A.私はありません。
お寺って、確かになんだか夜は薄暗くて不気味で、いかにも幽霊が出そうな場ではありますよね。私も小さい頃は、夜の本堂は無茶苦茶怖かったことを思い出します。
それで、実際お寺に幽霊が出るのか、ということですが、そもそもお寺とは、僧侶が修行を行ったり、仏さまに礼拝したり、生きている私が仏さまや仏法に出会わせていただくための施設であり、いわば私がさとりを目指す場、仏と成るための場だと言えると思います。
そして、幽霊といいますのは、まあ通常、未練を残して亡くなった人の魂が、この世に彷徨い続ける存在として考えられるかと思います。
で、ここでは幽霊がいるかいないか、という議論は避けまして、お寺という性質と、幽霊の性質を考えていきますと、お寺に幽霊というのはちょっと矛盾する気がします。もしですよ、お寺に幽霊が出るとしましょう。するとその幽霊は、仏法に、仏様に出遇うことになります。そんな仏法に出遇った幽霊の事を、仏様は放ってはおかないでしょうし、仏法に出遇った幽霊は、恨みを抱えたままではなくなるんじゃないでしょうか。そうしますと、まだこの世に未練があって成仏したくない幽霊は、たぶんお寺には出ないでしょうし、もし幽霊がお寺に出たとしても、私は成仏していくんじゃないかなと思います。そう考えますとお寺って、実は怖い場所ではないのかもしれませんね。
コメント (7)
はじめまして。
お寺では幽霊は見ないんですね。
私は病院に勤めています。さいわいに?霊感がないせいか、幽霊というのは見た事がないのですが、霊感のある人はよく何号室にいるよといいます。
亡くなりそうな患者さんの中には、死んだはずの誰々さんが来たんだということもありました。
病院というのは亡くなる人がいますし、そういう人の中には未練を残してというか、往生できずになくなっていく方も少なくないだろうと思います。そういう人たちには一体どうすればいいのでしょうか。
ブログの内容とはだいぶそれていますが、お答えいただければさいわいです。
投稿者: happiness | 2007年5月30日 21:53
日時: 2007年5月30日 21:53
happiness様、コメントどうもありがとうございます。
えっと、未練を残して、とか、往生できずに亡くなった方にはどうすれば、とのご質問ですが、
よく除霊、なんてことを申しますが、未練を残した方を、無理矢理にどうにかしてしまおう、というのは、もしそれが可能な事だとしても、私は少々乱暴なような気がします。
かと言って、もし、未練を残して幽霊のように彷徨っている方がいるとしても、その人の未練、望んでいることを叶えてあげる事って、すごく難しい事なんじゃないでしょうか。
きっと、未練を残すことなく亡くなる人って、少なくないと思います。きっと誰しも、もっと行きたかったというような未練は持つでしょうし、家族の事を心配したり、やり残したことを思ったり、私もそう言う未練を、おそらく残して死ぬ気がします。
そんな、もっと生きたいというような未練は、生きている者にはどうしようもできないような気がするんですよね。ましてや、すべての未練を残した人の未練を、なんとかするなんて、到底できることではありません。
でも、いつまでも未練たらたらの私たちのために、仏という生と死を超越した存在がいてくださって、未練を残して死んでも私が何とかするから大丈夫だよ、という教えがあるんだと思います
でも、もし、亡くなった人のために何かしてあげたい、と思われるのでしたら、親鸞聖人は、まず自分が仏となることを考えよ、とおっしゃられてます。
仏となれば、未練を残した者の未練も叶えてあげる事ができるし、全ての迷える命を救える、とおっしゃられております。
ですから、もし亡くなって未練を残している方がいるようで、それをなんとかしたい、と思われるのでしたら、自分自身が仏となるための教え、仏法に触れていくことが、最良の道であり、唯一私たちに出来る事なのかもしれませんね。
投稿者: kenyou | 2007年6月 2日 00:00
日時: 2007年6月 2日 00:00
お忙しい中、ご回答くださりありがとうございました。
確かに、死を受容するのは難しいでしょうね。
終わりがいつ来るかは誰にも分からないですし。
そういう人のために仏さまの教えがあるのですか。
どうしようもないことはその仏様にお任せするということでしょうか。
そこで混乱した事があったのですが、仏様というのは生と死を超越した存在とおっしゃっていますが、それはブッダのことをさしているのですか。それとも別の存在のことでしょうか?
私の中では、仏様というと、亡くなった人をイメージしてしまいます。仏教用語では、仏というと定義があるのでしょうか。
仏法に触れるということは、具体的にどのようなことをさすのでしょうか。私はkenyou様のように仏教に染まった生活はした事がないのです。
それと、成仏するためにお経をよむのではないとお葬式や法事の時に読むお経は何のためによんでいるのですか。
一つ疑問が解決しますと、また沸々と疑問が湧いてきます。
投稿者: happiness | 2007年6月 5日 22:20
日時: 2007年6月 5日 22:20
happiness様。
いくつかご質問いただきましたので、答えさせていただきますね。
ただ、ちょっと長くなりますので、御容赦の程を。
まず「仏」ということについてのご質問ですが、いくつか意味がありまして、おっしゃる通り、ブッダ=お釈迦さまのことを「仏」と呼びます。これは、「ブッダ」という言葉が、覚者、目覚めた人という意味の言葉で、それに漢字を当てると「仏陀」となって、それが「仏」と略されたわけです。
また、日本では亡くなった方のことを「ホトケ」という風に呼びますが、これは、仏教の教えの中で、浄土教という教えがありまして、仏教の教えを受けて亡くなった人は、死後に仏と成る(成仏する)と言う教えです。そこから仏と成った死者の事を敬って「仏」さんと呼んだり、今ではそれが、死者の隠語として「ホトケ」という言葉が使われているのだと思います。
では「仏」と成るとはどういうことか、と言う事ですが、「仏」とは、先ほども書きましたが、覚者、つまりさとりを開いた方、と言うことですので、さとりを開いた状態になる、ということです。
ただし、死者が一人の人格を持っていてさとりを開く、というわけではありません。さとりを開いた状態というのは、「自我」と呼ばれる、私たちの持つ「苦」の元となっている概念から離れた状態に至る事です。その「自我」から離れた状態に成るには、生活の全てを捨てて行なうような厳しい修行が必要で、生身の体を持った私たちにはそう簡単に出来る事ではありません。しかし、そんな私たちであっても、この体が無くなる時、つまり死によって、「自我」から解放される訳です。自我から開放された状態と言うのは、自分と他のものという区別がなくなった状態です。つまり、「私」と言う殻から解放され、全ての命と繋がりあう、と言う状態でしょうか。そしてその状態は、苦の一切ない、安楽・安穏の状態、と言われます。そうなる事が、「仏と成る」ということです。
そして、前回私が「生と死を超越した存在」と書きました「仏」ですが、一人の人格を持つ存在としてとらえるよりも、もっと大きな、宇宙とか、全ての命、と言うように考えたほうがいいかもしれません。私たちは、一人一人、自分の命を持って生きている、と考えますが、その命は、決して一人の力で成り立っているものではありません。全ての命が繋がり合って、お互いに支え、支えられて存在するものです。ですから、私たちは一人の命を生きながら、全ての命と繋がり合っているわけです。
そしてそれは、今生きている命とだけでなく、過去に在った命とも繋がっているわけで、私が死んでも、その命の繋がりというものは、決して途切れる事は無く、次の命とまた繋がっていくものです。これは先程書きました、“「私」と言う殻から解放され、全ての命と繋がりあう、と言う状態”というイメージと繋がるでしょう。
そうやって、命を「自分」と言うところだけでなく、もっと大きな意味で捉えると、そこには生も死も無く、私もまた、その大きな命の一部である、ということが言えるかと思います。
ただし、私と言う存在は、大きな命の中にいながら、どうしても「自分」という殻からは離れられませんので、その繋がりに気づかないというか、溶け込めない状態でいるので、どうしても私が「仏」と成る、つまり大きな命に溶け込むには、この体があってはほぼ不可能で、死によって「自我」から離れる事で、本当の意味で大きなあらゆる命と一つに溶け合っていく=「仏」と成っていけるのだと思います。
そして、このことが、お釈迦さま=仏陀のさとった内容、仏教の教えの一部であって、この大きな命の繋がりを、わかりやすく示すために、一つの存在のように人格化、或いは神格化して表現したのが「仏」という言葉が表す意味の一つであるのかな、と思います。
と、「仏」の説明だけでずいぶん長くなってしまいましたね。
次に「仏法に触れるということ」についてですが、これは、別に修行をしたり、お経を毎日読んだり、お寺さんと関わりを持つと言うことだけではありません。
こうやって彼岸寺を読んだり、いろんな疑問を持って質問したり、これがもう、仏教に触れているんだと思います。常に触れていなくても、時折、お寺にお参りしてみたり、法話やお説教という、仏教についてのお話を聞いて、そして命について考えたり、自分自身の心や行いについて考える、そう言うことでも、仏法に触れている事になるのだと思いますよ。
そして最後に「お経」についてですが、お経と言うのは、本質的には、称える事で幸せを招き不幸を避けるような利益が得られる呪文でも、死者をあの世へ送る呪文でもありません。お経は、お釈迦さまの説かれた教えが書かれた物です。ですから、お経を読むことの一つの意味は、私が、お釈迦さまの教えに触れる、間接的にお釈迦さまのお話を聞く、という意味があるのかと思います。お葬式やご法事でお経が読まれるのは、一つには、人の死を縁にして、生きている私たちがその教えに触れるきっかけとする、と言う意味があろうかと思います。
まあ、もちろんお経をただ読んだり聞いたりしただけでは意味がわかりませんから、その内容は、お坊さんに聞いたり、お説教を聴くことによって触れることができるかと思います。
そしてお葬式やご法事でお経が読まれるもう一つの意義は、その場所に、仏の世界、さとりの世界を、お経と言うお釈迦さまのお説教によって、一時的に作り上げる、ということでしょうか。これは、亡くなった方のためでもありますし、生きている私たちのためのものでもあるでしょう。
と、ご質問いただいたことに、なるべく簡単に、と思って書いたのですが、ずいぶん長く、難しくなってしまいましたね・・・ もしまたわからない事があれば、遠慮なく質問してくださいね。
投稿者: kenyou | 2007年6月 8日 01:13
日時: 2007年6月 8日 01:13
ご丁寧な回答をありがとうございました。
生と死を超越した存在=仏
雨の滴を自我、私にたとえるならば、それが地面にしみこんで川から海(のあらゆる命に溶け込んで)に流れて、それがまた雨となりまた滴となる。
その循環を繰り返す。
このようなことでしょうか。
とても難しいですね。
投稿者: happiness | 2007年6月11日 12:11
日時: 2007年6月11日 12:11
>happiness様
そうですね、仏というのは、そういう大きな命の循環をふくめた全体、というようなイメージで考えてもらっても良いかな、と思います。
そう考えると、確かに「私」というところにこだわって見ると、生があって、死があり、亡くなった人とはもう遇えない、となるのでしょうけど、全ての命の全体で見ると、「私」の死は終わりを意味するものではなくなって、全ての命とまた再び会う世界が広がっていく、となるのではないかな、と思います。
投稿者: kenyou | 2007年6月14日 01:17
日時: 2007年6月14日 01:17
何度も何度も質問をし、その都度分かりやすい説明をしていただきましてありがとうございました。
これだけ説明していただいたにも関わらず、体に染み込む様に分かったかといわれると、? ですが、仏様のイメージがなんとなく分かったような気がします。
ありがとうございました。
そもさんせっぱ、これからも楽しみにしています。
投稿者: happiness | 2007年6月15日 21:03
日時: 2007年6月15日 21:03