春の彼岸が終わり、少し暖かくなってくると、桜のつぼみが開きはじめます。 広島にある私のお寺にもシダレザクラが二本植えてあって、毎年綺麗な花を咲かせます。 今年は、例年より早く、お寺の彼岸法要より前に開花が確認できました。
そんな桜ですが、毎年その美しさに惹かれてか、多くの方が見に来られます。 お寺のほど近くにある広島平和記念公園に植えられたソメイヨシノよりも1週間ほど早いので、もの珍しさも手伝っているのかも知れません。
今回は、精進料理から少し離れて、私が最近思ったことをつづりたいと思います。
お寺の桜の花がある程度開いてきた頃、近所の総合病院から、車いすに乗ったおばあちゃんの集団がケアマネージャーさんに付き添われて来られていました。
「よく、おいでましたね。 どうぞ、しっかりと見ていってください」
と、いつもの通りに挨拶をすると、
「本当に、極楽じゃわ。 生きとって良かったですわぁ!!」
と、車いすの高さにまで枝垂れた桜の花々で、薄いピンク色の影に染まったおばあちゃんが、上げた手で枝に触れながら、とびっきりの笑顔でおっしゃいました。
その瞬間、私はその姿にドキッとしました。 おばあちゃんが枝を触る様子が、仏様の手に引かれた子どもの姿と重なったからです。
私は即座にそのおばあちゃんの手を取って、
「いつでも見に来てくださいね。 桜を見られるように元気でいてくださいよ」
と告げると、「ありがとうございます」 という言葉と、満面の笑みを返してくれました。
その後しばらく、おばあちゃん達は桜を堪能し、病院へ戻っていかれました。
今思えば、この枝垂れ桜は、私に僧侶の在り方を問うたように思います。 仏の教えは金科玉条のごとく敬い奉るものではなく、人との触れ合いの中で実践するものなのだと。 ソメイヨシノではなくシダレザクラのような僧侶。 そうあり続けることが、私の目標であり、実践そのものなのです。