2008年3月 6日

A. 瞑想をどう考えるかによって変わってきます。

瞑想と坐禅。確かに同じようなイメージはありますね。この二つは全く別の物、というわけではなく、お互い関連のある物ですが、瞑想というものをどう考えるかによって、瞑想と坐禅との関係は変わってまいります。

一般的に瞑想と言いますと、心を静め定めたり、特定の物事に精神集中をしていく物と考えられます。このような瞑想は、ほとんどの宗教に広く見られるもので、実に様々な方法があります。

しかし、仏教における瞑想は、自らの心や一つの物事に集中するだけに留まらず、観察(かんざつ)・観行とも呼ばれる、あらゆる物事のありのままの在り方、真理を見つめていくことを行ないます。この真実を見つめる「智慧」を求めるのが、仏教における瞑想の大きな特徴です。

と、瞑想を二つの側面に分けてみましたが、仏教では前者を「止」、後者を「観」と呼びます。坐禅は本来、この「止」と「観」の両方を行なうものです。ですから、瞑想を「止」の段階に留めて考えるならば、瞑想と坐禅とは異なるものになります。「観」の所までを瞑想と考えるならば、坐禅はその一つの方法であるという関係になります。

もちろん、「止」と「観」とを行なう仏教的な瞑想は、坐禅だけではなく、天台宗で行なわれる、90日間堂内に篭って、座臥することなく、ひたすら阿弥陀仏の周りを念仏しながら歩き回る「常行三昧」という修行なども、一つの瞑想法と言えるでしょう。

ですから、瞑想と坐禅とに違いがあるというよりも、瞑想の目的が、ただ精神集中にあるのか、はたまた真実の智慧を得てさとりをひらくためのものか、というところで違いが出てくると言えるかと思います。

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