四十分も歩き回ったことを彼は知らない。半泣きになって広尾駅から電車に乗り、神谷町に着くところからもう一度やり直したことを彼は知らない。俄かには信じられないかもしれないが、事実である。「わけが分からない」そう思った方は幸いである。恐らくは正当な方向感覚を持ち合わせているからである。

「注意力が足りない」そんなことはない。私は常に細心の注意を払って案内図を睨む。時に指差し確認も行う。精密なコーナリングで曲がり角を折れる。それでも、角を二つ曲がると簡単に目印を見失う。眉間に皺を寄せて覚えた風景を、三分以内に簡単に忘れてしまう。「地図を持てばいい」そうかもしれない。しかし、私は地図を読めない。正確には、地図を元にして道を歩くことが出来ない。ポータブルな地図は手の中で回すうちに北と南が混ざり合い、東と西が交錯し、進むべき方角と目的地を見失ってしまう。さらに、地図上の建物そのものが疑念の的になる。角にあるスターバックスは本当にここでいいのか?ファミリーマートは本当にここなのか?本当に?

そして、関係のないことが頭をもたげる。「この道は昔通った道に似ている」意識が過去に飛び、現在の道を完全に見失って混乱する。目前の交差点が巨大な三択問題に見えてくる。「次の中から正しい選択肢を選べ」混乱する。選択問題は解答に疑いをはさんだ時点で半分負けである。 私の道はどれにしても誤りである可能性が高い。とはいえ、いつまでも立ち止まることもできない。とりあえず歩き出し、きょろきょろと進む。道路案内を発見するとほっとする。自分が間違っていることが分かるとほっとする。たとえ消去法であれ、余計な選択肢が一つ減ってくれたからである。誰そ彼も四回目を数えるが、私は今回もきっと迷ってしまうだろう。光明寺にまっすぐ着ける気がしない。でも、もしも一度も迷わずに光明寺にたどり着くことができたなら。挨拶より音楽より先に、真っ先に阿弥陀仏に手を合わせるつもりだ。

投稿者 tasogarecords : 18:37 | コメント (0)

誰そ彼 Vol.04 メッセージ

ようこそいらっしゃいました。
おいしくお酒が飲めますように。
蚊にあまりさされませんように。
残響音が響いていますように。
懐かしい友人と再会できますように。
知らない人と出会えますように。
面白がってくれますように。
石段を踏み外しませんように。

ゲストの皆さんにも満ち足りてもらえますように。
本堂とテラスのどちらも楽しくありますように。
彼岸バーがうまくいきますように。
東京タワーが輝いていますように。
ほどよい喧騒がありますように。
ほどよい静謐がありますように。
またのご縁がありますように。

(木原健) - busse posse issue vol.03 掲載

投稿者 tasogarecords : 18:36 | コメント (0)

2004年11月25日

彼岸と此岸 行ったり来たり

文・斉藤仁昭 - busse posse issue vol.01 掲載

 若かりし高校生の頃や予備校生の頃の登下校の最中に見慣れたいつもの通学路から脱線して川辺で対岸に思いを馳せたり橋の上から川の流れや両岸をぼんやりと眺めるのが好きだった。
何故そんな景色、特に橋からの眺めに興味を引かれていたのだろう。今でもはっきりとはわからないのだけれど、きっと彼岸でも此岸でもないというどっちつかずのようでいてどちらでもあるような状態に心が安らいでいたからだと思う。
 家と学校、現実と妄想、意識と無意識、主観と客観、自分と他人、覚醒と夢、記憶と忘却、平穏と不穏、瞬間と永遠、どちらの状態でも無いようでいてどちらをも一時に把握しているような状態。自分が何者でもなく風景と一体になっているような感覚。
 そういった橋の上(あいだ)に居ること、もしくは橋の両側を往復することが僕がいちばん落ち着ける振る舞いなのだと思う。更に言えば日常と非日常との心地よい軽やかな往復がそのどちらをも豊かにするとさえ思っている。

 松本君や小池君が彼らの仏教に関する活動の一環として彼岸通信というウェブサイトを立ち上げた際、ぼくは彼岸という言葉に惹かれ、そして橋の上の景色が思い浮かび、彼らに僕の、橋に関する話を拙い言葉で伝えた。共感してくれたことがうれしかった。
 また、クラブという場所が半ばありふれた日常でしかないような現状、個人的には徹夜で踊るのが体力的にしんどくまた飽きるという理由から、自分にとって、クラブに替わるような、音楽が楽しめてくつろげるそして隣りの人の話し声が聞こえる(会話ができる)場所はないのかしらと頭の片隅で考えていたところに会を企画した皆に誘われたのもまさしく御縁かしらと思った。

 「彼岸音楽会誰そ彼」は松本君の言葉を借りればー黄昏時というのが昼と夜の間の曖昧な時間帯を言うようにー(クラブでもカフェでもない)アンビバレントな空間ー昼と夜、日常と非日常、音楽と非音楽(遠藤君の言)が境界を曖昧にして存在している空間-でありたいと思っているのと同時に(寺自体が彼岸と此岸の橋渡し的な場所だとも言えるかも)、"彼岸"と名乗っているからには日常生活の彼岸=非日常の場でもありたいし、音楽会をやっているという点においてはクラブやライブハウス、コンサートホールという音楽による非日常を体験する場所の彼岸(それらのどれでもない場所)でもありたいとも思っている。つまり彼岸(橋の向こう側)と名乗りつつも、そこには誰そ彼(双方の境界が曖昧である状態)までもが横たわっているのである。イベントのタイトル自体が両義的であり、ともすれば矛盾を含むためにその懐は大きなものになり得るのではと僕は想像する。おおげさだけれども。

 会を催すにあたって、橋で佇んでいる僕(僕ら)の役割は橋渡しであるけれども橋なんて景色に見とれているうちに渡りきってしまうものです。どうぞお気軽に渡ってきていただいて、会を楽しんでいただければ幸いです。そしてお帰りのあとの皆さんの日常が少しでも豊かなものになればこれに勝るものは無いとも思います。
 更に欲を言えば(仏教においてはむさぼることは良しとされないでしょうが)今後とも彼岸音楽会誰そ彼をどうぞよろしくおねがいします。 

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「もしもし」-彼岸空気をおすそわけ

文・遠藤卓也 - busse posse issue vol.01 掲載

ブライアン・イーノがアンビエントミュージックの着想を得たという有名なエピソードがあります。病の床に臥していたイーノの元を訪れた友人が、18世紀のハープ音楽のレコードをお見舞いにと置いていきました。ベッドから動き出すのも困難だったイーノは苦労しながらもそのレコードに針を落としました。しかし、ステレオの片方のチャンネルは完全に死んでいて音量も僅か、それを修整する気力も残らぬイーノはその状況でレコードを"楽しみました"。そして新しい音楽の聴き方を発見したのです。つまりそこでは聴く為の、行為の結果として鳴ったはずのレコードが生活の環境音と等しいただの空気の振動として捉えられたということ。イーノはこの概念をエクスペリメンタルなポピュラー・ミュージックに取り入れアンビエント・ミュージックを発明しました。

現在、"アンビエント"という言葉は"アンビエントミュージック"という、ジャンルとしての意味合いの他に"アンビエント感"という共感覚として、受け手にも送り手にも浸透しているようです。不定形でまるで水のようなこのタームは、何にでもフィットして機能性が高いので近頃では様々な場面で頻繁に使われているからです。この、構成要素としてのアンビエントはポピュラー・ミュージックの枠を超え、時代をも超え、クラシック音楽やワールド・ミュージックの中にさえも発見することが可能なのです。そして実は、環境音等の"非音楽"の中にこそ多く"アンビエント感"は含まれています。日々の暮らしの中で、私達の耳には多分な情報量の音が入ってくるはずです。それらは全て[環境雑音(ambient noize)]として処理され意識的に耳を傾ける人は居ないでしょう。しかし凪になら、肌理細やかな波を見つけ易いはずです。絶対的な情報量が少ない時に、特に浮かび上がってくる[日常音][環境音]などの[非音楽]それらはランダムやミニマル等とも作用して所謂アンビエント感をもたらしてくれるのです。ブライアン・イーノの先例にもあるように、非音楽も音楽と並列に位置している状態こそが"アンビエント"なのですから、お寺は"アンビエント"を体験するにうってつけなのではないでしょうか。イーノははじめにアンビエントミュージックを「静けさと、考える為の空間を作り出す音楽」と定義していますが、お寺もまた「静けさと、考えるための空間」として存在しているとも言えるからです。

私達が手にしている"アンビエント感"というものは少々煩わしい横の壁を取払う為の手助けとなってくれています。全ての音と音を繋ぐ架け橋になっているとしても過言では無いでしょう。つまり大袈裟かもしれませんが、範囲は全音楽。この星全体の音がフラットに存在しているかのようなイメージ。昼と夜、此岸と彼岸、日常と非日常、音楽と非音楽、全ての境界線は曖昧で自由な往来は困難だったはずなのですが、それぞれの中間にはぼんやりと「誰そ彼」が存在しているのです。 

投稿者 tasogarecords : 00:40 | コメント (0)