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   <title>お寺の未来</title>
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   <updated>2009-12-17T13:40:05Z</updated>
   <subtitle>お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは気のせいでしょうか。こんな時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。彼岸寺の松本が見たり聞いたり感じたりしたことをもとに、「お寺の未来」について書くエッセイです。
松本圭介法名・釈紹圭（しょうけい）。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。神谷町光明寺所属。1979年、北海道生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。代表を務める光明寺仏教青年会は2008年に財団法人全国青少年教化協議会より第32回正力松太郎賞青年奨励賞受賞。インターネット寺院「彼岸寺」の運営。著書に『おぼうさん、はじめました。』 『&quot;こころの静寂&quot;を手に入れる37の方法』など。</subtitle>
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   <title>お知らせ</title>
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   <published>2009-12-17T13:28:19Z</published>
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   <summary>「天竺からの合格通知」という記事にも書きましたが、おかげさまでインディアン・スク...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[<a href="http://www.higan.net/blog/master/2009/11/post_22.html">「天竺からの合格通知」</a>という記事にも書きましたが、おかげさまでインディアン・スクール・オブ・ビジネスというインドのビジネススクールに合格しました。２０１０年に入って間もなく、インドへ旅立つ予定です。

これからの準備期間も含め、留学期間中は新ブログ<a href="http://www.higan.net/blog/isb/">「MBA西遊記～お坊さんならいつかは天竺へ！日本仏教経営改革を目指しインドのビジネススクールに留学する僧侶のブログ～」</a>として更新していくことにします。なるべく多くの方、仏教関係者だけでなくビジネスパーソンの方にも読んでいただきたいと思い、あえてちょっと大げさなタイトルにしましたが、書く中身は今までとそんなに変わりません。むしろこのブログはもっと軽い感じで、今のインドの様子などもお伝えできるよう現地の写真もたくさん入れていきたいと思っています。

一年ほど、家族を引き連れてインド生活を送ることになります。日本人の生徒は他にいない（過去にもいない）学校生活はかなり心細いものがあります。ぜひみなさま、<a href="http://www.higan.net/blog/isb/">新ブログ</a>をお読みいただき応援をよろしくお願いいたします。]]>
      
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   <title>仏教と私</title>
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   <published>2009-11-24T15:49:54Z</published>
   <updated>2009-11-24T16:01:42Z</updated>
   
   <summary>＜自己を知り、世界を知り、世界の中で自分がどのように生きるべきかを知ること＞ 一...</summary>
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      ＜自己を知り、世界を知り、世界の中で自分がどのように生きるべきかを知ること＞

一歳になった息子は何でも私の真似をする。おかしな仕草をするとその通りに真似しているので、ドキッとする。親の背を見て子は育つというくらい、子どもが育つ上で親の影響は大きい。親の生き方が子どもの将来を左右することも大いにあり得る。私は子どもにおかしな仕草ばかりでなく、人として大事なことを伝えたいと思っている。ひとつだけ選ぶなら、私は息子に「何事であれ真剣に全力で一生懸命取り組むこと」を伝えたい。

私の頭が単純なだけかもしれないが、余計なことに惑わされさえしななければ、人生はけっこうシンプルに生きられるのではないかと思う。いつも今やるべきことを一生懸命にやる、簡単なことだ。就職セミナーのキャッチコピーにそそのかされて、「自分のやりたいことを見つけよう」としては失敗する。諸行無常、変化しないものは何もないというのに、ましてや人の心のように移り変わりやすいものを頼りにモノを考えてはうまくいかない。「私はほんとうは何をしたいのか」などといくら考えたところで答えは出ない。今日やりたいと思っていたことが明日にはコロっと変わるのが人間だ。しかし、「自分のやるべきこと」の軸はそうコロコロと変化するものではない。自己の内面と外的世界に対する総合的な理解と大きな流れをふまえて見いだされた「やるべきこと」に従っていれば、大きく道を踏み外すことは少なくなるだろう。

自己を知り、世界を知り、世界の中で自分がどのように生きるべきかを知ること。およそまともな宗教というのは、そのために役立つ要素を必ず持っている。ただ、そうでなければ、自分に合わないメガネや質の悪いメガネではぼやけて何も見えないか見える範囲が限られているように、できることは限られる。その点、数ある宗教の中でも仏教は特に優れていると思うが、他の宗教だって悪くない。とにかくまず、自分を知ることが大切だ。自分など結局のところ何ものでもないという事実を理解することも含めて、自分を知ることが大切だ。私にとって宗教とはそのための方法論である。その目的に資するのであれば、宗教でなくても構わないと思う。何事であれ真剣に全力で一生懸命取り組んでいれば、自ずと自己を知ることになる。そういう実体験があれば、将来仏教に出逢ったときにその意味がよく分かるようになると思う。
      ＜良い縁と悪い縁＞

これは私のたかだか三十年の人生から得た経験論に過ぎないが、心身を整えて真面目にやっているとやるべきことのほうに近づいていくし、野方図でいればやるべきでないことに引っ張られていく。やるべきことのほうに近づくと良い人に出会えさらに良い方向へ展開が生まれる。逆に向かうと集まる人の空気も淀んで足を引っ張り合いながら一緒に堕ちていく悪循環に陥る。だから、やるべきこととやるべきでないことを見極めたければ、やる内容ばかりでなくそれをやる仲間がどんな人物であるのかも非常に重要だ。仏教で「サンガ＝僧団」を重視するのもそのためだろう。どれほど能力が高くても、その人の周りに邪悪な空気が立ちこめていたら、やはり近づかないほうがいい。その意味で、縁を見極める力と縁を引き寄せる力がとても大切だ。身の回りには良い縁と悪い縁がいくらでも転がっているが、片っ端からかたちにしているヒマはないし、かといってすべて無視していては人生が先に進まない。適切な良縁を得て、その都度必要な学びをしなければならない。そのためには、心身を整えることが殊の外重要である。たとえば、いつも微笑んでいる人が良縁を呼び、いつも怒ってばかりいる人が良い縁を遠ざけるであろうことは、誰でも想像がつく。

ところで、今書いたような事柄はもしかしたら「人生の成功法」的なものを説いているかのように聞こえるかもしれないが、それは主旨ではない。もちろん、「身の振る舞いを糺す」などの心がけは、社会的な地位を得るとか経済的に豊かになるとかのいわゆる世俗的な人生の成功を得ることにも間違いなく貢献するはずだが、それはあくまでも副産物であり、木に毛虫が何匹とまっているかという程度の問題に過ぎない。根本的な問題は、いかなる木であれ与えられた人生という木そのものを目一杯生きることだ。そのためにはそれがどういう木なのか知らなければならないし、木がどういう世界に生えているのか知らなければならない。木が木として存在することについてどこまで遡っても根拠など見いだせないことを知り、愕然とすることもあるだろう。しかし同時に、それにもかかわらず木がこうして木として成り立っている生命のエネルギーの不思議に喜びも見いだすだろう。

＜浄土というフレームワーク＞

私がそんなことを考えるのは、過去に自分に訪れた二度の精神的体験、おそらく宗教体験と言っていいと思われる体験がもとになっている。一度目は大学生の頃。自宅への道を歩いている途中、急に世界から意味と時間が脱落し、あらゆるものが、道ばたの石ころまでが輝いて見えてきた。過去も未来も今まさにここにあるという実感が湧いて、心が喜びに満たされたのだ。並の喜びではなくて、しかしその喜びはほんのつかの間で、自宅に着く頃にはすでに無くなってしまった。ときどき思い出しては「あれは何だったんだろう」と考えることはあったが、やがて風化して不思議な思い出のひとつになった。こうして文字にするとちょっと頭のおかしいように思われるかもしれないが、実際にそういうことがあったのだから、まあ仕方がない。

二度目は今年の夏である。受験勉強の息抜きに仏教の本を読んだり仏教のことを考えたりしながらときどき近所の海を散歩していたのだが、そこでまたもや世界から意味が脱落した。「世界なんて所詮無意味だ」というニヒリズム的な感じではなくて、意味ー無意味の対立を超えた非意味というほうが近い。世界が区分なくそのまま立ち上がって来るのだが、それは「ありのまま」という言葉では淡白すぎるように思われる、ナマなましくダイナミックな感覚。そして、これほどまでに不可思議な世界を生きているにもかかわらず、人間社会の中で価値を持つとされているものを所有することにより自己という存在を確立しようと足掻く世俗の日々の営みはまったく無意味であると心底思い知らされたのだ。「もうこれは完全にお手上げ」というくらい、今までこだわってきた自己というものが完膚なきまで打ちのめされた。しかし不思議と苦しくはなく、むしろ清々しい喜びが込み上げてきた。

私は本願寺で得度してから七年目になるが、恥ずかしながらこのときやっと親鸞聖人の教えを身にしみて理解することができたと思う。浄土真宗流にいえば、私のところに信心がやってきたということか。「自己の凡夫性を認識するということは、浄土の真実に出遇うということとセットでなければ、決して成り立たない」と先生から教わったことが本当の意味で分かったような気がした。親鸞聖人の言うところの自己の愚かさとは、もちろん相対的に評価されるものではなく、また自己の想定しうる範囲の絶対性から見いだされるものでもなく、自己を超えたとんでもないものが差し込んで来ない限り照らされることのないものなのだろう。そして面白いことに、自分の愚かさを思い知らされる経験が、不思議とそのまま喜びとなり生きる力を生み出すのである。

このときの私の体験は、一度目の宗教体験と質的には同じものだったと思う。しかし今回、私は仏教と浄土真宗に親しんでいたおかげでその体験を良い意味で享受し、自己と世界を理解するために役立たせるための枠組みを持っていた。もしそれがなければ、場合によっては「こんな体験を二度も得るとは、自分には何か特別な感覚があるのかもしれない」などと有頂天になり、凡夫性の自覚とは逆の選民意識を持つようなこともなかったとは言えない。しかし浄土真宗のおかげで、勘違いすることなく体験を消化することができたと思う。この機会に私は、世界と自己を理解するための浄土の物語というフレームワークの威力を再認識することとなった。

＜私のやるべきこと＞

仏教徒の自覚を持って日々の暮らしを送る中で、私のやるべきことは何かといえば、いかなる方法であれ、仏教の魅力をそれを必要とする人に広く正しく伝えることと心得ている。しかし、妻子を持ち俗世間の中で経済活動を行って生計を立てて生きることを選んだ私のような俗人は、筋金入りの出家者がそのために整えられた優れた環境の中で相応の覚悟を持って取り組んだ結果得るであろう仏教的到達点は望むべくもない。しかし私は私なりに俗人としてできる限りのことをし、精いっぱい仏教を通じて人のために生きたい。

人間が皆それぞれ違うように、人によってやるべきことも違うわけで、他人のやるべきことをとやかく言ってもあまり意味はないだろう。本人ですら自分がなぜそれをやるべきなのか明確な理由は分からないのに、自分がそれをやるべきことだけは強烈に自覚されているという場合もあるものだ。「なぜ山に登るのかーそこに山があるから」が答えになっていないのに説得力があるのは、そういうことだろう。ただ私の経験上ひとつ言えるのは、何であれ人は心身を整えて真剣に取り組んでいれば、やるべきことに向かって自ずから近づいていくということ。あるいは、やるべきことが自ずからこちらに向かって近づいてくる。そうなればしめたもので、損得勘定や余計な情報に惑わされることが少なくなって自分の進むべき道を選びやすくなるし、「おれは本当にこれをやりたいのだろうか」などといちいち自分の心に動機付けを伺う必要もなくなる。刻々と移ろう時代の潮流に乗るのではなく、いわば普遍的な良いエネルギーの流れに身を任せているような状態だ。

私はたまたま「自分のやりたいことはこれではないか」と思い立ち、お寺に入り僧侶になった。そしてさまざまなご縁と共に自分の限界にぶつかったり試行錯誤を繰り返す中で「やりたいこと」が「やるべきこと」に淘汰され、現在のような「今、自分がやるべきこと」が少しずつシェイプされてきた。その結果、「在家仏教徒の立場から、仏教の魅力をそれを必要とする人に広く正しく伝えることに貢献する」ことが、私のやるべきこととして意識されるようになった。

今のところそれは具体的にどういうことかといえば、

1. 真剣に出家を志す僧侶が経済活動に煩うことなく仏道修行に専念できる環境を整えること
2. 寺院での社会貢献活動を活発化させ、人が安心や生き甲斐を取り戻す場として寺院を機能させること
3. 未だ明確な自覚のない人も含め、仏教を必要とする人に対してあらゆる方面から仏教に触れるきっかけを作ること

などだろう。

最初に持ってきておいて何だが、1.のようなことは在家主義の浄土真宗ではあまり言われることではない。しかし親鸞聖人だって最初は比叡山で二〇年間も修行をされていたのである。宗教が人を惹き付けるのは教義そのものよりも先に人物だ。その意味で、私は宗教においては人物を育てることが最も重要だと考えるのだが、現状の仏教界の受け入れ態勢は十分とは言い難い。だからこそ、真剣に出家を志す僧侶が法事やお葬式などの経済活動に煩うことなく修行できる環境を整えることは絶対に必要だと思うのだ。たとえ浄土真宗においても、生まれてこのかた浄土真宗という人ばかりではダイナミズムが失われる。紆余曲折を経て浄土真宗に辿り着きましたという人でなければ説けない浄土真宗というものもあるはずだ。ちなみに私のような僧とも俗ともつかぬ者がお寺から給料をもらっている場合ではなく、いつか自立して頑張るお坊さんの修行を支えるためにお布施する側に回らなければならないと思っているが、それは今後の課題である。

2. に関しては、私はこれからビジネススクールで法人経営について学ぶ中で、ソーシャルエンタープライズとしてのお寺のあり方というものを模索していきたい。人はなぜ宗教を求めるのか、その問題について現場レベルでの理解をもっと深めねばならないと思っている。伝統仏教はずいぶん新宗教に信者を持っていかれているが、少なくとも教義上の不備でそれが起こっているわけでないことは教義を見比べればたいていは明白である。にもかかわらずお寺を離れて新宗教に行く人が多いのは、あきらかに人が宗教に求めるものを伝統仏教界が提供していないということを示しているに他ならない。人生に悩んでいる人が元気になり、安心や生き甲斐を取り戻すような場としてのお寺を作りたい。

この彼岸寺というサイトをはじめ、私がこれまでやってきたことの多くは、3. の「仏教に触れるきっかけ」を作るという仕事だった。きっかけ作りというのは熱心な仏教者からしてみれば浅い仕事に見えるかもしれないが、私はそれはそれでとても大事なことだと考えている。人生の中でいつも宗教的な感性を研ぎすませているという人は稀で、たいていはふだん宗教的な事柄などほとんど考えずに忙しく過ごしている。しかし、何かの拍子にふと存在の裂け目に気がつくこともある。そういうとき、「お寺に行ってみようかな」「仏教に答えがあるかもしれないな」と思いつくかどうかは、社会の中での仏教のプレゼンスによるところが大きい。もちろん、仏教の名を貶めるようなことでプレゼンスが高まっても逆効果だが、日本仏教は広い文脈を持っているのでいろんな面から取り上げて興味を持っておいてもらうことは意外に重要なことだ。きっかけを得た後さらに深めたい人は、そこはもう人対人でしか伝わらない世界に入っていくだろう。仏教知識のさわりをネットから得たところで、それ以上は難しい。宗教は人から人へ、だ。共感する僧侶に師事するなどして各人が体験を通じて仏教を学んでいってもらうのが一番だ。

＜僧に非ず俗に非ず＞

ちなみに私は浄土真宗の僧侶という肩書きであるが、人が仏教に触れてもらった先には皆に浄土真宗に入ってもらいたいとはぜんぜん思わない。浄土真宗を必要とする人が浄土真宗を依りどころとすればよいのであって、別の枠組みで取り組みたい人は曹洞宗でもテーラワーダ仏教でも何でもいい。私も禅の本に共感することがたくさんあったりする。もっといえば、優れた方法論があるのであれば仏教でなくたっていい、もしあるのであれば。どの道で近づこうとも、その先にあるものは変らず待っているはずだ。いろいろ試してみてもいいし、他の方法論から学んでもいいだろう。所属グループ間のイデオロギー戦争になることは本末転倒なので避けたいが。

私は７年前に本願寺で得度してからこれまでしばしば「僧侶としてどうあるべきか」ということを考えることがあった。僧侶であるということはどういうことか、僧侶として社会の中でどう行動すべきか、など思い悩んだこともあった。しかし今は、その問題意識はほとんどなくなった。少なくとも自分の中では、私は僧侶ではなく在家の仏教徒であり、一人の人間であり、たまたまこの不可思議な世界に生まれたひとつのいのちに過ぎない。今私は、そういう者がこの世界でやるべきことをやっていけばいいだけなので、僧侶としてとか仏教徒としてとかの理念的な動機はもうどうでもよくなってしまったのだ。ただ、私のやるべきことをやるには仏教の僧侶という肩書きがあったほうが仕事上都合がいいので、矛盾をはらんでいながらもある意味で最もウソの少ない「浄土真宗の僧侶」という立場でやらせていただいている。

ひとつだけ注意しているのは、ともすれば「浄土真宗の僧侶」は「そのままでいい」を強調しすぎるあまりに怠惰な生活に流れてしまったりしがちなので、その点はせめて「僧侶」と社会的に認識される仏教徒として振る舞いを糺すことを心がけていきたいと思っている。たとえば、私はもともと大酒飲みであったが、今はもう１年ほど一滴も飲んでいない。執着しているものを捨てるのは最初はなかなかつらいものだが、中途半端に「一杯だけ」などとすると惰性が出てくる弱い人間なので、いっそのこときっぱり止めてしまった。お陰で有効に使える時間も増えて心身共に健康的な生活になり、朝は早起きをして仕事もはかどるようになり、失敗も少なくなった。不飲酒戒が五戒に入っているのには理由があるのだ。よし、この勢いで、もう一生飲まないこととする。と書いてしまった以上、私はそれを実行しなくてはならない。不妄語戒＝ウソをついてはならないという戒もあるのだから、真剣な仏教徒でありたいと言う私の言葉が軽くては話にならないだろう。頑張ろう。

非僧非俗とは親鸞聖人の境涯だが、私なりの解釈をさせていただけば、この時の親鸞聖人の心持ちは、よく言われるように「国家の僧という立場から決別し、真の仏弟子としての自覚を新たにされた」という重い決意も込められているかもしれないが、もしかしたら「もう僧でも俗でもどうでもいいんだけど」というあっけらかんとした心持ちもどこかにあったのではないかと思うのだ。自身が沙弥（出家前の在家の仏弟子）であるとも名乗っておられるので、在俗の仏弟子としての自覚を強く持っておられたのだろう。私は仏教界に入っていろいろな素晴らしい方と出逢うご縁をいただいたが、その中には出家僧侶として立派に活動されておられる方もおられるし、まさに非僧非俗を地で行く活動をされておられる方もおられる。私はといえば、真剣に活動される出家僧侶の方の活躍をサポートしながら、親鸞聖人の非僧非俗の境涯を見習って仏教のためにいい仕事をしていくことが本分のようだ。

いつか大きくなった子どもに、「お父さんは最も真剣に仏教に取り組んでいる人の一人だ」と胸を張って言えるくらい、一生懸命に私なりの仏道を追求していきたい。
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   <title>天竺からの合格通知</title>
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   <published>2009-11-15T15:54:45Z</published>
   <updated>2009-11-15T16:12:34Z</updated>
   
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      今日は久しぶりに、これまでここで自分が書いた記事を読み返した。今からちょうど一年ほど前に『お寺の美しい経営』という記事の中で「経営を勉強したくなってきた」と書いていた。それから数ヶ月後、それを実行に移すべく、ビジネススクールを受験するためにいったん仕事（お寺）を離れ、故郷の北海道に家族で引っ越しをし、実家にこもって勉強に励んだ。そして今月の初めに、おかげさまで第一志望校から合格通知を受け取ることができ、晴れて受験勉強から解放される身となった。

思い返せばここへ来るまで、なかなか長い道のりだった。お寺の経営についてもっと深く勉強してみたいと思い始めたのが、昨年の前半。しかし、仏教の教義を学べる専門学校や仏教学を研究する大学はあっても、仏教寺院の経営を専門的に学べる学校は存在しない。もう少し広げて、宗教法人の経営を学べる学校があるかと探してみたが、辛うじて世界の宗教組織の歴史的変遷について研究している教授がいるくらいで、現代社会における仏教寺院の経営を具体的に学び実践的なスキルを身につけたい私の目的に合いそうな学校はなかなか見つからない。これはやはり、ビジネススクールしか選択肢はないのかなと思い、MBAホルダーのヘッドハンターの方に相談するなどした結果、１―実践的に経営を学びたければビジネススクールが最適であること、２―組織の経営という点ではビジネスもノンプロフィット（宗教法人含む）も大差ないこと、３―最近のビジネススクールでは営利企業だけでなくソーシャルエンタープライズも重視していること、などからやはりビジネススクールを受験することに決めた。
      <![CDATA[ビジネススクールに行くと決まれば、次はどこに行くかが問題となる。学校によってそれぞれ特徴があって、それぞれゼネラルマネジメント・ファイナンス・不動産・ヘルスケア・マーケティグ・バイオテクノロジー・メディア・アントレプレナーシップなど強みとする分野を持っている。そして何より、どこに国の学校に行くかということも重要だ。ビジネススクールでは人脈作りが目的のひとつとして重要であり、さらに留学となれば異文化体験も貴重である。国内の学校に行くことも少しは考えたが、やはりせっかくなら国際的な環境に身を置いてみたいし、日本から一度離れてみたほうが、かえって日本人に染み付いた仏教的なものを客観的に見られるのではないかと思ったのだ。

実は当初、私はインドのビジネススクールへ行くことはできないかと考えた。インドは夫婦でいちばん好きな国だし、仏教徒にとってお釈迦さまが生まれた国として大切な国でもある。昨年生まれた息子にガンジス川という意味の名前をつけたくらいである。また、過去に二度インドを訪れたことがあり、ブッダガヤなどが世界の仏教徒が集まる中心地として重要性を増していることも理解していた。そして、仏教を脇に置いて考えてみても、中国と並んでこれからのアジアを牽引していくであろう大きなポテンシャルを持つ新興国として、インドは世界の中での存在感を急速に増している。私がインドという国で学ぶべき理由が他のどの国よりも大きいことは確かだった。やはりお坊さんが勉強するなら天竺を目指したい。

しかし、肝心のインドのビジネススクール事情は厳しいものだった。インド国内のビジネススクールランキングなどで調べてみると、国立の経営大学院の５～６校が最もレベルが高いとされていることが分かった。しかし、これらの学校を受験するにはCATと呼ばれるとんでもなく競争率の高い試験を受けなければならず、合格できるとは到底思えなかったのだ。なんでも、そのテストは成功を求めるインド中の秀才が受験して、百名に一人くらいしか受からないと言われているそうだ。この時点で、早々にインド留学は諦めた。

正気に戻って世界のビジネススクールを見てみると、やはり評価の高い学校はアメリカに集中している。またヨーロッパには、イギリスやフランスやスペインなどヨーロッパにも複数の有名校がある。その他、アジアのビジネススクールの評価はそれほど高くはないが、それでも最近では中国の学校のレベルが上昇しているようではある。インドがダメなら中国もありかと思ったが、なにしろ共産党の国なので、お坊さんがどんな扱いを受けるのか少し心配もある。消去法の結果、とりあえず無難にアメリカのビジネススクールを目指して勉強することにした。複数の人から、校風的にスタンフォード大がいいんじゃないかとアドバイスを受けたので、そこを仮想校としてイメージしながら勉強した。

受験したことのある人ならよくご存じかと思うが、ビジネススクールはほぼ全世界で共通の試験プロセスが採用されている。日本人は、まずTOEFL。TOEFLはビジネススクールに限らず英語圏への留学の際に要求される試験で、大学などを試験会場として全世界で実施されている。インターネットベースの試験だが、リーディングとリスニングだけでなくスピーキングとライティングも含まれる。スピーキングはパソコンのマイクに向かってしゃべり、ライティングはキーボードで文字を打ち込み文章を書く。お金と時間の許す限り何度受けてもいいのだが、受験料が一回につき200ドルとやけに高いし、一回の受験に四時間もかかるので、なるべく少ない回数で終了したいものである。

TOEFLをどの時点で終了とするかは、自分で決めなければならない。どういうことかと言えば、TOEFLの合計120点満点のうち、自分の志望校の要求するレベルに達するまで頑張らなくてはならないのだ。学校によっては最低基準点が定められていて、たとえばスタンフォードは100点である。必ずしも要求スコアが学校のレベルを表しているわけではないが、トップスクールと言われる世界の上位２０校に入る学校を受験したければ、最低でも100点くらいは取っておくべきと言われている。

私は結局コツをつかむのに時間がかかり、TOEFLは最初から数えて合計八回も受験する羽目になった。TOEFLだけでもざっと合計1600ドルもかかっている計算だ。最近、TOEICの実施団体が国から6000円を超える受験料が高すぎるとして指導を受けていたが、TOEFLの高さはそんなレベルではない。TOEFLはアメリカの企業が運営しているので、この受験料はアメリカへの寄付金のようなものか。この時点でアメリカという国に行く気が失せてくるのは私だけだろうか。とにかく、まだ東京にいる頃に受けた一回目の試験で120点満点中71点だった私の成績は、ほぼ九ヶ月後に受けた八回目の試験でやっと102点となり、ひとまずTOEFLを終えることができた。

もうひとつはGMATという、これまた世界共通試験。こちらはTOEFLと違って英語が母国語の人たちも受ける英語の読解力と数学の基礎力が試される試験だ。ネイティブの人と同じ試験を英語で受けなければならないのはなかなかハードルが高いが、ネイティブよりも文法に詳しかったりする日本人ならではの高校英語で多少の点数はとれる。そして、数学は設問に出てくる数学用語の英単語を覚えてしまえば、大学受験で数学が必要だった日本人ならかなり点数が稼げるはずだ。私は大学は文系受験だが、数学が一番の得意科目だったこともあり、問題を解くスピードアップの練習を繰り返していくことで高得点をとるコツをつかめるようになった。このGMATもTOEFLと同じようにインターネットベースの試験で、満点は800点。トップスクールに合格するには700点前後が必要と言われている。この試験は一回の受験で250ドルかかり、一年間のうちに５回までしか受けられないという制限がある。私は最初の受験で670点が出てまずまずだったのだが、その一ヶ月後に受けた二回目の受験で660点と点数が下がってしまったので、ひとまずそこで様子を見ることにした。

ちなみに受験勉強は北海道の片田舎なので予備校もなく、参考書とiPodとオンライン英会話サービスを利用してすべて自宅でやっていたが、あまり問題を感じたことはなかった。ある程度、勉強のために時間をとれる人は、予備校に通う必要はそれほどないのではないか。

さて、それらの試験を受けるのと同時に、奨学金の申請も忘れてはならない。ビジネススクールの受験を受け入れてくれる主な奨学金はロータリー財団奨学金とフルブライト奨学金だ。両方を同時に受けることはできないが、申請するのは自由なので、私は両方に申請した。幸いにも、まず最初にロータリー財団の奨学金に合格し、受給資格を得ることができた。1年間で25,000ドルの支給はありがたい。しかし、これでもビジネススクールへの留学費用には全然足りないのが実情だ。

ビジネススクールの学費は行き先にもよるが、総じてべらぼうに高い。アメリカのビジネススクールはほとんどが二年間のプログラムで、学費や生活費を合わせると総額150,000ドル以上必要になることも少なくない。ヨーロッパで主流の一年制プログラムでも、総額70,000ドルから100,000ドルくらいかかる。それでも目指す人が増えているのは、ひとつには社費や公費で留学する人も多いということと、もうひとつには自費で行っても卒業後に見込まれる給料アップによって最終的にはペイできると考えている人が多いということがある。しかし、私の場合はお坊さんとして行って、帰ってきてもまた同じようにお坊さんをするだけなので、たとえローンを組んでも工面できるかどうか怪しい。しかもこれから一歳になったばかりの子どもの将来の学費も考えなくてはならない。どう考えても奨学金をとらなければ無理なのだ。

さて、ロータリー財団から奨学金をいただけることになった私は、志望先の学校を精査する作業をする時期に入った。今年７月くらいのことである。アメリカの学校を想定して勉強してきたが、ふともう一度、世界の学校の情報を調べ直してみようと思ってインターネットで資料を集めているうちに、<a href="http://rankings.ft.com/businessschoolrankings/global-mba-rankings">フィナンシャルタイムズの世界MBAランキング表</a>を見つけた。上から順に眺めていくと、8位に中国のCEIBS。ずいぶん中国もランキングを伸ばしているのだなと感心していると、15位に並んでいたのがインドのISBだった。<a href="http://www.isb.edu/pgp/">Indian School of Business（インディアンスクールオブビジネス）</a>。以前、インドのビジネススクールについては一度調べたはずなのに、そのときには見なかった名前だ。興味を持ってサイトにアクセスしてみると、まだ設立から十年も経っていないにも関わらず、近年急速に評価を高めている学校ということだった。実際、インドでナンバーワンのビジネススクールという評判になっているのだが、設立から日が浅く、またヨーロッパと同じ一年制のプログラムを採用しているため、インド政府から学校法人としての認可を受けておらず、そのせいでインド国内の学校リストには載ってこないらしかった。しかし、世界的な評価とインド国内での実質的な評価は確かなものなようだ。ここで再び、私の志望校ランキングの第一位に、インドの学校が急浮上することとなった。

それからは、他の受験校は横において、まずISBの受験に専念することにした。まずは実際に体験した人の話を聞くためISBの日本人卒業生とコンタクトを取ろうと思い、インドの入試事務局に連絡してみたところ、まだ正規の日本人卒業生はいないとの回答。もし私が合格したら、初の日本人学生になるということだ。ちょっとたじろいだが、まあそれも何かのご縁だろうと思い直し、とにかく出願申し込みをした。

ビジネススクールの出願には、TOEFLとGMATのスコアの他に、各スクールが指示するテーマに従ってエッセイ（小論文）を提出しなければならない。自分の強みや弱み、仕事でこれまで達成したこと、キャリアゴールと学校との相性など、キャリアだけでなく人生も考えさせられるようなテーマが与えられる。私はなぜお坊さんになったのか、お寺でどういうことを成し遂げたか、これから仕事でどんなことをしていきたいのか、などについて、率直に書いた。いきなり本命校なので、かなり時間をかけた。エッセイ添削サービスなども利用して、英語のネイティブチェックもお願いした。

やれるだけのことはすべてやって、出願書類を提出した。最近ではどの学校もすべてオンラインで出願を受け付けるので、書類の提出はクリックひとつで済んでしまう。後は、面接の通知が来るかどうかをひたすら待つ。ほとんどのビジネススクールでは書類だけで合格することはなく、書類審査にパスした人は面接を受けて、その上で最終的な合否を判断されるのだ。ただ、このインディアンスクールオブビジネスの場合は日本での実績が少ないため、日本人は外国人枠で電話面接でも可能ということだった。しかし、私は実際に現地を見て感触を確かめてみたいこともあったし、自分の熱意を伝えたいこともあって、インド人と同じようにキャンパスでの面接を申し込んだ。

結果を待つこと数週間、というようなどきどきする間もなく、すぐに書類審査がパスした旨の連絡を受け、面接に向かうことになった。二年前にインド旅行したばかりだが、明確な目的を持ってインドへ行くのは初めてである。飛行機の中ではビジネス面接に関するiPodプログラムを聞き続けていた。

ISBのキャンパスのあるハイデラバードという街は、南インドの内陸部、デカン高原の真ん中あたりにある。バンガロールとともにインドというより世界のITセンターとして急速に発展している街だ。新しくオープンしたばかりの国際空港はインドとは思えない近代建築で、空港から市街地へはこれまた完成したての高速道路がつないでいる。昔ながらのオートリキシャーや野生バッファローの間を走るロールスロイスがインドの極端な経済発展を物語っていた。

マイクロソフトやグーグルなど世界的IT企業が軒を連ねる新興ビジネスエリアの中にあるISBのキャンパスには、インドとは思えない別世界が広がっていた。広大な敷地の中心にあるメインホールは国際的なビジネス会議も可能な規模と豪華さだ。それを取り囲むようにして四方に学生用の寮がある。インドの常識でなく、日本の常識で考えてよいというほど、とにかく基本的にすべてが先進国スタンダードなのだ。スタンダードからずれているのは、物価くらいである。キャンパス内の物価は市街地よりは高いが、それでも日本やアメリカよりははるかに安い。定食が２００円くらいで食べられるのは素晴らしい。そして何より、学費も生活費も安い。一年制プログラムで総費用50,000ドルを切る。それでも結構な額ではあるが、これならロータリー財団の奨学金と学校が提供する奨学金を組み合わせれば、ほとんどカバーできそうだ。

面接はとても和やかなものだった。最初の質問はあらかじめQ&Aで想定していたもののうちのひとつ、「あなたのキャリアにとって、なぜビジネススクールが必要なのですか」というものだった。予定通り、日本の仏教寺院にも組織があり、そこにはマネジメントが必要であること。現状ではマネジメントの欠如によっていくつかの問題があるため、それを自分が埋める役割をしたいということを伝えた。続いて、「仏教とは何ですか」と聞いてきた。こんな質問はビジネススクール受験マニュアルにも載っていないし、想定もしていなかったので少し驚いたが、自分にとって仏教は単なる宗教ではなく、way of life であるということを説明して答えた。すると、今度はさらに「八正道とは何ですか」と来た。八正道について、私が先の回答の中で触れたわけではない。面接官が自分の知識で聞いてきたのだ。現在インドの仏教徒は人口の一パーセントにも満たないが、さすがお釈迦さまのお生まれになった国である。ヒンズー教徒であっても精神世界を大事にする人は仏教の勉強もしているのだ。ちょっと感動しながら、仏教について語り合った。やはりこの国には、何かある。

翌日、面接官から連絡があって、もうちょっと仏教について話をしたいから、部屋に来てくれと呼ばれて、さらに話をした。彼はビジネススクールの主任事務官でありながら、精神性を深めるために瞑想や読書に毎日必ず二時間を当てているという。日本仏教やインドの精神世界事情などについて話し合うことができて、とても有意義だった。今になって思えば、この時点ですでに合格は決まっていたのかもしれない。

日本に帰って数日後、メールでISBから合格通知を受け取った。実はこの数日前に、フルブライト奨学金の書類審査を通過して最終面接まで進んだという知らせを受けていた。フルブライト奨学金はアメリカの大学のみが対象となるのだが、驚くべきことにすべての学費と生活費をカバーしてくれる夢のような奨学金なのである。アメリカのビジネススクール留学の総費用150,000ドル以上がタダになるかもしれないなんて、願ってもない話だ。もちろん心は揺れ動いた。しかし、第一志望のISBに受かってしまった以上、これ以上手続きを進めても先方にも自分にも負担が増えるだけである。丁重に辞退の連絡をし、ここですべての受験プロセスを終了した。今はまだ、この選択が正しかったのかどうかは分からない。今できることは、後でそれが正しかったと言えるよう、この留学で大きな成果を出すだけである。

ところで、今回の自分の受験を通して分かったことは、お坊さんはビジネススクールに入りやすいということである。なんだか妙に思えるかもしれないが、それは事実だ。お坊さんだけではない、ふつう、ビジネススクールを受験しなさそうな職業の人は、かえって受験に有利な場合があるのだ。なぜかといえば、ビジネススクールが学生の職業や属性にダイバーシティ、つまり幅の広さを求めるからである。私は最初、ビジネススクールは投資銀行やコンサルティングファーム出身の人たちを優先的に合格させるのだから、お坊さんが合格するのは無理なんじゃないかと思っていた。しかし、いろいろな人の意見を聞いたり、実際に受験してみるうちに、そうではないことが分かった。反対に、人とは違う珍しい要素を持っていれば、それは他の学生との差別化要因としてプラスに作用するのだ。そして職業は何であれ、将来的にその人の成功が学校の評判のためにプラスとなると判断されれば、ビジネススクールはその人を欲しがるのである。その点、お坊さんの場合、他にも同業のお坊さんが出願してくることはまずない。逆に、銀行やコンサルティングの人にはビジネススクールはハードルが高い。優秀な同業者が多数応募してくるからだ。皆、英語も数学もできるし、学歴も職歴も完璧。小論文を書くにせよ、他の人と違うことを書こうとするのは難しく、皆悩むらしい。そういう意味で、お坊さんをはじめ珍しい職業の人がビジネススクールを受験するとき、その職業が意外に有利に作用することもあるのだ。

しかし、入学してからは大変だ。同業者がいないということは、同じ苦労を分かち合える仲間がいないということでもある。しかも、私の場合は多数のインド人の中で、日本人どころかアジア人としてもたった一人かもしれない。ただでさえあまり上手でない英語が、インド人の早くて聞き取りにくい英語環境についていけるだろうか。しかも皆、数十倍の受験を突破してきた優秀なインド人ばかりである。唯一の救いは、インド人はなぜか親日家が多く、日本人に優しいということか。インドからの帰り道、空港のチェックポイントで日本人と答えただけで急に扱いが優しくなり、「日本人はとても知能の優秀な人たちだ」と賞賛されたりするくらいだ。おかげさまの精神で和を重んじて頑張れば、きっとなんとかなるだろう。

というわけで、来年４月から妻と赤ちゃんを伴って一年間、インドに住むことになった。天竺での留学生活がどんなものになるのか想像もつかないが、とにかくいろんな意味で存分に満喫しようと思っている。

見守ってくださった皆様、応援してくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。よい結果を報告できて、嬉しいです。この場を借りて、まずは感謝を申し上げます。]]>
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   <title>仏教徒が悪の陰謀を阻止する</title>
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   <published>2009-09-21T14:58:13Z</published>
   <updated>2009-09-21T15:07:50Z</updated>
   
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      世の中のほぼあらゆる出来事について、いくつかの陰謀説が存在する。たとえば、豚インフルエンザは欧米の製薬会社と一部の国の首脳部が結託してワクチンで儲けるために故意に起こしたとか、世界同時多発テロは当時の米国大統領が戦争の口実を作るために自作自演で行ったとか、そもそもこの世界はロスチャイルド家やロックフェラー家など一握りの超大富豪一族によって秘密裏に支配されているとか、世界を牛耳る人はだいたいフリーメイソンだとか、その手の話題はいつの時代にも一定程度の人に受け入れられ支持される。

たいてい、そういう陰謀説は読み物としては面白いのだが、論理が飛躍しすぎて信憑性に欠けるものも少なくない。しかし中には、しっかりした証拠を出しながら真面目に論じられているものもあるので、あながち間違いとは言い切れない話も多かったりする。いずれにせよ、世界には相当にしたたかな人たちがいるもので、ときに「そんなに高い地位にいる人が、そんなにとんでもないことをするはずがない」というようなことを、裏で平気でしかねないのが人間の現実であることは、確かだろう。
      人間の本性は「性善」か「性悪」か。それは結局ものの見方によるのだが、陰謀史観に立つ人の中には、「人が良すぎる日本人たちは、欧米の陰謀に翻弄されっぱなしだ。日本人は性善説を捨て、自分たちももっと悪人にならなければならない」という人がいる。私は「日本人は性善説を捨てなさい」という主張には、ある程度賛成したい。「人間は本来、よいものだ」という考えに固執すると、ときに事実を見誤る。親鸞も「人間は縁に触れれば誰だって人を殺すかもしれない生き物だ」と言うように、人間は縁によってどうとでも転びうる、弱い生き物だ。

しかし、「自分たちももっと悪人にならなければいけない」というのは、いただけない。たとえば、ある国の大統領が軍需産業と裏で手を組んで、自作自演でテロを起こしてまったく関係ない国の人たちを犯人に仕立て上げてそれを口実に戦争を始めたとする。そういう悪人を見た人が、それを手本に自分も同じように悪人になろうとすれば、世界は悪人だらけでめちゃめちゃになってしまうだろう。性善説や性悪説という二者択一で片付けるのではなくて、大切なのは人間の本性を自分の目で見極めることだ。縁によってどのようにでも転んでいく人間の弱さを知った上で、慎重に丁寧に生きていかなければならないと思う。

ところで、それが何かの陰謀によるものかどうかはさておいて、最近の日本の状況について少し気になることがある。それは、マスコミなどの情報媒体そのものも含めて、皆があまり自分の頭でモノを考えようとしないことだ。信念のある人、骨のある言説に、なかなか出会えない。新聞やテレビはみな横並びで、物事を深く掘り下げない。モノや情報は溢れているのに、切り取り方はむしろ一面化している。

「真に豊かな社会というのは、選択肢の多い社会である」という主張を聞いたことがあるが、私はそうは思わない。どれほど多くの選択肢があっても、自分では決められずガイドブックを片手に他人と同じものを欲しがる人ばかりだったら、それは豊かな社会とは言えないだろう。

皮肉なことに、民主主義社会、資本主義社会において、人は「何を選択することもできる」という幻想の中で、見せかけの自由をつかまされつつ、とても不自由に生きている。実は、自由に選べることそのものには、幸せはない。正しく選ぶことができなければ、決して幸せにはなれないのだ。しかし、正しく選ぶためには人間はとてつもない努力を必要とする。ある意味、人生で経験することはすべて、正しく選ぶ方法を学ぶことに通じるといってもいいだろう。加えて、正しく選ぶためには教育や学習を通じて正しい知識を得ることも必要だ。とにかく、人は努力して総合的に成長していかなければ、正しく選べるようになれない。

努力を嫌う人は、この能力がいつまでたっても身に付かない。その結果、ガイドブックや評論家、果てはカリスマ占い師に判断をゆだね、自分の代わりに選択してもらうことになる。どんなに数多くの選択肢があったとしても、自分の人生で瞬間瞬間に選べるものは常にひとつである。それを自分で選べないとしたら、どこに自由があるというのか。

宗教イコール思考停止、と思っている人がいるかもしれない。確かに、宗教団体の教祖や教師にすべての判断をゆだねて自分は思考停止してしまい、家族や友人に大迷惑をかけたあげくにすべてを失ってしまうという人の類いの話は枚挙にいとまがないので、そう思うのも無理はない。しかし、私ははっきり言いたい。信者の個人的な判断にまで入り込み、その人の思考を奪うような宗教は、宗教の名をかたる洗脳だ。まともな宗教なら、その人が自分の思考を深めるのに役立ちこそすれ、思考を奪うようなことはあってはならない。

その点、仏教は個人個人が正しく生きること、正しく選択できるようになるための訓練法とも言えるだろう。「自灯明、法灯明」と言われるように、仏教徒の目指すところは他の誰かを信じて判断をゆだねるのではなく、自分自身で正しい判断をして生きること。といっても、自分も一人の、縁によってはどのようにでも流される弱い人間に過ぎない。だから、自分自身を正しい者と思い込む過ちを避けて、仏教の教えに従って自分を律し、自分を知り、自分を正しい方向へコントロールする生き方だ。

皆が自分の頭で考えなくなった社会は、ファシズムが台頭する危険性と、誰かが人々を意のままに操る危険性が、極めて高くなる。そういう意味では、ガイドブックが流行する社会は、危険一歩手前の状態にある。本来ならば、仏教はそのような脅威に対して有効な手だてとなるべきものであるが、肝心の仏教界は足下の小さな問題、葬式が減ったとか墓参りが少ないとかいう問題にばかり関心が向いて、仏教本来のポテンシャルに気がついていない様子だ。非常にもったいない。

ところで、この話は見方によっては、仏教と政治の関わり方についても提案でもある。私が思うに、仏教教団が積極的になすべき政治的な活動というのは、政党を作ることではないし、身内から政治家を輩出することでもない。大切なことは、仏教の教えを通じて、一人でも多くの人がそれぞれに自分自身の中に正しい判断力を養っていくことだ。ある意味、「一票の重みを増す」運動とも言える。一人一人が状況に応じて、自らの判断によって正しいと考える選択を行っていくこと。そうすれば、世論操作による選挙結果のブレも少なくなり、今より安定した社会が訪れるだろう。また、ファシズムの台頭や戦争への抑止力にもなる。真に健全な民主主義は、個人個人が成熟しないと成り立たない。そういう意味でなら、仏教は政治にもいい効果をもたらすと思う。

まとめると、一人一人の仏教徒の努力が、悪の陰謀を阻止するかもしれないという話である。
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   <title>変化の時は宗教のチャンス</title>
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   <published>2009-08-31T15:16:26Z</published>
   <updated>2009-08-31T15:17:14Z</updated>
   
   <summary>２００９年、与党が自民党から民主党へ、政権交代が現実となりました。日本にとって歴...</summary>
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      ２００９年、与党が自民党から民主党へ、政権交代が現実となりました。日本にとって歴史的な年として後の世にも記憶されることでしょう。

ここ数年、金融危機（未だ進行中）をはじめとして、世界は本当に激動の時期を迎えていると思います。日本の政権交代も、そうした大きな流れのひとつの表れのような気がします。この動きはまだしばらく続くのではないでしょうか。そして、場合によってはさらに激しさを増して、数年後、十数年後には世界の枠組みがすっかり変わってしまっているような、それくらいのインパクトをもたらすのではないかと、そんな予感がしています。本当のところ、いつの時代も「先が見えない」のは同じことですが、「変わらない日々」という当たり前の幻想を持つことも難しいくらい変化の激しい時代に居合わせたことに、人によっては不謹慎と思われるかもしれませんけど、私はどうしてもわくわくしてしまいます。
      間違いなく、混乱の時代は宗教にとっては大きなチャンスです。といっても、「足場を失って救いを求める人を信者に取り込むチャンスだ」と言いたいわけではありません。確かに、もちろんそういうふうに人の弱みにつけ込もうという姑息な宗教教団もこういう時期には跋扈するものでしょうから、皆さん注意しましょう。私が言いたいのは、「誰もが絶対安定と思い込んでいた世界の枠組みが揺らぐ中で、世界や自分自身を根本から見直す大きなチャンスだ」ということです。そのような見直し作業は、人間が成長するのに大きなプラスになると思いますが、それは同時に生みの苦しみも伴うものです。そんなとき、その困難な作業をしっかりと支えてくれるのが、宗教の役割でしょう。言い換えれば、この役割が担えない宗教は、宗教として見ないほうがいいかもしれません。

仏教世界においては、檀家離れ、葬送儀礼の形骸化など、「お寺存亡の危機」ということが言われます。確かに、それも大きな問題ですが、世界の大きな変化の流れから見れば、大したことではないとも言えます。そんな細かいことよりも、仏教の教えにはもっと大きな仕事を担うだけのポテンシャルがあるのですから。もうこの際、お坊さんだとかお寺だとか葬式だとか（さらには「仏教」という枠組みさえ）、細かいことはいったんすっかり忘れてしまって、まっさらなところから始めてみるのもいいんじゃないかと思います。

気分転換に、とにかく好きなことに打ち込んでみるとか、修行の旅に出るとか、何がいいかはわかりませんが、あえて「ふだん張り付いている物事から無理やりにでも身を引っぱがす」というのも有効でしょう。とにかく、こんな時代だからこそ、守りの姿勢はむしろ危険です。「死にかけた仏教の生き残り策を模索する」のではなく、「仏教の可能性をゼロから模索する」ことも考えてみたほうがいいのではないでしょうか。
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   <title>成功の秘訣とは</title>
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   <published>2009-06-23T14:48:58Z</published>
   <updated>2009-06-23T14:47:28Z</updated>
   
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      このところ、iPodでビジネススクールの講義をいくつか聞いている。著名な会社の経営者をゲストに迎えて、ビジネススクールの教授が経営に関してインタビューをするというものだ。質問の内容は煎じ詰めればいつも「成功」に関わる事柄なのだが、少し気になることがある。それは、教授はいつもゲストの経営者に向かって「成功するために必要な秘訣を教えてください」と質問するのだが、決して「あなたにとって成功とは何ですか」とは質問しないということ。

もしかしたら、これは愚問なのかもしれない。企業の経営者にとって「成功」とは、「お金を儲けること」に決まっている。もちろん、社会的な評価とか新たな価値の創造とか、お金以外の事柄においても成功は測り得るが、何はなくともお金が儲からなくては会社も自分も存続できない。だから、企業人にとって無条件に「成功＝お金儲け」となるのは当然のことだろう。

しかし、それはあくまでも人間社会における便宜的なひとつの尺度に過ぎない。にも関わらず、その尺度を自分の人生にまともに当てはめようとして、大きな間違いを犯してしまう人がずいぶん多いのではないか。「成功するための秘訣」は知りたがるのに「成功とは何か」を知ろうとしない人の頭の中には、「お金を儲ける＝何でも好きなものが買えて好きなことができる＝幸せである」という幸せの単純な構図が強固に出来上がってしまっているのかもしれない。

しかし、仏教的な見方からすれば、そのような有様では実際に幸せにはなれない。
      いくら最短距離の楽な行き方を探したところで、目的地が間違っていてはどうしようもないだろう。いくらお金を溜め込んでも、人間は最後には裸で一人、死んでいかなければならない。あの世に預金通帳を持っていくことはできないのだ。本当に大事なことは、何なのか。私たちにとって間違いのない確かな目的地はどこなのか、そこへ向かって進むためにはどうすればいいのか。

「それはもちろん、お浄土であり、お念仏であり、、、」という展開をご法話で聞くことがあるが、今日はその一歩手前の部分を考えてみたい。なるほど、「お金儲け＝幸せ」というふうに目的を設定するから人は道を間違うのだな、それでは、目的地をどういうふうに設定すればよいのかな？と考えている人に、いきなり「目的地はお浄土です」といっても、ピンと来ないだろう。いくら答えが合っていても、答えまでのプロセスが飛びすぎていてはいけない。仏教はもっと、現代人の言葉と論理と前提を把握した上で、現代人に分かる表現方法を磨いていかなければいけないと思う。

というわけで、仏教的に、かつ専門用語を極力避けて「成功とは何か」を考えてみると、私は大きなヒントのひとつが「諸行無常」という基本思想にあるのではないかと思う。ビジネスにおける成功と諸行無常という言葉を並べると、たいてい平家物語的な企業の栄枯盛衰のイメージを思い浮かべると思うが、ポイントはそこではない。仏教でいう諸行無常は、「すべてのものは、常に変化している。変わらずあり続けるものは、何一つない」ということを意味する。たとえば、川を見たときに、人は「ここに川がある」と思うのだが、事実としては、水の流れが絶え間なく変化しているのであって、そこに固定的なものは何もない。それなのに、人間は「川がある」というふうに考える。そういう物事の捉え方が根本的に間違いのもと、つまり事実が事実として理解できていないということだよと、仏教は教えてくれている。

「成功」についても、同じようなことが当てはまるのではないか。極端に言えば、人は「成功＝お金や財産をたくさん持っている状態」として見てしまうが、それは間違いである。それも、持つべきものを間違えているのではなく、「成功＝自分が○○を手に入れた状態」として見てしまうこと自体に、大きな間違いが潜んでいるように思う。

分かりやすく、お金を人間社会の経済における血流に例えてみよう。血流というのは流れているから価値があるのであって、どこかに偏っていたり流れが滞っていたりしたら、それは病気の状態といえる。血液の量は多くても少なくてもいけないし、流れは早くても遅くてもいけない。必要とする細胞に適切に行き渡って、身体全体が元気にいられることが、何よりも大事なことである。お金は、どこか一カ所に貯まっているのがいいわけではなく、全体としてうまく循環していることが必要なのだ。

少し見方を変えてみよう。人間社会をひとつの生き物と考えたとき、お金はその血流のようなものであると言ったが、ある意味それは何かしらのエネルギーのようなものであると言ってもいいかもしれない。常に変化し続ける世界、生まれては死んで行く生きものたちの織りなす世界、ここには目に見えないエネルギーが満ちあふれている。そして、お金というのは、人間が便宜的に数値化したエネルギーの擬似的表現（かなり出来の悪いものだが）だと考えてみる。

そういう世界に生きる自分にとって、「成功」とは何か。仏教の「縁起（あらゆるものは相依って成り立っており、自分だけで存在するものは何一つない）」という考え方も参考になる。自分という存在が世界という身体を構成する細胞のひとつにすぎない（と同時に、かけがえのないものでもある）という事実に気づくことができれば、自分のすべきことは自分という細胞にエネルギーを溜め込むことではなく、他とのやり取りの中でうまくエネルギーを循環させるよう貢献することが大事なのだということが分かるだろう。自分ばかりエネルギーを溜め込んで周囲の細胞に分け与えないで死なせるような細胞があったとしたら、それはガン細胞のようなものだ。そう考えると、成功とは、「自分が○○を手に入れた状態」ではなく、「自と他が調和して生み出されるいきいきとした活動」ではないだろうか。

そう考えれば、身体の細胞それぞれに違った役割があるように、「成功」とは人によってそれぞれ異なるものと考えられる。また、誰でも、どんな状況からの出発であっても、目指すことのできるものでもある。他人と自分を比べて、手に入れたものの多寡によって優越感を持ったり卑屈になったりする必要はない。大切なことは、今、自分が世界の中で自分の果たすべき役割を全うできているかどうかということだ。

このような「成功」のイメージは、あまり具体的に説明されることは少ないが、多かれ少なかれ優れた人格を備えた経営者は共通してこの種の見地を身につけているのではないかと思う。彼らの考え方が仏教的であるというよりは、世界や人間を見る目が鋭いことにより、人より事実を洞察する能力が高いということだろう。人間の見方は人によって違えども、事実はひとつである。仏教も、いかに世界と人間の事実をはっきりと洞察するかという技術だから、結果的に同じような視点を持つのは当然なのかもしれない。

以上、「成功」ということについて、仏教の見方を踏まえつつ、少し踏み込んだ表現を考えてみた。こうしてみると、仏教と世の中をつなぐキーワードは「事実」ではないかと、改めて思う。「仏教的にはこう考えますよ」ではなく、「事実はこうですよ、それを仏教ではこのように処理しますよ」というふうに、議論をするのだ。よくスマナサーラ長老がそのようなお話の仕方をされているが、非常に分かりやすくて参考になる。

ある意味、世界の事実を、人間の事実を、正しく描けていなければ、それは仏教とは言えないと言ってもいい。一見、空想的に思える「浄土」なども例外ではない。「浄土」や「阿弥陀仏」といった概念も、それがどのような構造で事実・現実を描写しているのか説明されなければならないだろう。自分の今後の課題としたい。
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   <title>日本仏教起死回生の道</title>
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   <published>2009-04-28T13:16:45Z</published>
   <updated>2009-04-28T13:18:42Z</updated>
   
   <summary>つまるところ、問題はこれだ。仏教界と一般社会のすれ違いは、「仏教にはお金には換え...</summary>
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      つまるところ、問題はこれだ。仏教界と一般社会のすれ違いは、「仏教にはお金には換えられない普遍的な価値がある」という仏教側と、「お金にもならないものに何の価値があるのか」という一般側の決定的な価値観の違いである。

私は仏教側の人間として、仏教に普遍的な価値を見いだすことはできるのだが、その価値を一般側に知らしめるとなれば、巧妙な方法を用いなければ成果は期待できないであろうことを、５年も６年も僧侶をやってみて、最近特に痛感している。

シンプルに考えてみると、まったく価値観の異なる相手に自分の価値観を理解してもらうためには、まず相手の価値観を理解した上で、相手の価値観でも理解できる表現方法で、自分の価値観を示す必要がある。言語の違う人間同士がそれぞれの言語で議論をしてもまったく話にならない。突破口を開くためには、どちらかが相手方の言語を習得して、そちらの言語で意思疎通を図らなくてはならないのだ。要するに、私たちに必要なのは＜仏教語＞と＜一般語＞の意思疎通である。
      世間一般のマジョリティは圧倒的に＜一般語＞話者である。皮肉なことに本来ならば＜仏教語＞圏に属するはずの仏教界の住人たちですら、今では生活のほとんどを＜一般語＞で過ごし、仕事上の必要に迫られたときにだけ＜仏教語＞を思い出して使うという人も多い。ネイティブな＜仏教語＞話者は、もはや絶滅の危機に瀕している。さらに困ったことに、この＜仏教語＞特有の現象として、何世代も仏教界で育った名門の一族だからといって＜仏教語＞ネイティブになるわけではなく、逆に＜一般語＞しか話せない名門の子孫も少なくなかったりする。

仏教界と一般社会との現状の構図は、以下のように表せるだろう。絶滅危機のマイノリティにある＜仏教語＞話者が、圧倒的マジョリティの＜一般語＞話者に向かって、「私たちの話を聞いてください。聞かないと、成仏できませんよ、地獄に落ちますよ、後で大変なことになりますよ」と一方的に喚いている状態である。＜一般語＞話者の中にも奇特な人がいて、絶滅危惧種を応援してくれることもあるかもしれないが、構図を変えるほどのインパクトはない。

このように状況は年々日々悪化しており、双方のコミュニケーションを健全なところまで回復するには相当な努力が必要ではあるが、私はそれは不可能なことではないと思っている。諦める必要はない。ある意味、シンプルなソリューションがすでに導きだされている。＜仏教語＞を自在に操り、その価値観を深く見通したネイティブの話者が、＜一般語＞話者の価値観を良く分析し、相手の価値観で評価できる仕方で自分の価値観の価値を示せばよいのである。

これを、冒頭に書いた仏教界と一般社会の価値観の定義に当てはめてみよう。＜仏教語＞話者は、「仏教にはお金では買えない価値がある」と主張している。それに対して＜一般語＞話者は、「お金にならないものに価値はない」と考えている。ならば、＜仏教語＞話者が歩み寄りの努力をして、お金で買えないほど高価な仏教の原液から、一般の人が手に届く金額でつい買いたくなるような、一般の人の舌に合う仏教飲料水を開発し、＜一般語＞圏で販売し、消費してもらえば良いのだ。＜仏教語＞話者の中でも原液を扱えるレベルの高い技術者は限られているので、開発にはそれなりのチームが必要だが、不可能なことではない。もしこれが成功したら、仏教側としては、健康によいなどの単純な理由であれ、一般社会の中で仏教飲料水が広く受け入れられることは悪いことではないし、愛飲者の中からルーツにも興味を持ってもらえる人が出てきてくれれば、それに越したことはない。

実は、資本主義社会でシェアの高いキリスト教などは、「消費」という流通経路を利用して、巧みにこの手法を実践しているように思われる。クリスマスやバレンタインデー、最近ではハロウィンなどまでも日本社会で商業的イベントとして消費されるようになっている。これらはキリスト教の原液では決してないが、しかし確実に日本社会の中でそのプレゼンスを高めている。そういう意味では、仏教徒として多少の脅威を感じざるを得ない。ただ、私が同時に安心しているのは、クリスマスやバレンタインデーなどはキリスト教のコアコンテンツというよりはフェスティバルという周辺コンテンツにすぎず、いくらそれらの消費が盛んになったところで、それがそのまま日本におけるキリスト教の反映につながるとは思えない。むしろ、浅い針で釣られかけた魚が用心深くなるのと同じことも起こりうる。他宗教に対する駆逐力の強いキリスト教が猛烈に広まることは仏教にとって脅威だが、そういう事態が日本でも現実化するかどうかは不透明だ。これまでは日本人が手放しで憧れる欧米文化とセットで流入できるというキリスト教ならではのアドバンテージもあったが、価値観の潮流が世界的に変化しつつある今、その手もこれまでのようには通用しなくなるだろう。

これからの仏教がとるべき戦略は、仏教のコアコンテンツである「智慧と慈悲」の原液を、一般人でも美味しく健康に飲める程度に薄めて、市場経済の中で大いに消費してもらうことである。仏教を「消費」することに抵抗感を持つ人もいるかもしれないが、緊急時にはそんなことは言っていられない。緊急事態なのは仏教だけではなく、消費社会の中で忠実な消費者であることに慣れすぎた現代人も同じだ。要するに、宗教的価値ですら消費という仕方でしか身体の中に取り入れられなくなってしまった不健康な人たちには、とりあえず消費のかたちでもいいから最低限の栄養素を取り入れてもらうしかないのである。注射でもいいからとにかく栄養素を入れてあげないと、死んでしまっては元も子もない。その後、ある程度健康を取り戻したら、本来の食事の作法に従って、仏教の原液をじっくり味わってもらったらよいのではないだろうか。

「仏教の原液から、レベルの高い技術者の手によって一般の人が美味しく健康に飲める飲料水を開発し、一般の人が買いやすい値段で流通・販売する仕組みを作ること」

これが、ここ最近私が結論を得る至った、日本仏教起死回生の道である。
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   <title>仏教界が変わる百年に一度のチャンス</title>
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   <published>2009-03-12T07:26:28Z</published>
   <updated>2009-03-13T14:51:16Z</updated>
   
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/master/">
      <![CDATA[先日、ある雑誌の<a href="http://kayamasa.blog59.fc2.com/">ライターの方</a>とお話しをする機会があり（当方が北海道在住のためSkype動画を経由してだが）、やりとりの中でその方が「社会が変化することを前提とした社会制度の設計というのを、もっと真面目に考えてみてもいいのではないか」と仰っていた。なるほど、制度というものは大抵、少なくとも設計する人が想像できる範囲の普遍性を持つように作られるものだが、その限界を踏まえた上で柔軟に対応できる制度のあり方を考えるのは面白い。

永続することを前提としたせいで無理が来て破綻しかけている制度はたくさんあるが、身近なところでは、日本の年金などはまさにそれだろう。人口推移や経済成長などの社会情勢は「なるべく変動しないもの」とする政治家や官僚の甘い見通しのせいで、さらに社会保険庁のずさんな体質が追い打ちをかけるようにして、不信感の高まりは制度の継続が困難な地点まで来てしまっているようだ。また、日本伝統の年功序列・終身雇用制度も「社会が変化しない」ことを前提とした気の長い制度であったが、今どきこんな昔懐かしいやり方がきちんと機能しているのは公務員か伝統仏教教団くらいのものかもしれない。]]>
      ただ、そんなふうに気が長すぎて時代の変化に対応できない制度は困りものだが、あまりに気が短いのも問題だ。昨今の金融危機などは、自分たちの都合のいいようにルールを巧妙に作り替えたり拡大解釈したりしてお金をかすめとるような金融の最前線の欺瞞が積み重なって、起こるべくして起こったのではないか。そして、今度はその略奪の穴埋めをするために国民の税金を使えるようにするルール変更が、世界各国で行われている。最近の新聞などを読んでいても、政治や経済のルール変更に関するニュースがずいぶん多いことに気がつく。世界があまりに素早く動くと、気の長い国の国民はなおさら変化についていくことができず、手のひらの上でことごとく奪われるばかりだろう。

世界は「諸行無常」であると看破する仏教では、かたちあるものにも、自分の想念にも、しがみつくことはできないと説く。そのような仏教の「無常観」に日本人的「無情感」を重ね合わせて、戦乱の世の悲哀が「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」と詠われたものである。

歴史上、何度かの借金棒引令を経験してきた日本人は、経済に対しても無常観が養われているのかもしれないが、そんな冗談は言っていられない。誰も戦乱の世を望むわけではないのだから、経済状況がある程度の範囲内で安定してくれないと、社会は成り立たなくなるだろう。こつこつ頑張って働いて果実を得ても、それを安心して貯めることができないということになれば、こつこつやるのが馬鹿らしくなって、「だったら働いても仕方がない。腹が減ったら誰か弱いやつから奪えばいい」ということになりかねず、そうなったら本当に戦乱の世が到来しかねない。

繰り返すが、仏教的に見れば世界は諸行無常であり、なにか不変のものがあると見誤ってそれにしがみつこうとするのは人間の執着である。しかし、だからといってそれをそのまま社会に適応することはできない。なぜなら、また同じように仏教的に見れば、社会とは私を含めてあらゆる執着に凝り固まった人間たちが集まって構成する集団であり、そんな人間が社会が永続を志向するのは無理もないことだからだ。

逆に、そのような社会に見切りをつけて、執着のない目で世界を正しく見ようと志すのが、脱・社会すなわち出家した人たちの集団ということになる。そう考えると、今のように社会が不安定な時代、というか、社会というのは本来不安的なものなのだということが改めてあからさまになった時代には、「今まで自分の常識では社会は永続するものだと思っていたのに、どうもそうでもないみたいだ。よし、今日から出家しよう」という人が増えるに違いない。若干、飛躍しすぎか。だが、多少はそういう傾向が出てくるような気がする。

私がつねづね思っているのは、仏教教団の役割というのは、そのような人たち、つまり仏道を歩もうと発心した人に、仏道修行の場と機会を提供するということが第一であるべきということだ。そして、その点に関していえば、日本の伝統仏教教団は第二・第三の目的のほうに熱心で、第一の目的にはあまり力を入れていないように感じ、ときに情けなく思う。

仏道を歩もうとする人が自由に修行したり学んだりできる環境を提供するためには、支援者からの寄付によって寺院の設備を整えるなど経済的な問題も解決しなければならないから、仏教教団がその目的を達成する限りにおいて社会と接点を持って寄付を集めることは何ら問題はない。しかし、現実を見てみると、仏道を求める人に対するフォローがあまりにもなっていないのが現状である。どちらかというと、求道者を支えるための体制というよりは、供養業界の既得権益を守るための体制というほうが、実質に近いと思われる。「お寺に入門して、仏道修行に励みたい」という気持ちのある人に道を提供できないようなら、何のための教団なのか分からない。

今が百年に一度の社会的危機の到来というのなら、今こそ仏教教団が変わる最後のチャンスなのではないかと思う次第だ。
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   <title>お寺の美しい経営</title>
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   <published>2008-10-31T14:11:50Z</published>
   <updated>2008-11-01T03:11:51Z</updated>
   
   <summary>▼経営を勉強したくなってきた 　最近、朝は早起きして１時間ほど散歩することにして...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/master/">
      <![CDATA[<strong>▼経営を勉強したくなってきた</strong>

　最近、朝は早起きして１時間ほど散歩することにしている。

　健康のためというのもひとつの理由だが、主な目的はiPodで英語のプログラムを聞くことだ。海外とやりとりしたり情報を集めたりするときに英語を使わざるをえないため、その必要に迫られてということもあるし、また、できれば近い将来に留学をしたいという気持ちがあるので、その準備のためでもある。なんのために留学するのかといえば、事業や組織の経営を学ぶためである。

　なぜ仏教でなく経営なのか。それは、自分自身が今後どのように仏教に携わっていきたいかと考えた時に、在家の仏教徒が守るべきことは守った上で俗人としての日常生活を送りながら、現代においてその本質を保持したまま実践的に仏道を歩んでいる同朋と連携をとりながら、世界に仏教徒の輪をより大きく広めるための活動をしていきたいと考えているからだ。

　なぜ国内でなく海外に留学しなければいけないのかと言えば、自分と同じ文化的・宗教的背景を持った日本人ばかりの環境で学んでいては見えないことが、海外の大学に身を置くことで否応無しに目の前に突きつけられることを期待してである。知識を得るためだけならば、大学など行かなくても本を読めば事は足りるだろう。

　しかし、生身の人間と一緒に過ごすことから得られるさまざまな経験は、私にとって本の知識よりも重要で刺激的だ。仏教に携わる者として、いろんな種類の人種と直接にやりとりすることで養われる感覚は何にも代え難い大事なことだと思う。また、経営という分野で自らのリーダーシップを高めるために世界から集まって来る学生たちとの人的ネットワークは、その後の活動にも活用できるかけがえのない財産となるはずだ。

　私がこんなふうに考えるのも、自分の親が僧侶ではなく経営者であるという影響もあるのかもしれない。そして、伝統仏教教団に身を置く一人として、最近特にその経営力の覚束なさに対して危機感を覚えていることも、要因のひとつである。


<strong>▼「浄土真宗の僧侶」であるという矛盾</strong>

　ところで、私は「浄土真宗の僧侶」である。ならば、やはり経営ではなく仏教を学ぶべきではないのか？という疑問を持つ方もおられるかもしれない。もちろん、私個人としては、仏教「も」学ぶべきだと思うし、それは生涯をかけて続けていきたい。しかし、ここから話を進めていく上で混乱が起きるといけないので、まずはじめに仏教に携わる上での自分のスタンスを表明しておいたほうがよいかもしれない。

　さて、僧侶というのを辞書で調べると「出家して仏門に入った人」を指すとある。本来、「出家」とは文字通り家庭を出て世俗を離れ、仏教の戒を受けて僧侶となることを意味する。分かりやすく言えば、僧侶というのは「世俗を離れて寺院に入り、僧侶としての戒律を守って仏道に励む人」のことであり、おそらくそれは日本人の多くが「理想的な」僧侶のあり方として抱いているイメージとそう違わないだろう。また、この定義は海外においてもおおよそ通用するのではないかと思う。

　しかし、これを踏まえて改めて考えてみると、「浄土真宗の僧侶」というのは実に不思議な存在である。浄土真宗は「非僧非俗」を実践した親鸞を開祖とする教えであり、戒を持たない。信仰者として与えられる名前は戒名ではなく法名と呼ばれるのが象徴的だ。

　いや、何も、戒を持たない浄土真宗の教義がおかしいと言いたいわけではない。それどころか、戒を守ることのできない一般の在家の人々に仏教徒としてのあり方を示し、信仰的・思想的な背景を与えてくれた功績は非常に大きい。一仏教徒として私自身、その教えが強い支えとなっている。

　しかし、長い時代の流れの中で、浄土真宗という在家仏教徒集団は独自の論理で「僧侶」と「門徒」を生み出した。「非僧非俗」なんだから「僧侶」は必要なさそうなものだが、いつの間にか他宗派と同じような「出家」と「在家」的な区別をかたち上で行うようになったのである。

　建前としては、「僧侶も門徒も区別なく同じ浄土真宗の信仰者としてみ教えを共に喜び合う仲間である」ということを謳っている。確かにそれはそうかもしれないが、「僧侶」と言ってしまうことには様々な矛盾がつきまとう。いかに「非僧非俗」の伝統を引き合いに出して「浄土真宗の僧侶は戒を持たない」ということを自分たちの理屈で主張してみても、それはいわば、社会通念上の「僧侶」という言葉の定義からはかけ離れており、一般に通用するものではない。

　それでも浄土真宗は自分たちの宗派の社会的シェアの高さを武器に、いわば独自規格の「あなたの街のお坊さん」的な僧侶像を宣布する努力を続けてきた結果、戒に厳格であるはずの他の宗派まで同じような方向性に流されていく現象が生まれ、今の日本仏教の姿がある。]]>
      <![CDATA[<strong>▼日本の伝統仏教界が抱える矛盾、その１</strong>

　整理すると、日本の伝統仏教が抱える矛盾はこのようになるだろう。

<ol>
	<li>在家仏教徒の信仰であるはずの浄土真宗に僧侶という存在があること</li>
	<li>戒を守るはずの宗派の僧侶が、浄土真宗のように戒を守っていないこと</li>
	<li>一般の人々の僧侶のイメージに、「世俗との交わりを断って戒律を守り、修行に専念する厳しい僧侶」像と、「お寺で家族と暮らし、法事の席では一緒にお酒を飲んでくれる、気さくな街のお坊さん」像の両方が混在していること</li>
</ol>

　残念ながら、これらの矛盾から沸き起こる疑問について真剣に議論する人はあまり多くない。たぶん、「どうせ仏教なんてそんなもんだろう」という地位に、すでに日本仏教が墜ちてしまっているからだろう。

　しかし、だからといって「誰も表立って文句を言って来ないから、このままでいいや」というふうに居直り、矛盾を抱えたまま「僧侶」であり続けるわけにはいかない。今の状況それ自体がすでに「ウソをつかない」という基本的な戒律に反しているようで、良心が痛む。

　それに、日本の仏教を世界に向けて発信していきたい者として、現状のように僧侶が日本独自の規格である「あなたの街のお坊さん」像であり続ける限り、世界標準の中で日本仏教を流通させることは非常に難しいだろう。ちょうど、日本の携帯電話の仕組みが国内独自の規格で展開してしまったため、端末を作るメーカーの国際競争力が落ち、利用者も海外で使える携帯電話が限られるという事態になってしまったのに似ている。やはり、ハードウェアでもソフトウェアでも世界へ輸出しようと思ったら、世界標準を意識しなくてはならない。世界標準がいつも正しいわけではないが、少なくともそれに適応していかないと、話がまったく始まらないのだ。

　繰り返すが、私は「浄土真宗の僧侶」である。

　そもそもが矛盾を抱えた立場であり、これはいつか必ず解消しなければいけない大きな問題だと思っている。

　もちろん、一番手っ取り早い方法もある。浄土真宗における僧侶の資格を返上してしまえばいいだけの話だ。しかし、そうするとまた別の問題が生ずる。それは、日本仏教の業界においては、浄土真宗等の伝統教団の所属僧侶でないと、仏教に関連する仕事を進めていく上で、とてもやりにくくなるということである。


<strong>▼日本の伝統仏教界が抱える矛盾、その２</strong>

　日本仏教界はその運営において、僧侶ではない信者側の人間が関わることのできる余地がほとんどなく、たとえ役職が割り当てられているとしても、ほとんど飾りに近いものが多い。仏教教団の経営に携わる資格は実質的に、僧侶にしか許されていないのである。

　このことは僧侶の本義に照らしてみると、誠に奇妙なことと言わざるを得ない。僧侶は出家者であって、経営者ではない。もちろん、僧侶同士の集団である僧伽の中には、統率すべきリーダー格の僧侶の存在も必要になってくるであろう。しかし、それらの僧侶たちが世俗から離れて心置きなく仏道に専念できる環境を提供するため、人的に財的に支援することこそが、在家の信者たちの役目ではないだろうか。

　当然そこには、時代時代の社会のシステムの中でどのように仏教教団をその本質を変えずに維持しうるかどうかという、経営的な仕事も含まれる。要するに、僧侶が教団経営の心配なく仏道に打ち込める環境を整えるのが、仏教教団の教団経営であるはずだ。だとするならば、「僧侶でなければ教団の経営に携われない」というのは、本末転倒もはなはだしい。

　さらに困ったこともある。当たり前だがほとんどの僧侶は経営のプロではない。皆が皆とは言わないが、そういう人たちの中から、ことさらお金や権力に興味のある人が志もなく集まって教団を経営しようとするものだから、事業も組織もすべてがお粗末になって、社会的な影響力を自ら削ぎ落としていくのである。

　先ほどの矛盾に追加するならば、このようになる。

<ol>
	<li>僧侶が仏教教団の経営に携わっていること</li>
	<li>僧侶しか仏教教団の経営に携わることができないこと</li>
	<li>仏教教団を経営する僧侶は、経営のプロでないこと</li>
</ol>
　
　私自身は、浄土真宗の教えを旨とする熱心な在家仏教徒の一人として、世界標準で活躍できる能力と実践の伴った日本人僧侶たちの活動を支えるべく、伝統仏教教団の経営の仕事に携わりたいという、将来的な希望を持っている。

　しかし、そのような私の希望と今の伝統仏教のあり方とは、前提段階から食い違っているのが現実である。希望を達成する以前に、伝統仏教界を取り巻く環境や、そのものの枠組みを大幅に改革しなければ話にならない。

　ならば自分がほんとうの僧侶になればいいではないかという声もあるが、家庭を捨てて出家の道に入ることは少なくとも今の私は望まないし、第一、無理だ。しかし、仏教が好きだから、在家仏教徒として何かしら仏教に携わる活動をしていきたい。

　特に、今の仏教界は経営面が危機的状況にあるので、私はその分野を深く学び、何かしらの役に立ちたい。とりあえず今のところ、私の立場としては、良心を痛ませながらも、もうしばらく「浄土真宗の僧侶」を続けつつ、次の展開を模索していこうと思っている。


<strong>▼“修行”それとも“金儲け”？</strong>

　さて、前段が非常に長くなってしまって恐縮だが、本題に入りたい。

　「出家して仏門に入る人」であるのだから、僧侶はお金儲けなどにかかずらうことなく、仏道修行に専念すればいい。それは、分かった。しかし、僧侶が仏道修行に専念するには、その環境が整わなくては成り立たない。それにはお金がかかる。だが、僧侶は基本的にいわゆる世俗の生産活動を行うわけではないから、自らお金を生み出すこともしないし、そんなことをすれば修行の妨げとなってしまう。だから、僧侶が心置きなく修行できるよう、仏教信者は布施をして教団運営を支えるわけである。

　ここで忘れてはならないのは、僧侶が世俗の経済活動に携わらないからといって、仏教教団が経済から無縁でいられるわけでは決してないということだ。むしろ、僧侶が世俗の経済的な問題から自由でいられる環境を保証するためには、仏教教団の経営体制は常に盤石なものなければならないのである。

　日経ビジネスのオンラインサイトに『お金はいりません「大悲寺」商魂たくましい「少林寺」〜現代の僧侶はどう生きるべきか？“修行”それとも“金儲け”〜』という興味深い記事が出ていたので、これを話の種に、仏教教団の経営を少し考えてみよう。

　記事を要約すると、こんな感じだ。

<em>中国の仏教界で両極端に位置づけられる、大悲寺と少林寺という有名寺院がある。大悲寺の僧侶は“不捉金銭戒”(＝金銭に触れない戒律)を守っており、寺には賽銭箱が置かれていない。大悲寺の僧侶たちは年に数カ月間を数万キロの行脚に費やし、托鉢をしながら各地で仏の教えを説く、厳しい修行の日々を送る。こうした僧侶たちを慕う信者は年々増え続け、大悲寺は僧侶たちの深い慈愛に包まれているという。一方、少林寺拳法で名高い「少林寺」は、1982年に公開された香港映画「少林寺」をきっかけに、中国国内はもとより海外からも観光客が押し寄せるようになった。その人気を背景に、商売巧みな若手住職がライセンスビジネスを展開、今や世界を駆け回るカリスマ実業家としてメディアからも注目を浴びている。拝金主義に陥った少林寺は今や、天下一の臭刹になり果てた。（松本による要約）
</em>
<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20081030/175729/?P=1">→要約の元記事はこちら</a>

　ここに書かれていることは常識的知識人として至極真っ当であり、多くの人が共感できる内容だろう。私も普通に読めば、ふむふむなるほど、と読み流せる記事である。しかし、仏教経営を真面目に考える者としては、少し補足をしておかねばならないだろう。


<strong>▼賽銭箱を置かないクリーン作戦「大悲寺」</strong>

　まず、大悲寺には賽銭箱が置かれていないというが、それはこれは金銭に触れない戒律のためというよりは、むしろクリーンなイメージを演出するためのパフォーマンスに近いのではないか。

　いや、パフォーマンスは少し言い過ぎかもしれない。おそらく実際に、大悲寺の僧侶たちは真面目に不捉金銭戒を守って、金銭に触れない厳しい修行生活を送っているのだと思う。言いたかったのは、寺院の収入は何も賽銭箱だけで成り立っているわけではないということである。

　この記事の著者も感銘を受けているわけだが、「大悲寺には賽銭箱がない、だから僧侶たちは“不捉金銭戒”を守っている」ということが有名な話となっていることが、この寺院には一般の参拝者も数多く出入りしているという事実を物語っている。

　仏教徒は布施によって寺院を財的にバックアップするのが喜びであり役割でもあるから、寺院にお参りにくれば当然のごとく賽銭をしようとする。しかし、ここには肝心の賽銭箱が置かれていない。寺院に布施する権利を奪われた仏教徒たちは、いったいどうするのだろうか。

　ここからはあくまでも私の想像であるが、仏教寺院である限り、信者からの自主的な布施を受け付けないということはないだろう。賽銭箱は置かれてないにせよ、境内のどこかに「お布施受付所」があるに違いない。

　賽銭箱がなくて困った信者たちは、「大悲寺の僧侶たちは“不捉金銭戒”を守っているから、賽銭箱は置かないんですよ」と説明を受けて、「なるほど、素晴らしい！そういう立派なお寺ならば、もっとたくさんお布施しよう（お布施受付所まで来て１００円だけっていうわけにもいかないし、お札で１０００円くらいしておこうか…）」というふうに、結局はむしろ当初の予定よりも高額のお布施をして帰っていくのではないだろうか。

　これでもし、大悲寺の僧侶たちが本当は“不捉金銭戒”を守っていないなら、それは詐欺だ。しかし、さすがにそんなことはないだろうから、この「賽銭箱を置かないクリーン作戦」は自分たちの仏道に対するスタンスをアピールするための非常に効果的な演出として成功していると言える。

　ところで、お布施受付所の係員は、いったい誰がやっているのだろうか。僧侶がやるわけにはいかないから、在家の信者たちが交代で当番しているのかもしれない。しかし、だったら賽銭箱を置いたって、在家の信者に管理を頼めばいいんだから、問題ないだろうし。一度、現地へ行ってその辺の事情を確認したいところだ。


<strong>▼とにかく派手な商業路線「少林寺」</strong>

　一方、「拝金主義」寺院のレッテルを貼られた少林寺だが、常識的な寺院のイメージを前提とすると確かにそう言われても仕方がないような俗っぽい経済活動に力を入れているのは事実である。

　ビジネスを学んだ少林寺の住職である釈永信は少林寺のブランド力に目をつけ、少林寺実業という会社を立ち上げてCEOとして成功させ、観光や芸能活動の分野で派手に活躍している。最近では中国共産党内での政治的地位も高まってきているようである。

　彼を象徴とする少林寺の僧侶たちは、少林寺拳法の海外公演などで世界を飛び回っているというから、その生活はおよそ仏道に専念する僧侶の理想像とはほど遠く、むしろ世俗の人より世俗に近い暮らしをしているのではないかと想像される。もはやタレントとなった少林寺CEO、釈永信。彼の活動は、中国国内でも賛否両論があるらしい。

　私が見る限り、中国仏教界も日本の仏教界と同じような問題、つまり「僧侶でなければ寺院の経営に携わることができない」という問題を抱えているのではないかと思う。中国では寺院は実質的に共産党の支配下にあり、人事等も共産党の指示で決められるらしい。

　そのような背景を考えると、釈永信住職はやり手の経営者として中国共産党が少林寺に送り込んできたというのが、実際のところだろう。釈永信住職はその期待に応え、少林寺というブランドが野放しになっていたものを、会社を設立して商標関係を整理し、商標使用料などの権利収入が寺院に入ってくるような仕組みを整えたわけだ。

　宗教活動に自由が認められ、仏教教団が国家でなく個々に運営されている日本であれば話は別だが、中国の場合は僧侶が「僧侶とはいかにあるべきか」などと論じられるような自由は許されていないのである。

　それぞれに様々な思惑があるのだろうが、現在の少林寺の経済的成功は、中国共産党と釈永信住職と、その他関係者の利害が一致したところに成り立っている。釈永信が野心家の素質を持っていることは間違いないが、その能力の向かう先が経営的成功だけでなく、仏教的な側面でもどれほど刺激的な射程を持っているのか、今後注目していきたい。


<strong>▼現代の僧侶は現代社会に溶け込むべきか</strong>

　今回の日経ビジネスの記事では２つの寺院を単純に「修行」と「金儲け」で対比してしまっているが、大悲寺にしても少林寺にしても、どちらも有力寺院であり、それなりの経済力を持っていることは見落とせないポイントだ。

　いかにお金にきれいか汚いかというイメージ的なことだけではなく、たとえば、集めたお金をどのような事業に使ったり、運用したりしているのかというような、使い道の面についてももう少し知りたかったところだ。「大悲寺は、真面目な寺だから、集まったお布施もきちんと使われているんだろうなぁ、少林寺は、生臭い寺だから、いい加減に使われているんだろうなぁ」だけで済ませては、仏教経済の読み解き方としては少し物足りない。

　記事の最後に紹介されていたが、中国語ウェブサイトの掲示板に、「貴方は現代の僧侶は現代社会に溶け込むべきだと思いますか？」という設問の投票欄が置かれているという。
次の３つがその選択肢だ。

　1. 溶け込むべき。僧侶も時とともに前進すべきである。

　2. 溶け込むべきではない。僧侶は心静かに修行すべきで、積極的に実社会に入るべきではない。

　3. なんとも言えない。

　この質問に、ほとんどの人が「２」と回答しているようだが、皆さんはどうだろう。

　僧侶は本来、「世俗を断って出家して、戒を守って仏道修行に専念する人」であるから、選択肢「２」が理想論としては正しい。しかし、そのような修行をするための寺院を維持するには、現実的にお金がかかることを忘れてはならない。

　寺院の経営に携わることができる資格が僧侶にしか与えられないという根本的な矛盾を抱えた現代の仏教界。そのような中でも敢えて、僧侶の資格を保持したまま寺院経営に携わろうとする人は、ただ単に自分が預かった寺院を経済的に成立せしめようとするだけでなく、自分が置かれた立場の矛盾を解消できるような大きな枠組みの改革にも取り組まなければならないだろう。自戒も込めて、そう言っておく。

　いつか、日本仏教界の構造的矛盾が解決した折りには、自らは僧侶の資格を返上して寺院経営に専念するか、あるいは、寺院経営を放棄して僧侶としての仏道修行に専念するか、心晴れやかに選択できる日が来ることを心待ちにしながら。]]>
   </content>
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   <title>インド人と日本人の宗教観についての雑感</title>
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   <published>2008-07-07T05:17:22Z</published>
   <updated>2008-07-07T15:19:54Z</updated>
   
   <summary>日本人の宗教に対するイメージは、相変わらず非常にネガティブな位置に留まっているよ...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="お寺の未来" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/master/">
      日本人の宗教に対するイメージは、相変わらず非常にネガティブな位置に留まっているように思われます。「あの人は宗教にはまってるから、あまり近づかないほうがいいよ」とか、「あの人の趣味もあそこまで行くと、もうほとんど宗教だよね」とか、あまり好ましくない場面で使われることが多いですね。

たいていは、誰かが客観的・合理的な判断力を失った状態で何かを盲信する様を指しているわけですが、宗教というものを良く知らずに宗教を馬鹿にしている人ほど、ふだん特別に意識することもないままその堅牢さを盲信している自我というものの基盤がいったん揺らぐと、それこそ宗教の名を冠しただけの拝金主義カルト宗教などに知らず知らずのうちに入り込まれてしまい、結果的に世俗的な価値も宗教的な価値も失って心身共にボロボロになるということがあり得るので、注意して欲しいと思います。

話は変わりますが、皆さんはインドという国に行ったことがありますか？私もそれほど多くの国を知っているわけではありませんが、少ない海外旅行経験の中でもインドという国の持つ雰囲気というのはやはり独特のものでした。「インドに行くと人生観が変わる」とか「インドという国は大好きになるか大嫌いになるか、どちらかだ」とよく言われますが、大地の匂い、人の匂い、立ち上る熱気、雑多な町並み、、、空港に降り立った瞬間から体中の五感を通じてインドが入り込んでくるような、確かにそんな強烈さがあります。

そのインパクトがどれほどのものかは数多あるインド旅行記を読めば感じてもらえるはずなので割愛しますが、私が感動を覚えるのは、インドの人々の宗教に対する姿勢です。世界にはいろいろな宗教があり、国によって信じる宗教も違います。国民のほとんどが一つの宗教を信じている国もあれば、グループに分かれて複数の宗教を信じている国もあります。その点からすればインドはヒンドゥー教が多数派を占める珍しい国ということになるのですけど、私の感じた限りインドの宗教に関して驚くべき点は他にあります。

それは、インドのあちこちに、いったい何の宗教をやっているのだか分からないような宗教家というか修行者のような人がたくさんいることです。そしてそういう人の中には商売のためにやっている人もいる一方で意外と真剣に修行している様子の人もいて、路行く一般の人々から「ああ、あの人は修行者だよ。おれには何の修行だか分かんないけど」みたいな感じでそれなりに尊敬を集めながら飢え死にしない程度に日々を暮らしていけている、ということです。その人が何の宗教宗派に属しているのかは、あまり問題にされていないようでした。何に属しているかではなく、その人自身が何者なのかが問われているように感じました。宗教に対して寛容でありながら、向き合う姿勢は真面目なのですね。
      翻って、日本人の宗教的感性の特徴は、豊かな四季の移ろいの中で森羅万象すべてに神仏を見いだし畏敬の念を抱いてきた、多神教的な信仰のあり方だと言われます。そしてこのことが、今では１２月２４・２５日にはクリスマスを祝い、大晦日にはお寺で鐘つきをし、元旦には神社へ初詣に出かけるという最近の年末年始の恒例行事へと結びついていると指摘されることもあります。

ただ、このことから直ちに「日本人は年末年始にクリスチャンになり仏教徒になり氏子になる」と言ってしまうのは、あまりにも現代的な宗教観に偏りすぎた見方かもしれません。私たちは何も、年末年始に特定の宗教宗派を意識して過ごしているわけではありません。それらの行事が季節の風物詩として定着しているから、その季節を感じるために行事を大切にしているのでしょう。皆、それほど宗教の理屈を意識しているわけではないはずです。

昔の日本人にしたって、そもそも「特定の宗教を信じる」という概念自体が存在しなかった時代には、少なくとも一般庶民レベルでは寺に参り、神社に詣り、自然を祀る行為が共存するということが問題になることはなかっただろうと思います。今でこそ「特定宗教」に「所属」する人が自分の宗教の偏狭なドグマを基準として物事を判断するようになりましたが、もともと日本人の「多神教的」というのは、いろんな宗派宗教をつまみぐいするというような意味では決してなく、宗派宗教という概念が入る以前の「ありがたいもの、畏れ多いものは、なんでも拝み奉ろう」という、その宗教的姿勢のことに当てはまるでしょう。皆が理屈抜きで宗教的な畏れを抱き、それを皆で共有できるというのは、なかなか高度な技術だと思います。

こうして見ると、インド人と日本人の宗教的感性のベースというのは、何か相通じるものがありそうです。

ただ、日本では宗教という考え方の枠組みが西欧から導入されて、またその枠組みの上で社会的に大きな問題を起こすような人が目につくようになってからは、宗教そのものが毛嫌いされるようになってしまい、人々が共有する宗教的感性も弱まってしまったような気がします。グローバル社会の中で日本という国がオリジナリティを発揮していく上で、日本人が伝統的特徴を失いつつあるというのは、これは大きな国家的損失と言えはしないでしょうか。

資源を持たない日本が技術を高めることによって、海外から輸入した原料を加工してできた製品を海外に輸出してきた経済発展の歴史を考えれば、世界中から宗教の原型を輸入してそれを日本人の持つ高度な宗教技術で現代人に合うようなかたちへと加工し再び輸出するという宗教産業が起こっても面白いと思うのですが、それをするには少し日本人の宗教力が弱まってきているようです。

しかし、これから同じようにインドでも宗教力の地盤沈下が起こるはずです。ここへきて俄然景気が良くなってきたものだから、多くのインド人は文化や宗教よりも経済発展の方向を向くようになってきています。道端に陣取る得体の知れない修行者たちの姿も、だんだん見られなくなっていくのかもしれません。失われつつあるインドの美点をいったん日本が保存して、しかるべきときに返してあげたい、そんなおせっかいなことを考えてしまいます。
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   <title>宗教リテラシー教育のすすめ</title>
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   <published>2008-06-27T04:57:07Z</published>
   <updated>2008-06-30T03:53:57Z</updated>
   
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      皆さんの小学校や中学校時代、時間割の中に「道徳」という科目はありましたか？私の場合は北海道の田舎の公立学校でしたが、たしか「道徳」は週に一時間だけ割り当てられていて、NHKのテレビ番組を見せられたりジャンボカボチャの栽培をさせられたり、担任の先生の趣味によって内容を決められている感じで、なんだか先生自身もその時間を持て余しているというか、学校としての統一的な方針が感じられない消化試合的な科目だった記憶があります。「道徳」の授業ですら道徳を学ぶ機会としてはほとんど活かされていなかったので、宗教などは小中学校でまったく触れる機会がありませんでした。

さて、昨今の日本で起こる様々な事件をニュースなどで見聞きして得た印象から「日本人の心が荒廃している」と感じておられる識者の方々が、教育基本法の改正にあたって「日本人のこころが失われたのは、見えないものを敬い大切にする宗教的感性が失われたからだ。これからは宗教教育にもっと力を入れていかなければいけない」という議論をときどきされているようです。そういった教育の大切さは私も強く感じるのですが、実際これまでそのことの重要性について多くの人が指摘してきたにも関わらず、今のところそれが一向にうまくいきそうもないのは、もしかしたら皆さんが考えるやり方に問題があるのかもしれません。
      公立の学校というのは公共の機関ですから、特定の宗教に偏った教育はすべきではないでしょう。もちろん、歴史的な文脈で宗教にまつわる出来事について知識として触れていくのは必要ですが、少なくとも布教的なやり方で宗教を教えることは学校でやるべきことではないと思います。ですから、少なくとも宗教を取り扱うにあたっては学問的側面のみにしよう、あるいは、面倒なのでいっそのこと宗教そのものに距離を置こう、というような学校のスタンスというのは、それなりに理解できます。

しかし、そうした基本的なスタンスを踏まえながら、一方で「宗教は大切だ、なぜなら、大切だからだ」というようなやり方で宗教を取り上げようとすることには、やはり無理があるでしょう。子どもたちは、納得できないことは受け入れられません。見えないものを敬うことは大切だ、と学校で教えられても、先生が理由と目的を明確に合理的に説明できなければ、今の子どもたちは見向きもしないのではないでしょうか。他の科目は「なぜ？どうして？」の疑問を持つことを推奨されているのに、宗教の授業だけ「大事だから大事」というわけにはいきません。「いのちは大切だ、宗教は大切だ。なぜかって？大切だから大切なんだ」という種類の教育は、家庭での心の教育の中で行われるべきで、あまり学校でなされるべき教育の種類ではないと思います。

逆説的ですが、もし学校で宗教教育をやりたかったら、宗教というものについて徹底的に合理的・科学的・文学的な視点から客観的・批判的に評価するための学問を、いわば宗教リテラシー教育を行なうことが、最終的には日本人の宗教性を底上げすることになるのではないかと、私は思います。人身が荒廃している理由を宗教に対する不信心に帰するとしても、だからといって何でもかんでも宗教を信じる心を養えばよいというものではないし、第一そのようなものを学校で養おうと思って養えるものでもありません。

つまるところ現在、日本の学校教育が抱えている宗教に関する問題というのは、それが宗教の大切さを教えていないということではなくて、宗教に対する批判的精神を養っていないということにあるのではないでしょうか。「なぜ大切なのか」を説くのではなく、「なぜそれを大切にする人がいるのか」を追求するほうが、遥かに実践的な学びになるでしょう。宗教現象を正しく理解してそれに対する自分の立ち位置を確認し、うまく付き合っていくための技術が必要なのです。そういう技術を持たない人は、十分に知的な成熟を得ていないにも関わらず、中途半端に見聞きした「科学的」らしい言説を根拠に「宗教」そのものをあやしいものと位置づけて毛嫌いしてしまうことがあります。そしてまたそういう人こそ、ちょっとしたことをきっかけとして、また自分の未成熟な知識を拠り所にしてしまい、反対に科学的にも宗教的にも無価値なものを信じるようになってしまう可能性も大いに秘めています。

宗教に向き合う姿勢として、「正しいから正しいんだ」「ありがたいからありがたいんだ」というのは、それはそれでひとつの大きなあり方ですので、尊重すべきところもあります。しかしまた、その宗教についてまったく別の角度から、たとえば合理的・科学的・文学的な視点から再評価してみることも、宗教についての理解を深める上で非常に重要な作業であるはずです。真に価値ある宗教なら、これらの作業を踏まえた上でも、評価は揺るぎないはずです。どんな宗教関係者も、自分の宗教は本物だと思っているでしょうから、批判的な視点で宗教を眺めるための宗教リテラシー教育を学生に施すことについて、苦情は出ないことでしょう。

要約すると、義務教育で宗教教育をしたいなら、「きみたちは知的にも精神的にも未熟だから、自らが愚かであることをよく自覚して、大人になって宗教に騙されないように、彼らの騙しの手口を徹底的に洗い出し、宗教に対する批判的な視点を養おう」ということでいいのではないでしょうか。こうすることで、仮に宗教人口の総数は増えないにせよ、全体の足を引っ張る似非宗教人口を減少させ、結果的に日本人全体の宗教的感性の向上を目指す、というのはどうでしょうか？
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   <title>私たち彼岸寺の仕事とその限界について</title>
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   <published>2008-06-21T16:25:44Z</published>
   <updated>2008-06-21T16:28:08Z</updated>
   
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/master/">
      <![CDATA[この彼岸寺というサイトを運営していると、多くの機会に「あなたたちの活動の目的は何ですか？」ということを聞かれます。
今日はその質問について答えながら、私たち彼岸寺の仕事とその限界について、あくまでも私の視点からですが、自己分析的に迫ってみます。

<strong>活動のコンセプトについて</strong>

私たちは「超宗派仏教徒によるインターネット寺院」というキャッチコピーのもと、僧侶をはじめ宗派を超えた仏教徒が集まって運営するインターネット・メディアであり、いわば仏教系インディペンデント・メディアとして世界中の人に対し、「今の」そして「本物の」仏教に広く親しんでもらうため、特定の宗派の情報に偏らず仏教に関するあらゆる質と鮮度の高い情報をコンスタントに提供し続けることを目的としています。

サイトコンセプトは、このように結んでいます。「こりかたまった仏教をときほぐし、今に生きる仏教へと再編集する、まったく新しいメディアです。彼岸寺を通じて世界中のみなさんに、すてきなご縁を結んでいただければ、とてもうれしいです。」文字通り世界中のみなさんに情報を届けるべく、現在、英語版のサイトも準備中です。]]>
      <![CDATA[<strong>なぜ、インターネットなのか</strong>

インターネットを主に一種のメディアとして活用しているという点で、私たちはまだまだ旧世代的な仕方でしかインターネットを活用していません。インターネットによって人の生き方を変えてしまうこと、私たちで言えばインターネットによって人間の仏教的な生き方を変えてしまうというようなことはしておらず（できるとも思いませんし、するつもりもありませんが）、たとえばYahoo!のようにインターネット上の自分の場所へあちこちから大勢の人を集めるということ、私たちで言えばインターネット上の自分の場所へ仏教に興味のある人を大勢集めるということを目指しているに過ぎません。

しかし、それでもやはりインターネットが私たちにとって重要であるのは、それが絞られたターゲットに対して比較的低コストで地域的な制約なく情報発信ができるということです。このことはインターネットがもたらすメリットとしてあらためて言うまでもないことですが、特にターゲットを「仏教に興味のある世界中の人」に設定している私たちにとっては、非常に大きな意味を持っています。

<strong>なぜ、超宗派なのか</strong>

「超宗派」なんて一般の人にとっては何のことだか分からないと思いますが、日本仏教界では異なる宗派同士の交流があまり盛んでないため、少なくとも仏教界では「超宗派」が目新しいものになっています。一般向けのサイトですから、ほんとうは「仏教徒によるインターネット寺院」でも構わないのですが、彼岸寺はまだまだ小さなメディアで仏教界の中でも地位を確立しているというところまでは行っておりませんから、対外的な差別化の表現としてこの言葉を使っています。

日常的に宗派関係なく仏教徒同士で集まりを持つ私たちにとって「超宗派」という言葉はほとんど意味を持たないのですが、それくらい超宗派が当たり前になっていることは日本においては珍しいことと考えられているので、それを今のところ活用しているということです。ですから当然、英語版サイトではキャッチコピーを変えなければなりません。宗派など関係なく仏教徒同士が交流を持ち活動を行うことが当たり前である海外の仏教事情を踏まえると、「超宗派」なんて言っても言わなくても同じか、かえって日本仏教が宗派にこだわりを持ちすぎていることを露呈するだけでしょう。

英語版の彼岸寺に、メディアとして他にはあまり見られない特徴があるとすれば、それは「日本人の」仏教徒が仏教界の動きを「英語で」伝えるということ、ではないでしょうか。とすれば、おそらくキャッチコピーには「Japan」とか「Japanese」という言葉が入ってくることになるでしょう。

<strong>どこまでが超宗派に含まれるのか</strong>

日本国内だけでも仏教系を標榜する宗教宗派は数えきれないほどたくさんあります。それらのどこまでを超宗派に含み、どこで線引きをするのかというのは、確かになかなか難しい問題です。この彼岸寺は浄土真宗に属する私が始めたものですが、次第にご縁が広がっていき、今では真言宗や曹洞宗や日蓮宗やその他いろいろな宗に属する皆さんと協力して運営しています。基本的にはやりたい人が集まってやっているご縁に基づくメディアということですので、情報の線引きについては信頼できる仲間内のあうんの呼吸で行っています。

宗派を超えて一緒に何かをやっていけそうな人しか集まらないからだと思いますが、私たちのスタッフにはいわゆる新興宗教系の人はおらず、今のところ伝統仏教系の人だけで構成されています。ただ、ニュース記事などでは新興宗教系の仏教教団についても取り上げることもあります。私たちの目的は「今の」そして「本物の」仏教に触れてもらうことですので、スタッフがその目的に叶うと判断する情報であれば、載る可能性があります。

私たちの取り上げ方が足りないのかもしれませんが、私の見るところでは伝統仏教系には「今」感が欠けており、新興宗教系には「本物」感が欠けているという傾向にあるようです。今後、その両方の良いところを統合するようなコンテンツをどんどん発掘していきたいです。

<strong>扱うコンテンツの範囲はどこまでか</strong>

ひと口に仏教と言っても、私たち日本人の場合はすでに言語や生活様式に深く仏教的な要素が浸透していますから、その切り口は無数にあるわけです。何も教科書的に仏教教義を陳列するだけが仏教の情報発信ではないわけで、これまでにも仏像や寺院建築に関して美術的・歴史的視点から紐解いていく、いわば仏教周辺コンテンツと言うべきものを、宗教としてというよりは文化的な側面から興味を持ってもらおうとする試みはいくつもありました。

しかしこれまで、それらは主に出版社やテレビ局など仏教界の外側からの視点で生み出されてきたコンテンツであり、文化的側面を超えたところまで踏み込んで仏教周辺コンテンツの面白みを引き出そうという試みが、あまりなされて来なかったのではないかと思います。元来、日本人はあまり宗教的な事柄に関して積極的に議論したがらない傾向にあると思いますが、やはり既存のメディアも同じように宗教に関する事柄について「それをやってはまずいんじゃないか」「これはさすがに問題になるんじゃないか」と勝手に身構えてしまい、ためらってきた部分があるのではないでしょうか。もちろん、興味本位で取り上げるべきではない繊細な事柄もあるとは思いますが、もっと突っ込んで掘り下げていい事柄もたくさんあります。しかしおそらく、そう思って突っ込んでみたら今度はそれに対して宗教教団が強烈に抗議行動などを起こしたりするものだから、メディア側が「触らぬ神に祟りなし」となってしまうのかもしれません。

そのような問題を踏まえ、私たち彼岸寺は仏教界側にすでに身を置く自分たち自身が情報発信の主体となり、また仏教を掘り下げようとする外側のメディアなどの人々に対して「こんなのもあるよ」とか「その辺はあまり触らないほうがいいよ」とか「あそこは意外とえぐっても大丈夫だよ」というガイドとしての役割を果たすことによって、これまで狭く浅くしか掘り下げられなかった仏教周辺コンテンツがもっと広さと深みを増して、より多くの人々に仏教を手に取ってもらえるような魅力的なきっかけを提供していくことができればいいと考えています。

<strong>彼岸寺というメディアの強み</strong>

もともと仏教の教えは時と場所に制限を受けない普遍的な真理ですから、それが正しく受け継がれてさえいれば、どこにおいてもその顕われは見いだされる可能性があるはずです。別に、伝統仏教教団だから教えが正しくて新興仏教教団だから教えが間違っているということは、言えません。ただ、伝統仏教教団のほうが歴史が長い分、それだけ多くの人の批判にさらされてきたわけで、それを乗り越えてきた経験を踏まえているという点において、これまで教団が受持してきた経文などのテキストや風土などには、ある程度の客観的な信頼性が担保されているだろうということができると思います。

私たち彼岸寺の僧侶は皆、それぞれが何かしらの伝統仏教教団に所属しており、適度な距離を保ちながらつながっています。そして、伝統仏教教団が保持してきたコンテンツを現代的な味に調理しなおして美味しそうに盛りつける仕方にも、少しずつ慣れてきました。そういう意味では、「こりかたまった仏教をときほぐし、今に生きる仏教へと再編集する、まったく新しいメディア」として、社会一般と仏教界とをつなげるコンテンツを生み出すような、ユニークな仕事ができればと思っています。

<strong>仏教におけるコアコンテンツとは</strong>

ところでお気づきかもしれませんが、私はここまで「コンテンツ」に関して「仏教周辺コンテンツ」についてしか触れておらず、肝心の「仏教コアコンテンツ」については述べていません。仏教コンテンツの「コア」は何かといえば、それはもう言うまでもなく、「宗教としての仏教」です。コアと周辺の関係を例えるなら、寺院の本尊と参道の商店のようなものでしょうか。いくら参道をきれいにして商店が知恵をしぼってエンターテイメントとしての周辺の魅力を高めたとしても、寺院が荒れ果ててしまっていたり、ましてや肝心の拝むべき本尊がなかったりしたら、それらの努力のほとんどはまったく意味のないものとなってしまいます。

もちろん私たちも伝統仏教の教義や仏教語の由来などを解説したりしますが、それは周辺コンテンツと同様に知識を与える以上のものではなく、仏教コアコンテンツとは言えません。私が言う「宗教としての仏教」を担うことのできる仏教コアコンテンツというのは、それに触れた人の価値観を塗り替えて人生に重大な影響を及ぼすような、ある種危険な破壊力を持ったコンテンツのことを指します。

そのような種類のコンテンツは、人を媒介してしか伝達されないのではないかと思います。もちろん、教典などに書かれた言葉を通じてブッダや親鸞の教えや人柄に触れることはできます。しかしそれらも、今の世に生きながらそれをその時代なりに正しく本質的に受け継ぐ人がいてこそ、本当にまた同時代の人を惹き付ける魅力を持ちうるのではないでしょうか。

<strong>彼岸寺というメディアの限界</strong>

本来、仏教コンテンツの醍醐味は宗教的な魅力に極まるに違いないのですが、どうしたことか現代の伝統仏教からはそのような強烈な魅力があまり感じられません。地域社会に自然に溶け込んだお寺の風景というのも良いものですが、ただ人が集まるだけの村の集会所に成り下がってしまっては、お寺に未来はないでしょう。観光寺院も楽しいものですが、何か足りない気がします。

今、伝統仏教教団はテキスト化された教義を正しく受け継ぐシステムとしては機能していますが、その教義が紙に書いてあるだけでは宗教としての魅力が発揮しきれていません。それを生かすには、それを今の言葉で語り人を惹き付けられる強烈なカリスマが求められていると思います。

今「この人なら」と付いて行けるお坊さんがどれだけいますか？残念ながら、そのようなカリスマは私たち彼岸寺にもいませんし、逆にある意味、私たちのように伝統教団と良好な所属関係を保っていられるような人からは生まれてこないような気がします。ですから、私たち彼岸寺の強みであり限界でもあるのですが、彼岸寺は「仏教コアコンテンツ」を正面から攻めてくれる気合いの入ったお坊さんの登場を待ちながら、自分たち自身は伝統教団と仲良くしながら地道に「仏教周辺コンテンツ」を扱うことに徹する、というのが仕事になってくると思います。

<strong>腐っても伝統仏教</strong>

先ほど宗教的カリスマは伝統教団と仲良くできないだろうと言いました。しかし、それと同時に、単なる宗教的カリスマなら巷にもテレビにも腐るほどいますが、本物の仏教の宗教的カリスマというのはやはり伝統教団からしか生まれないだろうとも思っています。今、伝統仏教教団は組織的にはかなり閉塞感が漂っていますが、とはいえ個々には人生の師と呼べるような立派な僧侶もまだまだたくさんおられますし（そういう方はたいてい控えめで、表に出て来られないのですが）、仏教の学びを深めていくためのさまざまな方法も用意されています。

それらのステップを踏んで最終的にどこまでジャンプできるかは分かりませんが、少なくともそのステップを踏まずに飛んだ先に仏教の真理をつかむということはあり得ないでしょう。伝統仏教の確立してきた教義実践のステップを踏んでジャンプした先に、ついに着地した地点で見えた美しい景色について語ろうとしたら、まだそれを見たことがない教団人たちからの言葉狩りにあって総スカンを食らってしまったなんていうのはありそうな話ですが、少なくとも仏教的に確立されたステップを踏まずに何かを得られたとしても、それは仏教と呼べないはずです。

<strong>まとめ</strong>

彼岸寺は「超宗派仏教徒によるインターネット寺院」です。本物の仏教の動きを、いち早く皆さんに伝えて行きたいと思います。仕組み的にもスタッフ的にも目立つところのないふつうのメディアかもしれませんが、これから仏教が未来へと受け継がれていくために少しでも役に立てれば幸いです。これからも、自分たちなりにやれることを頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いします。]]>
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   <title>日本人が無宗教と言いながら先祖供養をする理由</title>
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   <published>2008-06-04T03:46:59Z</published>
   <updated>2008-06-06T00:09:05Z</updated>
   
   <summary>宗教について質問すると「特に信じている宗教はありません」と答える多くの日本人のこ...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[宗教について質問すると「特に信じている宗教はありません」と答える多くの日本人のことを、外国人が奇異に感じたり人間性に疑問を抱くというのはよく聞く話です。ちょうど最近、日本人の宗教観に関するアンケート記事が読売新聞に掲載されていたので、そこから少し考えてみたいと思います。

<a href="http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080529-OYT1T00923.htm"><blockquote>
読売新聞社が１７、１８日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は２６％にとどまり、信じていない人が７２％に上ることがわかった。

ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が４５％、薄いとは思わない人が４９％と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は９４％に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も５６％と多数を占めた。

多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。
</blockquote></a>

この結果によれば、何はともあれ日本人は先祖を敬う民族であるということが分かります。何か特定の宗教を信じている人が３割を切っているにも関わらず、お寺や神社が昔ながらのやり方で今でもなんとかやって来られたのは、実情、誰しも個人としては特に宗旨は何でもいいかあるいは必要ないくらいに思っているのだけど、先祖代々受け継いだものは尊重しなければご先祖様に申し訳が立たないので、決められた宗旨で法事や神事を先祖供養のために慎ましく執り行っているに過ぎないのではないでしょうか。「○○を大切にしないと後で大変なことが起こる」「○○をしっかり供養すれば良い方向に物事が進む」というのは不安煽動型宗教の原始的なあり方ですが、この「○○」の部分に「神」を入れようが「仏」を入れようが「先祖」を入れようが形式としてはどれも同じことで、そういう意味ではやはり日本人の先祖崇拝も宗教的感覚の一種とみなすことができるでしょう。]]>
      考えてみれば先祖というのもすでにこの世的なあり方にはない超越的な存在ですから、その存在に対して敬いの気持ちを強く持つ日本人というのは、それを自分自身が宗教的な振る舞いであると自覚しているかどうかは別にしても、非常に宗教的な感性の持ち主たちであることは間違いないのではないかと思います。私たちはしばしば、結婚や出産や試験に合格したときなど何か良いことがあるたびに先祖の墓前に報告して日頃の加護に感謝したり、病気や交通事故や会社の倒産など何か悪いことが起こると先祖供養を勤めて更なる加護をお願いすることがありますが、このような行為が自然に無意識に感覚的に共有されているというのは、考えてみればすごいことです。複数の異なる宗教が拮抗する国で、細木さんや江原さんのテレビ番組が主要放送局で放映されるということはまずあり得ないでしょう。長押の上に先祖の写真を飾っても、アッラーの神は振り向いてくれません。

さて、折々に優しい表情と厳しい表情を変幻自在に魅せてくれる豊かな自然環境に囲まれて文化を育んできた日本人は、あらゆる自然現象に対してあらゆる神仏を見いだす八百万（やおよろず）の宗教観を発達させてきたと言われます。もしかしたらその神々の中でも最も人々の身体感覚に近い神が、写真や家系図などから生前のその人とのつながりを意識できる「先祖」であったのかもしれません。また、皆さんご存知のように神や仏というのは「今はこちらの仏がいい」「いや、次はこっちの神を信じるべきだ」というふうに時代の政治状況等によって立場が翻弄されるのが常ですが、さすがに個人個人の「先祖」神にまではお上も口出ししてこないというわけで、人々の宗教的感性の受け皿として「先祖」という存在が大きくなってきたという可能性もあります。

私たちはあまりにも祖先を敬うことを当たり前と思っているため、そのことがどれほど宗教的であるか考えもせずにいますが、たとえば他所の国を見てみれば先祖供養や墓参りなどしないという人たちもたくさんいます。今、日本だけでなく欧米などでも宗教離れが進んでいるという話を聞きますが、たしかに欧米社会において例えばクリスチャンだった人が教会に行かなくなるというのは、人々の宗教離れの度合いを測る目安として意味を持つかもしれません。しかし少なくとも日本において、例えば仏教徒だった人がお寺に行かなくなるというのは、それはたまたまこれまで先祖供養の表現方法として先祖代々の寺院において法事をするということを選んでいただけで、これからはもっと自分のやり方で先祖供養に励みたいと決意して寺院との檀家関係に終止符を打ったということならば、それを単純に宗教離れということはできないでしょう。むしろ、寺社との形骸化した関係の中で世間体を気にして形だけ法要行事を勤めるという人よりも、その宗教心は高まっていると言ってもいいくらいです。

にもかかわらず、どうして日本人は自分のことを「宗教心が薄い」「宗教を信じていない」と考えるのでしょうか。読売新聞のコラムで山折哲雄氏も書いておられましたが、江戸時代以前には自らの宗教心を他国との比較によって意識する必要のなかった日本人も、言葉によっては何とも定義しがたい日本人独特の八百万の宗教観について自分では整理をつけることができないまま、次第に一神教国の宗教観の影響を受けて「宗教心を持つこと」イコール「特定の一神教の神に信仰を捧げること」と考えるようになってしまっているのかもしれません。御先祖様だけは大事にするけれども寺社仏閣などにはあまり気持ちが向かない人は、「宗教心が薄く、宗教を信じていない」となるのでしょうし、あっちのお寺もこっちの神社もそれぞれにご利益があるけど何より御先祖様を大事にするという人は、「宗教を信じていないけれども、宗教心は薄くない」となるのでしょう。

確かに、私自身のことを考えてみても、「宗教を信じているか？」と聞かれれば、私は自分のことを「宗教心が薄い」とは考えないまでも、「信じている」と自信を持って答えるのに若干のためらいがあります。私は宗教というのは、私という小さな器が持つものさしを超越する真理だからこそ、宗教がほんとうの宗教でありうるのだと考えています。真理というのは人間が自分で作りだせるものではなくて、求めようとする私めがけて向こうからやってくるような、そういうものだろうと思います。だから、私が「あの人の言うことは信じる」というのと同じレベルで「あの神様の言うことは信じる」というようなものではないはずです。自分のものさしで特定の宗教を選び、信じることにするという信仰のあり方をすんなりと受け入れるためには、よほど個人主義・人間中心主義が社会に行き届いていることが条件となるのではないでしょうか。私にとって仏教は、有り難いご縁があって向こうからやってきてくれた真理です。たまたま出会ったからには、もっと親しんでいきたいと思っています。

少し話しはそれましたが、もともと日本人が八百万の宗教観であることに加えて、とりわけ日本ではカルト教団の活動が社会問題化して「宗教」そのものに対する警戒感が高まっており、人が自ら進んで特定の宗教を選び信仰に傾倒することをネガティブに受け止める風潮ができあがってしまいました。そんな状況の中で「あなたは特定の宗教を信じていますか？」と質問されれば、多くの人が「信じていない」と答えるのも無理はありません。だからといって、外国人が自分の価値観に依った質問の仕方で日本人の宗教性に疑問を呈するのはいかがなものでしょうか。日本人も努力して自分の立場を自覚した上で表現を工夫したほうがいいとは思いますが、外国人のほうももう少し質問の仕方を変えて「先祖とのつながりを感じることはありますか？」「いのちの営みに人間の力を超えた何かを感じたことはありますか？」などというふうにしてみたらどうでしょう。イエスとかアッラーとかブッダとか、それぞれの宗教によって超越的な存在に付けられる名前は違いますが、日本の場合はそれに「先祖」という名前がついているのだと考えれば、国民の９４％がいわば「先祖教」の信者であるという、物質文化信仰に傾きがちな今の世界の中でも非常に希有な信仰の篤い先進国として注目されるかもしれません。

ただし、だからといって「先祖教」という宗教教団を打ち立ててしまえばいいということではありません。そんなことをしたらかえって逆効果、ただ自分の先祖を敬いたいだけの素朴な信者と、数多の家族の総体としての国民的先祖神を敬えと言い出すに違いない教団側との対立が激しくなって、混乱を招くだけでしょう。「宗教心はある」けれども「特定の宗教は信じていない」という人が多いという事実はおそらく、祖先を敬う素朴で純粋な自分たちの気持ちを「先祖教」という特定組織の利害関係の渦へと勝手に収斂されたくないという人々の気持ちを反映したものと言えます。

なぜ、日本人は「特定の宗教は信じていない」ということにこだわるのでしょうか。それはやはり、伝統宗教教団も含めたこれまでの幾多の宗教組織が、本来持つべき純粋な信仰心を忘れて次第に組織の維持と発展そのものを目的とするようになり、人々の悩みとはまったくかけ離れたところで押し付けがましく机上の空論を述べ立てるだけになったり、人の幸せをめちゃくちゃにしてしまうような反社会的な行動をとるようになってしまう姿を、人々が嫌というほど見せつけられてきたからではないかと思えてなりません。八百万の神々には何も責任はないのですが、特定の神仏に対する信仰が生まれればそれを担ぐ人たちが集団を作ってドグマと利権を争い合うようになり、もともとの個人の純粋な気持ちそのままに神仏へ向き合うことが難しくなります。皮肉なことですが、本来的に個人個人の所属から引きはがすことのできない神である「先祖」神が、最も集団として担ぎ上げられにくい神として今なお純粋な信仰を集めているということかもしれません。

先祖を敬い、神仏を大切にし、自然の中に人間を超えたものを感じる日本人。この島国独特の豊かな宗教的感性をよい方向に伸ばしていくことができれば、やがて世界によい宗教的影響を与えるうねりのきっかけとなっていくと思いますし、逆にそれができなければ、世界どころか日本の伝統は破壊され人心は荒廃していくのではないかと危惧します。今の時代を生きる私たちが後世に対して負っている大きな責任を感じずにはいられません。
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   <title>仏教界の研究事情</title>
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   <published>2008-05-01T02:04:46Z</published>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      先日、とあるお寺が主催する仏教の研究会に出席してきました。お坊さんが寄り集まって開かれる勉強会はたくさんありますが、一ヵ寺であれだけの人材を集めて場所を整え研究紀要まで出しているところはなかなか他にはないのではないかと思います。

もっとも、各宗派がそれぞれ備える大きな研究所には大勢の人材と立派な施設が揃っていますが、大きな宗派というのは総じてあまり研究者を大事にしない傾向があるようで、「ある研究所では、待遇があまりにもひどくて研究員が皆退職してしまったのに、待遇のよい事務員だけが仕事に残っているのだが、研究員のいない研究所で彼らはいったい何の仕事をしているのだろうか」という笑い話も聞かれるくらいです。「仏教教団の研究所っていうのは、宗派の偉いお坊さんたちが一般人から難しいことを聞かれたとき、自分たちが答えられなくて恥をかかないようにするために、代わりに答える人として置かれているだけなんだよ」というとある研究者の言葉に、妙な説得力があります。
      一方、新宗教のほうでは、たとえば霊友会の国際仏教学大学院大学（仏教関係の蔵書が半端でない）などのように開かれた研究の場が提供されているケースもあり、このままでは伝統仏教界の研究は崩壊してしまうのではないかと危惧する人もいます。私たちの彼岸寺になぞらえるわけではないですが、これから仏教研究者の間でも超宗派での交流が進んで、宗派とは違う単位での結びつきで生まれる研究が出てくるのではないかという気もします。

ところで私は何か学問的な研究をしているわけではないので、研究会に参加したと言ってもとりあえずちょこんと隅の席に座っているだけでしたが、バラエティに富んだ研究発表には私もとても知的に刺激を受けました。ところで、自分も専門を持つとしたら何がいいだろうと考えてみると、これと言って持つべきものがないことに気が付きました。「この分野なら、彼だね」と言われるような専門を、いつか持ちたいものです。
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   <title>建物と人間の営みの調和</title>
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   <published>2008-04-20T16:36:33Z</published>
   <updated>2008-04-20T16:47:21Z</updated>
   
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      結婚して部屋が手狭になったので、ここのところ時間があるときに物件探しをしています。

東京には数万単位で数え切れないほどの物件があり、物件情報を見ながら「もしここに住んだらどんな暮らしが待っているのだろう」と想像を膨らませるだけで、そう飽きることはありません。

中でも特に面白いのは、築年数のかなり経っている古めの物件。

最近の新築物件では良くも悪くも考えられないような変わった条件のものが安い家賃で見つかると、「どうだ、この条件を呑めるか？」と貸し主さんに勝負を挑まれているような気がして、借りる側としても「よし、その間取りなら、こういう使い方で対抗してやる」なんていう闘志を燃やしてしまうのです。
      
実際、現在住んでいるこの物件も、都心でしかも窓の外には大きな川が広がっているという好立地にもかかわらず破格の賃料で募集が出ていたのを、私がさらに交渉して値切ったもので、ずいぶんお得な条件で住まわせてもらっています（大家さん、ありがとうございます）。

私が入居するまでにこの物件を内見しに来た人も何人かいたそうですが、誰も契約までは至らなかったわけです。理由はおそらく「おかしな間取り」。チラシには「リバービュー」と書いてあるのに、間取り図を見るとなぜかバルコニーに面した窓を覆い隠すように収納スペースが陣取っています。

「？？？」と思いつつ、まずは物件を内見させてもらうと、なるほど、洋間であるにもかかわらず段差のある縁側のようなかたちで足元収納スペースが設置されていました。バルコニーに出るには必ずこの縁側を踏み越えなければなりません。

その他にも、潜水艦を彷彿とさせるドーム型の天井や使い古された作り付けのソファーベッドなど随所にオーナーの強烈なこだわりが感じられ、おそらく過去の内見者たちはそのこだわりに打ち勝つことができなかったに違いありません。


さすがに私も迷いました。ふつうに考えれば条件から見て破格の家賃だけど、もし住み始めてからこの間取りを克服できなければ取り返しのつかないことになるかも、、、案内してくれた不動産やさんを前にして逡巡の袋小路に入りかけたとき、私はひとつの賭けに出ることにしました。

「もし、家賃があと一万円安ければ、即決します」

そう言うと、意外にも不動産やさんはすぐに大家さんに連絡をとりはじめました。きっと、物件情報を見て条件がいいからと内見を申し込んで来た人をこれまで何人も現地案内したのに、実際の物件を見ると皆ためらってちっとも入居者が決まらないので、不動産やさんも大家さんもいい加減に何とかしたいところだったのでしょう。賭けは成功、住んでみるとそれなりに使いこなせる部屋で、今ではとても気に入って暮らしています。


最近では不動産やさんに行かなくてもインターネットで物件情報を検索できるようになってきましたが、それでもやはり最後は足で歩いて物件を見に行かなければ、その物件の実際の状態は分かりません。とくに物件情報に載っている数字だけでは判断できないのが、部屋と建物の管理状況。

築年数がいくら浅くても建物の作りがいい加減で管理が行き届いていなければ、共用部分が荒れて建物に痛みが出てきます。何より、管理が行き届いていない感じが住人にも伝わって、住人のコミュニティ全体が荒れてきます。

逆にどれほど古い物件でも、建物自体の作りと管理体制がしっかりしていれば、住人もきちんとした人が入ってきて建物の痛みも少なくなり、古さの中にも清潔感の感じられるレトロ物件という趣きが出てきます。


そういえば京都の古いお寺などに行くと、建物自体はとても古い（築数百年もざらだから、古いどころではない）のに、とても清潔感が感じられますね。

廊下や欄間など隅々まできれいに磨き上げられ限りなく無駄を省いて整理整頓された室内には、人間の俗っぽい営みを感じさせるものは何一つないのですが、しんと静まり返ったその様子の中にかえってそれをそれとして成り立たせている人たちの努力が感じられ、その温かみにホッとさせられるような気がします。

お寺を見るとき、ただ建物の歴史性というだけではなくて、建物とそれを取り巻く人間の営み全体が美しく調和していることに、人は感動させられるのかもしれません。


そういうものに惹かれる私は、お寺も自宅もきれいに整えようといつも心がけているのですが、ただ合理的に整理整頓するだけでは、なかなかよい具合にはなりませんね。

暮らしのあり方そのものにまで踏み込まなければ、営み全体の調和が美しく輝いてこないのでしょう。
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