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   <title>お寺の未来</title>
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   <updated>2008-04-20T16:47:21Z</updated>
   <subtitle>お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか？情報化とグローバリゼーションが加速度をつけて進んでいくこんな時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。「お寺の未来」について、彼岸寺住職の松本が連載していきます。
松本圭介僧侶 法名・釈紹圭（しょうけい）。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』（ダイヤモンド社／2005年12月刊行）</subtitle>
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   <title>建物と人間の営みの調和</title>
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   <published>2008-04-20T16:36:33Z</published>
   <updated>2008-04-20T16:47:21Z</updated>
   
   <summary>結婚して部屋が手狭になったので、ここのところ時間があるときに物件探しをしています...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      結婚して部屋が手狭になったので、ここのところ時間があるときに物件探しをしています。

東京には数万単位で数え切れないほどの物件があり、物件情報を見ながら「もしここに住んだらどんな暮らしが待っているのだろう」と想像を膨らませるだけで、そう飽きることはありません。

中でも特に面白いのは、築年数のかなり経っている古めの物件。

最近の新築物件では良くも悪くも考えられないような変わった条件のものが安い家賃で見つかると、「どうだ、この条件を呑めるか？」と貸し主さんに勝負を挑まれているような気がして、借りる側としても「よし、その間取りなら、こういう使い方で対抗してやる」なんていう闘志を燃やしてしまうのです。
      
実際、現在住んでいるこの物件も、都心でしかも窓の外には大きな川が広がっているという好立地にもかかわらず破格の賃料で募集が出ていたのを、私がさらに交渉して値切ったもので、ずいぶんお得な条件で住まわせてもらっています（大家さん、ありがとうございます）。

私が入居するまでにこの物件を内見しに来た人も何人かいたそうですが、誰も契約までは至らなかったわけです。理由はおそらく「おかしな間取り」。チラシには「リバービュー」と書いてあるのに、間取り図を見るとなぜかバルコニーに面した窓を覆い隠すように収納スペースが陣取っています。

「？？？」と思いつつ、まずは物件を内見させてもらうと、なるほど、洋間であるにもかかわらず段差のある縁側のようなかたちで足元収納スペースが設置されていました。バルコニーに出るには必ずこの縁側を踏み越えなければなりません。

その他にも、潜水艦を彷彿とさせるドーム型の天井や使い古された作り付けのソファーベッドなど随所にオーナーの強烈なこだわりが感じられ、おそらく過去の内見者たちはそのこだわりに打ち勝つことができなかったに違いありません。


さすがに私も迷いました。ふつうに考えれば条件から見て破格の家賃だけど、もし住み始めてからこの間取りを克服できなければ取り返しのつかないことになるかも、、、案内してくれた不動産やさんを前にして逡巡の袋小路に入りかけたとき、私はひとつの賭けに出ることにしました。

「もし、家賃があと一万円安ければ、即決します」

そう言うと、意外にも不動産やさんはすぐに大家さんに連絡をとりはじめました。きっと、物件情報を見て条件がいいからと内見を申し込んで来た人をこれまで何人も現地案内したのに、実際の物件を見ると皆ためらってちっとも入居者が決まらないので、不動産やさんも大家さんもいい加減に何とかしたいところだったのでしょう。賭けは成功、住んでみるとそれなりに使いこなせる部屋で、今ではとても気に入って暮らしています。


最近では不動産やさんに行かなくてもインターネットで物件情報を検索できるようになってきましたが、それでもやはり最後は足で歩いて物件を見に行かなければ、その物件の実際の状態は分かりません。とくに物件情報に載っている数字だけでは判断できないのが、部屋と建物の管理状況。

築年数がいくら浅くても建物の作りがいい加減で管理が行き届いていなければ、共用部分が荒れて建物に痛みが出てきます。何より、管理が行き届いていない感じが住人にも伝わって、住人のコミュニティ全体が荒れてきます。

逆にどれほど古い物件でも、建物自体の作りと管理体制がしっかりしていれば、住人もきちんとした人が入ってきて建物の痛みも少なくなり、古さの中にも清潔感の感じられるレトロ物件という趣きが出てきます。


そういえば京都の古いお寺などに行くと、建物自体はとても古い（築数百年もざらだから、古いどころではない）のに、とても清潔感が感じられますね。

廊下や欄間など隅々まできれいに磨き上げられ限りなく無駄を省いて整理整頓された室内には、人間の俗っぽい営みを感じさせるものは何一つないのですが、しんと静まり返ったその様子の中にかえってそれをそれとして成り立たせている人たちの努力が感じられ、その温かみにホッとさせられるような気がします。

お寺を見るとき、ただ建物の歴史性というだけではなくて、建物とそれを取り巻く人間の営み全体が美しく調和していることに、人は感動させられるのかもしれません。


そういうものに惹かれる私は、お寺も自宅もきれいに整えようといつも心がけているのですが、ただ合理的に整理整頓するだけでは、なかなかよい具合にはなりませんね。

暮らしのあり方そのものにまで踏み込まなければ、営み全体の調和が美しく輝いてこないのでしょう。
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   <title>お寺で仏とコミュニケーション</title>
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   <published>2008-02-11T04:55:37Z</published>
   <updated>2008-02-11T05:14:07Z</updated>
   
   <summary>最近、自分の信仰について語り合ったことがありますか？ と聞かれたら、恐らく多くの...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
   
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      最近、自分の信仰について語り合ったことがありますか？
と聞かれたら、恐らく多くの人が「ありません」と、
そして
「最近どころかそんなことこれまで一度もありませんよ」と
答えるのではないだろうか。

かくいう自分も、
５年ほど前に仏教界を志してから２〜３年の間、
僧侶になるための得度研修や住職課程などで
仲間たちと仏教について寺院について僧侶について、
そして何よりも社会生活の中での自分自身の信仰について
いろいろと語り合った時期が懐かしく思い出されるほど、
ここ最近はそういう話をしていないことに気付く。

研修の場に出て来る人などは
自分がこれから僧侶として社会の中でやっていく上で
自分自身の信仰について真剣に向き合わなければ
ならないだろう（さすがにまずいだろう）
という意識があるだけまだ良いが、
おそらく日本の全僧侶の何パーセントかは
そのような種類のことにまったく意識を持つことなく
世襲の流れの中だけでお坊さんをやっておられる方々も
おられるのではないだろうか。


ある程度の歳をとってから縁あって得度したという
年配のお坊さんから聞いた話だが、
自分が得度したばかりの頃に
代々住職を勤めておられる家系のお坊さんに、
「あなたはどのような信仰をもって
　僧侶をやっておられるのか」
と質問したところ、
「私にとって自分が僧侶であるということは、
　家族も檀家さんも納得している流れのことであり、
　まったく違和感がない」
という答えが返ってきて、愕然としたという。

おそらく質問を受けたお坊さんにしてみれば、
心構えもなにも、現状のようにやっているだけで
何も不都合はないのだからこれでいいじゃないか、
ということだったんだと思う。
確かに僧侶としてまったく違和感なく雲の流れのように
この世の中を軽々と自然に過ごしていけたら
素晴らしいことではあるのだが。

とにかく、お坊さんという職業に就いて
ある程度ふつうにやれるようになってくると、
だんだん自分の信仰について真剣に語り合う場が
少なくなってくるということは確かだ。


      これは何も、皆の前で法話をする布教系の僧侶が偉くて、
専らお経ばかりを読む法要系の僧侶が劣っているなどと
言いたいわけではない。

どこかで聞いたような法話を
慣れきった調子で語る人もいるだろうし、
自分の信仰を法話に盛り込み熱をもって語る人もいる。
お経をただ法事のためだけに読む人もいるだろうし、
お経の言葉をかみしめて自分の信仰に結びつけながら
味わって読む人もいるだろう。

しかしいずれにしても多くの法要や説法の形式は
僧侶から聴衆へ一方的に向けられており、
ほとんど参加者同士の対話の余地はない。

お寺へお参りしてみれば感じられることだが、
多くの法要では内容に関する説明もなく
意味の分からないお経を長時間聞かされ、
その後の法話も僧侶から一方的に話をするだけで
質疑応答や茶話の時間を設けられていることは少ない。

それに加えて、特に都市部では
檀家同士の付き合いも希薄化しているから、
お参りしている人同士のコミュニケーションもなされない。

いや、何も
「私の信仰の核となる体験はかくかくしかじかでした」
なんて込み入った話を望むわけではないが、
せっかくのお寺の大きな法要のときには
「お宅も初盆ですか、
　うちもこの春に息子を亡くしましてね」というように、
お寺という信仰の場を通じて
お互いの体験や考えをシェアすることが
在家の仏教徒にとってとても重要なことだと思う。


そもそも「仏事」「法事」とは読んで字の如く、
事を通じて我が身の生き方を
仏法に照らし見るための機縁ではなかったか。
それが単なる形式的な儀式として
意味内容を失い形骸化してしまったら、
それはもはや宗教を失った伝統芸能に過ぎない。
伝統芸能にも申し訳ないので、
単に「伝統」とだけ呼んだほうがいいかもしれない。

伝統仏教教団の求心力が低下していると
いうことが言われ始めてすでに久しく、
各宗教団ではそれを取り戻すために
どうすればいいのかと高僧が集まっての議論が盛んだが、
だいたい答えは最初から決まっているようなものだと思う。

簡単な話で、
「信仰の現場である末寺が宗教性を取り戻せば良い」のだ。

いくら教団本山の高僧方が限りある知恵を絞って
今様の新規事業などを考案しようと試みたところで、
僧侶という井の中の生き物の宿命、
計画性もなく大局も見ることができず終いには
自らの私利私欲のために役立つ事業にだけ熱を上げるという
始末になるのは目に見えているのだから、
末寺から大金を集めて何かをしようなどと
初めから考えていただかないほうが
誰のためにもありがたいことではあるのだが、
もし集まってしまったお金の使い道に
困るようなことがあるときは、
ぜひ人材育成に力を入れてもらいたいと思う。

一般企業でも人材ほど大切なものはないと
言われるのだから、宗教ならなおさらのことである。
人を育てることを放置しておいて、システムが
なんとかしてくれるなんていうことがあるはずはない。


少し話がそれてしまったが、要するに言いたいのは、
在家仏教における信仰は日々の生活と不可分であり、
その信仰を高めていくには宗教性のある人間同士の
コミュニケーションが必要で、それを活性化させることが
教団の求心力を取り戻すためにも不可欠である、
ということである。

特に日本の諸仏教の中でも在家の色彩の強い浄土真宗には、
昔から信者同士のコミュニケーションを活性化させる
仕掛けがセットされてきた。

たとえば、蓮如上人の御一代記の中に
「物をいへいへと仰せられ候ふ。
　物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。
　信・不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。
　物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。
　ただ物を申せと仰せられ候ふ」
という言葉が出てくる。

何でもいいからモノを言ってみろ、
信じている人も信じていない人もただモノを言ってみろ。

どんなことでも語り合えば相手と心が通じるし、
自分に誤ったところがあれば正してもらうこともできる。

僧侶も信者も関係なく
どんなことでも腹を割って語り合うコミュニケーションが、
在家仏教の信仰をより良い方向に高めて行くために
最も重要なことであると、蓮如上人は見抜いていたのだろう。

実際、僧侶だけでなく信者同士で話をしたほうが、
人生経験として喜びや苦労など共感できることも多いし、
得るものも大きい。
そこに、他の人よりも多少は仏教の知識が多い
案内人としての僧侶が加わることで、
在家仏教的信仰に包まれた安心感のある日々の生活が
信者にもたらされたのではないだろうか。


このような信仰確認の集まりを浄土真宗では
「談合」と呼んで蓮如上人の頃から大切にしてきた。

談合とは、
何も密室で悪いことをこっそり話し合うことではなくて、
もともとは信仰について語り合う場だったのだ。
昔からお寺では、法要があり法話があり、
という流れは変わらないが、
「仏法は讃嘆・談合にきはまる」というくらい重視された
談合は、法話の内容について皆で話合いをする座であった。

これにより今から五百年以上も昔に在家仏教教団の信仰を
一気に広めた蓮如上人の先見の明には恐れ入るが、
その伝統を少しずつ腐らせてきたのが
その後の浄土真宗かもしれない。

今ではほとんどのお寺で
法話の後の寄り合い座談会など見られないし、
あったとしても茶話会程度のものである。

逆にこの手法を上手に取り入れてきたのが
仏教系の新宗教教団だ。
座談会・法座・接心など教団によって表現はさまざまだが、
それぞれ何かしらのかたちで信者同士あるいは
僧侶と信者による深い宗教的対話がセットされており、
この手法も一因となって
教線を大きく拡大してきた経緯が見て取れる。

時には
「知らないうちに大勢の信者が集まっている
　会合へ連れていかれ、改宗を迫られた」
とか危険な話も聞くが、座談会という形式そのものに
罪があるわけではないだろう。
人間として多少なりとも宗教性を分かち合うような場を
持つことは、経験として大事なことだと思う。


ところで、ここ彼岸寺ではいろいろなお寺と協力して
さまざまなイベントの企画がなされており、
一見仏教とは関係のなさそうなものもあったりして、
人によっては仏教の布教をおろそかにしてイベントめいた
ことばかりやってけしからんと見る向きもあるが、
実際のところ私たちはイベントを開催することそのものには
あまり興味を持っていない。

ただ「お寺という場をどのように
仏教が生きる場として再生できるか」という一点を意識し、
さまざまな試みを行っているに過ぎないのだ。

今、私が実現してみたいと思うのは、
お寺のコミュニケーションの機能を可能な限り高めること。
しかし、単にコミュニケーションを提供するだけでは、
電話やメールといった通常のコミュニケーション・ツールと
変わらない。

ではお寺に何があるかといえば、
お寺には、お堂があり、仏さまがいる。
ツールを介してではなく
大勢の人が集まれる現実の場を提供し、
そして人間同士のコミュニケーションを
仏さまに見守ってもらい、ときには参加してもらう。
こんなお寺が作れれば、何よりも楽しい。


今こそ伝統仏教が改めて蓮如上人に学ぶべき時が来ている。
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   <title>僧侶の代わりに僧侶のような格好をして</title>
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   <published>2007-12-10T05:16:10Z</published>
   <updated>2007-12-10T05:24:11Z</updated>
   
   <summary>大学卒業後、新卒でお坊さんになってから今年で５年目になる。一般企業であればそろそ...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
   
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      大学卒業後、新卒でお坊さんになってから今年で５年目になる。一般企業であればそろそろ主任とか係長とか何かしらの小さな肩書きがついて、若手のリーダーとして仕事にも脂が乗ってくる頃だろうか。自分の場合は２〜３年前に住職から「執事」という肩書きをもらい、光明寺の僧侶として、また浄土真宗本願寺派の僧侶として、今ではそれなりにお寺での日々をつつがなく過ごせるようになってきた。はじめは股の間がスースーして気持ちの悪かった法衣も今では自然に着ることができるようになったし、お寺でなされる数々の行事や相談事もよほど特別な案件でなければ戸惑わずに対応できる。職業としての僧侶であることにおいては、それなりの自信がついてきたと言っていい。

お坊さんになったばかりの頃、「坊さんは職業じゃねぇ、生き様だ！」なんて青臭い言葉をブログに書き、それが拙著『おぼうさん、はじめました。』の帯のコピーにもなった。とはいっても私もそれほど純真無垢な男ではないので「そうは言っても職業の部分もあるんだけどね」という対句も心の底には常にあった。ただ、生き様としての側面を忘れてはいけないという自戒の意味を込めて、敢えて青臭い理想を前面に出して残しておこうと思ったのだ。しかし、今となってはこの言葉も少し気恥ずかしい、どこか違和感のあるものとなってしまった。これを今の気分でいい直すとしたら、「おれは職業じゃねぇ、生き様だ！」そして「そうは言っても職業の部分もあるんだけどね」というところか。
      私は仏教が好きで、仏教に携わる仕事がしたくて、仏教ファンの趣味が高じてお坊さんになった。もともと家は浄土真宗だったし、どんな人でも日常生活を送りながら在家仏教徒として救いの道を求められる親鸞さんの教えに惹かれて、浄土真宗を選んだ。仏教に携わる仕事がしたいだけなら何もお坊さんにならなくても他の方法があったかもしれないが、どうせやるならとことんやらないと気が済まない性格もあって、やはり得度をすることにした。なってみなければ分からない特別な何かが「坊さん」という立場にはあるのかもしれないとも、少しは思った。法事やお葬式など社会的な要請に応える職業としての坊さんという立場、そして仏道に邁進する求道者としての坊さんという立場、その矛盾の間で悩みながらも精進する姿への憧れの気持ちもあった。

しかし、５年経った今となっては「坊さん、だから何？」というのが率直な気持ちである。「坊さんは職業じゃねぇ、生き様だ！」なんて、ずいぶんと坊さんに拘ってしまったものだと、振返って思う。私は浄土真宗で得度した僧侶だが、そもそも浄土真宗に僧侶という立場はあまり馴染まない。出家じゃなくて在家のための宗教なのだから、教義上もともと僧侶など必要がなく、みんな同じ念仏衆として平等な立場にあるのだ。長い歴史の中で他の宗派と交わり足並みを揃えるようにして浄土真宗にも僧侶というかたちが出来てきたのだと思うが、これにはかなり矛盾がある。ある意味、自分が浄土真宗のお坊さんであることを徹底しようとすればするほどお坊さんということが意味を為さなくなるのである。浄土真宗のお坊さんにも尊敬できる方はたくさんおられるが、そういう方々は総じて自分がお坊さんであることをなんとも思っていない人ばかりであるような気がする。

他宗は少し事情が違うけれど、修行を終えて山から下りてきてしまえばごく普通の家庭と同じように暮らしている僧侶もかなり多い。僧侶だからといって特別なことは何もなく、ほんとうにふつうの人である。もしも何かあるとすれば、その人が常に僧侶であろうと努力しているかどうかということだけだと思う。努力していないお坊さんが多いというわけではないし、今そのことを議論したいのではない。尊敬できるお坊さんはたくさんいるのだが、その人たちはお坊さんだから尊敬できるというのではなくて、人として尊敬できるから尊敬できるんだ、という当たり前のことを言いたかっただけである。スリランカやミャンマーなどでお坊さんが尊敬されているのは、厳しい戒律などをしっかり守って尊敬に値する人しかお坊さんでいられないからお坊さんは尊敬されるのであって、そのイメージを多少なりとも日本に重ね合わせようとすれば必ず無理が出てくる。この日本において、坊さんか坊さんでないかということは、ほんとうはまったくどうでもいいことなのではないか。「坊さんは職業じゃねぇ」というよりも、どんな職業に就いていたって、あるいは就いていなくたって、大事なことは職業じゃねぇ、その人の生き様だ！というのは言うまでもないことだった。

アメリカの本願寺を訪れたとき、面白い制度に出会った。レイ・ティーチャーという制度で、レイ（信者）の中でも熱心な人がトレーニングを受けて住職の代わりに法要などを司ることができるというもの。なるほど、お坊さんがいなくても法要儀式が成り立つ仕組みである。この考え方を援用すれば、そもそも浄土真宗の仏事というのは誰か立派に修行したほんとうのお坊さんの代わりに在家信者の代表信者が儀式の執行を預かっているものと見ることもできる。私もたまたま本願寺で研修を受けた信者代表として本当のお坊さんの代わりに法要などを司るレイ・ティーチャーのようなものだと思えば、少しは矛盾が吸収されて気が楽になってくる。

私は僧侶の代わりにときどき僧侶のような格好をして、仏教を伝え広めるお手伝いをさせていただいている在家の仏教徒だ。日々のふつうの暮らしの中で少しでも仏教の考えに基づいた正しい生き方ができればいいなと、そう思っている。
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   <title>仏教界と新聞業界</title>
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   <published>2007-10-05T00:14:02Z</published>
   <updated>2007-10-05T00:26:42Z</updated>
   
   <summary>　「お寺の未来」というタイトルでコラムを書いているのはいいのだけれど、日増しに強...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/master/">
      <![CDATA[　「お寺の未来」というタイトルでコラムを書いているのはいいのだけれど、日増しに強まる閉塞感に、どうにも明るい未来が見いだせない。<strong>「やっぱり未来は真っ暗でした」</strong>という結論もなくはないが、せっかくお寺の未来を明るくしたいと思ってお坊さんになったのに、それでは元も子もないというもの。困った。

　と、そのとき親しい新聞社の方から「築地の近くに来てるんだけど、ラーメンでも食べない？」と誘われ、一緒に昼飯へ。大手新聞社で長年にわたって記者をやってきたその方は今、新聞社の内部の改革に取り組んでいるという。新聞業界を取り巻く問題点やその解決策、またそれに対する抵抗勢力の話などをしているうちに、<strong>「あれ、新聞業界と仏教界って、構造が似てるかもね？」</strong>と気が付いた。大手の新聞社も「今変わらなければ未来はない」と、必死でがんばっている（がんばろうとしている）のだ。
　考えてみれば、どんな業界だって努力もなしにバラ色の未来が待っているなんてことはありえない。これまでお寺がさほどの努力もなしに（少なくとも努力してなさそうに）やってこられたのは、偉大な祖師方や先祖方の計り知れない努力によって耕されてきた教えが実を結び続けてきたからであって、それを手入れもせず野方図に貪り続けた結果、蓄えはすっかり底をついてしまった。
　しかし考えようによっては、これまでがあまりに恵まれ過ぎていただけで、今まさに他の業界と同じようにお寺の努力が試される時代が来たとも言える。どこの業界だって、時代の荒波に取り残されないように必死に頑張っているのだ。それならば、時代のニーズを的確に捉えるだけでなく、さらにそのニーズをよりよい方向へと導いて行くべき仏教が頑張らなくてどうする。今日は新聞業界と問題点や解決策を共有しながら、未来を模索してみよう。]]>
      <![CDATA[<strong>本山と末寺との隔たり</strong>

　実は、<strong>宗派の本山は宗派に所属する寺院が抱える檀家の情報をほとんど何も知らない</strong>。多くの本山では職業や特性などはもちろんのこと、名前や住所、電話番号さえ分からないのではないだろうか。今でこそ個人情報保護の観点から、ということもできるが、もともと末寺としては本山にあまり情報を与えてしまうと自分のお寺を飛ばして檀家に直接アプローチされてしまう可能性が出てくるため、必要最小限の情報しか本山に対しては出したがらない。そのため本山が唯一知っているのは、各寺院から報告が上がってくる檀家の件数だけではないだろうか。
　本願寺派を例にとれば、各寺院から本山への賦課金（上納金）は報告された檀家の件数をもとに算出されるため、その数字すらも多くの寺院が過少申告するものだから、結局のところ<strong>本山は自分の宗派が抱える檀家の総数すら知り得ない</strong>のである。

　これと同じように<strong>大手新聞社の本社も、実は一般の販売代理店が持つ顧客情報を必ずしも一元的に管理できているわけではない</strong>らしい。仏教界ほどではないにせよ、長い歴史を持つ新聞業界には古い体質もたくさん残っていて、一般の代理店は顧客情報を本社に出すのを嫌がるそうだ。商品である新聞を回してもらえなくなったら商売が成り立たない代理店にとって、<strong>顧客情報を守ることは店を守ること</strong>でもある。仮に情報を本社に渡すとすると、それを持って本社が他の代理店に顧客情報を回してしまったら、代理店は配達の仕事を奪われてしまうことになってしまう。
　その結果、主に末寺に対する本山の仕事と代理店に対する新聞社本社の仕事は似通ってきて、上納金を収めてもらう代わりに宗派（新聞）の看板を出すことを認め、教えを広める<strong>営業マンとしての僧侶（販売員）</strong>を育成支援し、不適切な事態が生じた場合には看板と免許を取り上げるということになる。そして、おばけのようにたくさんの檀家（読者）を持っている末端の場合は、より本部に対しての影響力が強くなる。本部からの指令に対し、力の強い末端が反発した場合には「あそこがああ言っているんだから、多少は意見を取り入れなくちゃな」という配慮が生じてくるのは、どこの世界も同じだろう。本部と末端の関係が、両者ともよく似ているのである。


<strong>末寺と檀家の関係</strong>

　各宗派の本山や観光寺院は別として、全国に７万ヵ寺以上もある（そのうちの何割かはすでに廃寺に近い状態と思われるが）と言われる一般の末寺がどのようにして檀家を維持しているかといえば、まずひとつは昔からの付き合い、「菩提寺とはきちんと付き合いを続けていくもの」という習慣的なものが大きい。そもそも檀家にとって「檀家になるかならないか」とか「どこの檀家になろうか」という選択肢はほとんどなく、<strong>檀家だから檀家</strong>、という関係である。
　それをさらに支えているのが、法要儀式や法話の内容などもさることながら、それ以上に大きいのは僧侶と檀家との個人的な人間関係だろう。仏教の教えそのものに惹かれて檀家を続けているという人は、どちらかといえばおそらく少数派ではないかと思う。住職さん、そしてさらに住職さんの奥さんや家族との親密なお付き合いが、お寺が檀家を維持する上で欠かせないものとなっているのである。特に田舎のほうでは、地域の人間関係をもっともよく把握しているのが、地元のお寺の住職さんだというところも多いのではないだろうか。

　一方、新聞の販売代理店は全国で２万程度あるそうで、お寺の数と規模感は近い。これだけインターネットが普及している時代でも新聞を購読してる読者は、新聞に情報媒体としての価値を見いだしている人ばかりではなく、「昔から新聞をとってきたから」「<strong>新聞くらいとらなくちゃ</strong>」というような習慣性に依っているケースも多いのではないだろうか。新聞はほとんど読まれることなく毎日積み上げられるだけ、という家も少なくないだろう。それでも新聞をとるのを止めないのは、「新聞がないと、何か都合が悪くなる気がする」「とるのを止めると、恥ずかしい」という意識が読者にあるのだと思われる。
　また、新聞社本社と読者の直接的な接点というのはほとんどないが、代理店の販売員は毎日のように新聞を配達するわけで、その家の構成員の様子や変化をある程度把握している。実は私も小学生の頃に自分で働いてみたくて新聞配達をやったことがあるのだが、毎朝毎夕それぞれの家の玄関に立つわけだから、「このうちは子どもが生まれたんだな」とか「おばあちゃんが亡くなったんだな」とか、そういうことが自然に分かるのである。早起きをして、毎朝の挨拶が日課となっている人もおり、それなりの人間関係も築かれている。

　「昔からそうだから」「関係を止めると悪い気がする」というような意識は、檀家と新聞読者に共通するものではないだろうか。


<strong>僧侶のおごり、記者のおごり</strong>

　「苦しんでいる人に寄り添っていくためには、まずその人の声に耳を傾けることが必要です」ということを僧侶向けの研修などではことさら強調されるほど、<strong>僧侶というのは他人の話を聞かない人が多い</strong>と言われる。基本的に仏の教えを説教するのが仕事であり、「住職、住職」といって上座へと持ち上げられることも多いため、どうしても僧侶である自分は他人よりも上に立っていると錯覚してしまう人が出てくるのだ。これは、そうなってしまうお坊さんが悪いのではあるが、そうなってしまうように持ち上げ続ける檀家さんにも責任の一端はあるのかもしれない。それに慣れ過ぎて、しまいには「檀家はだまって僧侶のいうことを聞いていればいいんだ」というようなことを言い出す僧侶も稀にいる。
　本山ともなるとこれが更に激しくなり、すべての人間関係が仏教界だけで構成されて一般の人との接点をほとんど持たないものだから、もはやフィクションとも言える閉じられた世界に安住するはだかの王様で埋め尽くされる。こうなるともう、誰のためのお寺なんだか分からなくなってくる。

　これも、もしかしたら新聞業界でも同じようなことが言えるかもしれない。新聞記者という肩書きによっていろんな著名人や有力者と親交を持てるおかげで、やがてその<strong>肩書きを自分の力と錯覚</strong>し、「おれは新聞記者様だぞ」という意識を持ってしまう人もいるそうだ。「読者ありき」がマスメディアのあり方として正しいことだとは必ずしも思わないが、読者の視点や販売店の意見をまったく無視してできあがってきた新聞は、誰のための新聞になるだろう。


　というわけで、このように、仏教界と新聞業界はいくつかの共通する体質を持っている。その新聞業界において、ここのところ少しずつ変革しようとしていることがあるという。

　それはまず、既存の顧客とのつながりを強化しようということ。これまで販売店の現場まかせであった顧客との関係について、それを強化するような方策をいろいろ模索しているようだ。<strong>いわゆるCRM戦略、新たな顧客を獲得するよりも、既存の顧客を手放さないようにすること</strong>が、まずは一番重要だろうということだろう。仏教界でも新しい檀家・信徒を獲得しようという動きがあるが、まずその前に今すでに檀家さんとしてお寺を支えてくれている人たちとの関係をより強固にすることが不可欠なのは、間違いない。<strong>すでにメンバーである人を維持すること（プラスマイナスゼロ）と、すでにメンバーである人をひとり手放して新しい人をメンバーにすること（プラス１マイナス１）</strong>の苦労を比較してみれば、自ずとその重要性が分かる。

　また、販売店の多くは新聞が将来的に紙媒体からインターネットへと移行してしまうのではないか、そうしたら販売店の存在意義はなくなってしまうのではないかと恐れているそうだが、一方ですでに先を見据えた有力販売店は、新聞を売るだけではなく<strong>地域の総合情報サービス所へと脱皮</strong>しようと試行錯誤を始めているそうだ。今後、檀家制度が行き詰まるであろうことが予想されている仏教界も、そろそろ先を見据えた試みをあちこちで始めてみないと、明るい未来は開けてこないだろう。

　誰かが対策を講じてくれるのを待っている場合ではなく、たぶんいくら待ってもただ待ちぼうけを食うだけである。小手先ではない本質的な改革が今、求められている。

　あ、そうかそれなら、お寺が新聞屋さんを始めるってのはどうだろう？って、だから、小手先じゃどうにもならないんだって！]]>
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   <title>船頭多くして船山に登る</title>
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   <published>2007-09-28T15:55:14Z</published>
   <updated>2007-09-28T16:00:20Z</updated>
   
   <summary>最近、ぼくが気に入っていることわざは「船頭（せんどう）多くして船（ふね）山（やま...</summary>
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      <![CDATA[最近、ぼくが気に入っていることわざは<strong>「船頭（せんどう）多くして船（ふね）山（やま）に登る」</strong>だ。船を指揮する船頭さんが何人もいると、船は統制をとれなくなっておかしな方向に進んでしまうという意味である。なるほどなと納得させられることわざなのだが、ふと気になるのはなぜ「山に登る」のかということ。「進まず」とか「沈没す」とかでも良さそうなものだが、船頭の多い船は「山に登る」とされているのだ。ひとりで停滞・沈没するだけなら迷惑もかからないのだが、それぞれの船頭が善かれと思ってまわりを巻き込み行く先が、想像もつかないようなあきれた到着点に辿り着くという皮肉が込められているのだろう。

このことわざ、仏教界に当てはめてみるとまた面白い。たとえば浄土真宗では阿弥陀如来の願いが「船」にたとえられるが、浄土真宗を信仰する人を船の乗客とするならば、そのリーダーとされる住職は船頭と言えるだろう。その船頭たちの中でも船頭の上に立ちたいと思う船頭が集まって、船頭の山並を築いていく。それぞれの地域の小さなお寺がひとつの山だとすれば、それぞれの山を背負いつつ京都の本山へ集まってくる住職たちの群れは、さながらボスの中のボスを決める猿山コンテストのようでもある。それは言い過ぎかもしれないが、そんなにはずれてもいないと思う。]]>
      <![CDATA[ここのところ「なぜ伝統仏教教団は停滞するのか」ということを書いているが、ポイントはこの「船頭多くして船山に登る」のことわざに集約されるかもしれない。
伝統仏教において京都の山が好きで集まってくる船頭たちの多くは、

・みんな自分の小舟（お寺）を持っており、大船（本山）に乗り込むときも、いつでも頼れる救命用の小舟を手放さない。
・小舟の船頭（住職）としての自負から、いつも何かしら細かな指示をしたがる。
・生まれてこのかた船の世界しか知らないので、人間には船頭か乗客の２種類しか存在しないと思っている。
・担当の船が短期間で変わるため、いつも船に対して責任を持たない。
・多くの船頭は、沈没させて批難されることを恐れて船を漕がせない。
・やる気のある少数派の船頭も、行き先も告げずにがむしゃらに漕がせたり、他の船頭から足を引っ張られたりして、座礁する。

というようなことの繰り返しで、まったく埒があかないのだ。

一人のがんばりともう一人のがんばりが合わされば二人と言わず三人分以上の力が出そうなものだが、一人と一人が合わさると二分の一と言わず三分の一くらいの力も出なくなってしまうのが船頭の足の引っ張り合いである。ぼくがよく聞く船頭用語のひとつに、「思い」という言葉がある。<strong>「この件については○○さんの思いを尊重せなあかん」</strong>などというふうに使われるのだが、船頭が多くなればなるほどこの手の無用な気遣いが増えてきて、しまいにはどうでもいいことひとつひとつに対して皆が疑心暗鬼になっていく。大昔すでに山に登ってしまった船がそのまま身動きがとれなくなり、風雨にさらされ生き恥をさらしながら朽ちていくのを待つしかないという悲劇。

船頭の皆さん、それほど乗客の言うことを聞く気がないのなら、どうしてそんなに他の船頭の言うことばかり気にするのか。それほど他の船頭を気にするくらいなら、どうして乗客の「思い」に耳を傾けないのか。そして何よりも、もっと謙虚に仏の「思い」に耳を傾けるべきではないのか。せっかくの弥陀の願船も、乗っている船頭のせいで船の行き先がおかしくなったり、船頭に嫌気がさした乗客が船から降りたいと言い出したら、それこそ船のオーナー、仏に申し訳が立たない。

ここのところ残念なことばかりで暗い記事が続いてしまった。来週こそは楽しい記事を書きたいと思います。]]>
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   <title>上田紀行さんと一杯</title>
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   <published>2007-09-22T18:35:02Z</published>
   <updated>2007-09-22T18:39:04Z</updated>
   
   <summary>　つい最近、とある雑誌の座談会で上田紀行さんとご一緒する機会を得た。上田紀行さん...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      　つい最近、とある雑誌の座談会で上田紀行さんとご一緒する機会を得た。上田紀行さんと言えば、『がんばれ仏教』や『目覚めよ仏教』などの著書でも活躍中の文化人類学者として、マスコミでも有名な方である。東京港区の青松寺での「ボーズ・ビー・アンビシャス」企画などでは僧侶啓発講座にも積極的に参画しておられ、伝統仏教界への応援の気持ちから発される厳しい意見が若手僧侶たちにもよい刺激となり、仏教界でも各方面から注目を集めている。
　このサイト「彼岸寺」やお寺カフェ「神谷町オープンテラス」の試みなど、ぼくがこれまで伝統仏教の中で取り組んできた活動が上田さんの活動と一緒に新聞や雑誌で紹介されるというふうに、過去にも誌面上ではご一緒したことが何度かあったのだが、意外にもご本人に実際にお会いしてゆっくりお話する機会が今までなかった。このたび、座談会終了後に近所のバーのカウンターで向き合って一杯飲むという場をいただいたことは、貴重なご縁となった。
      　さて、これまでぼくは伝統仏教界に関する上田さんの著書も読んだことがあるし、その活動も知っていた。青松寺で開かれている「ボーズ・ビー・アンビシャス」という企画にも参加したことがあるし、そこに集まるお坊さんたちの真剣な気持ちと真摯な姿勢にも触れている。それらうについて、素晴らしい活動だなと感じたのは確かだ。

　しかし、そこに何かが足りないような気がしていた。上田さんのされていることは意義あることだし、そこに集まって来るお坊さんもポテンシャルが高くやる気に満ちた人たちばかりだ。だから、その試み自体は素晴らしいのだけれど、でもまだ何かが足りないような気がするのはどうしてだろう。と、考えているうちにあるとき足りないものに気が付いた。それは何か。「役者が足りない」のだ。

　上田さんが『がんばれ仏教』と語りかけたときに反応するお坊さんは、実はお坊さんの中の一部に過ぎない。「お坊さんもまだまだ捨てたもんじゃない」と言われるような活動を現場で地道に頑張っているお坊さんにとっては、そのメッセージは仲間意識を呼び覚まし、活動の励みになるだろう。また、仏教にかける自分の思いをかたちにするため何か活動したいと思いつつ今一歩を踏み出せないお坊さんにとって、メッセージへ共感する仲間たちのサポートには大きく勇気づけられるに違いない。しかし、ぼくの経験からしてみても、現実に活動している多くのお坊さんはそのような精神性ではないはずで、だいたいお坊さんというのは自分がお坊さんであることに誇りを持っている人が多いから、「今やっているお坊さん活動で精一杯だ、社会活動など必要ない」「お坊さんは俗事に関わるべきでない」「坊主でもない学者風情にそんなこと言われる筋合いはない」とか、そういう強い反発が出てきてしかるべきで、そういう人こそ『がんばれ仏教』を取り巻く役者として入ってこなければと感じていたのだ。

　というわけで、お坊さんじゃない人に「がんばれ仏教」なんて言われて怒る坊さんはいないのかという話を伺ってみたのだが、意外にもそんなふうに怒る人はあまりいないそうだ。講演の講師として伝統仏教界のあちこちから呼ばれることもあるけれど、それを取り巻くのはすでにある程度の問題意識を持った人たちで、それは「がんばれ仏教」を励みとして聞ける人たち。ほんとうに根性を入れ直して「がんばる」べき人たちは、そもそもそういう場に出てこない、ということだ。なるほどな、と思った。ぼくとしては、「お坊さんは偉いんだ」と生まれてこのかた決め込んでいる人の多い伝統仏教界から「学者なぞにがんばれ仏教なんて言われる筋合いはない、徹底的に論破してやる」くらいの勢いのある人が出てきたら面白くなるのになと思っていたのだが、事実はそうではないらしい。そういえば、確かにお坊さんは自分がお偉い僧侶として振る舞っていられる演出の場にしか出て来ない人が多いような気がするし、これは悲しいことではあるが、そういうスタンスでお坊さんをやっている人ほど教団の中心になんと多いことかということを感じざるを得ない。

　上田さんの『がんばれ仏教』の気持ちは、伝統仏教教団の中枢部まで届けたいものだが、実際に届いているのはまだまだ周辺部の有縁の人々ばかりである。前回のコラムからもたびたび言っているが、能力もあり人格的にも優れた尊敬できるお坊さんは、全世界にまだまだたくさんいる。しかし、せっかくそういう人たちがやる気を出しても教団の中枢部のあまりの程度の低さに嫌気が差し、辞めて帰って自分のお寺で静かに地道に活動している人は多い。よく言われる、「個々の寺院で頑張っている活動」はときどき目に入るけど「伝統仏教教団の活動」はまったく見えて来ないというのには、そういう事情がある。簡単に言えば、まともなお坊さんはアホらしくて本山周辺に近寄らなくなってしまうのだ。もちろん、いくらアホらしいと思っても諦めずに頑張っている人もいるのだが、そういう人も何かのタイミングで没落していくことが多い。伝統仏教は江戸よりも以前から歴史が長い分、さらに魔物が大きく育ってしまうのかもしれない。

　でも、悲観するばかりでは先に進まない。今差し込んでいるひとつの光は、インターネットの普及によって個々のお寺が独自で情報発信できるような環境が整ったことではないかと思う。昔だったら教団につぶされたような企画でも、今ではそんなことは関係なく独自に実施して、その結果を世論に直接問うことができる。カチカチの檀家制度では立ち上がりにくかった檀家の人たちも、世論を味方につけてよりよい方向を模索していくこともできる。これからの伝統仏教教団は、周辺部から変わっていくことは間違いない。やがてそのうねりが大きな渦となって、中心部も巻き込んでいくような勢いを持てばいいと思う。エッセンスだけ残しつつ、解体するような仕方で再生していく方向を模索していきたいものである。
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   <title>お寺が近親憎悪する理由</title>
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   <published>2007-09-13T22:55:06Z</published>
   <updated>2007-09-13T22:57:11Z</updated>
   
   <summary>お坊さんというのは教えを広めるために存在しているのだから、浄土真宗のお坊さんなら...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      お坊さんというのは教えを広めるために存在しているのだから、浄土真宗のお坊さんなら浄土真宗の教えが広まることなら手放しで喜ぶはずだと考えられているけれど、実際はそうでもないんじゃないかというお話。

まず根本的なところ、誰しもお寺に生まれてきたからといって「自分はこの教えを広めるために生まれてきたんだ」という使命感を持つとは限らない。むしろふつうは、生まれたのがたまたまお寺だっただけで、そこでお坊さんになるのもそれが家業だからという人のほうが多いだろう。もちろん、家業としての自覚を持って一生懸命がんばる人もいるしがんばらない人もいるのだが、最終的にはやっぱりお寺は自分が住むための実家であり、お坊さんという職業も自分が食べていくためにやっているだけ、という人はけっこう多いのではないだろうか。ちなみにこの話は、お坊さんを職業として自分の寺を切り盛りすることで生計を立てている人にしか当てはまらないことなので、念のため。

話を戻そう。さて、「お寺はお坊さんが食べていくためのもの」ということになると、今どきお坊さんも食べ物や飲み物など現物のお布施だけでは暮らせないから、現金収入が大切になってくる。土地持ちのお寺であれば地代収入だけで成り立ってしまうところもあるが、一般にはお寺の現金収入といえば法事やお葬式でのお布施がほとんどだろう。で、これを増やすにはどうしたらいいか。それは簡単な話、檀家の数を増やせばいい。檀家が増えれば法事やお葬式の数も増えるからだ。では今度、その檀家の数を増やすには、いろんなつきあいの輪を広げ、それを強固なものにしていくこと。浄土真宗の教えに魅力を感じるというのもつきあいの深まるひとつの大きなきっかけになるから、結果的に浄土真宗の教えが広まってくれることはお寺にとって好ましいこととなる。
      しかし逆にいえば、自分のお寺にとってよい結果をもたらすような仕方である限りは、浄土真宗の教えが広まってくれることを喜べるということ。だから、自分に何も関係のない範囲での布教活動については、お坊さんは穏やかな顔をして「熱心な布教活動、素晴らしいですね。どんどん教えをひろめてください」と言っていられるのだが、ひとたびこの前提が崩れたら途端に険しい顔になって「布教するのは良いが、やり方や手順を考えてもらわないと困るし、活動を認めるわけにいかない」と言い出すお坊さんの何と多いことか。

このことを象徴するのが、誰かが新しくお寺を作ろうとするとき。総論としては「布教に熱心な人が新しいお寺を作ることには大賛成」でも、いざ自分のお寺の近所に新しいお寺ができるとなると、必ずと言っていいほどいろんな理由をつけて邪魔をするお寺が出てくる。法事やお葬式の仕事をとられたりして自分の縄張りを荒らされては困る、という本音の部分がむき出しになってくるのだ。

ところで、おもしろいことに多くのお寺が近所に同じ宗派のお寺が新しく作られるということになると妨害するのに、他宗派や他宗教が進出してくることについてはまったく言っていいほど関心を示さないこと。浄土真宗の同じ宗派、浄土真宗の違う宗派、伝統仏教の他宗派、仏教系の新宗教、キリスト教、というように、自分のところの教義から内容が遠くなればなるほどこの傾向は強くなる。本来なら、自分と教義の近い宗教と仲良くして遠い宗教に対抗意識を持ちそうなものだが、そういう考え方をする人は伝統仏教界の中にまったくと言っていいほど見当たらない。いったい、この現象の原因はなんなのか。実はそれも、最初に述べた「家業としてのお寺」意識に見いだされるのではないかと思う。

ようするに、お寺というのは昔から続いてきたことをただそのまま引き継いでいるだけであって、お坊さんの世襲も、「家の宗教」という檀家制度も、そのことをよく象徴していると思う。新規教線の開拓だのなんだかんだ言ってみたところで、お坊さんの意識として強烈にあるのは、昔ながらの「家の宗教」であり、生まれながらにして決まってしまう所属の宗教や所属の寺院という考え方。仮に日本で浄土真宗の檀家が１０００万人いるとしたら、まだ残り１億１０００万人の人がいるのだから、その人たちに布教しようとすれば、今の１０倍の数のお寺を誕生させてもいい計算になる。しかし、実際にはそんなふうに考えるお坊さんはいない。おそらく多くのお坊さんにとって１億１０００万人の浄土真宗以外の人は眼中になく、毎年どんどん小さくなっていく１０００万人のパイの奪い合いだけが争われている。

先祖のお坊さんたちが開拓してくれた１０００万という畑ですら耕すこともせずただ果実を摘んで安穏としてばかりの人たちが、わざわざ見ず知らずの土地を耕そうとするわけがないのは、それもまた道理というもの。しかし、どんなにのんびり屋さんだとしても、ここ最近の畑の荒れようと果実の痩せ具合を見れば、そろそろ家業の行く末を案ずる危機感が出てきてもいい頃かと思う。

先達が開拓してくれた１０００万の畑を手入れし直して元気に維持していく生真面目さと、そしてまだ手つかずの１億１０００万の未開の荒野へ乗り出していく勇気と智慧が今、必要なのではないかと思う。
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   <title>なぜ伝統仏教は停滞するのか</title>
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   <published>2007-09-05T14:25:18Z</published>
   <updated>2007-09-05T14:25:52Z</updated>
   
   <summary>参院選が終了し、大方の予想通り民主党の勝利という結果に終わった。民主党から出馬し...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      参院選が終了し、大方の予想通り民主党の勝利という結果に終わった。民主党から出馬している浄土真宗本願寺派の僧侶、藤谷光信氏も78,000票ほどの得票で当選。参院は民主党が第一党となり、野党が議席の過半数を占める事態となった。今後この流れを受けて、衆院解散なども含めて政界再編に突入していくのだろうか。

自民党への逆風、民主党への追風、大きな風が吹いた今回の選挙。社会情勢の中での瞬間風速的な風でもあるのだろうが、この風が参院において今後６年間、痕跡を残し続けることになる。有権者の選択が今後の政治の方向性を決めていくのである。速報を見ながら、ふと自分の所属する浄土真宗本願寺派という宗門組織のことを思った。浄土真宗本願寺派は、明治政府が議会制民主主義を導入する以前から、試験的に議会制民主主義をいち早く取り入れた教団であり、その制度は今も続いている。本山＝政府、総長＝総理大臣、総務＝大臣、宗会議員＝国会議員、有権者＝僧侶。国家の規模とは比べ物にならないが、形としては日本の国とほぼ同じような制度が成り立っている。

しかし、どうしてだろう、ここではどうにも風が吹かない。自分が日頃接する僧侶から、「本山は一体何を考えているんだろう」と言う、政治の変革を望む意見を聞くことは多い。しかし、それほどまでに有権者である僧侶の多くが本山に対して否定的な立場をとるのであれば、教団にも選挙があるのだから、大きく風向きが変わってもいいのではないかと思うのだが、結果はなかなかそうならない。もちろん、長年の間に議員も入れ替わるし有権者も世代交代するのだが、肝心なところである「浄土真宗本願寺派」という教団そのものは、少なくとも外の一般社会から見たときに何も変わっていないどころか、なんだか後退しているような感じがするのである。これは一体どうしてか。
      その理由としては、まず初めに「社会と断絶した感覚」がある。お寺が持つ一般社会との接点というのは、主に檀家さんとの付き合いがほとんどである。もちろん檀家さんにはいろんな方がおられるが、たいていは「お寺さん」として丁寧に扱ってくださるために、お寺は特別に批判を受けることもなく、のほほんと今まで通りのやり方でお寺をやっていればいいというふうになってしまう。「時代に合わせてどのように変わっていくべきか」という議論が、基本的に欠けている。ましてや親から子へと疑いなしに世襲で継がれるお寺であれば、なおさら家族ぐるみで感覚がずれてしまうものだから、状況は深刻だ。

二つめに、「仏教界の閉鎖的な体質」があると思う。社会と断絶した状況では、お坊さんの世界は仏教界という狭い範囲に限られ、そこでの人間関係にどうしても固執するようになる。「あの人はいい役職についたのに、なぜ自分には声がかからないのか」とか、そういう嫉妬心のうずが沸き上がる。しかもその人の実力だけでなく、お寺の格や歴史など、一般社会よりもさらに難しい要因がいろいろ重なってくるので、事態はより複雑である。それでまたお坊さんの中には、そういう種類の事柄に強い興味を持つ人がけっこう多いのがやっかいなところ。つまらない足の引っ張り合いが始まり、人が集まれば集まるほど物事が進まなくなる。不幸中の幸いなのは、その閉鎖的な体質ゆえに、一般の皆様に対してそのような醜態を曝さずに済んでいることだろうか。

三つめに、「優秀な指導者の不足」も挙げられるのではないか。これは決して、お坊さんや仏教関係者に優秀な人材がいないと言いたいのではない。それどころか、基本的な知性が高いだけでなく、仏教を深く掘り下げたところから自然とにじみ出てくる人徳を備えた、あらゆる意味で心から信頼のおけるお坊さんもたくさんおられるのである。ただ残念なのは、そういう方々に限って、あるいはだからこそ、お坊さん同士のつまらないしがらみを離れようとする傾向が強く、教団の中のほうには極力近寄らずに在野の僧であり続ける人が多い。もちろん、それでも敢えての決意を持ってしがらみの中に分け入ってくる人もいるのだが、少数派だ。

おまけは、「見失われた教団の存在意義」だろうか。個々のお寺はそれぞれに独自の仕方で頑張っていたり頑張っていなかったりそれぞれやっているのだが、それを中心で統括するべき教団本部の仕事といえば、肥大化した本部組織をどのように維持するかということが自己目的化してしまっている感がある。仕事のための仕事のための仕事が大半を占め、前例にないことには取り組まず、ひたすら内部の人間関係政治活動に精を出し、いかに自分が責任を負わずにポジションを守るかということに腐心する。官僚だって誰だって、はじめはそんなふうに自分がなるなんて思ってもみないだろう。しかし人間を作るにおいて、環境が持つ影響力というのは大きいもので、あるときそれに飲み込まれてしまっていた自分にふと気づき、愕然とする人も多いのではないだろうか。

と、なんだかいやなことばかり書いてしまったが、別に嫌みを言いたかったわけではなくて、伝統仏教の未来を客観的に真剣に考えてみようと思ったら、なんだかこんな話になってしまった。いろんな宗派の人と話していて思うのは、おそらくこのような問題は本願寺に限らず、伝統仏教教団全体が抱えるものなのだろうということ。伝統仏教教団は、昔からの歴史文化の遺産とこれまで受け伝えられてきた教義の質の高さのおかげで今のところはなんとか体面を保っているが、社会に対する行動力や布教の努力においては新興宗教の活動に遠く及ばないと言わざるをえない。怪しい新興宗教が孤独で不安な人に見せかけの温かい声をかけて近づいていくとしても、見せかけの声すらかけていない伝統仏教には何を言う資格もないのだと思う。

しかし逆に言えば、本物の教えに深く根ざしたところから本物の行動が出てくるとしたら、それほど強いものはない。諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教。見せかけのもの、にせものが横行する今こそ、お坊さんは余計なことを考えず「ほんとうにいいこと」に取り組みはじめるときではないだろうか。
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   <title>国政に乗り出す仏教界</title>
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   <id>tag:www.higan.net,2007:/blog/master//11.2007</id>
   
   <published>2007-07-17T03:49:39Z</published>
   <updated>2007-07-18T02:15:03Z</updated>
   
   <summary>参院選がいよいよ月末に迫っている。タレント活動で名を売った論客？たちが立候補、街...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      参院選がいよいよ月末に迫っている。タレント活動で名を売った論客？たちが立候補、街角ではあちこちで選挙演説合戦が繰り広げられているし、テレビをつければ朝から晩まで各党政治家同士の討論が続き、最近ではCMにまで政党の主張が入り込んで来るので、そろそろうるさく感じている人もいるかもしれない。

そんな方には、ぜひ世俗の喧噪を束の間離れて心静かに築地本願寺へお参りください、と言いたいところなのだが、今年はそうも言っていられない事情がある。どんな事情か。それは築地本願寺へ実際に行ってみればよく分かる。普段ならもっとこう、かわいらしいキャラクターをあしらった幼稚園児募集とかのポスターが貼ってありそうなところに、ひたすら袈裟をまとったお坊さんのポスターが貼ってある。近付いてみると、顔の横には民主党のマークが。そう、今度の参院選に比例代表で立候補した浄土真宗本願寺派のお坊さんのポスターなのだ。
      一体何のポスターだろうかと足を止めて覗き込む人も多いが、そりゃそうだろう。せっかく厳かな気持ちでお参りに来たのにお寺の中まで選挙のやかましさが入り込んできては、こりゃかなわん、と思うのが無党派層をはじめとする多くの人の感覚なのだろうということを、その反応を見ていると感じざるを得ない。また、もう少し政党感覚のある人であれば「本願寺さんは、民主党支持なんだなぁ」というふうに決めつける人もいるが、このポスターを見れば無理もないだろう。しかし、私は浄土真宗本願寺派に所属する僧侶として参院選に関する宗派の公式なスタンスについて説明を求められるならば、分かりやすく言えばこう答える。

「宗派としては、特定の政党を支持するわけじゃありません。宗派に属するお坊さんが立候補するんだから、もちろん宗派としても特別に推薦し、応援していきましょうということです」

今、浄土真宗本願寺派は、比例区は民主党から藤谷光信氏、大阪選挙区は自民党から谷川秀善氏という、政党の異なる二人のお坊さんが立候補しているのを、どちらも「宗門特別推薦」ということで公式に応援しているのが現状である。比例区候補者と選挙区候補者が混在しているので、全国的に見れば本願寺派は民主党支持と見られがちだろうし、大阪に限れば本願寺派は自民党と民主党の両方を応援しているように見えるという、きわめて複雑な状況が生まれている。

では、それに対して宗派に属する全国３万人のお坊さんたちの反応はどうだろう。本山（国政と同じような仕組みで成り立つ宗派内の司法・立法・行政府であり、ここを構成しているのも宗会議員と呼ばれるお坊さんたち）の政治的決定に対し、一般寺院の住職さん方は賛否両論。「やっぱり同じ宗派の住職さんががんばってるんだから、応援しなくちゃなぁ」という人もいれば、「宗門として直接、政治に手を染めるようなことは政教分離の原則に反し、認められない」という人もいる。中には「出家の僧たるもの、世俗のことには一切関わりを持つべきではない」という強者？の噂も耳にする（念のため補足すると、この強者のようなスタンスまでいくと、すでに浄土真宗の教義すら超越してしまっていると思われる）。いずれにせよ、本山と末寺の関係がフランチャイズ・チェーン的な体系で成り立っている伝統仏教の組織では、新宗教系の宗教組織と特定政党の関係のように、一枚岩ではいかないのだ。

ところで、「政治と宗教」と聞いた時、おそらく最も多くの人が連想するのが「政教分離」という言葉だろう。でも、よく知られている言葉のわりには、「政治と宗教が切り離されねばならない」という以上の具体的なイメージのないままに曖昧に使われることも多いのではないだろうか。たぶん「お坊さんは宗教者なのに、どうして選挙に出ていいのだろう」と素朴な疑問を持っている人もいるかもしれないが、冷静に考えてみれば、今だって僧侶や神職の資格を持ちながら国会議員を務めている人もいるし、政治家個人の宗教的背景が立候補の妨げになるわけではない。政教分離の原則の前提として、「信教の自由」というものがあるのだ。政治家が個人として宗教活動をしてはいけないのであれば、盆暮れに自分の先祖へのお墓参りもできなくなってしまう。まぁこのあたり、ちょっと調べてみただけでも微妙な問題が山積みなのだが、規定路線のように改憲が叫ばれる昨今、「政教分離」や「信教の自由」についても、改めて学びなおしたいところだ。

ちょっと話はずれるが、さきほど話に出てきた「お坊さん業界の国会議員」である宗会議員にも、国政と同じように選挙がある。全国の教区毎に投票され、有権者は僧籍（僧侶の資格）を持っている人。選挙区平均１０００人程度の有権者数だから、否応にも有権者実名レベルで票読みができる選挙になってしまう。公職選挙法が適用されるわけでもなく、もともとが接待社会のお坊さん業界だから、選挙区によってはかなり熾烈な泥仕合になるらしい。

そんなお坊さん業界が、今度は国政へ挑む仲間を応援しようという。いつもの調子で「こちら、ほんのお気持ちですが」などと贈ったり受け取ったり、悪気はなくてもついついやってしまう人が出てしまいそうなのが、個人的にはとにかく心配ではある。

まあそれは置いておいて、伝統仏教が新宗教に対抗して政治的な力を持っていこうとするならば、何も自分たちの中から議員を出すことだけが方法ではないはずだ。しっかり各政党の政策を見極め、仏教徒としてほんとうに投票すべき政党はどこなのか、きちんと判断できる土壌を作っていくこと。意識の高い有権者を育て、投票率もあげていくこと。世論を正しく引っ張っていこうという仏教徒市民を地道に増やしていくことが、仏教界として最も理想的な政治参画の方法かもしれない。

とにかく「僧侶は世俗には感知しない」とかいうのはあり得ないので、お坊さんだって投票へGO!
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   <title>非僧非俗のはざま</title>
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   <published>2007-06-06T00:17:29Z</published>
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      ある雑誌の対談企画で、坊主バーの藤岡善信さんとお会いした。坊主バーとは東京の四谷三丁目駅近くにあるバーで、藤岡さんを中心にいろんな宗派のお坊さんがスタッフとして運営している、文字通りの「坊主」バーだ。雑居ビルの階段を上って扉の前に立てば、「会員制」ならぬ「檀家制」の文字がお客さんを待ち構える。と言っても基本的には普通のバーなので、もちろん仏教徒ではない一般のお客さんも温かく迎えてくれるのだが、通好みの方はスタッフと仏教について熱いトークを繰り広げることもできる。

藤岡さんとは新聞などの誌面上にて「坊主バー、神谷町オープンテラス」という並びでご一緒したことは何度かあったが、実際にお会いしたのはこれが初めてだ。同じ宗派なので何かしらの接点がありそうなものだが、好き好んで宗派組織の内部をうろついているぼくと違って、藤岡さんはあえてそういうところから距離を置いて、東京都心のバーという現場で日夜勝負を挑んでいる方なのだろうと、そんなふうに想像していた。
      対談現場、前半は神谷町オープンテラスにて。藤岡さんは、初対面でも親しみやすい雰囲気で、顔立ちの端正で少し寡黙な方だった。真面目、というよりは、ストイックという言葉が似合うだろうか。元ボクサーという経歴が、その佇まいにとてもよくはまっていた。

お互いに、在家（実家が寺でない）出身でありながら縁あって浄土真宗本願寺派の僧侶となり、今は宗派を超えた僧侶仲間と一緒に一般社会へ向けた事業を行っているという共通点もあり、自然と親近感が沸いた。そして同時に、一見同じような背景を持ち同じような試みに取り組んでいるようで、それぞれのスタンスにはかなり違いがあるのだろうということも感じた。

藤岡さんは僧侶として坊主バーを運営しながら、そこにいろいろな葛藤を感じている。坊主バーで誰に何を伝えたいのか、僧侶として人に何かを伝えるなどというのはそもそも非常におこがましいことではないのか、浄土真宗の仏道を歩みたいのであれば僧侶でなくても仏教徒として自覚を持てばそれでいいのではないか、など、僧侶として感じるところについて率直に話をした。どれも根本的な問題で、すごく大事な悩みだ。もちろんぼくもこれまで何度もそういう問題について考えてきた。でも、そういえば最近はそういうことをあまり考えなくなっていることに、ふと気が付いた。どうしてだろうか。

浄土真宗の教えは基本的に在家仏教の教えなので、僧侶も門徒も分け隔てなく、念仏を拠り所とする教えだ。僧侶というのはその教えを守り発展させるリーダー的存在に過ぎず、辞書的に見た「僧侶＝出家して仏門に入った人」という一般の感覚からすると、「僧侶」という言葉の意味合いから大きな隔たりがある。でも、一般の人から見れば僧侶は僧侶であり、そのイメージとのギャップに苦しむことは、真面目な浄土真宗の僧侶であればたいてい通る道なのではないかと思われる。また、教団自体が「僧侶」という立場に重みを持たせようとする構造を持っていることが、その混乱に拍車をかける。

仏教では三宝、つまり仏と法と僧を大切にしなければならない。
僧というのは、仏法を学ぶ仏弟子の集団のことを指す。

でも、だからといって、仏教徒たる者は、今現在の仏教教団が提供する枠組みに疑問を持つことなくその中で大人しくしていればよいのかといえば、そうではないと思う。僧を敬い大切にすることが求められるのであればこそ、僧がおかしな方向を向いていれば問題として真剣に考えることも必要だろうし、時代に即した方向性を模索していく実験も必要になるだろう。

得度式を経て教団から僧侶として認められると、そのことについてだけでも真面目に考えるといろんな悩みが出てくるが、それは仕方のないことだと思う。これだけ長い歴史を経た教団組織に対して、いまだに僧＝教団と考えるほうが、無理があるのかもしれない。同じ方向を向いた仏弟子集団を意識するなら、教団とかいうあまり大きなものを考える前に、たとえひとりずつでも身近なところから腹を割って話せる仏教同志を見つけていったほうがいいのではないか。

では教団なんて要らないのかといえば、ぼくはそうは思わない。長い歴史と伝統の上に成り立っていて今でもそれなりにかたちのある教団という組織は事業体としての魅力があるし、活用の仕方次第で大きな可能性を秘めていると感じている。だから、考えれば考えるほどきりがない「浄土真宗の僧侶として如何にあるべきか」という問題はひとまず棚に上げ、ぼくは積極的に教団内の仕事もしている。

でもやっぱり、その問題については棚上げしつつもいつも心のどこかで意識しておくべきことでもある。僧侶としての、というよりは仏教徒としての藤岡さんの真面目な姿勢に、ぼくもすごく大切なものをもらった。お互いにそれぞれ違った役割があるのだと思うが、クロスしたところでこれから何か一緒にできることがありそうな気がした。
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   <title>はじめに</title>
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   <published>2007-05-13T05:13:54Z</published>
   <updated>2007-05-10T02:37:17Z</updated>
   
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      　東大を卒業してすぐ、縁もゆかりもないところから飛び込んだ仏教界。光明寺でお坊さんとして活動しはじめてから早四年目になります。

　京都の本山で僧侶としての研修をこなしながら、日本の仏教寺院の基本的な勤めであるご法事やお葬式などの仏事、お盆やお彼岸や報恩講など特別な年中法要も一通り経験しました。また、関連業者との付き合いや会計処理など、宗教法人としてのお寺の経営についても内側から学ぶことができました。また、宗派から法話の布教使の資格を得、全国のお寺をまわって布教をする機会もありましたし、専任職員として宗派全体の仕事に携わる機会にも巡り会いました。さらに、お寺や周囲の友人の協力を得て、お寺コンサート『誰そ彼』や、お寺カフェ『神谷町オープンテラス』などの新しい企画にも積極的に取り組んできました。

　「人心が荒廃した時代こそ、ほんとうの宗教にがんばってほしい。しかし、期待している日本の伝統仏教は病気なのか歳なのか、最近どうも元気がないようだ。でもほんとうの力はこんなはずじゃない。その真価を再活性化して日本そして世界に発信するために、自分も何かお手伝いができないだろうか。しかし外側からのサポートでは限界があるし、手遅れになるかもしれない。そしてそもそも、ほんとうに何が問題なのか突き止めることが難しい。それならばまずは自分が飛び込んで、中からその世界を体験してみることが必要だろう」

　生意気にもそんな思いで飛び込んだ身ではありますが、そこは仏教界の懐の深さでしょうか。どこの馬の骨やらわからない者を受け止めていただき、おかげさまで今まで無事に、私は伝統仏教宗派の僧侶として仏教界の内側から一通りのことを経験することができました。
　では、中に入ってみたら日本仏教が元気のない理由がわかったかといえば、事はそう簡単ではないようです。仏教が元気を取り戻すというのは、なにも既存の仏教教団が勢力を盛り返していくということだけを意味するわけではありません。仏教は人が仏になる道として、ひとりひとりの人が自分の生き方として真剣に取り組んでいくための教えであり、人の生き方そのものなのです。お坊さんがもっともっと頑張らなくてはいけないのはもちろんですが、仏教界を取り巻く環境の変化も押さえた上で、より総合的に考えて問題を解決していく必要性をひしひしと感じています。

　私はたまたま、外側からの目と内側からの目、両方を持つ者として、これまでの仏教のあり方を総括し、これからの仏教の展望をみなさんと一緒に考えていきたいと思います。
      
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