2009年6月14日

ここ数年のことだと思いますが、そのうち「レバレッジ仏教」なんて言葉も出て来そうなくらい、「レバレッジを効かせる」ということが、色々なことについて言われるようになったような気がします。もともとは、自己資本をもとに他人の資本を借りて来て、投資の利益率を高めるということのようですが、最近ではもう少し意味の幅が広がって、「もともと持っているもののカサを増やすことによって、利益を得る」というくらいの意味になっているようです。

なんだか、しっくりこないんですよね。要するに、ひとことで言えば「いかに要領よく立ち回るか」ということなのだと思うのですが、このことにあまりとらわれすぎると、カサを増すこと自体が目的化してきて、増したカサを取り繕うことに追われたり、仏教でいえば「迷い」を深める方向に進んでしまうような気がします。

そういう自分にも、意識せずともレバレッジがかかっていたりすることがあるので、仏教徒としてはむしろ気をつけたいと思います。(松本圭介)

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コメント (5)

Pablo:

私なりに松本さん(すみません。何とお呼びすべきなのかわかりません。先生とか師とかいう言葉も考えましたが使い方を誤ると変な意味になるかと思い「さん」を使わせていただきました)の言われることを考えてみました。
レバレッジを効かせて、カサが大きくなり過ぎると、本体が何なのか分からなくなってしまう。レバレッジを効かせれば、逆風の時代にはマイナスも大きくなるし、何よりも上手くいったときの夢が捨てられない。
でも、その上手くいったことに中身はお金が儲かったということなわけです。もちろん、お金は誰もが欲しいわけで、私も欲しいんですけど、純粋にお金を儲けることが目的化してしまうと社会が壊れてしまうと思うわけです。
お金を借りて、何かを作って、何かの商売をやって儲けようというのはいいと思うんです。何かを作るとか商売をするとかいうのは、何らかの価値を作りだしたり、雇用を生み出したり、商品が行きわたることで人々を幸福にする面があると思うんです。
でも、ただ単にお金を儲けよう(しかも短期的に)となると、人々の幸福を破壊するんじゃないかと思うわけです。
たとえば原油。数か月前にはバレル30ドル台に下がったとかいって大騒ぎ。それが今は70ドル。経済情勢とか需給動向とかを考えると倍近くまで上がる要因はないわけです。ただ、行き場のないお金があって、何とか儲けたいと思っているわけです。
そうすると、何かの価格を短期的に急激に変動させて、レバレッジを効かせて資金を投入するのが効率的なわけです。だけどいうまでもなく原油価格はガソリン価格や灯油価格に影響するんで私のような貧乏人は大迷惑なわけです。
すみません。仏教の話から離れてしまいました。かつて仏教界で「根本分裂」というものがあったそうで、その原因の一つが「金銀銭の御布施」を認めるかどうかだったとか。上田先生の「がんばれ仏教」を中途半端に読んで得た知識なので理解が間違っているかもしれません。ただ、仏教においても金銭というのは大きな要因だったのかなと考えております。
私が残念に思っているのは、仏教とお金の話が巷間面白おかしく語られていることです。坊主丸儲けという古くからある言葉はともかくとして、戒名の値段や葬式にあたっての御布施の額。
マスコミは面白おかしく取り上げます。数日前にテレビ東京でやっていた、500万の御布施を断ったら、葬式を投げだして帰ってしまった坊さんの話。戒名の本来の意味が無視され、値段によって格式が異なる話、祇園で散財する僧侶の話。ごく一部の話なわけでしょうが、仏教やお坊さんが話題になるのは金銭関係のことが多いように思います。
ただ、これからの時代、レバレッジを効かせて短期的な収益を上げたものが賞賛された時代は終わったと思います。レバレッジの負の面を背負わなかればならない時代、心の問題、宗教の役割が重要になってくると思います。仏教が日本人の心の支えにならなければならない時代が近付いていると思います。
乱筆、乱文失礼いたしました。今後の日本における仏教の役割および彼岸寺の皆様方のご活躍に、心より期待させていただいております。

松本:

> Pabloさん
コメントありがとうございます。
そうですね、お金儲けが自己目的化せずに、目的のためにきちんと使われるのであれば、レバレッジもひとつの手段として有効なものと思います。お金を経済の血流のようなもの、エネルギーの移動のようなものとして考えるなら、エネルギーは溜め込むばかりでは何の役にも立ちませんから、正しく使っていくことが大事ですよね。誰かがエネルギーを溜め込んだりエネルギーの流れを混乱させたりして、人が生きるのに最低限必要な分まで行き渡らない人が出てくるようなことになっては困ります。反対に、その流れをよりよい方向に導くことに喜びを見いだすのは全然間違っていないと思います。

巷では仏教とお金の話がおもしろおかしく取り上げられますが、それが巷というものですので、仕方がないことだと私は思います。(もちろん、僧侶という以前に、人間的にどうなのかというような振る舞いをするようなことは論外ですけどね。私も人のことを言えるような者ではないのですけど)

たとえば、宗教的深まりということで言えば、どこかの僧侶がベンツに乗っていようが軽自動車に乗っていようが、その僧侶個人がどれほど宗教的に深い視点を持っているかということには、何の関係もないことですよね。あるとすれば、ベンツ=生臭、軽自動車=清貧、と決めつける視点が、それを見る人にあるだけです。ですから、誤解を恐れずはっきり言えば、坊さんが金持ちだろうが貧乏だろうが、その人の宗教的な深まりにはほんとうは何の関係もないことなんですよね。
しかし、だからといってどんな振る舞いをしていても坊さんは坊さんだから何でもいいんだ、というふうにも思いません。「ベンツ=生臭、軽自動車=清貧」と決めつけるのが俗世というものであり、その俗世のまっただ中で仏法を生き仏法を説くのが坊さんだとすれば、俗世の人が俗世の目で見る視点を意識することはとても重要だと思います。「ベンツに乗っているような坊さんの話は聞きたくない」という人が多いのであれば、ベンツには乗らないほうがいいでしょう。金銭関係の事柄についても、同様です。仏教僧侶はもともとお金を触ってはいけなかったというのも、僧侶がお金に心を惑わされるのを防ぐということもありますが、同時に、お金を触っている僧侶を見て信者があらぬ想像をするのを防ぐということもあったと思います。
ご指摘の通り、心が荒廃した時代は、心を求める時代でもあります。彼岸寺も頑張ってまいります。

どっとこまる:

「レバレッジ・・・・・仏教」?!
「元々持っているもののカサを増やし、要領よく立ち回って利益を得る」という意味で考えてみると、仏教や宗教を利用して金儲けを謀る者がしかけるものをレバレッジ仏教・レバレッジ宗教と呼ぶのかもしれませんね。
先日、食品会社が脱税のために休眠宗教法人を買いホテルを経営、宗教法人を隠れ蓑にして約14億円の所得隠しで脱税、国税局に摘発されたニュースがありました。レバレッジ宗教とも言えそうです。

テレビ東京「ルビコンの決断」で「株式会社・おぼうさんどっとこむ」のPR番組のような、僧侶を商品と呼び価格破壊的に売り込みをしかける社長・[天台宗(単立寺院)を飛び出した僧侶]のドラマが放送されていましたが、あまりにも誇張された内容だったので専門家に聞いたところ、やはり万分の一のものでした。

文化庁管轄の仏教系宗教法人が約78.000程あります。その中で500万円のお布施を吹っ掛ける僧侶や断られたら帰ってしまうような僧侶が何人いるでしょうか。京都府内に仏教系宗教法人が約3070程あり、市内の寺院約1000の中で専業寺院が約1割です。祇園で散財できる僧侶が何人いるでしょうか。檀家さんや信徒さんのお付き合いで渋々同行する場合にもいやな顔はできないでしょう。

「坊主丸儲け」と言われる戒名やお布施のことにしても、業者が宗教法人を買い取り? 宗教法人と癒着して僧侶を養成し、派遣していた派遣僧侶の中に主人公はいたようです。戒名の本来の意味は消され、値段によって格式を異ならし、戒名の値段や葬式の御布施額など、すべて業者の思惑どおりに仕切られ、しかもお布施の6割以上が業者に搾取されていたとのことでした。既存の仏教寺院への反発と葬儀業者へのねじれた反感が仏教の宗教法人活動を株式会社にしてしまい、これからの時代に重要となる宗教の役割や心の問題を商売にしてしまった「逆レバレッジ仏教」と言えるのかもしれません。月参りなどで檀家さんや信徒さんとのお付き合いの深い地方では考えられないことですね。

もっと問題なのは、『千の風』になるのだから、「葬式なんか必要ないお別れ会で十分だ、坊さんは呼ばなくていい、墓なんかいらない海に散骨するか山に撒けば良い、お金がかかることはしたくない」という風潮が蔓延することで、葬儀・墓・先祖・僧侶・寺院 などによって支えられてきた大事なものが、経済至上主義に歪められてしまうことではないでしょうか。

松本:

> どっとこまるさん

「仏教や宗教を利用して金儲けを謀る者がしかけるものをレバレッジ仏教・レバレッジ宗教と呼ぶ」というのは、なるほどですね。教祖や経営者などの中心人物が、宗教を利用してレバレッジを図るというのは、よくある構図です。
日本仏教には(どこの国でもですが)、戒名料が高すぎるとか収益事業が不透明だとか経営的な問題もたくさんありますが、本質的な問題は「宗教性が失われている」ことではないでしょうか。
オウムなどはそのオルタナティブとして機能していたところがあると思いますが、そういう意味では日本仏教がふがいないことがオウムを生んだひとつの原因とも言えると思います。
そのような日本仏教の抱える問題を、業界の経営的な問題だけに限定し、怒りを動機に行動してしまうと、せっかく問題意識を持っても、結局は本当の問題を見失ってしまうでしょう。
経済的な視点から問題に切り込むことも大事ですが、とらわれすぎると大事なものを切り捨ててしまいますね。

Pablo:

どっとこまる様

残念ながら社会におけるお寺さんやお坊さんの地位低下というか役割の低下というのが現実的な問題としてあるように思います。
「月参りなどで檀家さんや信徒さんとのお付き合いの深い地方」が少なくなって、生活の中から仏教が消えていっているせいでしょうか。
『千の風』の話や白洲次郎の遺言「一.戒名はいらぬ、一.葬式はやるな」などという考え方も、何となく世の中に受け入れられているようにみえます。
残念ながら「葬儀・墓・先祖・僧侶・寺院 などによって支えられてきた大事なものが、経済至上主義に歪められてしまう」という現象が広まり、多くの人々が仏教を「自分には関係ないもの」と思ってしまっているのでしょう。宗教がなければ葬式は形式であり、形式にとらわれないという考えが出てくるのでしょう。そして不況の時代、形式にお金をかけようとしない人が増え、お坊さんドットコムのようなスタイルが広まるのかもしれません。
ただ、心の支えとしての宗教が必要とされる時代に入っているというのも現実かなと。そういった中で仏教が日本の歴史の中で果たしてきた役割を再び担うためには何が必要なのかなどとぼんやりと考えている次第です。

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彼岸寺周辺で起こっているさまざまな出来事を、彼岸寺の僧侶たちが輪番としてみなさんにご紹介します。
松本 紹圭(まつもと しょうけい)
神谷町光明寺、衆徒。浄土真宗本願寺派布教使。1979年、北海道生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。光明寺仏教青年会代表として、お寺の音楽会「誰そ彼」や、お寺カフェ「神谷町オープンテラス」を企画し、2008年には財団法人全国青少年教化協議会より第32回正力松太郎賞青年奨励賞受賞。 現在、超宗派仏教徒によるインターネット寺院「彼岸寺」の運営に携わる。著書に『おぼうさん、はじめました。』(ダイヤモンド社/2005年12月刊行)。
松下弓月(まつした ゆづき)
福生山宝善院 副住職。1980年生まれ。国際基督教大学(ICU)教養学部人文科学科卒業(学士)、青山学院大学大学院英米文学専攻卒業(修士)。東寺伝法学院にて加行・濯頂。TwitterFacebook
青江 覚峰(あおえ かくほう)
浄土真宗東本願寺派緑泉寺 副住職。1977年東京生まれ。カリフォルニア州立大学よりMBA取得。超宗派の僧侶達が集うウェブサイト「彼岸寺」を運営。料理僧として料理、食育に取り組む。お寺発のブラインドレストラン「暗闇ごはん」を主催。