2007年5月17日

A. あります。


お坊さんになるために、試験が有るのか無いのか、で言えば、試験はあります。ただしそれは入試や会社の就職試験のように、人を落とすための試験ではないのかな、と思います。

そもそも、お坊さんになると言うことは、出家をするというのが基本で、それは本来、仏道を歩みたいという強い意志があれば、誰でもできるべきことであります。それに仏教教団の側としても、その気持ちを受け入れないということはないかと思います。

ただ、現代の制度上、僧侶になるためには、その宗教法人から僧侶の資格というか、免許を受ける必要がありますから、試験も何もなしに、と言うわけにはいきません。やはり、仏教に対する知識や、儀式や作法についてを学ぶ必要があります。ですからお坊さんになるための試験は、僧侶になりたい人を拒むためにあるのではなくて、その学びのための意味合いが強いもの、として受け取っていただければいいのではないでしょうか。

ただ、宗派によって、その試験の内容は様々でしょうから、それに関しては、それぞれの宗派のご本山や寺院に尋ねてみられるのが一番良いかと思います。

2007年6月21日

A. 具体的な数字は申し上げられません。


お坊さんになるためには、まず得度をする、ということが必要です。

その得度までにどのくらいの期間が必要かといえば、例えば浄土真宗本願寺派(西本願寺)では、得度習礼(とくどしゅらい)という11日間の研修を受けることで僧侶としての資格を得る事ができるのですが、その研修に参加するまでにこれまた許可が必要で、特定の教育機関で必要な単位を取得するか、研修に参加するための試験に合格せねばなりません。ですから、11日間の研修の前に、それなりの勉強が必要となってきます。

浄土真宗以外の宗派で得度をするためには、まず師となるお坊さん、師僧をみつけ、その方の下で修行し、師僧の許しを得て、得度を受けることで僧侶になれるのですが、その得度を受けられるまでの修行期間は、師の許しを得るまで、ですから、明確にはわかりません。最近ではそれぞれの宗派の持つ大学に行き、必要な単位を取得する事で、得度を受けると言う道もあるようです。

とまあそういうわけで、僧侶になるまでの期間をはっきり申し上げることはできないのですが、修行は僧侶になるためだけにあるものではなく、仏のさとりを目指すためのものですから、むしろ僧侶となってからが本番であると思います。ですから、これだけの期間修行すれば良いということは、本来的には無いのでしょうね。

2007年6月28日

A. 子どもの頃からの人もいれば、歳をとってからの人もいます。


これは私の場合なのですが、ウチでは子どもの頃、夜寝る前にお勤めをするという習慣がありましたので、小学生の頃には「正信偈」という浄土真宗でよく用いられる偈文(げもん:お経に準ずるもの)の文句を覚えておりました。

ただ、どうしても読経の節回しのようなものは地方独特のクセがありまして、本山の正式なものとはちょっと違っていたりもしましたので、正しい読経を習ったのは、得度式を受け僧侶となる時かと思います。

お経の文句を覚える事に限って言えば、私のように子どもの頃に覚えた方もおられるでしょうし、お寺の生まれであっても、得度を受け僧侶となる時まで覚える事がなかった方もおられるかと思います。また、お経も一つではなくいくつも種類がありますので、長いものもあれば、短いものもありますから、長さや読む頻度によって、覚えているものと覚えていないものがあるかな、と思います。

ちなみに読経は、お経を覚えて、暗唱できなければいけないというものでもありません。「読経」とは、お経を音読する、ということですからね。

2007年8月16日

A.山だけとは限りません。

仏教の修行、と言うと、山寺に篭って、というイメージがあるかと思います。まあ実際、お寺自体が山にあることが多いですので、そう言う印象が強いのかな、と思います。
しかし、修行は別に山でなくてはならない、というわけではありません。仏教が興ったインドは、日本ほど山が多い国ではありませんから、お釈迦様も人里から少し離れた森の中などで修行されたようですし、お釈迦様のお弟子が修行され、お寺の始まりとされる竹林精舎や祇園精舎も、山の上にあるわけではありません。つまり大切なのは、人里=誘惑の多い俗世間から離れ、静かに修行に専念できる、ということになるのだと思います。
それが、中国や日本に伝わる中で、人里から離れた静かな場所=山、ということになり、特に日本では山が多いですから、山で修行する事が増えたのだと推測できます。

また、仏道修行は、山に篭らずとも、本来どこでもできるものであります。基本的には、自らを見つめ、物事のあり方の真理を見つめる、というのが仏教の教えでありますから、その実践を、人々の中で、人々と共にしていくことも、不可能ではありませんから、ね。

2007年11月 8日

A. どういう仏教を学びたいか、にもよります。

仏教を勉強したい、とのことですが、仏教と一くくりに申しましても、禅もあれば、密教に浄土教、お釈迦様当時の原始仏教など、実に様々なタイプの教えがあります。

ですから、どのタイプの仏教に興味があるのかによって、オススメするべき本も変わってくるのですが、私は他宗の仏教書については疎いため、これ!というのは申し上げられませんが、もし浄土真宗について学びたいという方は、西本願寺のご門主、大谷光真氏の『朝には紅顔ありて』は、真宗と仏教の教えが基礎からわかりやすく書かれておりますのでオススメです。

そうではなくて、まだどのタイプの仏教が良いかわからないけど、漠然と仏教に興味があるのなら、一番最初は、仏教の根幹となるところから学ぶのが良いでしょう。

そのオススメの本でとしては、ひろさちや先生の本が良いかもしれません。ひろさちや先生は、彼岸寺が開催する講座「仏になるための仏教講座」でも講演してくださった仏教学者で、仏教を基礎からわかりやすく、またいろんなタイプの仏教について書かれた本を出されておられますから、いろいろ探してみられると良いと思います。

他には、『仏教聖典』という、キリスト教の『聖書』のような位置付けの書が仏教にもありまして、これは少々読み難いかもしれませんが、お釈迦様の言葉に触れる意味で、良い本だと思います。この本は、ホテルに置いてあったり、ネットでも全文を閲覧できます。

また、活字が苦手という方には、手塚治虫氏の『ブッダ』をオススメします。漫画ですが、お釈迦様がなぜさとりを目指されたのかや、大まかですが、仏教の教えのイメージに触れることが出来ますので、ストーリーを楽しむだけでなく、その辺を意識して読めば、入門の入門にはピッタリではないかなと思います。

2007年11月15日

A. 他国への修行、ということは、それほど多くないと思います。

日本のお坊さんが、他の国へ修行へ行くということは、歴史を紐解けば、最澄や空海と言ったお坊さん達が、中国へ仏教を学びに行かれた事などを考えれば、かつてはよくあった事だと言えます。
しかし今では、個人的に外国へ修行に行かれるお坊さんもおられるかと思いますが、その数は、それほど多くないと思います。

と、申しますのも、以前も書きましたが、仏教には、様々なタイプの教えがあります。大きく分けると、「上座部仏教」「大乗仏教」という二つのタイプがあるのですが、東南アジアの方へは上座部仏教が、中国へは大乗仏教が伝わりました。そして、中国から日本へと仏教が伝わり、そして様々な宗派に分化してきました。その各宗派では、それぞれに修行方法や、教えについての解釈が行なわれ、日本独特の仏教が発展してきました。そのため、他の国の仏教とは、趣が少しずつ異なってきているのです。

そう言う風に、各宗派の中で、教義や修行方法がすでに確立しているために、交流などはあっても、外国へと修行をしに行く、ということはあまりないのかもしれません。

ただもちろん、タイプの違う仏教を学ぶ事も大変有意義な事でありますし、タイプが違っていても、その根底にあるものは同じですから、タイなどのお寺に修行に行かれるお坊さんもおられないわけではありません。私も機会があれば、行ってみたい気持ちはありますしね。

2007年11月29日

A. 大いに関係あるようです。

近年の健康ブームで、ヨガ、流行っていますね。とは言え私はヨガをしたことがあるわけでも、ヨガの専門家でもないのですが、ヨガと仏教、ヨガと座禅との関係に、知っている限りお答えさせていただきます。

そもそもヨガというのは、インドに古くからあり、ウパニシャッドと言われる古代インドの哲学書にも出てくるもので、瞑想や呼吸法、座法などによって心身を鍛える事で、心の動きを抑制する方法として古くから用いられたようです。後に、ヨーガ学派という哲学集団によって、解脱への実践方法として体系化されていったと言われております。
そして仏教においても、このヨガは悟りへの実践方法として用いられ、釈尊も、瞑想によって真理を悟ったと言われますし、「瑜伽(ゆが)行」という修行法として確立されました。

現代のヨガも、もともとはそのインド独特の修行法をアレンジしたものですから、仏教の修行とヨガとは、出発点は同じであると言えるでしょう。違いと言えば、仏教における修行は、さとりを目指す為の方法であり、現代のヨガは、心身の健康維持のためのもの、という点でしょうか。

座禅とヨガとの関係についてですが、ヨガは、座法や呼吸法を盛り込んだ、精神統一の方法でありますし、「禅」といいますのは、「禅定」つまり精神統一をし、真理を観察することであって、「座禅」は座法や呼吸法を用いた「禅定」一つの方法でありますから、根本的な部分で同じ要素を持つものと言えるかと思います。
そう考えますと仏教も、インド古来からあるヨガ無しには生まれなかったものなのかもしれません。

2007年12月27日

A. ある、ようですが・・・

尼さんになりたく、女性だけの修業道場はあるか、というご質問ですが、私はそう言うお寺のことを知りませんでしたので、いろいろ調べてみました。すると、尼寺を起源とするお寺は京都などにもいろいろとあるのですが、女性のみの修行を受け入れているというお寺はあまりないようです。

ただ、一つ見つかりましたのが、岐阜県岐阜市に天衣寺(てんねじ)というお寺がありまして、ここには臨済宗と黄檗宗の、臨済宗黄檗宗女性禅学林という施設がありまして、ここは女性のみを対象とした、禅体験や修業ができるようです。

ただ、僧侶になりたい、と思われるのでしたら、どの宗派でも女性の受け入れをしております。かつては、女性がおりますと、男性の僧侶の意識がそっちにいってしまって、修行の妨げになるという理由で、女性の受け入れをしないお寺もあり、女性の為のだけ尼寺があったようですが、今ではそんなことはありません。

元々仏教は、老若男女や貴賎を問わず、誰にでも開かれた宗教でしたし、お釈迦様の頃から女性僧侶もおりました。

ただ、やはり修行の面において、男女の性差がありますので、男女別々に修行は行なわれたようなのですが、現在では男女共同参画も叫ばれる時代ですし、男性女性を差別することなく、共に仏教を学ぶ事が出来ます。ですから、僧侶になる為に修行したい、というのであれば、宗派を選んで、それぞれの本山に問い合わせて見られるのが良いかと思います。

もしどうしても女性だけの修行の場が良い、というのであれば、上記の臨済宗黄檗宗女性禅学林の方に問い合わせてみられるとよいかもしれませんね。

2008年1月10日

A. どこのお寺でも、というわけではありません。

坐禅をしてみたい、とのことですが、どこのお寺でも坐禅を教えてくれる、というわけではありません。例えば、浄土真宗であるウチのお寺に「坐禅をしたいのですが」と来ていただいても、残念ながら、私は坐禅を専門に学んでおりませんので、指導する事はできません。やはりそこは、坐禅を専門に学んだ方のいるお寺、つまり、禅宗のお寺に行かれてみるのが一番良いかと思います。

とは言え、禅宗のお寺であっても、全てのお寺で坐禅をご指導いただけるかというと、お寺によってもいろいろ事情があるでしょうから、できるできないがあるかと思います。しかし、日曜に坐禅会を行なうなど、門戸を広く開いているお寺もたくさんありますから、最寄のお寺を探してみてください。

で、探し方ですが、今はネット検索という便利なツールがありますから、例えば横浜市にお住まいならば、yahoo!やgoogleなりを使って、「横浜市 坐禅」と検索をかければ、坐禅を受け入れてくれるお寺はすぐ見つかるかと思いますよ。あとはそのお寺に足を運んでみるだけ、ですね。

2008年2月21日

A. 基本的に不合格は無いかと思います。

得度するに当たり、不合格があるか、と言うことですが、まず浄土真宗本願寺派に限って言えば、不合格はほぼ無いかな、と思います。本願寺派で得度するためには、得度習礼という合宿があり、実技・筆記の試験などもありますが、合否を決めるというよりも、最低限の知識や儀礼作法を身につけているかを測る為のもので、試験の成績が悪い場合は、フォローして再試験、という形になりますから、基本的に不合格は無いかと思います。ただ、その合宿中に、体調を崩すなどして、最後まで達成できない場合は、その限りではありません。

その他の宗派につきましては、得度するために、師僧に指導をまず受け、得度式を受けるという形を取るか、各宗派の大学に行って、専門の単位を取る事から始まるようですが、得度は僧侶としてのスタート地点に立つ事。ですから、僧侶となりたいという確固たる意思を持った人であれば、得度できない、ということはまず無いのではないかな、と思います。

まあもちろん、素行が悪いなどの問題があれば、その限りではないかもしれませんが、基本的には、僧侶となるための門戸は、誰にでも開かれたものですので、僧侶になりたい強い気持ちがあれば、大丈夫かと思いますよ。

2008年3月 6日

A. 瞑想をどう考えるかによって変わってきます。

瞑想と坐禅。確かに同じようなイメージはありますね。この二つは全く別の物、というわけではなく、お互い関連のある物ですが、瞑想というものをどう考えるかによって、瞑想と坐禅との関係は変わってまいります。

一般的に瞑想と言いますと、心を静め定めたり、特定の物事に精神集中をしていく物と考えられます。このような瞑想は、ほとんどの宗教に広く見られるもので、実に様々な方法があります。

しかし、仏教における瞑想は、自らの心や一つの物事に集中するだけに留まらず、観察(かんざつ)・観行とも呼ばれる、あらゆる物事のありのままの在り方、真理を見つめていくことを行ないます。この真実を見つめる「智慧」を求めるのが、仏教における瞑想の大きな特徴です。

と、瞑想を二つの側面に分けてみましたが、仏教では前者を「止」、後者を「観」と呼びます。坐禅は本来、この「止」と「観」の両方を行なうものです。ですから、瞑想を「止」の段階に留めて考えるならば、瞑想と坐禅とは異なるものになります。「観」の所までを瞑想と考えるならば、坐禅はその一つの方法であるという関係になります。

もちろん、「止」と「観」とを行なう仏教的な瞑想は、坐禅だけではなく、天台宗で行なわれる、90日間堂内に篭って、座臥することなく、ひたすら阿弥陀仏の周りを念仏しながら歩き回る「常行三昧」という修行なども、一つの瞑想法と言えるでしょう。

ですから、瞑想と坐禅とに違いがあるというよりも、瞑想の目的が、ただ精神集中にあるのか、はたまた真実の智慧を得てさとりをひらくためのものか、というところで違いが出てくると言えるかと思います。

アニメ一休さんで、お坊さん同士が「そもさん、せっぱ!」と問答を掛け合うシーンがありますね。この連載では、ふだん聞きたくてもなかなか聞けないお寺や仏教への素朴な疑問に、お坊さんがわかりやすく答えます。読者のみなさんからの質問も、お待ちしています!
(なおご質問は、メールでinfo@higan.netにお送りください。みなさまからいただいたご質問の中からいくつかを取り上げさせていただきます。)
ケンユウ
石川県のとある温泉街に住む僧侶。みなさんからの質問に、わかりやすく答えます。
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