2004年11月28日
誰そ彼への道
文・木原健 - busse posse issue vol.03 掲載 (04/09/18)
私は方向音痴である。知らない土地を歩くとき、まず間違いなく道に迷う。何度も通った道を歩く時でさえ三度に一度は道に迷う。「この先まっすぐ」「徒歩五分」そんなの嘘だ。信じない。目的地への道がどれほど単純でも、どれほど近くにあろうとも、迷わず迷う。例えば昨年九月の第一回「誰そ彼」にて。私が光明寺に着いたのは午後五時半のことだった。「早いね、もう来てくれたんだ」松本君は気さくに声をかけてくれる。私は曖昧に頷く。しかし、私が午後四時半には神谷町に着いていたことや光明寺まで徒歩一分の道で四十分も歩き回ったことを彼は知らない。半泣きになって広尾駅から電車に乗り、神谷町に着くところからもう一度やり直したことを彼は知らない。俄かには信じられないかもしれないが、事実である。「わけが分からない」そう思った方は幸いである。恐らくは正当な方向感覚を持ち合わせているからである。
「注意力が足りない」そんなことはない。私は常に細心の注意を払って案内図を睨む。時に指差し確認も行う。精密なコーナリングで曲がり角を折れる。それでも、角を二つ曲がると簡単に目印を見失う。眉間に皺を寄せて覚えた風景を、三分以内に簡単に忘れてしまう。「地図を持てばいい」そうかもしれない。しかし、私は地図を読めない。正確には、地図を元にして道を歩くことが出来ない。ポータブルな地図は手の中で回すうちに北と南が混ざり合い、東と西が交錯し、進むべき方角と目的地を見失ってしまう。さらに、地図上の建物そのものが疑念の的になる。角にあるスターバックスは本当にここでいいのか?ファミリーマートは本当にここなのか?本当に?
そして、関係のないことが頭をもたげる。「この道は昔通った道に似ている」意識が過去に飛び、現在の道を完全に見失って混乱する。目前の交差点が巨大な三択問題に見えてくる。「次の中から正しい選択肢を選べ」混乱する。選択問題は解答に疑いをはさんだ時点で半分負けである。 私の道はどれにしても誤りである可能性が高い。とはいえ、いつまでも立ち止まることもできない。とりあえず歩き出し、きょろきょろと進む。道路案内を発見するとほっとする。自分が間違っていることが分かるとほっとする。たとえ消去法であれ、余計な選択肢が一つ減ってくれたからである。誰そ彼も四回目を数えるが、私は今回もきっと迷ってしまうだろう。光明寺にまっすぐ着ける気がしない。でも、もしも一度も迷わずに光明寺にたどり着くことができたなら。挨拶より音楽より先に、真っ先に阿弥陀仏に手を合わせるつもりだ。


