2009年7月 4日

じっくり考えて練り上げなければならないテーマがあって、いよいよそれに取りかかろうと思うのですが、なかなか進みません。この「モノを考える」プロセスというのは、分かっているようで分からないもので、よく"考え"てみると、ふだん何かを考えるときにどのようにして考えているかというのは、自分でも意外と知らないものです。

「リンゴの皮をむく」なら、リンゴを持って来て、包丁と、むいた皮を置く紙などを用意すれば、準備は整います。そうして、右手に包丁を握って左手でリンゴをくるくると回しながらむけば、一丁あがりです。しかし、「モノを考える」はどうでしょう。下ごしらえに、何が必要か。材料と道具がそろったら、どのように仕事を進めるか。人によってやり方はさまざまです。

考えに行き詰まったときは、同じやり方を続けても考えは先に進まないでしょう。そんなときは、道具を変えたり、思考のやり方を見直したりして、自分の中に新しい視点が生まれる突破口を見いだすことが必要になってきます。

人間はふつう、考えを変えることが苦手です。たとえ、抱く考えを変えることができても、モノの考え方そのものを変えていくことは、なかなか難しいものです。その点、仏教は学ぶ私たちに日常の考え方そのものを問い直す作業を要求してきます。それは大変な作業ですが、ぼくにとっては自分の固定観念を打ち破り新しいアイディアを生み出す訓練にも役立っていると思います。(松本圭介)

2009年7月 3日

昔から「北海道には梅雨がない」と言われていたのに、最近は何だか梅雨っぽい天気が続いています。そういえば真夏の日中には東京並みに暑くなりますし、冬の積雪は減る一方です。これも地球温暖化の影響でしょうか。

さて、「お坊さんインタビュー集|坊主めくり―現代名僧図鑑」のコーナーにはいろいろなお坊さんが登場しますが、皆さんユニークな活動をされています。一言で「お坊さん」といっても、人によっていろいろな活動の仕方があるのですね。

前から思っていたのですが、「住職」という立場は、「何かに打ち込みたい」という人にとって、なかなか居心地のいい場所なのではないでしょうか。職業としての住職さんは、いろいろな制約はあれども、一般的に自分で時間の都合をつけやすい仕事です。何か打ち込みたいことがあれば、少なくとも会社員が2足のわらじを履くよりは、ずいぶん自由にできます。特に、スペース的に広いですので、絵を描きたい人や何かを製作したい人には、お寺は便利です。

打ち込むものが必ずしも仏教ではなくても、「道を極める」という経験は必ずその人の人生観・仏教観を深めてくれますので、そういうお坊さんのあり方というのもいいのではないかと思います。(松本圭介)

2009年7月 1日

少し風邪気味だったので、大事をとって丸一日、安静にしていました。寝ながら読んでいた本は、『犀の角たち(佐々木 閑)』です。この本は科学と仏教の関わりについて論じられたものですが、よくある「科学と仏教はこんなに似ているところがたくさんありますよ」という種類の議論ではなく、両者の成り立ちと論理的視点をひもとく作業から、より正確に関係性を論じようというもので、とても面白かったです。

ぼくはお坊さんになってから、これまでいろいろな研修にも参加してきましたが、いつも感じていたのは、科学(あるいは論理)に関して学ぶ機会が少ないということです。分かりやすい例としては、「浄土」について考えようといっても、それを考えるベースとなる論理についてしっかり押さえておかないと、「ある」とか「ない」とかの話になってしまい、それの意味する大事なところが何も理解できなくなってしまいます。お坊さんは、「自分はどういう論理でものを考えているのか」に敏感である必要があるのです。

この問題は仏教に限らないでしょう。日本の学校教育はゆとりから詰め込みへと逆戻りしつつあるようですが、詰め込むばかりでなく「よく、たくさん考える」ための授業も増やしてほしいですね。自分がどれほど曖昧な「常識」を無条件に前提してしまっているのかを問うことは、まともな民主主義を育てるためにも必要なことだと思います。(松本圭介)

2009年6月29日

先週、『「こころの静寂」を手に入れる37の方法』という本を出させていただきました。「方法」というのは少し大げさですが、自分なりに仏教に縁をいただくようになってから学んだことを、いかに実生活に活かすかという視点で、お坊さんというよりはひとりの仏教徒として、法話エッセイ的に書いたものです。

さて、ここ彼岸寺の読者の方々は、多かれ少なかれ仏教と縁のある方が多いと思いますが、皆さんにとって仏教とはどのようなものでしょうか。ぼくの場合はもともと、なんとなくその世界観に興味があったこと、知識として面白かったこと、実生活において「なるほど」と思えることがたくさんあったことが、最初の関わりでした。「まず自分」があって、その上で、面白いところ、役に立ちそうなところを取捨選択して取り入れるという程度の軽さです。

しかし、数年関わっていくうちに、だんだんその教えがしみ込んできて、今では「まず自分」ではなく「まず仏教」というか、行動や価値判断の基礎となってきました。それは、仏教に自分の心身を合わせたというよりは、自分の心身と取り巻く世界を紐解いていった先に、仏教が言っていることと同じ事実を見いだすようになってきた、ということのように思います。しかし、どこまで行ってもまだまだまだ先があります。年齢によっても、仏教との距離感は変わっていくのでしょう。仏教のとんでもない奥の深さに、いつも驚かされています。(松本圭介)

2009年6月28日

 今回の坊主めくりではお坊さん+イラストレーターの中川龍学さんが紹介されております。

 中川さんは僧侶として、イラストレーターとして広く活躍されている方で、以前築地本願寺で行われた築地本願寺花まつり落語会でもイラストを描かれていらっしゃいました。

 お坊さんでありながら他の仕事を持つと言うことに違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、実は昔からあることでそんなに珍しいことではありません。僕が自分のことを「料理僧」と呼ぶルーツとなっている方にも「句仏上人」という方がいらっしゃいますが、この方は「句を以って仏徳を讃嘆す」ということから俳号を句仏とつけた方です。

 仏教を伝えるのに様々な方法からのアプローチをするという考えはこの彼岸寺を続けるに当たっても期間となる考えの一つです。(青江覚峰)

2009年6月25日

 松本がお寺の未来を更新した。今回のテーマは「成功」について。
 僕もビジネススクールで学んでいたときに、「どのくらいのスパンでどのくらいの利益をあげられるかが世界共通の言語だ」という認識の上で様々なスキルを学んだ。これが社会の中でどう評価されるのかという議論はひとまず置いておいて、非常に明確だからこそ世界共通の言語と言い切ることができるのだと思う。
しかし僧侶として生きることを決心したときに僧侶の共通の言語が何かと言えばこれは難しい。

 彼岸寺で取り上げたことがある僧侶を見ても一人でも、悩みを抱える人の相談に乗るお坊さん。自死という問題に取り組むお坊さん。お寺を開放し、社会の中で有用に使ってもらおうとするおぼうさんなど、様々な取り組みが行われている。そのうちどれが最も優れているかということを言わないのは、各々がしっかりと目的意識を持ち、誇りを持って活動をしているからに他ならない。(青江覚峰)

2009年6月23日

 この7月に行われる彼岸寺と超流派の能楽師たちのコラボレーション・朝ZEROのブログが始まっております。

 能の舞台では、シテという主人公に対してワキという役割の人が質問を投げる形で話が進んでゆきます。ワキは僧侶役が演じることが多く、このブログでは僕が投げかけた質問を能楽師が答えてゆくというスタンスをとっております。能楽師の意外な一面を見ることもできるかもしれないと思い、様々な質問を投げかけております。(青江覚峰)

2009年6月22日

 彼岸寺のナビゲータ・松本圭介が新刊をだした。「こころの静寂」を手に入れる37の方法(すばる舎)が送られてきたので早速読んでみた。

 カテゴリーとしてはいわゆるハウツー本だが、おもしろいのは何一つ新しいことが書かれているわけではないことだろう。人間が過去歴史の中で学んできた「当たり前」の物事を紹介している本に過ぎない。しかし、本の初頭で書かれているとおり、僕たちがの生きている現代は本当に多くの情報という雑音に囲まれており、当たり前のことがいつしか見えない雑踏の中に紛れ込んでいる。だからこそいったん立ち止まり、自分の立ち位置を確認する必要がある。

 その視点で見ると何ともおもしろい。当たり前のことが自分の中からいかに抜け落ちているかに気づかされる。(青江覚峰)

2009年6月21日

少し前から彼岸寺のトップページの右下に実験的にTwitterのウィジェットを表示したのですが、このところうまく更新されておりませんでした。

今日調べてみたところ、RSSを経由していたサービスがうまく動いていなかったようで、新たにfriendfeedというサービスを経由するように変更したところちゃんと動くようになりました。これでTwitterまたはfriendfeedで彼岸寺を登録していただけば、最新情報がいつでもお手元に届きます。

Twitterと言えば、大統領選を巡って激しい混乱に陥っているイランの状況が、今も多くの人のつぶやきによって伝えられています(Twitter seachでリアルタイムに更新されています)。警官隊がデモ隊に衝突する様子を伝えるもの、催涙ガスを受けたときの対処法を伝えるもの、子どもたちの自由のために命を賭けると悲壮な決意を語るもの。遠くイランのどこかで語られた言葉が、この日本にも伝わってきます。

イランの人々の声を目にして、私にはなにができるでしょうか。少しでも早くイランに平和が戻るように祈りを捧げたいと思います。

2009年6月18日

最近、朝少し早起きして出勤前にほんの少し学びの時間を持つことが流行っているようですね。仕事が押しがちな夜と違い都合のつけやすい上に、オフピーク通勤で一日をゆとりをもってを始められることが人気の秘訣のようです。

彼岸寺でも、誰もが知っていながらよくわからない「能」を学ぶイベント「朝ZERO」を、超流派の能楽師の皆さんと協力して開始させていただくこととなりました。「学ぶ」とは、「まねび(真似ること)」が語源と言われていますが、朝イチよりも早い朝ゼロの時間に小謡(こうたい)と呼ばれる能のもっとも代表的な部分をただ無心にまねぶのが朝ZEROです。

早起きは誰にとっても辛いもの(私は僧侶ながら夜型人間なので、朝にはとても弱いです)。わざわざ早起きして学ぶなら楽しくためになることをしたいものですね。

さっそく多数のお申し込みを頂いておりますので、ご興味のある方はお早めにお申し込みください!

2009年6月17日

島田裕巳さんの「平成宗教20年史」を読んでいます。

昭和55年生まれの私は平成元年にはまだ9歳でしたので、当時のことは朧げにしか覚えていませんが、平成初期はオウム真理教が選挙に出馬したり朝まで生テレビで幸福の科学と激論を繰り広げるなど、今では想像もつかないほどの宗教的熱気に日本中が包まれていた時代であったようです。

つい先日幸福の科学が政治に進出するとして幸福実現党の結党が発表されましたが、わずか十数年の間にも歴史がふたたび巡ってきたかのような気持ちになりました。

こうした新興宗教による政治進出を目の当たりにすると挙がる政教分離違反ではないかという声には先日松本が答えていましたが、信仰が異なれば目指す社会の形が異なって当たり前です。

日本も現在は政教分離を謳う憲法を持っていますが、国民の合意が異なる社会のあり方を選択することもありることです。

政治家が自らの信仰を公にすることの少ない日本ですが間近に迫っているとも伝えられる総選挙では、信仰に基づいて社会のあり方を選択することも大切なことと言えるのではないでしょうか。

2009年6月14日

ここ数年のことだと思いますが、そのうち「レバレッジ仏教」なんて言葉も出て来そうなくらい、「レバレッジを効かせる」ということが、色々なことについて言われるようになったような気がします。もともとは、自己資本をもとに他人の資本を借りて来て、投資の利益率を高めるということのようですが、最近ではもう少し意味の幅が広がって、「もともと持っているもののカサを増やすことによって、利益を得る」というくらいの意味になっているようです。

なんだか、しっくりこないんですよね。要するに、ひとことで言えば「いかに要領よく立ち回るか」ということなのだと思うのですが、このことにあまりとらわれすぎると、カサを増すこと自体が目的化してきて、増したカサを取り繕うことに追われたり、仏教でいえば「迷い」を深める方向に進んでしまうような気がします。

そういう自分にも、意識せずともレバレッジがかかっていたりすることがあるので、仏教徒としてはむしろ気をつけたいと思います。(松本圭介)

2009年6月13日

数年ぶりに大学時代の友人に会いました。今はコンサルティングの会社で働いている友人ですが、昔からの利他の精神を失わずに相変わらず頑張っていて、とても心強く思いました。よい刺激をもらえる友人はかけがえのないものです。

思えば仏教でも三宝といって、「仏・法・僧」を大切にします。仏そのもの、仏の説いた仏法、そして仏の道を歩む僧団、この三つに帰依することが仏教徒に共通の基礎となります。三つ目の「僧に帰依する」というのは、「僧侶ではなく」というより「同じく仏道を歩むよき仲間を大切にしましょう」という意味だそうです。道を歩むにあたり、良き師、良き友、良き後輩に恵まれることがどれほど貴重なことかを示していると思います。今までの自分の人生を振り返ってみても、仏教に関することに限らず、すべてにおいてそのことは当てはまります。

良き仲間との縁は何よりも大切にしていきたいという思いを、あらためて強くしました。(松本圭介)

2009年6月12日

国会議員の世襲制限が問題となっています。世襲といえば、今では日本仏教界でも多くの寺院が世襲によって後を継ぐ者が決まっていきます。私は、単純に「世襲はいけない」ではなくて、世襲の何がいけないのかしっかり議論しなくてはいけないと思います。

麻生首相は「間違いなく親の背中を見て子供は育つ。親の背中を見て『ああなりたい』と思われたおやじはいいおやじだ。おれはそう思って育ってます」と言いましたが、それはある意味ではその通りですね。息子に親父のようになりたいと思われるような仕事をするのは、大事なことです。そして、そう思った息子が「国会議員の息子だから」という理由だけで、その道を絶たれるのはおかしなことです。

しかし問題は、「親父みたいになりたい」といって、親父の作った地盤をそのまま引き継いで国会議員になることです。それは確かに、親父と同じ国会議員の立場かも知れませんが、何もないところから這い上がって来た親父とは、ぜんぜん違います。そのへんから来る甘さが、今の世襲議員の資質に表れているのではないかと思います。といっても、国会議員はそれを選ぶ有権者にも責任がありますが、お寺の場合はそうではなく、ほとんど親父の一存ですべてが決まってしまいます。たとえ有権者(檀家さん)が望まなくても、たいてい息子(ときどき娘)が跡を継ぎます。「世襲だから」いけないのではなくて、生まれによって無条件に息子が親父の地盤をそっくりそのまま引き継ぐ権利を得てしまうことに、問題がありそうです。(松本圭介)

2009年6月11日

このところ、少し体力が落ちてきているように感じるので、もっと運動しなければと思っています。田舎暮らしでは外へ出るにもたいてい車なので、散歩などを意識的にしなければ一日のうちに歩く距離もかなり限られてしまいます。昔の人はどんな長距離も徒歩で移動したので、身体が強かったでしょうね。ぼくも毎日、日によってはベビーカーを押しながら散歩をします。楽しみな時間です。

ところで、いざ歩くとなれば、やはり田舎は自然がいっぱいで気持ちがいいですね。考え事をするにも、都会のようにごちゃごちゃと気を逸らせるものが少なくて、集中できます。都会には人工物が多すぎるというか、「記号」が多すぎるのでしょう。余計な刺激が少ないほうが、いろんなことに気づきやすいということが、最近分かってきました。お坊さんの修行道場がたいてい山の中にあるというのも、納得です。(松本圭介)

2009年6月 9日

衆院選が迫っています。解散せずとも秋には衆院は任期満了ですので、今度こそ間違いなく選挙です。ところで最近、幸福の科学が支持母体となった幸福実現党が結成されたそうです。全小選挙区で候補者を擁立するそうで、大変な力の入れようです。宗教団体が政党を立てて国政に進出しようとすることは、たとえば公明党は創価学会が支持母体となっていますし、今に始まったことではありません。

「政教分離のはずなのに、どうして?」と疑問に思う方は、政教分離原則について少し調べてみてください。ポイントは「信教の自由」であって、宗教者が政治に関わることを禁止しているわけではないのです。とはいえ、もちろん特定の宗教団体に利益を誘導することは憲法違反ですので、そのあたりは国民が厳しくチェックしていかなくてはならないでしょう。

政治と宗教は、実は非常に近いところがあります。それは、「人を幸せにすることを目指す」ということです。よくよく考えておかなければ、両者の境目が分からなくなってしまうこともあり得るでしょう。個人的には、「社会の仕組みを変えることで、人を幸せにするのが政治」「個々人のモノの見方を変えることで、人を幸せにするのが宗教」と考えてみると、分かりやすいような気がします。どちらも大切な事柄ですので、それぞれの仕事において誰が適任なのか、私たちひとりひとりが自分の頭でしっかり考えて判断していかなければいけませんね。情報があふれる今のような時代だからこそ、「大切な事は自分の頭で考えなさい」というブッダのスタンスが、輝きを増してくると思います。(松本圭介)

2009年6月 8日

佐々井秀嶺師の東京講演(彼岸寺主催ー6月7日@護国寺さんにて)が非常に盛り上がったようですね。わたくし松本は、北海道から馳せ参じること叶わず、非常に残念な思いをしております。肉声でお話を伺いたかったです!

ところで、佐々井師はアンベード・カル博士の意志を継ぐ方としてインドでアウトカースト解放運動を展開されておられるのですが、アンベード・カル博士の独特な仏教観は以前より諸宗派の僧侶からさまざまな議論の対象となってきました。「それは仏教的に、どうなのか」というのは、お坊さんが集まれば必ず話題となることです。

この「仏教的にどうか」というのは確かに大事な視点なのですが、もうひとつ忘れてはならないと思うのは、 仏教だろうとなかろうと、人のために善いことをしようと頑張るのは、尊いことだということです。お年寄りに電車の席を譲るのに、仏教的に善か悪か確かめてからでなければできないという理屈はないはずです。

一人の男として、佐々井師の行動力・実践力を見習いたいと思います。(松本圭介)

2009年6月 7日

 本日無事に佐々井秀嶺師最終講演会を行うことができました。250人のご参加を予定していた護国寺の本堂には600人ほどの方が押し寄せ、まさに満堂の熱気に包まれながら佐々井師の力強く、厳しく、優しいお話を聞かせていただくことができました。

 考えてみると彼岸寺では仏教の持つ様々な側面をあの手この手で紹介をしておりますが、やはり佐々井師のように民衆の中、第一線で活動している方の声に勝る者はないとしみじみと感じさせられました。

 講演会の様子は近々アップいたしますので参加できなかった方も是非ご覧ください。(青江覚峰)

2009年6月 5日

 退蔵院の副住職、松山大耕さんの記事があがりました。

 「お坊さんって何をする人なんだろう?」という質問はよく自問自答するのですが、その問いに対して松山さんはこれ以上なく明確に答えています。

私が思うに、お坊さんだけじゃなくて「先生」と呼ばれる立場の人は、結局は安心を与えることが仕事やと思うんですね。病気を治すのは本人ですけど、安心を与えてその手助けをするのがお医者さんですし、我々もそれが仕事やと思います。

 僕も子供を持つ身となってから安心を与えるというのはどういうことかと考えさせられます。オトナの目線で考えれば普段安心でないところに身を置いているからこそ求める安全地帯が安心というものになりますが、子供にとっては安心を特に感じることがないほど守られていることが本当の安心なんだと思います。(青江覚峰)

2009年6月 2日

 同じ料理をするものとして僕がいつも心待ちにしている「禅僧の台所」が更新されました。今回は「そら豆の寒天寄せ」ということですが、文章よりもまず写真を見てください。うっとりするような美しさですね。日本の料理は春夏秋冬に合わせて夏は涼しげに寒天などで透明感を出したり、冬は素焼きの器を使い暖かみを出したりと、いろいろな感覚に訴えかけることに本当に心を打たれます。

 また、「特に、サヤの内側のヌルヌルした部分は絶品です!!」とあるところが何とも心憎いです。普段捨てるようなところに焦点を当てるのは「もったいない」という精神かもしれませんが、そこを「絶品」のレベルまで押し上げていくところに食材に対しての底なしの慈しみを感じます。

 ちょうど今が旬のそら豆。僕も近いうちにチャレンジしてみます。皆さんも足しに作ってみたという方は是非感想などをお寄せください。(青江覚峰)

彼岸寺周辺で起こっているさまざまな出来事を、彼岸寺の僧侶たちが輪番としてみなさんにご紹介します。
松本 紹圭(まつもと しょうけい)
神谷町光明寺、衆徒。浄土真宗本願寺派布教使。1979年、北海道生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。光明寺仏教青年会代表として、お寺の音楽会「誰そ彼」や、お寺カフェ「神谷町オープンテラス」を企画し、2008年には財団法人全国青少年教化協議会より第32回正力松太郎賞青年奨励賞受賞。 現在、超宗派仏教徒によるインターネット寺院「彼岸寺」の運営に携わる。著書に『おぼうさん、はじめました。』(ダイヤモンド社/2005年12月刊行)。
松下弓月(まつした ゆづき)
福生山宝善院 副住職。1980年生まれ。国際基督教大学(ICU)教養学部人文科学科卒業(学士)、青山学院大学大学院英米文学専攻卒業(修士)。東寺伝法学院にて加行・濯頂。
青江 覚峰(あおえ かくほう)
浄土真宗東本願寺派緑泉寺 副住職。1977年東京生まれ。カリフォルニア州立大学よりMBA取得。超宗派の僧侶達が集うウェブサイト「彼岸寺」を運営。料理僧として料理、食育に取り組む。お寺発のブラインドレストラン「暗闇ごはん」を主催。