2007年5月15日

CIMG3579.jpg 実際住んでいて東京という街は人も建物も多いなぁとつくづく思ったりするのだけれど、この活気がいつから始まったのかといえば、やはり徳川幕府の時代。1771年には江戸の人口は100万人を超え、世界一だったみたいです。
 その江戸に魅せられて日夜研究を続けておられる安藤優一郎さんが、この彼岸寺で『江戸のお寺 浮世草子』という連載を書いてくださることになりました。江戸時代って、有名なお坊さんの名前があまり思い浮かびませんよね?平和な江戸社会ではお寺も大名に守られて、あまり改革派のお坊さんが出てこなかったからでしょうか。
 しかし意外にも、お寺はいつも安泰だったわけではないようで、経済的にも維持していくためにはいろんな工夫を凝らして参拝客を集める必要があったようです。
 『江戸のお寺 浮世草子』で、江戸のお寺の”集客”に注目してみましょう。

2007年5月15日

 『おじいちゃんへの質問』という連載がはじまりました。著者の”めっちゃん”は最近お母さんになったばかりの、「おじいちゃんが住職さん」という私と似たような境遇で生まれ育った女性です。
 数年前に一般の家庭に嫁がれたのですが、在家の立場から浄土真宗についてとっても真剣に向き合っておられ、僧侶である私とも信仰について十分に語り合える、などと言える立場ではない私のようなかたち先行の僧侶にとって、そのほんとうに真摯な宗教的感性は、とても勉強になります。
 ”めっちゃん”と”おじいちゃん”の対話を通じて、ほんとうに宗教に向き合うとはどういうことなのか、何かしらみなさんの感性に響くものがあれば幸いです。今回アップするのは”めっちゃん”の手紙、そして次回は”おじいちゃん”も登場します。相当、濃いですよ〜

2007年5月16日

 うちの父が温泉好きで、北海道に住んでいた頃は毎週のように家族で温泉に出かけていました。そんなこともあってか、ぼくは今でも温泉が好きで、機会があればいつでも温泉に入りたいと思っています。なんというか、ほんとうにカラダがいきいきしてくる気がするんです。

 温泉愛好家のミュージシャンであるサワサキヨシヒロ!さんとお話をしていたときに、サワサキさんが「温泉の脈は地球の動脈みたいなもの、はだかで温泉に浸かっているときの開放感は、戦争放棄につながる」と言いました。たしかに、温泉に入りながらイライラしている人はあまり見かけませんが、それも温泉という地球の血潮に抱かれているような感覚、温泉がもたらす精神的な効能なのかもしれません。

 恵みをいただけば、感謝したくなります。そういえば温泉地には、神社やお寺がつきものですよね。宗教とかいう以前の、「地球の恵みに感謝する」という人間の根源的な感情を、『サワサキヨシヒロ!の温泉道場』から考えてみましょう。

2007年5月17日

昔、アニメ『一休さん』を観ていた人は多いのではないでしょうか。一休さんと新右ヱ門さんがとんち問答をするときに、「そもさん、せっぱ!」と言っていたのを覚えている方もいらっしゃるかもしれません。

漢字では「什麼生、説破!」と書くそうですが、これは禅問答のとき、相手の返事を促すのに用いた語だそうで、「さあ、どうだ」「説き破ってみせよう」という意味で使われたようです。

ここ彼岸寺で新しくはじまった『そもさん、せっぱ』の連載では、禅問答という以前の、仏教やお寺やお坊さんに関するあらゆる素朴な疑問に対して、ぼくのともだちのケンユウ坊さんが親切に答えてくれてます。

2007年5月18日

 彼岸寺の活動へのインタビューなどで、よく「最終的には、何を目指しているのですか?」と聞かれることがあります。お坊さんとしては「すべての人が、深く縁起の道理をわきまえて、仏教徒としての自覚を持って心穏やかに生きること」が目指すべきところと思うのですが、しかし自分自身も含めて仏教界がそれを実践できているのかといえば、決してそうではありません。おそらく彼岸寺の活動というのは理想からはじまっているものではなくて、現実からはじまっているものだと思います。
 一般の家庭からぼくの友人のお寺に嫁いだみちこさんは、お坊さんとの恋愛、結婚、出産、子育てという人生の過程を経て、今、お坊さんの妻であり、一児の母であり、お寺の坊守という立場にあります。理想と現実の狭間でもがきながらも葛藤し続ける彼女ですが、約3年前にお寺へ嫁ぐ直前に書き始めたブログ記事今の記事、読み比べてみると、ひとりの人間が成長する姿が浮かび上がってくるようです。

2007年5月22日

最近、チベットやダライラマ法王に関する話題がぼくの周りにとても多いです。先日は護国寺で開催されたチベット・スピリチュアル・フェスティバルに参加しましたし、今度は近所の青松寺さんで「ダライ・ラマからの挑戦状」というテーマでBBAの集いが開催されるそうです。これらのイベントを通じて、ひとりでも多くの人に今チベットで何が起こっているのか、よく知ってもらいたいです。テレビには映らない深刻な事態、知らなかったでは済まされないこと。いいメディア、悪いメディアということではなくて、個々人のメディアリテラシーを高めることも必要です。
メディアといえば、平和な江戸のお寺メディアコラムも更新しました。メディアの影響で人が右往左往するのは、いつの時代も変わらないんですね。

2007年5月24日

今日は瀬戸内海の島から個展にやってきた加藤さんと、一緒に個展をやっている田中さんのカップルを囲んで、日暮里のトルコ料理やさんでみんなで食事をしました。二人とも着物を着ているのですが、客にトルコ衣装を着せて踊らせるようなコテコテのトルコ料理やさんの中では、かなり浮いていました。

田中さん曰く、学生の頃からふつうに着物で登校していたそうですが、加藤さんと付き合うようになってから体験している田舎暮らしでは、長距離の徒歩や車での移動が多いため着物はかえって不便極まりなく、意外にも「着物は街着である」という結論に達したとのことでした。

意外といえば、「そもさん、せっぱ」の中で出てきた「お寺で幽霊とか見たことはありますか?」という質問。ぼくもよくこの手の質問をされることがありますが、なかなか気の利いた答え方が見つかりませんでした。「ぼく、霊感がないので」というのも、あまり親切じゃないですしね。けんゆうくんが真面目に答えてくれていますが、なかなか「なるほど〜」感のある答えで、お坊さんとしても参考になりました。

2007年6月 6日

上野の森美術館で開催中の「アートで候 会田誠・山口晃 展」へ行ってきました。特に山口晃さんは、過去と現代の日本が交錯した風刺的な絵を描かれる方で、伝統と最新技術が融合した手のものに惹かれずにはいられないぼくの心を捉え、ほんとうに楽しく観てきました。

浄土真宗では御絵伝(ごえでん)といって、親鸞聖人の生涯を絵掛軸にしたものを報恩講などの法要の際に飾るのですが、これもじっくり眺めると細かい絵にいろんな技法が散りばめられ、とても興味深いものです。山口晃さんの絵と見比べてみても、面白いです。

さて、「江戸のお寺 浮世草子」連載では、「大奥とお坊さんの深い関係」の章が始まりました。江戸時代はその内情を知ることのできなかった大奥の様子が、お坊さんとの関わりから浮かび上がってきます。加藤氏の絵もいい味出してます。

2007年6月11日

「お坊さんって毎日どういうふうに過ごしているんですか?」と聞かれます。取材とかでも聞かれることですので、かなり多くの方がそういう疑問をお持ちなのだと思います。その都度「お坊さんにはいろんな方がいるので一概には言えません。普段は会社などで働いている方もいます」というふうに答えると、結構驚かれます。
おそらく、いつもお寺で修行しているのがお坊さん、というイメージなのだと思いますが、仏教界側からすれば「お坊さん=僧侶」というのは第一義的に、「修行や研修を経て、本山から僧侶と認められて資格を持っている人」のことを指すと思います。だから、資格を持って会社で働いている人もいますし、俳優やミュージシャンだったり、はたまたプロ野球のコミッショナーだったり、ほんとうにいろんな方がおられます。
逆に、「僧侶」のイメージが主の方でも、たとえば瀬戸内寂聴さんだったら、テレビ出演や講演や執筆などのタレント活動のボリュームが大きいので、おそらく普通の方が「僧侶」の生活として想像する暮らしのペースとは大きく異なるのはないかと想像されます。
今回の『そもさん、せっぱ』にも紹介されていますが、「有名人で実はお坊さん」も結構います。

2007年7月17日

new.gifお寺の未来』『おじいちゃんへの質問』『江戸のお寺 浮世草子を更新しました!


分かっているつもりでも、ほんとはぜんぜんよく分かっていないことって、結構ありますよね。ぼくも日頃「政教分離」とかいう言葉を使いながらも、実際は「政治と宗教」の関わりについて詳しく知らないことが多く、このたびの参院選を機に政治と宗教について学びなおしたいと思い、「国政に乗り出す仏教界」というコラムを書いてみました。

また、今回のめっちゃんからおじいちゃんへの質問「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのだろうか」というあまりにも直球な問いに対して、おじいちゃんが丁寧に答えてくれています。宗教を持っていない夫と子どもも、めっちゃんと一緒に救われるのだろうか?

江戸コラムも「大奥と坊さんの関係」というかなり政治的な内容が深まってきていて、この問題は今も昔も変わらないんだなぁということを感じさせられます。

2007年8月15日

今日から新しい連載コラムが始まります。仏像コラムニストのいっきゅーさんとイラストレーターのヤッコさんによる仏像珍道中レポート、『仏像ア・ラ・モード』です。
記念すべき初回は、いきなり大きいのが来ましたねぇ、牛久大仏です。ぼくも一度だけ見たことがありますが、ほんとに想像以上にすごい大きさなんですよ。何しろ、大仏さんの足の親指の厚さだけでも、一般成人男性の身長よりありますからね。
これから関東地方を中心に、いろんな仏様を拝んで回るそうですから、ぜひ皆さんお楽しみに!

2007年9月 7日

東京も台風が過ぎましたね。道産子のぼくはあまり台風を経験したことがないので、昨晩は試しに台風を体感しようと思ってマンションの屋上へ上がってみたのですが、ものすごい強風にフェンスがねじまがっていて、身の危険を感じました。

自然の猛威というのはすごいものですね。でも、東京にいるとそれを感じることがあまりにも少なく、その猛威に身をぶつけてみたくなる気持ちも、心のどこかにあるような気がします。都会の中に居て失いつつある身体性を取り戻そうという渇きなのかもしれません。

台風のように今週もあっという間に終わってしまいました。久しぶりに「お寺の未来」も更新しました。ちょっとグチっぽい内容になってしまいましたが、まぁそんなたまにはそんな気分のときもありますよね。でも、ここから始めるしかないわけですから、諦めず頑張ります。

2007年9月12日

 めっちゃんのおじいちゃんとの対話が更新されました。今回は、「念仏はポイント・オブ・ノーリターンを壊してしまう」というお話が出てきました。
 ポイント・オブ・ノーリターンというのは、直訳すると「戻れない点」、つまり、その先へ行ってしまったら同じところへは二度と戻れない限界点という意味です。脳死だったら、もう絶対に蘇生できなくなる限界点、環境だったら、もう絶対に再現できなくなる限界点を指します。

 では、「念仏はポイント・オブ・ノーリターンを壊してしまう」というのはどういうことかと言えば、ふつうなら人間は「これ以上堕ちてしまうと、もう戻れない」というポイント・オブ・ノーリターンに触れないように気をつけて生きていますが、念仏はこれを壊してしまうというのです。
 これは、「どこまで堕ちても念仏を称えればチャラになる」ということではなくて、「念仏はどこまでも堕ちるしかない人間の実相を明らかにする」ということが言われているのだと思います。
 念仏すれば常にポイント・オブ・ノーリターンの上にいられるということではなくて、人間は常にポイント・オブ・ノーリターンを超えてしまっていると。なるほど、とても味わい深い話です。

2007年9月13日

 なんでか分かりませんが、子どもって、「はげ」にすごく反応しますよね。ぼくもお坊さんになってからずっとボウズ頭にしていますが、お寺の子どもが「はげさん」とか言ってはしゃいでいることがあります。
 そういえば自分も子どもの頃は、髪の薄くなった教頭先生なんかを、そのように呼んでいたことがあったかも。その頃は、自分が大人になってはげになったら嫌だなと、髪の抜け毛などを心配したものです。しかし今、自分にとって、髪の毛は「剃るもの・刈るもの」になってしまったので、はげることは全然気にならなくなってしまいました。
 「アデランスの最大顧客はお坊さん?」という質問が出ていましたが、これはきっと「お坊さんには毛がない」「お坊さんは丸儲け」というイメージが変に組み合わさってできてきた噂なんでしょうね。
 ちなみに親鸞さんは自分のことを「愚禿、親鸞」と言いましたが、これは「はげ」ではなくて「かむろ」のことです。「かむろ」というのは、おかっぱのような髪のことをあらわすので、親鸞さんの場合は「お坊さんとして頭をきれいに剃ることをしない、ぼうぼうの髪」ということみたいですね。というわけで、つるつるのボウズ頭を「はげ」というのは、誤りです!

2007年9月14日

 「お寺の未来」に、「お寺が近親憎悪する理由」というコラムを書いてみました。なんだかヘンなタイトルですが、お寺に限らず人間というものは、遠くの大問題より近くの小さな問題のほうが気になるもので、それはお寺でも同じですよ、というお話です。
 あまりお寺やお坊さんを理想化して考えてしまうと、現実の部分で建設的な議論ができなくなってしまいます。宗教家とか聖人とかそういうイメージではなくて、「現状はどうなのか」「そこからどうして行ったらいいのか」という現実的な話をする必要があるのではないかなと思うんです。
 できることから始めよう!ですね。

2007年9月15日

 「お寺に嫁ぐということ」で「データは更新しておきましょう」っていうから、パソコンが壊れてバックアップしてなかったから大変なことになっちゃったのかなと思ったら、そういう話ではありませんでした。
 夫婦が一緒に暮らしていくうえで、情報収集が大切だと。ぼくは人からの情報収集がとても苦手なので、参考になります。基本的な感覚がずれていると、なおさら大変です。
 さてみなさま、こちら東京はまた急に暑さがぶりかえしてしまった感じですが、体調管理に気を抜かないようにしましょう。残暑お見舞い申し上げます。

2007年9月16日

 みなさん、この連休はどんなふうに過ごしておられますでしょうか。どこかに出かける人も多いと思いますが、みなさんどういうところに出かけておられるのか、気になります。趣味のある人は、そのために時間を使うのでしょう。
 ぼくはこれといって趣味がないので休みのときは行き先に困るのですが、結局落ち着くのは、お寺や仏像を見に行くとか、仏教関係のことだったりします。ちなみにこの週末には、法事の合間を縫って出来た時間で、のこぎり山の大仏を見てきました。千葉の日本寺という古いお寺にあるのですが、なかなかの迫力でした。山全体にも見所が満載で、おすすめですよ。
 さて、「仏像アラモード」が更新されました。いよいよ牛久大仏の胎内に突入です。そういえば牛久大仏も日本一ですが、のこぎり山の大仏も日本一でした。それぞれ、違う日本一を持っているので、日本中にはいろんな日本一大仏がありますね。映画の宣伝に「全米no.1」というコピーが多用されるようなものでしょうか。

2007年9月18日

 昨日はお寺カフェのブームを紹介しましたが、全般にお寺でのイベントがあちこちで盛り上がってきていますね。このサイトで紹介している先日築地本願寺で開催された他力本願でいこう!もそうですが、10月には富山で開かれるお寺座など、元気なイベントが盛りだくさんです。
 この流れに「集客のためにお寺でライブなどとはけしからん」という向きもあるかと思いますが、しかし集客がなければお話を聞いてくれる人もいないわけですからね。で、「お寺もなりふり構わず集客するとは世も末だ」というわけでもなくて、実は昔からお寺というのは集客にかなり力を注いでいたんです。
 「江戸のお寺 浮世草子」では「京成本線はもともと、成田山への参詣者をターゲットにして敷設された鉄道だった」ということも書かれているくらい、昔はすごい集客だったのですね。やはり、賑わっているお寺というのはいいものです。江戸時代に負けていられませんね。

2007年9月19日

 お寺イベントの話続きで申しわけないですが、今年はまだ一度も開かれていなかった、光明寺の「誰そ彼」が、今度は11月に2daysで開催されることが決まりました。といっても、2days目はお寺の都合上、お葬式が入ったら開催できなくなりますので、そこは運次第というところです。

 ところで、あまり皆さん気づかないと思いますが、お寺での催し物というのは、たいてい土曜日の夜か友引前日の夜に入っていることが多いのをご存じですか?まず、お寺というのは土日に法事が集中しますので、お寺で法事を勤めるお寺の場合は、土日をまたいで通夜・葬儀が入らないんです。お通夜やお葬式が入ると、そちらを優先しなければいけませんから、そのため、土曜日の夜は比較的間違いなくイベントができる日とされています。また、友引の日には火葬場がお休みのところが多いため、その前日の夜にはお通夜が入りにくいということで、お坊さんの会議などもこの日に設定されることがよくあります。余談でした。

2007年9月20日

 今日の「そもさん、せっぱ」より。子どもの頃、お寺の親戚の子として育ったぼくは、お寺の子のご多分に漏れず友だちから「坊主丸儲け」という言葉を言われたことがあったのを思い出しました。誰でも知っている言葉だと思いますが、なぜこの言葉が言われるのかといえば、その言葉を言う子どもの家庭で親たちがそういう話をしているのだろうということは想像がつきますが、それだけではなく「単に言葉のゴロがいい」ということもあろうかと思います。「坊主→丸」というつながりがいいんですね。ゴロのいい言葉って、使ってみたくなるものなんですよね。子どもの使う言葉から、親の会話が推察できるというのは、いつの時代もユーモアの種です。

2007年9月23日

 上田紀行さんとお話した内容から思ったことを、「お寺の未来」コラムに書いてみました。ここのところ、伝統仏教教団に対して書くことが厳しくなっていますが、それも思う気持ちがあるから故のこととしてお許しいただきましょう。
 さて、お彼岸の季節です。明日はお中日ということで、うちのお寺の法要にも大勢の人が訪れます。みなさんは実家のお寺やお墓へお彼岸のお参りに行かれるのでしょうか。「先祖供養をちゃんとしろ」とかいう細木数子さんのコメントに従って行動を左右される方が意外と多いそうですが、それというのも当たり前のことを当たり前に言うお寺の活動が弱ってしまっているからかもしれませんね。

2007年9月24日

 お寺などに行って仏さまを前にすると自然と手が合わさる、ということを言いますね。何かを思い詰めて祈るような気持ちで手を合わせるときもあれば、何気ないときでも親しみを込めた挨拶をするような気持ちで手を合わせたりすることもあるでしょう。

 子どもが手を合わせているのを見かけると、見ているこちらまでなんとも優しい気持ちになりますよね。もちろん大人のまねをして手を合わせるということもあるのでしょうけれども、特に幼い子どもにとっては「どういうときに手を合わせるものなのか」ということは分からないはずです。「○○をお願いします」というふうに、祈る内容も持っていません。それなのに手を合わせるというのはとても不思議なことだし、純粋な心の合掌ですよね。自分も見習いたいものです。

 みちこさんの娘さんの場合も、姿を思い浮かべるとなんとも可愛らしい合掌ですね。そういえば、関西のほうでは「なんまんだぶつ」あるいは「ほとけさま」の幼児語として「まんまんちゃん、あん」という言葉が定着しているようですが、ぼくはお坊さんになるまでこの言葉を知りませんでした。みなさんの地方ではどうでしょうか?

2007年9月25日

 今週の「江戸のお寺 浮世草子」では、成田山が江戸での出開帳のために根回しに奔走する姿が紹介されています。村の許可を得て、領主の許可を得て、幕府の許可を得てと、順序に気をつけて一歩一歩根回しのプロセスを進めていけるかどうか貫首の力量が問われるというのです。
 これは今のお坊さん同士の世界でも同じことで、お寺や教団の中で何かをやろうとしたときに、根回しの運び方をひとつ間違うだけで企画が頓挫することはよくあります。止まってしまうだけならいいのですが、おかしな方向に進んでしまうのを止められなくなったりすることもあって、根回し作業にはとても気を使いますね。しかもお坊さんというのは概してひとこと言いたい人が多いせいか、本来は関係のないポジションにいる人でも「わし、そんなもん何も聞いてへんど〜!」と怒りだす人もいるから大変です。
 会社で働くみなさんも、きっと同じようにこういった根回し作業に悩まされているのでしょうね。

2007年9月26日

 人間というのは弱いもので、「こういうふうに生きよう」とか「こういうふうにあるべきだ」とかいう理想のモデルがあって、それを実現するための目標を作ったりルールを作ったりしてみても、それが必ず達成できるわけではありません。ほとんどの場合は、多かれ少なかれの過ちを犯しながら、それでもなんとかやっていくしかないのだと思います。

 あまり極端に完璧主義になりすぎると、少しでも達成できなかったりした部分の非を責めて、結果的に目標へ向かおうとしてきた姿勢すら放棄してしまうことになりかねません。でも、そうして逆方向に向かってしまっては本末転倒ですよね。あるいは、傍目からみて「さすがにこれほどまでになると、もう見放すしかない」という場合だって同じことで、もちろんやったことにきちんと責任を取っていかなければいけませんが、それでも、やり直してはいけない、ということではないと思います。

 そんなことを、「おじいちゃんへの質問」でおじいちゃんが言う、大事なことは「真剣かどうか」ということ、というメッセージから感じとりました。

2007年9月27日

 昨日、友人と「お寺って、動かないところがひとつの価値だよね」という話をしました。畑や田んぼなど人々が土地に密接に結びついていた昔と違って、今はどんどん人が移動する人口流動化の時代。道州制とかの議論も出てきて、自治体ですら統廃合でどんどん変化していく時代。そんなときだからこそ、ずっとそこを動かずに土地の歴史を見つづけてきたお寺の存在意義っていうのも際立ってくる、そういう話です。
 と、そこに今日のそもさん、せっぱ。「お寺も引っ越すしますよ」という話です。そうなんですよね。著者のケンユウ氏のお寺も昔どこかから引っ越してきたそうですし、今ぼくが所属しているお寺も、ずいぶん昔ですが霞ヶ関から神谷町に引っ越した(命ぜられた)そうです。最近のお寺でも、引っ越すことはあります。
 でも、お寺が引っ越したからといってそれまでの歴史を捨ててしまうわけではなくて、資料とかお墓とかすべて背負って引っ越すので、やはりお寺が引っ越したとしても、自治体の統廃合などとは違う、何か動かないものがあるのだと思います。

2007年9月29日

 お坊さんというのはひとりずつ自分の意見を持っている方が多く、それぞれ参考になって有り難いのですが、ぼくが最近特に尊敬するのは「還る家ともに」の成田さんのように、お寺の現場で実際に何かしらの事業に取り組まれている方です。
 「お寺でデイサービス」というのはコンセプトも良いですし、何かやってみようと思うお寺ならやる気さえあれば始められる試みだと思うのですが、実際にこれを本気でやるとなると、相当な努力と苦労を覚悟する必要があるでしょう。試みを外野で批評するのは簡単ですが、実際にやるのとは経験と結果の上で大きな差が出てきます。行動の根拠を経典に探すヒマもなく、いてもたってもいられなくて動いてしまう身体感覚、大切にしたいものです。
 頭ばっかりでもダメ、身体ばっかりでも限界。調和のとれた仏教徒としていきいき生きたいですね。

2007年9月30日

もうすぐ10月だというのに夏のような暑さの日が続いたと思ったら、急に涼しくなりましたね。昨日今日と所用でお寺を見に長野の山の中まで行ってきたのですが、そちらのほうは東京よりも更に涼しくて、暖房をつけようかというくらい肌寒い気候でした。もう、知らぬ間に少しずつ冬が近づいてきているんですね。
お寺に嫁ぐということ」でお坊さんの衣替えについての話が出ていましたが、どの宗派も本山というのはなんでもかんでも統一スタンダードを全国に押し付けたがるものだから、日本全国、北は北海道から南は沖縄まであるお寺に向かってみんな一斉に衣替えをするように指示しかねないわけです。各宗派によって衣替えの時期は違うのでしょうが、お坊さんも温暖化する地球環境に適応する方法を真剣に考えた方がいいかもしれませんね。

2007年10月 2日

お寺が江戸に出てきて出開帳の催しを開くためには、役人への根回しや心付けが書かせなかった、そんな話が「江戸のお寺 浮世草子」で紹介されています。お寺を守っていくため参拝者からの賽銭集めに必死になっているお坊さんの苦労が偲ばれますが、心付けの世界はいつの時代も変わらないのですね。
時は平成、相も変わらずお坊さんの業界内では、誰かお坊さんが何かしようとすると他のお坊さんから「あいつは裏で何か業者からもらってるんじゃないか」と疑われる時代です。いいことをしようとしている人に対してまず最初に疑いありき、というのもどうかと思いますが、ついそういう気持ちで見たくなるくらい心付けを受け取る側に回りたがるお坊さんが多いということでしょう。
ビジネスの世界ですら社会貢献型の斬新なビジネスモデルで頑張っている会社も出てきているのに、利他の精神で人のために頑張るべきお坊さんの世界に、まだまだ自分の袖の下にばかり興味のある人の多いのは、ほんとうに情けないことです。

2007年10月 3&#